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五話・さよなら 前編

 トリコは居なくなった。

 有坂は行ってしまった。

 殿も、もう居ない。

 サキュバスも、何処か分からない場所に消えてしまった。

 皆んな居なくなる。

 世間はもう、卒業式の季節が近付いていた。

 ああ、そうだ、俺ももうすぐここから居なくなるんだ。

 そんな事を考えると、感傷的になるタイプではないと自分では思っていたのに、何だか色々な事を考えてしまう。

 塾のバイトも、コンビニのバイトも、先日辞めた。

 塾で担当していた生徒の何人かが、餞別だと言って、中学生らしい可愛い品を贈ってくれた。コンビニの同僚は、送別会を開いてくれた。

 あと少しで、ここでの生活も終わる。

 ずっと、目標に向かって努力して来て、一区切りはついてしまった。

 自分でも良くやったと思う。

 人生全体からしたら、本番はこれからだ。

 なのに何だろう、この空っぽな感じは。

「いやいやいや、これからだからね。何燃え尽きてんの、俺」

 有坂が居なくなってから、敷きっぱなしになっている布団に寝転んだまま否定したが、起き上がる気力が湧かない。

 短期間で、前に住んでいたアパートと同じくらいぐちゃぐちゃになってしまった部屋の中を見渡した。

「そうだ、引っ越し。引っ越しの荷造りも、そろそろしないと」

 口に出して、気力を振り絞ろうとしたが、なぜか体が言う事を聞かなかった。

 いいや…まだ二週間あるし。

 腹が減ったのに、何か食べるのもめんどくさい。

 今まで、気合いと根性で乗り切って来た反動だろうか。

 午後も近付いて来たのに、武藤玲司は再び布団を被って寝始めた。





 ジョン太が乗り込んで来た時、鯖丸は未だかつてないくらいダメになっていた。

「起きろコラぁ」

 蹴りが入った。

 布団ごと転がった鯖丸は、目をこすりながら侵入者を見上げた。

「あれ…ジョン太」

 散らかった部屋の中、ぼさぼさの頭で、めずらしく無精ヒゲも伸びたままの鯖丸は、間抜けな事を言った。

「どうしたの?」

「どうもこうもねぇ」

 ジョン太は、腕組みして鯖丸を見下ろした。

「メールも電話も出ないから、来たんじゃないか。死んでるかと思った」

「ええ?」

 手を伸ばして携帯を見た。

 何時からか分からないが、電源が落ちている。

 慌てて電源を入れて、履歴を確認した。

 幸い、就職先とか大学とか、重要な場所からの連絡は来ていない。

「良かった…大事な連絡は来てないや」

 有坂からのメールが二通あったので、読み始めた所で、ジョン太に後頭部を殴られた。

「一昨日からずっと、大事な連絡を入れてるんだけどな、俺は」

「そうなんだ」

 ジョン太が何の用だろうと考えた。

 脳みそが回転しない。

「何の用事?」

 再び、蹴り出された布団にくるまろうとした所で、耳を掴んで引っ張り出された。

「いででで、痛い、痛い、やめて」

「お前、すごいダメっぷりだな」

 ジョン太は、ため息をついた。

 こんなにダメな鯖丸は、見た事が無い。

「五分以内にシャワーを浴びて身支度しろ」

 命令口調だった。

 上司で元軍人だが、ジョン太がこんなに露骨な命令口調になった事は、今まで無かった。

 鯖丸は、怪訝な顔でジョン太を見上げた。

 何でと聞く前に、ジョン太は答えた。

「仕事だ」


 今月末に引っ越すので、ガスはもう止めていた。

 冷たい水で四日振りにシャワーを浴びると、とりあえず目は覚めた。

 タオルで体をふいて、ガタガタ震えながら再び布団に入ろうとする鯖丸を、ジョン太は引っ張り起こした。

「仕事だつってんだろが、このバカ」

「寒いんだよう」

 鯖丸は、布団を被ったまま、部屋の隅に積まれた洗濯物の中から、比較的着られそうな物を物色し始めた。

 うわぁ、こいつまた、洗ってないパンツ履こうとしてるよ…。

 ジョン太は顔をしかめたが、諦めの境地に達したのか文句は言わなかった。

「仕事やるって言ってないのに…」

 鯖丸は愚痴を言い始めた。

「引っ越しの準備もしなきゃいけないのに、そんな閑ないんだよ」

「思い切り寝てただろうが、お前は」

 ジョン太は呆れた。

 この部屋の惨状では、有坂が居なくなってから、一回も掃除をしていないのは明白だ。

 最初はAVをおおっぴらに広げる生活を、それなりにエンジョイしていた様子だが、すぐ飽きたらしく、むき出しのディスクが脱ぎ散らかした服とゴミの山に埋もれていた。

 どうでもいいが、使ったティッシュはせめてゴミ箱に入れろよ…。

 ここ最近の、生活の荒れ具合が明らかな部屋の中で、ジョン太はため息をついた。

「どうせ荷物少ないんだから、引っ越しの荷造りなんて一日で出来るだろうが。友達にでも手伝ってもらえば」

「迫田は病院で研修だし、山本はもう仕事始めてるし」

 それ以前に、荷造り前の掃除の方が大変そうだな…と、ジョン太は考えた。

「お前、やっぱり友達二人しか居ないんだ…」

「二人居れば充分じゃん」

 特に増やすつもりはないらしい。

「引っ越し、いつなんだ」

 ジョン太はたずねた。

「来週末」

 あと十日程だ。

「そうか、荷造りは手伝ってやるから、とにかく来い」

 鯖丸は、しぶしぶ仕事用の服に着替え始めた。

 とは云っても、一週間大丈夫なTシャツや、アウトドア用のズボンは、夏に殿の城で無くしてしまったので、残っているのはもう、長年愛用しているジャケットだけだ。

 四年も使っているので、袖口や裾がすり切れて、だいぶ色もあせて来ている。

 後は自前のジーンズ(夏に魔界で拾って来たやつ)とトレーナーを着て、いつものディバックを手に取った。

「そんな顔すんなよ。一泊か二泊の楽な仕事だ。今度の仕事は、即金で払うって所長も言ってるぞ。余裕ある新生活の為にも、もうちょっと気合い入れろよ」

 金の話が出ると、鯖丸はちょっぴり盛り返した。

「そうかー。寮に入れるからどうにかなると思ってたけど、余裕があるっていいよなぁ」

 心持ち、荒れた生活でやつれていた顔がふっくらして来た。

 分かりやすい男である。

「そう云えばお前、何で大学の寮には入ってなかったんだ」

 今頃になって気が付いたので、ジョン太は尋ねた。

「その話は聞かないで」

 鯖丸は、遠い目をした。

 素行が悪くて追い出されたのかよ。

 大学の寮を追い出される様な奴が、会社の寮でやって行けるのか。

 まぁ、上場企業で普通に働いていたら、追い出されるまでには引っ越す金くらい貯まるだろうけど。

 こいつ、行った先でも色々面白い事しでかすんだろうなぁ…と思った。

 見られないのは残念だ。


「つくもがみって、聞いた事あるか」

 魔界に向かう道すがら、ジョン太はたずねた。

「一応は」

 四年も魔法使いをやって来たが、現物は一度も見た事が無かった。

 動物や植物が、魔導変化して怪物化する事はめずらしくないが、物が意識を持って動き回るつくもがみになる事は、ごくまれだ。

 魔界に住んでいても、見た事のない者の方が多い。

「廃校になる学校に、つくもがみが出た。民宿として改装する予定だから、片付けてくれってよ」

 魔界の山間部には、開発が進んだ外界にはない、昔ながらの生活が残っている。

 そういう場所で何泊かするツアーは、人気があった。

 田舎に泊まり込む仕事は、美味しいごはんが食べられる事が多い。

 ちょっと期待していた鯖丸は、ジョン太がいつもの道からそれたので、怪訝な顔をした。

 あまにりも鯖丸がボケているので、ハンドルを握っていたジョン太は、普段と違う細い道に入っている。

 程なく、古い温泉施設に入っていた。

 温泉とは云っても、昔から近所の住人が銭湯代わりに利用している様な所だ。

 ジョン太は、自販機で入浴券を買って、鯖丸に押し付けた。

「そんな臭い格好で依頼人の所へ行くな、風呂入って来い。その間に洗濯しといてやるから」

 何十年前に書かれたとも分からない『コインランドリー』というペンキ書きの看板を指さした。

「あー、兄ちゃん兄ちゃん」

 受付のおばちゃんが二人を呼び止めた。

 はいはいと鯖丸が答えたが、おばちゃんはジョン太の方を指さした。

「そっちの兄ちゃん」

「はいぃ?」

 この年になって兄ちゃん呼ばわりされるとは思わなかったジョン太は、奇妙な返事をした。

 兄ちゃんか? 俺。

「入浴券買って。それとも食事だけ?」

「え…入っていいんですか」

 公衆浴場やプールでは、原型タイプのハイブリットは、嫌な顔をされる事が多い。

 別に、法的には規制されていない…というより、差別しない様に言われているのだが、何しろ全身毛皮なので、抜け毛もひどいし。

「じゃあ、何しに来たのよ」

 おばちゃんは変な顔をした。

「いや…こいつを丸洗いしようと」

 ジョン太は、明らかに不潔な感じの鯖丸を指さした。

 おばちゃんは、鯖丸をじろじろ見てから、不織布で出来た安そうなバッグを二つ差し出した。

「じゃあ、入浴セットカミソリ石鹸シャンプー付き。自販機で券買って。うち、シャンプーとか石鹸、置いてないから」

 客が少ないのか、バスタオルとハンドタオルの付いたセットを強力にオススメされてしまった。

「あと、兄ちゃんは毛が抜けたらこれですくっといて」

 熱帯魚用の網を渡された。

 良くある事なのか?


「わぁ、広い風呂、久し振りー」

 鯖丸は、嬉しそうに言った。

 待て、ガス止めてるって言ってたけど、いつから風呂に入ってなかったんだ。

「お前、まさか一ヶ月くらい…」

 ジョン太はじりじり鯖丸から遠ざかった。

「ううん、ガス止めたのは二週間前」

「死ねぇ」

 久々に首を絞めた。

「銭湯に行くつもりだったけど、めんどくさくて」

「聞きたくない」

 鯖丸が脱いだ服を、汚い物をつまむ様にして(実際汚いのだが)ジョン太はランドリーに消えた。


 おっちゃんが風呂から上がって、のんびり牛乳を飲んでいると、すっかり体も服も清潔になった鯖丸が現れた。

「遅いぞ」と、ジョン太は文句を言った。

「広い風呂に入ると、つい念入りに洗う習慣で…」

 要は貧乏性なのだった。

「大体お前、どうやって服取って来たんだ。コインランドリーに入れっぱなしにしてたのに」

 そりゃあ、裸にむかれて全部洗われてしまったのだから、バスタオルを巻いてランドリーまで取りに行ったに決まっている。

 居たのがじいちゃんとばあちゃんだけだったのは、不幸中の幸いだった。

「ジョン太って、いい人っぽいくせに、何気にひどいよね」

「そうかな」

 温泉成分が効いたのか、すっかりさらさらの毛並みになったジョン太は、へらっと笑った。

「じゃあ行くぞ」

「ええっ、俺も牛乳飲みたい」

 風呂上がりの一杯は最高の贅沢だ。特にフルーツ牛乳。

「何言ってんだ、冷たい牛乳飲んだら腹壊すくせに」

「ちびちび飲めば、大丈夫だよ」

「待ってるのめんどくせぇ。後で買ってやるよ」

 温泉の牛乳は、ビンを返さないといけないので、飲み終わるまで移動出来ないのだ。

 風呂屋で飲むから美味しいのに…と文句を言いながら、鯖丸はしぶしぶジョン太の後に続いた。


 その後、いつもの道に戻って、なぜかいつものコンビニではなく沿道のジャ○コに寄って、牛乳と着替えのパンツと靴下を買い与えられた鯖丸は、運転を代わった。

 サイズ、Lで良かったよな…と言いながら、なぜかTシャツまで買ってくれた。

 良く見ると、いつも細かいジョン太らしくなく、領収証を貰っていない。

 理由を聞くと「まぁ、餞別みたいなもんだ」と言われた。

「お前と仕事するのも、これで最後だしな」

 ああ、そう云えばそうだ…と、鯖丸は考えた。

 どうしてこんな大事な事忘れてたんだろう。だらけ過ぎだな、俺。

「それに、きちっと身を清めてないと、つくもがみに祟られたりしたら嫌だからな」

「え、つくもがみってそう云う物なの」

「実は俺も初めてなんで良く分からんが、松吉はそう言ってた」

 頼りない話だ。それに、依頼者は松吉さんだったのか。

「トリコなら詳しかったんだろうけどなぁ」

 魔界出身で、母親の代から魔法使いを生業にしていたトリコなら、きっと色々知っていただろう。

「でもまぁ、お前なら楽勝の相手だよ」

 ジョン太は言い切った。

「…って、松吉が言ってた」

 何だその、関西人みたいなよう知らんけど理論。

 それはまぁ、たいがいの相手だったら、別に苦戦する事もないだろうけど。

 いつも通りに車を走らせ、いつも通りの定食屋で、遅い朝食を食べた。

 いつもの様に「ご飯炊いて」と厨房に声をかけているおばちゃんを止めて、ライス大盛りとおかずをチョイスした。

 ここ数年は、そんなに非常識な食い方はしていないはずだが、第一印象が尾を引いているのだろう。

 この店に来るのも、きっと最後になるだろう。

 最初に面接で入って、ここへ連れられて来た時は、ずっとろくな物を食べていなかったので、ものすごく嬉しかった。

 ジョン太がどんどんおかずを取って並べてくれて、ちょうど目の前に鯖の味噌煮があったから、こん変な名前で仕事する事になったのだ。

 有坂が居なくなって以来、久し振りに家庭的な総菜を並べて、食事を始めてからしばらくして、鯖丸は言った。

「今まで言ってなかったんだけど、実は俺」

 いつも通り朝定食を食べていたジョン太は、顔を上げた。

「鯖ってあんまり好きじゃない」

「今頃言うなよ」

 ジョン太は、軽く笑った。

「知ってたよ。お前あれ以来、魚はサンマとアジフライしか食ってないもんな」

「ううん、一回だけほごの煮付け食った」

 全国的にはカサゴと呼ばれている、美味しい魚だ。

「てめぇ、何どさくさに紛れて高いもん注文してんだよ」

「所長はいいって言ったよ」

 ならば良し。

 しばらく振りに充実した朝食を摂って、ゲートに向かった。


 夏以来、魔界に呑まれていたゲート周辺は、ほぼ元の状態に近付いていた。

 いつも通りに倉庫で準備を整えながら、鯖丸は聞いた。

「そう云えばこの刀、俺が居なくなったらジン君が使う事になるのかな」

 すっかり手に馴染んだ長刀は、今年の初めに海水に漬けてしまったので、メンテナンスに出されていたらしく、点検済みの紙が貼ってあった。

 羽柴は、同じ大気操作系の魔法使いだし、刀を使う所も同じだから、そうなるだろう。

「所長はそのつもりらしいが、羽柴は嫌がってたよ。長いし重過ぎるって」

 いつも通りにガンベルトを装備しながら、ジョン太は言った。

 だいぶ気温が高い季節になって来たので(ジョン太的には)ジャケットの内側に銃弾を仕込むのはやめて、ベルトの物入れに詰めている。

「あいつ、筋肉無くてひょろひょろだもんな。るりかが大喜びのBL体型だ」

「ちょっと鍛えないとダメだな、あれは」

 元軍人と剣道部が、言いがかりをつけている。羽柴の体格は、痩せてはいるが、ごく普通の範囲内だ。

「この刀使うのも、最後になるんだな」

 鯖丸は、何だかしんみりした口調になった。

「そうだなぁ…」と、ジョン太も何だかしんみりした口調になった。

 それから、気を取り直して急ぎ足で倉庫を出た。


 縄手山の村は、以前来た時よりもずっと賑わっていた。

 閑静な山村だという事に変わりは無いのだが、観光客の姿がちらほら見える。

 世間では、こういう現代社会から離れた田舎暮らしが、ある種ブームになっているのだ。

 外界の田舎と違って、県庁所在地から二時間もかからずに行ける所も人気の秘訣だ。

 以前来た時は荒れていた林道も、崩れた箇所が補修されて、通りやすくなっていた。

 村の入り口で、松吉が待っていた。

「松吉さん、お久し振りです」

 挨拶すると、縄手山観光協会長は、にこやかに笑った。

「おお、鯖丸君、久し振りだな。二年振りくらいか」

「そんなになりますか」

 魔界には頻繁に入っているが、ここまで来る様な仕事は、あまり無い。

 来ても宅配の仕事くらいで、荷物を届けたらすぐに引き返すので、荷物の届け先以外の人とは接触しないし。

 周囲の景色は、相変わらず適度に人の手が入った里山で、山沿いの狭い耕作地に、田畑と果樹園が点在していた。

 昔のように、土の地面を見て違和感を感じる事は無くなったが、それでも宇宙育ちの自分が、こういう風景を見て感慨を憶えるのは不思議だと思う。

「先に現場見てからがいいと思ってな」

 松吉は、村の入り口で待っていた理由を、そんな風に説明した。


 廃校になるのは、小中学校合同の小さな校舎だった。

 山間に作られた狭い校庭、古い木造建築、校庭からゆるやかに周囲の田園地帯に溶け込む風景。

 何もかもが馴染みのない物だったのに、校舎に入ったとたん、ひどく懐かしい気持ちが襲った。

 地球でも宇宙でも、狭く小規模なコミュニティーに作られた子供達の集まる場所は、素材や環境が違っても、同じ雰囲気が漂っていた。

 壁に貼られた絵や、生徒への告知や、大して重要とも思えない注意書き。

 マイナーコロニーで、こんな風に紙資源を浪費する事は無いが、書いてある内容はなじみ深い物だった。

 ひんやりとした、使い古された木造校舎の入り口で、何だか少し笑ってしまった。

「意外と同じなんだなぁ」

「外界の学校とは、だいぶ違うな」

 現役小学生の子供が居るジョン太は、全然違う意見を言った。

 日本の地方都市にある学校より、魔界のど田舎にある学校の方が、宇宙のど田舎にある学校に似ているというのも、不思議な話だ。

 いや…特に不思議な話でもないか…。

「ここのつくもがみって、どういう物なんですか」

 つくもがみは、物だ。魔導変化した動物や植物とは違う。

「色々でな」

 松吉は、苦い顔をした。

 色々って…それ、単体じゃないのか。

 ジョン太も、つくもがみに関しては、詳しい事は知らなかったらしい。意外そうな顔をした。

「ここも、ずっと学校として使ってやれれば、こんな事にはならなかったが」

 もしかしたら松吉も、想像は付かなかったが小さな子供だった頃、ここへ通っていたのかも知れない。

 一瞬、懐かしそうな苦い顔をした。それから言った。

「残留思念だの、無意識下の魔力の蓄積だの、色々な説があるが、まぁ、分かりやすくひらたく言うとだな」

 鯖丸とジョン太は、聞き耳を立てた。

「学校の怪談」

 二人は、その場に転けた。


「何だそりゃ、真夜中に階段が増えたり、便所に女の子の霊が出たりするのか」

 ジョン太が即座に突っ込んだ。

「んな訳ないだろう」

 松吉は、呆れた顔をした。

 何で、ばあちゃんが日本人とはいえ、ほぼアメリカ人のジョン太が、そういうベタな怪談を知っている?

「それで、音楽ソフトが真夜中に自動演奏を始めたり、3Dの骨格標本が実体化して踊り出したり、ディスプレイから怨霊が這い出したり、エアロックに居ないはずの人影が出たり」

 鯖丸が、自分の知っている範囲の怪談を追加した。

「それは近いな」

 マイナーコロニーの怪談に、松吉が同意している。

「骨格標本は、軌道上の月の現在地に向かって、ムーンウォークを始めるんだよね」

「ええと…」

 ジョン太はしばらく考えた。どこのマイケルだ、それ。

「それ、どこから突っ込んでいいか、分からない」

「別に、ボケてないよ」

 いや…お前は無意識で四六時中ボケている…という意見を飲み込んだ。

「仮にも科学者として、そういう立ち位置でいいのか」

「何本気になってんの。子供の空想と魔界での現象は別だろ。似てるだけ」

 真顔で言っている。こいつ、殴りたい。

 まぁ、いつもそこそこ殴ってるが。


 松吉の言によると、異変が起こり始めたのは、廃校が決まってからだという。

 不特定多数の無意識が、つくもがみを呼び出したのかも知れないと言う。

「わしも、その一人かも知れん」…と、思いの外深刻な口調で言った。

 昼間の学校は、何と言う事も無くて、異変も感じられなかった。

「おおー、蓋の付いた下駄箱だ。学園物のアニメ以外では初めて見た」

 鯖丸が一人で盛り上がっている。

「それにラブレターとかバレンタインのチョコとか入ってるのは、本当の都市伝説だよ」

 松吉が、鯖丸の妄想をぼっきり折った。

「そんなはずないよ。毎年下駄箱からチョコがざらざら出てた奴、知ってるもん」

 それが自分の彼女だというのも、どうなんだ。…というか、さすが都市伝説二号。

「それで、何処に?」

「ああ、こっちだ」

 勝手に来客用のスリッパを出した松吉は、どんどん校舎の中へ入って行った。

 外界の学校では考えられない。

 田舎だからなのか、魔界だからなのか、松吉がこの件の依頼者だからなのか、その辺りは謎だ。

 教室の中には、まだ子供達が居るが、授業中ではないらしく、何となくざわついた雰囲気だった。

 どうやら一クラスしかないらしく、子供達の年齢はバラバラだ。

「ああやって子供らが居る間は、何ともないんだが」

 黒板の前に立っている先生と目が合った松吉は、ちょっと片手を上げて挨拶してから、年季の入った板張りの廊下を奥へ進んだ。

 アルミサッシではなく木で出来た窓枠といい、みかんのネットに入ったレモン石鹸が吊された手洗い場といい、今時あり得ないレトロ感だ。きっと、民宿として受けもいいだろう。

「そう言えば、ここが廃校になるって云う事は、あの子達は?」

 気になったので尋ねた。

「立石の学校まで通う事になるな。遠いから、下宿する子も居る」

 山を下りた所にある学校だ。

 まだ小学生なのに、親元を離れるのか…と、何だか複雑な気持ちで考えた。

 内の何人かは中学生で、山を下りたら学校は別々になってしまうそうだ。

 どのみち、ここの魔界には高校がないから、中学を出たら大抵は親元を離れるんだがね…と、松吉は言った。

「わしらが子供の頃は、高校まで行かない奴も多かったけど、今時そうも言っとられんからなぁ」

 先に立って歩きながら話していた松吉は、立ち止まった。

「ああ、ここだ」

 音楽室と書かれた教室の戸を開けた。

 所々節の目立つ床の上に、ピアノが鎮座していた。

 一目見て、尋常ではないのが分かった。

 怪しげな空気が、教室の中に渦巻いている。

「まさか、このピアノが」

 ジョン太は、周囲の気配を探った。

「夜中、独りでに鳴り始めるのか」

「いや、足が生えて走る」

 松吉が、怪談話の雰囲気を台無しにした。

「ピアノは元から足、あるだろ」

「だから、すね毛の生えた足が…」

「聞きたくねぇ」

 ジョン太は、耳を塞いだ。

 百鬼夜行の絵巻物を思い浮かべているに違いない。

「まさかとは思うが、出て来る奴全員、すね毛が生えて走り回るだけなんじゃねぇだろうな」

「いやいや、ちゃんと美脚の奴も」

「結局足は生えるんかい」

 ああ…松吉さんがボケに回ってくれると楽だな…と、鯖丸はのんびり周囲を観察した。

 建物は古いが、基本的には昔自分が通っていた中学と、大して変わらない。

 ぼんやり見ていたら、バッハの肖像画がにやりと笑ったので、笑い返して手を振ると、視線を反らせた。

「何か、面白い事になってますね。人を襲ったりはするんですか」

「基本的に動き回るだけだが、撤去しようとすると襲って来るな」

 松吉は説明した。

 簡単そうだ。

 少し可哀想な気もするが、ちゃっちゃと全部ぶっ壊して外界に運び出せば、ただの物に戻るだろう。

「鯖丸君、君、全部壊せば済むと思ってないかい」

 松吉に言われたので、うなずいた。

「違うんですか」

 まさか、こいつらに想像も付かないすごい力が?

「先ず、そのグランドピアノだが、昔地元の名士が寄付してくれた、大変高価な品だ。終業式の翌日、外界のピアノ運送業者が取りに来るから、決して傷つけない様に」

 鯖丸は、うぐっと変な声を上げた。

「音楽家の肖像画くらいは壊してもいいが、他にも民宿運営資金の為に売りに出している物が多いから。ああ、後でちゃんとリストを渡すけど、とりあえずそれと、理科室の化石標本、それから資料室の土器の類は、絶対壊さない様に」

「はぁ…」

 ジョン太の奴、一泊か二泊の楽な仕事だって言ったくせに。

 ジョン太に視線を移すと、本人も意外だったらしく、微妙な表情をしている。

「終業式は明日なんでね。今晩一度調査して、式が終わってから始めてもらおうかな」

 松吉はにやりと笑った。

「特に、ピアノとアンモナイトの化石は、壊すと君らの仕事代出ないから」

 とんでもない事を言い始めた。

 お前は見捨てられたみたいだぞ…。

 音楽室を出る時にバッハの方を見上げると、ちょっと悲しそうな顔に変わっていた。


 校庭に出ると、女の子が二人に男の子が一人、鉄棒の横に座って、話し込んでいた。

 校舎から出て来た松吉を見つけると、三人は立ち上がって会釈した。

 狭い村だから、皆顔見知りなのだろう。

「今年卒業した子達だよ」

 松吉は説明した。

「学校はもう無くなるし、あの三人は高校も別々だ。色々思う所はあるんだろうよ」

「へぇ…」

 中の一人を、どっかで見た様な気がする。

 記憶を探っていると、ジョン太が横から言った。

「ますみちゃんだよ。憶えてるだろ」

「ああ」

 随分大人っぽくなって分からなかったが、そう云われれば面影がある。

「わぁ、久し振りだなぁ。元気だった?」

 近付くと、なぜかますみちゃんは「げっ」という顔をして後ずさった。

「お久し振りです」

 笑顔が少し引きつっている。

 それから、二人の友達の手を引いて、ばたばたと駆け去った。

「何か嫌われる事でもしたかな…」

 何年も前に、ハザマ医院の枕の下にエロ本を突っ込んだまま放置して来た事など、当然鯖丸は忘れていた。

 更に、それを発見したのがますみちゃんだった事など、知る由もない。

「照れてるんじゃねぇの」

 そもそものエロ本提供者ジョン太は、無責任な事を言った。


 縄手山には何度か来ていたが、泊まり込む様な本格的な仕事は久し振りだ。

 どうやらまた、民宿松吉に泊まる事になるらしく、ジョン太は車を裏の駐車場に乗り入れた。

 以前来た時は、駐車場は無かった。

 客も増えている様子で、離れには家族連れが滞在していて、母屋には県外から来た学生のグループが楽しそうにわいわいやっていた。

 明らかにレジャーではない様子の二人連れを見て、少し驚いた様な顔をしたが、意外と礼儀正しく挨拶して来た。

「この人達は、もうすぐ民宿になる学校の後片付けをしに来た魔法使いだから」と、松吉は客達に説明している。

 客が怖がらなければ、基本的に隠すつもりはないらしい。

「おー、魔法使いだってよ。すげーな」

「うわ、拳銃とか刀とか出してる。あの子、私らよりちょっと下だよね」

「何あれ、魔法整形? それともハイブリット?」

 お気楽な会話をしている男女混合の集団を見て、ため息をついている鯖丸を、ジョン太は背中を叩いて促した。

 そう云えばこいつも、本当なら浮かれて卒業旅行でもしている頃なんだな…と考えた。

 県外からとはいえ、魔界のこんな田舎で民宿泊まりというのは、決して贅沢ではない。慎ましい方だろう。

 仲のいいサークルか友達のグループだろう。

「気にするな、卒業旅行なんて出来なくても…」

「いや…旅行は行った」

 鯖丸は、意外な発言をした。

「山本と迫田と、三泊四日八ヶ岳縦走全行程テント泊、往復は車」

「何だその苦行は。お前Mなの? M期なの」

「俺、一応ワンゲルなんだけど」

 そんな設定忘れてた…と、ジョン太は思った。

 大体迫田はワンゲルじゃないし、実は有坂が居なくなってからすっかり廃人状態になっていた鯖丸を、友人二人が無理矢理連れ出したのだが、本人はそんな友情パワーに気が付いていない。

 こういう困った奴に限って、性格のいい友達ががっちり周囲を固めていたりするという、世の中の不思議。

「また年下に見られたから、がっかりしてるだけだよ」

「それは諦めろ」

 ジョン太は言い切った。


 少ない荷物を部屋に運び込んだ二人は、松吉からつくもがみを封じた事があるという村の魔法使いを紹介されて、家を尋ねていた。

 外界からやって来る便利屋などとは違って、この村に住んで、失せ物捜しや病封じ、占いから鍋釜の修理まで、こまごまとした事を生業にしている、本物の魔法使いだ。

 随分前から現役は引退していて、たまに小さな仕事を引き受ける程度だという。

 古い家から出て来たのは、一体何歳くらいなのか見当も付かない、小さな老人だった。

 かまいたちの事件の時にも、この老人を見た憶えはなかったので、本当にとうの昔に隠居しているのだろう。

「松吉から聞いとるよ。まぁ上がって」

 二人を縁側から招き入れた老人は、ごそごそと柳行李を開いて、畳んだ和紙を取り出した。

「つくもがみかい。わしももう、見たのは八十年以上前じゃけんなぁ」

 老人は、懐から眼鏡を出して来て、がさがさと黄ばんだ紙を広げた。

「その頃に、余所の魔界から来た職人に、つくも封じの魔方陣を教わって使こたんじゃが、うーん」

 眼鏡をかけてもまだ見えにくいのか、顔をしかめている。

「わしゃもう、こんな細かい魔法は使えん。君らでやりなさい」

「何か、特別な段取りは必要ですか」

 ジョン太は、畳の上に広げられた魔方陣を覗き込んだ。

 魔界では、人やその他の生き物が持つ概念が強く働く。

 精神集中や、毎回一定の効果を出す為に、自分なりの呪文や段取りを踏むのは、良くある話だ。

 しかし、誰が使っても同じ効果を求められる魔法には、特定の魔方陣が使われる。

 車や貴重品を隠す時の結界や、人や生き物をその場に足止めする結界で、種類はそんなに多くない。

 鯖丸も、バイトを始めた当時二つ程教えられて、それで終わりだった。

 目の前の図形は、人や物を閉じ込める為の結界に似ていたが、形は遙かに複雑だった。

 紙の上に書かれた時点でそれなりの効果を出すのか、長く見ていると目眩がして来る。

 これより複雑な魔方陣を見たのは、殿の城で浅間が使った物くらいだ。

「いや、封じたい物の周りに書くだけじゃ。特別な事は要らん」

 老人は答えた。

「お借り出来ますか」

 一度見て完璧に憶えるのは無理だと判断したジョン太は、老人に尋ねた。

「かまわんよ、また百年後ぐらいに必要になるかもわからん。書き写して取っておきなさい」

「はい、ありがとうございます」

 ジョン太は、礼を言って魔方陣が書かれた紙を受け取り、立ち上がった。

 鯖丸は、老人に会釈してジョン太の後を追った。


「百年後かぁ」

 民宿松吉の部屋で、魔方陣を書き写しながら、鯖丸はつぶやいた。

 少なくとも年寄りになっているし、死んでいる可能性も高い。

 いくら平均寿命が延びていても、限界はあるだろうし、事故や病気で死なないとも限らない。

 ジョン太はまだ生きてるかも知れないけどなぁ…と、隣でもう一枚の複製を作っている相方を見た。

 原型のハイブリットは寿命が長い。

 先祖返りタイプだが、実際には普通の人間と混血のジョン太は、どの辺まで原型に近いのかは、外見だけでは分からなかった。

 聞いてみたら「お前のせいで胃に穴が開いて死ぬ」とか言われそうなのでやめた。

「よし、出来た」

「早いなお前」

 まだ魔方陣を書き写していたジョン太は、驚いた。

「書いてる間にちゃんと憶えたか?」

 本番では、手本を見ながら書き写す余裕などないかも知れない。完璧に暗記する必要がある。

「長い間見てたらくらくらする。ジョン太は平気なの」

「魔力を調節してるから、あんまり。時々ぐにゃっとして見える程度だな」

 魔法の効きには個人差があって、魔力が高い程良く効く。

 自分にとって有利な魔法も、不利な魔法も。

 ただ、この魔方陣は、生半可な魔力では扱えそうにない。

 誰にでも使えるなら、そもそも自分達は呼ばれなかっただろうし…いや、もしかしてつくもがみが物凄く強いせいかも知れないが。

「お茶もらって来る。ジョン太も要るだろ」

「ああ、頼むわ」

 真剣な顔で魔方陣を書き写しているジョン太を残して、勝手知った民宿松吉の廊下を、土間になっている台所へ向かった。

「すいませーん、お茶ください」

「そこにあるから、勝手に飲んで」

 土間への降り口にはウォータージャグがあって、少し汲んでみると、中身は冷えた玄米茶だった。

「あったかいのがいいなら、今から作るからちょっと待ってね」

 土間で忙しげに夕食の準備をしていた松吉の妻が言った。

「いえ…自分でやりますから。俺ら客じゃないし」

「そう…悪いね。そこのおにぎりも食べていいから」

 ウォータージャグの横に竹のカゴが置いてあって、かなりの量の焼きおにぎりが並んでいる。

「夕飯には間があるし、今日は若い子が多いから、多めに作ったのよ」

 ウォータージャグの横にある魔法瓶から、茶葉を入れた急須に湯を注いだ。

 ジョン太は絶対「こんな季節に冷たい茶なんか持って来るな」と言うだろう。

 最近の若者は冬でも冷たい飲み物を好むが、何しろおっちゃんだし。

「ついでだから持って行きましょうか、これ」

 おにぎりの乗ったカゴを指さした。

「悪いね、お客が多くて忙しいから、頼もうかな」

 松吉の奥さんは言った。

「離れの家族連れはハイキングに出掛けてるから、母屋の子達だけでいいよ」

「はぁい」

 茶とおにぎりを持って部屋に戻ると、ジョン太はまだ難しい顔で魔方陣に取り組んでいたので、自分達の分のおにぎりを皿に取り分けてから、鯖丸は庭に面した広い部屋に向かった。


「あっ、さっきの魔法使いだ」

 部屋の中には、六人グループの内四人が残っていた。

 後の二人は、散歩でもしているのだろう。

「これ、おばちゃんが皆で食べてって」

 カゴを差し出すと、セミロングの茶髪の女の子が、立ち上がって受け取った。

「お茶は台所にあるから、勝手に飲んで。じゃあ」

「あ、待って。少し話を聞かせてもらっていい?」

 眼鏡をかけた真面目そうな青年が言った。

「いいよ、話せる事なら」

 どうせジョン太は、あとしばらく魔方陣とにらみ合っているだろう。

 魔力を上げて、ちゃっちゃと印象だけで写し取ってしまえばいいのに。

 実は、そんな事が出来るのは、とんでもなく魔力が高い者だけだという事実に、鯖丸は全然気が付いていない。

 相変わらず天然なのだ。

「君は、子供の頃から魔法使いをやってるの」

「ううん、四年前から」

 意外と短いんだな…という顔をされた。

 坊主頭の青年と、ショートカットの女の子が、茶を持って来た。

 他に客が居ないから、ウォータージャグごと持たされたと言って、コップを並べ始めた。

「もう一人の人は、魔法整形? 下の町でもああいう人居たけど」

「ううん、普通のハイブリットだよ」

 一応付け加えた。

「魔法整形の奴が沢山居る所は、危ないから行かない方がいいよ」

「そうなんだ」

 割と素直にうなずいている。

「君らは大学生?」

 今度は、こちらから聞いてみた。

「うん、皆民俗学の同じゼミに居た仲間なんだけど、今年で卒業なんだ」

 あまり良く分からない分野だ。

「古い民間伝承を研究してたんだけど、それで食って行ける分野でもないし、皆ばらばらになるから、最後にここへ来てみようという話になって」

 縄手村は、確かに魔界でも古い物が多く残っているが、そんな視点で見た事は無かった。

 さっきのじいちゃんを紹介してもいいか、松吉さんに聞いてみようかな…と思った。

 きっと、百年近く魔法使いやってるだろうし。

「まぁ、実質はただの卒業旅行なんだけどね」

「そうか、大変なんだな」

 民俗学の何が面白いのかは、全く分からないが、自分がやりたい分野が職業として成り立たないというのは、大変な事だろう。

「俺は魔界出身じゃないから、君らの興味がある様な事は全然知らないと思うけど」

「ええっ、魔法使いって、魔界出身じゃないんだ」

 坊主頭の青年が言った。

「魔界出身の人も居るから、松吉さんに紹介していいか聞いてみるよ。俺は外から来たバイトだし」

「バイトなんだ」

 ものすごくがっかりしている。そこまでがっかりしなくてもいいのに。

「君の連れの人もバイト?」

「違うけど、魔界出身じゃないよ」

 色々期待していたらしい集団は、少し気落ちしたらしい。

 トリコが居たら、大喜びで質問攻めにして嫌がられていただろうな…と思った。

 それでもこのグループのリーダらしい眼鏡の青年は、気を取り直した。

「また、時間があったら話聞いていいかな。僕は…」

 本名を名乗りそうになって、魔界でのルールを思い出した様だ。

「カガミ」

「鯖丸だ。また後でね」

 ここしばらく、年齢の近い人とは接していない。というより、ほとんど人と接していない。

 意外と楽しいとは思ったが、深く関わるつもりは、もちろん無かった。


 小中学校合同校舎に出掛けたのは、夕方の薄暗くなり始めた時間帯だった。

 卒業式は何日か前に終わって、終業式も明日で、授業も明日の打ち合わせくらいだったはずだが、校舎にはまだ、生徒と先生が残っていた。

 実質、明日で学校は閉鎖だ。単なる終業式ではない。

 今年の卒業生も、何年も前に卒業した生徒も、参加するという話だ。

 校舎を飾り付けたり、明日のリハーサルや、来てくれるOB達に渡す文集の増刷や、色々忙しそうだ。

 正直、仕事上は邪魔だと思ったが、口には出せなかった。

 理科室や資料室は詳細に調べられたが、明日使うピアノの練習をしている生徒が居て、音楽室はざっと見る程度で終わらせるしか無かった。

「出来る分だけでも、今日の内に封じとく?」

「そうだな」

 魔方陣の効き目がどれくらい持続するのかは分からなかったが、何もしないよりいいだろう。

 二人で手分けして、教卓に置いてあったチョークで、怪しい所を囲い込んで行った。

「本当なら、最優先であれ、どうにかしたいんだがなぁ」

 ジョン太は、まだ練習が続いているピアノを、恨めしげに見た。

「まさかジョン太、お坊っちゃまだからピアノも弾けるんじゃないの」

 意外と上手…とか感心しているので、鯖丸はたずねた。

「俺だってそうそう何でもは出来ねぇよ。バイオリンは弾けるけど」

 このお坊っちゃまが…。一見こんなにも育ちが悪そうなのに。

 夕暮れの音楽室できれいな音色を奏でているピアノは、しかし教室の外からでもおかしな気を発していた。

「夜にもう一度来てみようか」

 生徒が残っていては、もう出来る事もない。

「そうだね」

 鯖丸はうなずいた。


 民宿松吉の、囲炉裏のある部屋では、学生達と家族連れが、楽しく夕食を食べて、その後くつろいだ時間を過ごしていた。

 別にレジャーで来ている訳でもないので、食事を済ませたらさっさと自室に戻って、鯖丸は松吉からもらった『壊してはいけない物リスト』を、熟読した。

 魔界では、まともな写真を撮影出来る事は希なので、リストは文字とスケッチだけだ。

 誰が描いたのか、絵はあまり上手くない。

 仕方ないので、先刻封じて来た物に、チェックを入れた。

 よくある事だが、ジョン太は、昼間会った魔法使いの老人を訪ねると言って、別行動になっていた。

 魔方陣の原盤を返しに行ったのだ。

 鯖丸が模写した方は、松吉が保管して、ジョン太が書き写した物は、会社に持ち帰る事が決まっていた。

 魔力が低い状態で模写した物の方が、外界に出ても変質が少ない。

 単純に写し取る事だけ考えていた鯖丸は、やっぱりこんな調子では、ジョン太にガキ扱いされ続けるのも仕方ないかな…と考えた。

 一人前になれないままで、魔法使いを辞めてしまうんだな。

 単なる時給のいいバイトだったはずなのに、何だかすごく悔しい。

 実際にはもう、魔法使いとしては一人前以上になっていて、ジョン太の要求するレベルが高すぎる事も、そもそもランクSというだけで、並みの魔法使いには太刀打ち出来ない事も、すっかり忘れている。

 リストを暗記してから、魔界に入る前、きっちり読む閑のなかったメールを確認した。

 魔界ではケータイでの通話もメールも出来ないが、機種によっては受信したメールの内容確認や、テキストの入力くらいは出来る。

 ジョン太から、仕事があるというメールが、何度も入っていた。

 ああ、無視して悪かったなと思った。

 それから、有坂から来ているメールをゆっくり読んだ。

 たわいもない文章だった。

 でも、読んでいて泣きそうになった。

 次は何時会えるんだろう。

 少し前までは、ごく普通に一緒に居られたのに。

 部屋の隅に座って、かなりの時間そうしていた。

「君、大丈夫?」

 カガミがこちらを見ていた。

「え…」

 仕事中なのに、物凄く油断していた。

 民宿松吉に居る間は、特に危険な事もないと確信していたからだ。

 それでも、こんなに油断していたのがちょっと恥ずかしかった。

「うん、別に何でも…」

 急いでケータイを仕舞って、顔を上げた。

「ええと…何か用かな」

「桑原と杉田が戻って来ない」

 切羽詰まっているのか、本名を言ってしまっている。

 フルネームじゃないから、セーフだが。

「怪談話に近い民話に興味があったから、もしかして、二人で廃校になる学校を見に行ってしまったかも…」

 別に、深刻な事態ではなかった。

 つくもがみを排除するつもりも無いよそ者は、襲われたりはしないだろう。

「分かった。後でもう一度学校を見に行く予定なんだ。君の友達が居たら、連れて帰るよ」

「済まない、仕事で来てるんだろう。迷惑かけるね」

 言ってから、友達が心配なのだろうか、遠慮気味な口調で言った。

「もし良かったら、僕も連れて行ってくれないか」

 少し躊躇した。

 つくもがみを排除するのは、今日ではない。それ程危険な事にはならないだろうが、部外者だ。

「分かった」

 一応同意した。ジョン太が反対すれば、断ればいい。

「怪我しない程度には守れるけど、怖い目に遭うかも知れないよ」


 ジョン太は当然反対したが、連れが二人学校に入り込んでいるかも知れないという話を聞くと、カガミの同行を許した。

「すみません。無理を言ってしまって」

 カガミは謝った。

「あの二人も、研究熱心で色々な所に入り込んでしまって…。ご迷惑をかけます」

 良くある事なのか、謝り慣れている。

 むしろ、この機を利用して、自分もめずらしい物を見たがっている様にも思えた。

「つくもがみは、民間伝承とは関係ない、ただの現象だ。今晩は封じる予定も無いし、危ないだけで良い事なんて無いぞ」

 ジョン太は一応釘を刺した。

「友達が見つかったら、すぐに宿へ帰れ」

「分かりました」

 暗い山道を、二十分程歩いて、学校に着いた。

 ジョン太は、暗視能力が犬並みだし、鯖丸もリンクを張っているので、接触していれば視覚をある程度供用出来る。

 月が出ていたので、そんな事をする必要もなく、三人は校庭に入った。

 何だか、おかしな気配がした。

 ジョン太が、空気の匂いをかいでから、校庭の隅を見た。

 人影が二つ、藪の中に駆け込むのがちらりと見えた。

「あれ、カガミ君の連れの人じゃ」

「違うな、別人だ」

 暗い場所でも良く見えるジョン太が言うのなら、間違いないだろうが、何かひっかかる口調だったのが気になった。

 カガミの前では名前を出す気はないのだと思って、鯖丸は聞き返さなかった。

 三人で、開けっ放しの入り口で靴を脱いだ。

「灯り、点けてくれよ」

 鯖丸は言った。

「ああ、いいよ」

 自分は良く見えるが、連れの二人が手探りなのを見て、ジョン太は照明を捜した。

 月光が遮られる校舎の廊下は、外よりも暗い。

 しばらくして、懐中電灯を寄越された。

「カガミ君、持ってて」

 手が塞がると、いざという時魔法を使いにくいので、懐中電灯はカガミに渡した。

「靴がある。あの二人のだ」

 カガミは、靴箱の横に灯りを向けた。

 よくあるアウトドア用のサンダルと、女物のスニーカーが、きちんと揃えられて段差の所に置いてあった。

 不法侵入だが、礼儀正しく振る舞ってはいる様子だ。

「呼んでみて大丈夫ですか」

 カガミは、ジョン太にたずねた。

「ああ、いいよ。それで出て来てくれるなら、こっちも助かる」

 カガミはうなずいて、暗い校舎の中に呼びかけた。

「おおぃ、二人とも居るのか」

 少し間を置いて、女の声がした。

「新垣君?」

「本名言っちゃダメだろ」

 男の声がした。

「出て来てくれ。昼に会った魔法使いの人達と来てる」

 カガミが言うと、男の方の声が答えた。

「すいません、何か大変な事になってて。助けてください」

 声の調子は、それ程切羽詰まっていなかった。


 二人が居たのは資料室だった。

 様々な教材や、古いロールスクリーン状の地図や、外界ではとっくにデジタル化されている物に混じって、松吉が言っていた土器や埴輪も居た。

 居たというのは、それが全部、まるで意志を持っているかの様に動いていたからだ。

 手足が生えている物もあれば、単にそのままの形で飛び回る物も、随分変形している物もあったが、基本的には無秩序に動き回っていた。

 カガミの連れが大変な事になっていると言う割りに、緊張感がなかったのは、それに敵意が全く無かったからだ。

 二人は資料室の隅に座り込んで、物の怪のパーティーに紛れ込んでしまった事を、少し楽しんでいる様にも見えた。

「こっちへ出て来れるか? ゆっくり、周りを刺激しない様に」

 ジョン太が指示した。

 基本的に、野生動物と出会った時と同じ対応だ。

 二人は、四つん這いになったまま、そろそろと資料室から出て来た。

「いや…すごいね、ここ」

「百鬼夜行って、こんな感じかな」

 二人をちらりと睨んだジョン太は、カガミに言った。

「じゃあ、季節外れのハロウィンパーティーに出掛けてた二人は、後でたっぷり説教するとして…」

 わぁ、ジョン太怒ってる。これは、一時間コースだな…と、鯖丸は少し二人に同情した。

「そいつら連れて早く帰れ。何で魔方陣を消したのかは、帰ってから聞く」

「え…」

 部屋の中を覗き込んだ。

 そもそも、昼間魔方陣で囲い込んだ物が大半だった。

 陣形が効いているなら、こんなお祭り騒ぎにはなっていない。

 カガミの手から、懐中電灯を取って、室内を照らした。

 チョークで床に描いたはずの魔方陣は、白い痕跡を残して、拭き取られていた。


「俺ら、やってません」

 二人連れの、男の方が言った。

 線は細いが意志は強そうな奴だ。

 女の方は、小柄で地味な感じだ。

「来た時にはこんな感じでした。見てたらいつの間にか囲まれて…でも、悪さをする物の感じはしなかったので、言いたい事があるなら、聞けたらいいと思って」

「杉田君も私も、本当に見てただけで、何もしていません」

 いや…本名言うな…と制してから、ジョン太はため息をついた。

「正味、君らが何かしててくれた方がマシだったんだけどね」

 先刻、校庭で見た人影を思い出した。

「誰かが忍び込んで、魔方陣を消した?」

「油性マジックで描いときゃ良かったかな」

「床に油性マジックで魔方陣が描いてある民宿なんて、誰も泊まりたくないよ」

 鯖丸が、めずらしくツッコミに回った。

「ああ、それなら見ました」

 杉田君が言った。

「中学生くらいの男の子と女の子が、床に屈み込んで何かしてました。俺らが入った時、逃げて行ったんですけど、てっきりここで会ってるカップルだと思って。魔界だと中学生も積極的だなぁって」

 それは、外界でも大体そんな感じだ。

 むしろ杉田君がレトロな感じに純情なだけでは?

「そいつらの顔、見たか」

 ジョン太は尋ねた。

「いいえ、暗いですから」

 杉田は言った。連れの女はうなずいた。

「分かった、先に帰って…いや、校庭で待ってろ、カガミも一緒に」

「一緒に居てはダメですか」

 杉田は聞いた。

「遊びじゃねぇ。外で待ってろ」

 ジョン太は言った。

「分かりました。迷惑かけて済みません」

 杉田は素直に謝った。

 暗がりで良く見えなかったが、三人の学生は、何だかとても傷ついた顔をしている様に思えた。


 音楽室のピアノは、大人しかった。

 昼間とは、少し置き場所が変わっている程度だ。

 小さな学校で、体育館の様な施設はない。

 終業式はここで行うのだろう、室内には飾り付けがされて、椅子が並んでいた。

 お祭り騒ぎをしていた資料室とは対照的だ。

 明日終業式で使うピアノは、魔方陣で封じていなかった。

 昼間よりもずっと存在感を出して、不思議な空気を周囲に放っている。

 何となく、ピアノが自主的に大人しくしている様に思えて、鯖丸は気配を伺った。

「明日の式が終わるまでは、こっちも手出ししないから」

 ふと思い立って、声をかけてみた。

 ピアノの輪郭が、暗がりの中で微妙にぶれた。

「君は外界に売られるけど、高そうだからきっと大事にされる。出来れば穏便に済ませられないかな」

 少しの間、沈黙があった。

 それからふいに、誰も弾く者が居ないのに、少し悲しげな音色が流れた。

 奇妙な感覚が流れ込んだ。

 それが何なのか理解出来なくて、鯖丸は少しの間聞き耳を立てた。

 ピアノはそれ以上しゃべらなかった。

 ジョン太の方を見ると、微妙な表情でこちらを見ていた。

「帰るぞ」と言われたので、後に続いた。


「お前がああいう事出来るとは思わなかったが」

 入り口で靴を履きながら、ジョン太は言った。

 いや…何もしてないし。

「お前、心霊現象とか肯定派だっけ」

「んな訳ないじゃん。だったら、いくら家賃が一万二千円でも、殺人事件のあった部屋になんか住めないよ」

 そんな家賃で風呂付1DKの部屋借りられるのかよ…と、ジョン太が呆れている。

 日本一家賃が安い県でも、さすがに事故物件でなければあり得ない値段設定だ。

「じゃあ、魔法の一種か…」

 何か言いかけてから、途中で止めて、別の事を話始めた。

「あいつらが見た中学生のカップルな、多分ますみちゃんだ」

「へぇ、やるなぁ。どれ、オジサンがひとつ、大変な間違いを起こす前に、秘蔵の近藤さんを…」

「お前はアホか」

 後頭部をしばかれた。

「アホですとも」

 とうとう、開き直りやがった。

「最近使ってないから、若干余ってるんで」

「あの子らは、そんなエロ目的で夜の学校に忍び込んだんじゃねぇよ」

「その方がまだ良かったのになぁ」

 ジョン太もうなずいた。

 魔方陣を消したのは、十中八九ますみちゃんとその連れだ。

「あいつらに説教してる閑は、無くなったな」

 ジョン太は、校庭で待っている三人をちらりと見た。

 鯖丸はうなずいた。


 ますみちゃんの家まで、山の中を突っ切って走った。

 手加減していても、ジョン太のスピードについて行くのは厳しい。

 やっと追い付いて、よれよれになったまま呼吸を整えていると、丁度向こうから、ますみちゃんと手を繋いだ少年が、道を上がって来た。

 ジョン太の白っぽい毛並みは、夜道でも目立つ。

 二人は立ち止まり、それから一歩後ずさった。

「夜遊びする様な年じゃねぇだろ、お前達」

「あの…学校に明日の準備で行ってただけです。両親にもちゃんと断ってます」

 ますみちゃんは顔を上げてきっぱりと言った。

 小さい頃から顔見知りとはいえ、見た目の恐いジョン太に全く気後れしていない。

「そうか。おっちゃん、うちの娘が男と手を繋いで暗い夜道を歩いてたりしたら、問答無用でぶん殴るけどな」

「桐矢君とは、そんなんじゃないです」

 なぜか桐矢君と呼ばれた少年の方は、がっかりした様子でうなだれた。気の毒に。

「ちょっと話が聞きたいんだけど」

 今まで、ジョン太の後ろでよれよれになっていた鯖丸が言ったので、ますみちゃんは驚いた顔をした。

 暗がりでしゃがんでいたから、気が付かなかったのだろう。

「それと、すいませんが水ください。山の中全力疾走して来たんで」


 庭にある手押しポンプから、ブリキのひしゃくに汲んでくれた水を受け取って、四人は家から少し離れた畑の石組みに腰掛けた。

 親の前で色々聞かれるのではないと分かった二人は、少しほっとた様子だった。

「先ず、何で魔方陣を消したのか、説明してもらおうかな」

 二人とも黙り込んでしまった。

 しばらくしてから、桐矢と呼ばれた少年が口を開いた。

「つくもがみが暴れれば、学校が無くならないかも知れないと思って」

 子供っぽい考えだ。実際子供ではあるのだが。

「学校は無くならないだろう。改装して民宿になるだけだ。取り壊される訳じゃない」

 むしろ、改装を期に修理されて、より長持ちするだろう。

「でも、学校じゃなくなります」

 桐矢は俯いたまま言った。

「君らは卒業生だ。どのみち外界の高校へ行くだろう」

「それでも、学校が無くなるのは皆嫌なんです。まだ小さいのに、下の町で下宿する子も居るし、寮のある外界の学校へ転校する子も…離れ離れになんて、誰もなりたくないのに」

 ジョン太はため息をついた。

「しょうがねぇだろ。物事はずっと同じ様に続いて行く訳じゃない」

 二人の子供達は、それは分かっているけれど…という風にうなだれた。

「他に、こういう事に関わってる奴は居るか。それと、つくもがみを動かしてる奴の見当はつくか」

 聞かれた桐矢は、首を横に振った。

「魔方陣を消しに行こうって言い出したのは僕です。日向じゃない。誰が動かしているのかは分かりません。学校に居る皆かも知れない」

 松吉まで、似たような事を言っている。不特定多数の無意識かも知れない。

「そうか。まぁ、明日は邪魔するなよ。今日みたいに穏便には済ませられなくなるからな」

 それで、ジョン太がわざわざ山の斜面を突っ切って、先回りした理由が分かった。

 悪ガキ二人しかって事情を聞くだけなら、明日でも良かったのだ。

 しかしそれでは、二人とも終業式に参加出来なくなってしまう。

「お前、こいつを送って行け。夜道は危ないからな」

 ジョン太に言われた。

 桐矢は、否定した。

「そこまで子供じゃありません。自分の身くらい守れます」

 魔界で生まれ育っていれば、余程魔力が低くなければ、少なくとも自分の身は守れるだろう。

 しかし、この近辺は過去に、かまいたちとみずちが出ている。

 多分安全だろうが、もしもの事があってはいけない。

 それから鯖丸は、ジョン太が全く別の事を期待しているのに気が付いた。

 自分は、ジョン太より経験は浅いが、見た目の違和感は少ない。

 何か聞き出して来いと云う事だな。

「分かった。行こう、桐矢君」

 ますみちゃんは、心配げに桐矢を見送った。


 外界にはほとんど無い、舗装していない道を歩きながら、二人はしばらく、黙ったままだった。

 満月に近いとはいえ、灯り無しで慣れていない山道を歩くには、注意力が必要だ。

 桐矢は、通い慣れているのか、迷わず早いペースで歩いている。

「もうちょっとゆっくり歩いてくれない」

 一応、言ってみた。

「俺が送ってもらってるんだよね」

 桐矢は聞き返した。

「そうだけど」

 嫌そうにペースを落とした桐矢と並んだ。

「大体、送ってもらう必要なんかないのに。本当は何の用なんだよ」

 意外と、状況判断は出来ている子供だ。

「さっきのオジサンに言いにくい事があったら、お兄さんが聞いてあげようかと思って」

「自分だっておっさんのくせに」

 減らず口をたたいた少年の頬を、鯖丸はにこやかに笑いながらぎゅむーとつねった。

「痛てぇ、何するんだ」

「いや…思いの外むかつくなと思って」

 年上扱いはされたいが、おっさん呼ばわりはされたくない、微妙なお年頃なのだ。

「隠してる事があったら、今の内に話した方がいいよ。さっきのオジサンは俺みたいに優しくないから」

「どこが優しいんだ…」と、桐矢は小さな声でつぶやいた。

「くそっ、何でお前なんか…」

「はい、目上の人にお前言わない」

 注意した。

 ついこの間まで、似た様な年頃の子供を塾で教えていたのでそんなに戸惑わないが、ますみちゃんといい、俺、こいつらに何か嫌われる事でもしたか?

「魔方陣を消しに行こうって言い出したのは、ますみちゃんじゃないのか」

 何となく、彼女の方が積極的に行動していた様に思えたので、聞いてみた。

「日向の事を、そんな風に馴れ馴れしく呼ぶな」

 むっとした様に、桐矢は言った。

 ますみちゃんの名字を知ったのも、ついさっきなのだが。

 鯖丸は月明かりの下ではぁ…とため息をついた。

「別に、君が俺の事嫌いなのはどうでもいいけど、明日の仕事を邪魔したら、子供でも容赦はしないからな」

 脅しておく事にした。

「子供じゃない。もう高校生だ」

「君の後輩のガキどもも容赦しないって意味だよ」

 言ってみたら図星だったらしく、桐矢はうろたえた。

「てめえっ、汚ねぇぞ」

「だって、薄汚いおっさんだもーん」

 客観的にくそガキ同士のケンカである。

「そうかー、生徒全員で何か企んでるって事か」

「違う。低学年の奴らは何も…」

「連帯責任じゃ、ボケが。言っとくけど俺は、女子供でも容赦なく棒的な物でぶん殴るからな」

 そりゃ、剣道は男女混合で練習する事もあるから、嘘は言ってない。

 言ってないが、桐矢少年はきっと、もっと物騒な解釈をしたはずだ。

「分かったら、明日は邪魔すんなよ。下級生をきちっと仕切るのも、上級生の仕事だからな」

 桐矢は言い返そうとしたが、口も性格も悪い大人相手に、適当な言葉が浮かばなくて、ぐっと押し黙った。

 それから、暗い夜道を俯いたまま走り去った。

 木立の向こうに、人家の明かりが見えた。

 少しして、その家から「こんな時間まで何してた」という声が聞こえたので、鯖丸は元来た道を引き返した。

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