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四話・極道顛末記 完結編

 日室以外の蒲生組の構成員は、半壊した座敷船の隅で、判断に迷っている様子だった。

 このまま日室に付いて行けば、いくら極道とはいえ、もう外界でも魔界でも、大手を振ってお天道様の下は歩けなくなってしまうだろう。

 しかし、蒲生組は解散だ。戻る事も出来ない。

 鯖丸は、どうやらお座敷にばらまかれている空気のまきびしが見えるらしく、刀を抜いたまま、蛇行しながらも迷い無く五人の男に近付いていた。

 鼻血出てるとか、全身びしょ濡れとか、元々破れに継ぎを当てていたジャージが、まきびしを踏んだせいで膝丈になっているとか、あまりにもツッコミどころが多いのだか、これが西谷商会の鯖丸だという事は分かった。

 束になっても、絶対かなわない。

「兄貴、俺はバカですけど」

 何でそういうファッションに至ったのか、アロハシャツの上にダウンジャケットを着た青年が言った。

 バカという単語に、鯖丸が微妙に反応した。同類?

「日室さんに付いて行くって決めたんで、そうしようと思います」

 きっぱりとした口調だった。

 この、蒲生組残党五人の中では、地位は下っ端に見えるが、決意は一番固まっている様に見えた。オマケに、魔力も高い。

 あ…バカなんだ、こいつ。

 鯖丸は、比較的知能の高いバカだが、組織内の立ち位置としてはこいつと同じ下っ端のバカだ。

 何となく分かる。

 しかし、バカなら何やっても許される訳じゃない。

 二人の男が、バカと名乗った青年の方へにじり寄った。

 それで分かった。

 さんざん誘拐を繰り返した、組織の転送能力者はこいつだ。逃げられる。

「お前が御堂か」

 鯖丸は、ほぼ同年代だと思われる青年に、切っ先を向けた。

「連れて行った女がどんな目に遭うか、分からないくらいバカか、お前は」

 その程度の事は、公認バカの自分でもきっちり分かる。

「鯖丸って、魔力は高いのに偽善者かよ?」

 御堂は聞いた。

 背後には、クルーザーが迫っている。

 御堂の転送能力は、今までの経緯からすれば高い。

 いつでも逃げられると思うから、そんななめた口が利けるのか。

「いや…正味、俺の女が連れて来られたと思ったから、来ただけだし、お前らをぶちのめした後、同じ目に遭わせてやろうと思ってる」

 鯖丸はもう、四国魔界全体で、恐くて危ない人設定になっていた。

 そんな、鯖兄さんの女に手を出したら、死亡フラグ成立だ。

 御堂は、自分の近くまで寄って来た兄貴分二人の手を掴むと、その場からかき消えた。

「しまった、脅し過ぎた」

「お前はアホか」

 背後から、羽柴がビニールのスリッパで鯖丸を叩いた。

 相変わらず、すぱーんとアホそうないい音がした。


「日室の兄貴は、まだこの船に居るはずじゃ。捜せ」

 羽柴は、取り残された二人にぞんざいな口調で命令した。

 二人のうち一方が、むっとした顔で睨んだ所を見ると、片方はどうやら羽柴の兄貴分に当たるらしい。

 もう、ヤクザは廃業すると決めた羽柴は、組内での上下関係に気を使うのはやめた様だった。

 がたがた震えながら、ジャージを脱いで絞っている鯖丸にも言った。

「何やっとんじゃ、お前は」

「寒い、死にそう」

 一月上旬の夜明けの海上には、寒風が吹きすさんでいた。

 全身びしょ濡れは、正直やばい。

「何で、そういう無茶をやらかしたんじゃ」

 普通に、船に乗って来れないのか、こいつは。

 すっかり裸足になってしまった鯖丸に、ツッコミに使ったビニールスリッパを渡してやりながら聞いた。

 スリッパには、WCと書いてあった。

「カオルちゃんが掠われたと思ったから…」

 絞ったジャージを再び着ながら、鯖丸は答えた。

 もちろん、そんなしめったジャージでは、少しも温かくならない。

「冷静に考えるんじゃ。お前の嫁が掠われる程可愛いか?」

 鯖丸は、本気で二秒ぐらい考えた。

 いや…やっぱりどう考えても可愛い…とか、一人でぶつぶつ言っている鯖丸を無視して、羽柴は周囲を見回した。

 御堂がクルーザーに逃れたのか、もっと転送しやすい馴染みのある陸地に戻ったのかは、分からなかった。

 後者なら、海上で波に揺られている場所に、瞬間移動で戻って来るのは、ほぼ不可能だ。

 しかし、場所がクルーザーなら、目視で確認出来る距離だ。簡単に移動して来るだろう。

 日室と接触でもされてしまったら、消えたまま自在に移動出来る事になる。

 下手をすれば、こちらが始末されてしまうだろう。まずい。

「奥に何ぞ服があったはずじゃ、着て来い」

 先程まで閉じ込められていた船室を指さした。

「油断するなよ。日室の兄貴が、まだどっかに隠れとるけんのう」

「おおい、無事だったか」

 トゲ男が、破れた壁から入って来た。

 ぐちゃぐちゃになったお座敷の隅に、蒲生組の構成員を二人見つけて、ちょっと表情を動かしたが、まだ、自分が警官だと名乗るタイミングではないと考えて、黙って羽柴の方を向いた。

 羽柴とは面識がある。

 というか、市内の病院まで連れて行って、色々と手続きしたのも自分だ。

 ここまで外見を変えていればバレないとは思うが、少し用心して身構えた。

「鯖丸は? 先に入って来たはずだが」

「奥に居るわ」

 羽柴は答えた。

 何処で発掘したのか、鯖丸は奥の控え室から『屋形船の蒲生屋』と書いた半纏を着て現れた。

 更に、変な色のニットキャップを被って、半纏の下には薄汚いセーターを着込み、丈が合っていないズボンを無理矢理履いている。

 それで、タオルを首に巻いている姿は、まぎれもなく浮浪者だ。

 ああ、ダメだこいつ…と、羽柴と秋本は同時に思った。

 本人は、温かくなったので大変幸せそうだった。

 浮浪者みたいな格好の上から、刀を装備して、油断無く周囲を探った。

「あいつ、気配まで消すのか? 何処に居るか分かんないぞ」

 もうちょっと小綺麗な服もあったはずなのに…と思いながら、羽柴はうなずいた。

 実は、もっとかっこいい服は沢山あった(組員の皆さんの着替え)のだが、いかにもなヤクザ服だったので着用をためらったのだ。

「用心せぇ。わしらが固まっとったら、攻撃は仕掛けて来んはずじゃが、御堂が戻って来て組まれたら、厄介じゃ」

 それに…と、もう、目前に迫ったクルーザーを見上げた。

 少なくともあれには、もっと厄介な奴が乗っている。

「日室って、消える奴だったな」

 秋本…トゲ男は、周囲を見渡した。

 あまり宣伝していないので、知っている者は少ないが、トゲ男の額の目はサーモグラフィーだ。

 いくら巧妙に消えていても、周囲との温度差は誤魔化せない。

「甲板。右側の中央」

 指さした先には、破れた窓ガラスの向こうに、海が見えているだけだった。

 とっさに、羽柴が言われた方向へ銃弾を放った。

 ばしゃり、と、船腹に小さな水飛沫が上がった。

「逃げられた?」

「ああ、当たった手応えは無かったわ」

 羽柴は、苦々しく言った。

 クルーザーはもう、楽に泳いで行ける距離だ。

 消えたままの日室が、船腹を這い上がっていれば、トゲ男には見つけられる。いや…

「まずい、あいつ海に入ったから、表面温度が下がってる。どこ行ったか分からない」

「追うぞ、たぶんあの船に」

 羽柴がお座敷を飛び出したので、トゲ男も続いた。

 鯖丸は、その場で固まった。

「何やっとんじゃ、マグロ。行くぞ」

「いや…あの俺」

 鯖丸は、うろんな目付きで言った。

「泳げないし」


 いくら何でも、さっきみたいな真似をもう一回やるのは御免だった。

 どうにか、重力操作であそこまで飛び移れないか…と、鯖丸は思案した。

 海上では、距離感が微妙だった。おまけに、足場が安定しない。

 どうしようかと考えた所で、全く別の問題に気が付いた。

「ジョン太が居ない」

 ジョン太なら、楽々と泳いで船まで行けるだろうし、船腹を這い上がってクルーザーに侵入する事も朝飯前だろう。

 しかし、拳銃が武器のジョン太が、そんなに簡単に武器を濡らして使い物にならなくする様な真似を、する訳が無い。

 ふと、屋形船とクルーザーの間に、ロープが渡されているのに気が付いた。

 向こうの端にはアンカーが結ばれて、クルーザーの手すりに絡みついている。

 ジョン太が、外界でもこの程度の綱渡りは楽にこなせる事は知っていた。

 ここからは見えない場所で、ぱんぱんと二つ銃声が聞こえた。

 聞き覚えのあるジョン太の銃だ。

「二人とも」

 羽柴とトゲ男の腕を掴んだ。

「暴れたら落ちるから」

 二人同時に魔力を通して、掴み上げた。

「落ちたら助けてくれ」

 そのまま、ひらりと飛び上がって、ロープの上を走った。

 両側から、二人の悲鳴が同時に聞こえた。


 クルーザーの上は、静かだった。

 美しい白い船で、板を張られたデッキには、今の季節にはそぐわないピーチパラソルが畳んで置かれている。

 明らかに、お金持ちのレジャー用だ。

 こいつ、女の子達を買いに来た変態客か…と、一瞬は思ったが、それにしてはこの静寂と、落ち着いた雰囲気がおかしい。

 そういう客なら、屋形船で騒ぎが起こった時に、さっさと逃げ出しているはずだ。

「ジョン太」

 鯖丸は、相棒の気配を探った。

「来るな」

 上から、声がした。

 豪華なクルーザーで、まだ上の展望デッキがある様子だった。

 声は、そこからする。

 まだ重力操作を解いていなかった鯖丸は、二人を連れたまま、飛び上がろうとした。

 ほんの一瞬考えて、トゲ男の手を離した。

 何があるか分からない。一人保険に残した方が無難だ。

 甲板ではずみをつけて、展望デッキまで一気に飛び上がった。

 御堂が居た。

 それから、さっき一緒に消えた兄貴分二人が、利き腕を押さえて、その場にうずくまっていた。

 二人の手元に、血の跡と、少し離れた場所に転がった拳銃が見える。

 身を寄せ合ってしゃがみ込んでいるヤクザ三人を背後に庇う様にして、思いもしなかった人物が、立っていた。

「サキュバス!!」

 行方不明になっていた戒能氏の娘で、浅間の愛人だった女は、口元を少しゆがめて嗤った。

「あら、久し振りね」

 それから、本気で不審げに聞いた。

「何、その格好」


 鯖丸が、全裸になったりキテレツな服装になったりするのは何時もの事なので、ジョン太はもう、特に驚かなかった。

 微妙に表情を動かして、そのまま待機しろと合図を送って来た。

 鯖丸は、意図を理解してその場に留まった。

 正味、サキュバスが蒲生組と関わっていたのも、浅間と愛人関係にあったのも、浅間が逮捕されるのと前後して失踪したのも、全部知っていたのに、この展開は予想していなかった。

 サキュバスは、西谷商会のお得意様で、地元の資産家戒能氏の娘だ。

 性的な特殊能力を持った魔女で、精神状態と親子関係はあまり良好ではない。

 定期的に家出を繰り返し、魔界で奔放な生活を送っては、西谷商会が戒能氏から依頼されて連れ戻すという展開が、何年も続いていた。

 だから、厄介な魔法特性と食えない性格にも関わらず、鯖丸の中ではサキュバスは、精神的なトラブルを抱えた、ちょっと可哀想な女性だった。

 事情は違うが、過去に心の病気を抱えていたので、共感する部分があったのかも知れないし、単に彼女が可愛くて色っぽい外見だったせいも…いや、すんません、90%後者です。あれだけさんざん非道い目に遭わされたのに。

「まさか、今度の事の黒幕って…」

「今頃気が付くなんて」

 サキュバスは、肩をすくめた。

 ジョン太が、銃を手に持って、サキュバスに狙いを定めていた。

 サキュバスの魔法が発動すれば、自分達は、蒲生組の構成員もろとも、飲み込まれてしまうだろう。

 彼女の魔法は、半径百メートルに渡って、男を性的な快楽と共に無力化し、支配する。

 ただし、女には魔法は効かない。

 サキュバスがすぐに動かないのは、どこかにトリコが居ると思っているからなのだと、鯖丸は気が付いた。

 ジョン太も、それに気が付いているから、自分達を楯に取ってトリコを牽制しているつもりのサキュバスに乗っている。

「ひどい…」

 それでも、言わずには居られなかった。

「同じ女を掠って、ひどい目に会わせて」

「私らも、向こうでやって行くには、色々足がかりが必要だったのよ」

 サキュバスは言った。

「別に、減るもんじゃないし」

「減るよ。心身ともに、凄い勢いで消耗するよ」

 抗議したが、サキュバスは別に、反省する様子も無かった。

「あんた達が邪魔するから、また最初からやり直しだわ。最悪」

 こちらが悪い様な事を、言って来た。

「まぁ、今度連れて来た娘達だけでももらって行って、仕切り直すわ」

 海上を、船のエンジン音が近付いていた。

 沖合まで逃れていたはずの漁船が、徐々にこちらへ向かって来る。

 海に飛び込んだはずの、日室の気配が、この船の中に無い事に気が付いた。

 ちらりと、隣に立っている羽柴の方を見た。

 バタ足で十メートルくらいしか泳げない自分には、魔法も使わないであんな所までたどり着くのは、人類には不可能に思えたが、羽柴はもっと確信を持っている様子だった。

 日室は、ジョン太みたいな強敵が居るクルーザーではなく、か弱い女の子しか乗っていない漁船を目指したのだ。

 掠った女の子達も取り戻せる。一石二鳥だ。

 おそらく、この辺りを一定期間航行していた日室は、潮の流れも把握していて、泳いで行けると判断したのだろう。

 日室が、戻って来る。

 サキュバスの圏内に居る自分達は、もう、彼女に逆らえない。

 ふと、羽柴の様子が変なのに気が付いた。

 サキュバスの魔法は、まだ発動していないのに、青い顔をして、眼下を見下ろしている。

 もしかしたら、いけるかも知れない。

 間に合うかどうか分からなかったが、叫んだ。

「トゲ男、逃げろ、サキュバスだ」

 秋本が、下の甲板で動くのが分かった。

 そのまま、掴んでいた羽柴の腕に魔法を通し、空中に飛び上がった。

「何やってんだ、バカ」

 ジョン太が叫ぶのが聞こえた。

 そのまま、周囲に居た全員が、サキュバスの魔法に飲み込まれた。


 一瞬、意識が飛んでいた。

 顔を上げると、憮然とした表情のジョン太と、明らかに怒っている羽柴の顔があった。

 羽柴の隣に、サキュバスが倒れていた。

 羽柴は、展望デッキの上で、なぜか四つん這いになって踏ん張ったまま、青い顔でこちらを睨んでいた。

「こいつがゲイで、サキュバスの魔法が効かないなら、先に言えや」

 ジョン太が、気を失っているサキュバスを確保しながら言った。

「ううん、ジン君はノーマル。ただ、高所恐怖症なだけ」

 羽柴が、高い所がダメなのも、恐怖が性欲に勝って、サキュバスの魔法が効かなかったのも、以前に見て知っていた。

 展望デッキ程度の高さで恐いなら、空中に放り上げれば絶対大丈夫だと踏んだのだ。

 後は、そんな状況でサキュバスを取り押さえる根性が、羽柴に残っているかどうかだった。

 予想通り、羽柴は根性君だった。やるべき事はやりとげていた。

 しかし、まだ足腰が立たない。

 展望デッキの上で起こった事は、漁船からは分からなかったのだろう。

 日室が乗っているとおぼしき漁船は、クルーザーに近付いていた。

 サキュバスの後ろには、おそらく正気に戻ってからのジョン太がやったのだろう、蒲生組の組員が縛られて、転がっていた。

 意識がある限り、どこへ行ってしまうか分からない御堂は、念入りにボコられて気を失っている。

 更に念を入れるつもりらしく、縛られた蒲生組の構成員二人のポケットを探って、怪しげな薬品と注射器を見つけ出した。

 目を凝らしてアンプルのラベルを見てから、小さな注射器に吸い上げて、慣れた手つきで指先ではじき、気泡を追い出した。

「女の子拉致るのに使ってたんだな。比較的安全な薬で良かった」

 もう、消毒綿も使わないで、無遠慮にサキュバスのコートをめくって、首筋を露出させたジョン太に、鯖丸は声をかけた。

「あの…それ」

 以前、同じ事をしようとしたジョン太が、気を失ったサキュバスに簡易注射器の針を刺すという簡単な動作も出来なかったのを思い出した。

 ジョン太は、昔軍務で無茶をやって、寝ないで戦い続ける為に、やばいドラッグに手を出していた時期がある。

 リンクを張る時にトラウマ映像も見てしまっている。立ち直るのにどれ程の苦労があったのかは、想像出来ない。

 きっと、低重力症のリハビリなんて、鼻先で笑えるくらい大変な目に遭っているはずだ。

「俺が…」

「ん、何だ」

 事も無げにサキュバスの首筋に薬液を打ち込んでから、ジョン太は顔を上げた。

 それからふと、自分が何気なくそんな事が出来たのに、少し驚いた様子だった。

 しかし、思っていた程のリアクションは無く「やっぱり使い回しはマズイよな」とか言いながら、新しい簡易注射器を開封した。

 ああそうか。ジョン太だって、年月が経てば色々変わるんだ…と、鯖丸は考えた。

 変わらない人なんて居ない。

「まぁね。そいつの行動からして、どんなヤバイ病気持ってるか、分かったもんじゃないし」

 サキュバスの次に、起きていてもらうと不都合な御堂を、即効性の睡眠剤で眠らせようと、簡易注射器に薬液を吸い上げてから、ジョン太は顔を上げた。

「お前、人の事言えるのかよ。二年前はさんざんやんちゃな真似しといて」

「大丈夫、ちゃんと検査したから」

 自信満々で、鯖丸は答えた。

 検査して陰性なら、遊んでた過去はチャラかい、お前的には。

 言いたい事は色々あるのだが、日室が乗った漁船が近付いている状況で、御堂に意識が戻ってはまずい。

 どこでもいいから、とっとと注射針をぶっ刺してやろうと御堂の手を取った。

 目の前で、ジョン太の姿がかき消えた。

「えっ?」

 少し離れた場所で、ざばんと水飛沫が上がった。

「いかん、逃げぇマグロ」

 羽柴が、まだ青い顔をしたまま叫んだ。

 御堂が、目を開けていた。

 こいつ、自分を残して、相手だけ転送する事も出来るのか。

 ランダムに、その辺に転送されたジョン太が、海面に顔を出していた。

 ジョン太は、寒さに強いし、泳ぎも得意だ。海に叩き落とされて戦線離脱しても、すぐに自力で戻って来るだろう。

 でも、自分が同じ事をされたら、かなりの確率で死亡フラグが成立してしまう。

「ダメだ、今引いたら、サキュバスにも逃げられる」

 刀を抜いて、御堂と対した。

 御堂は、まだふらついているが、どうにか立ち上がって、こちらを睨んだ。

 対してみて分かった。

 こいつ、まだ、二十歳にもならない様なガキだ。

 日室を盲信している様な態度も、子供っぽい言動も、納得が行った。

 魔力では、圧倒的に上だが、転送されたらそれで終わりだ。

「ジン君、あいつ、触ってない相手も転送出来るのか」

 背後に居る羽柴に聞いた。

「ある程度近付いたらヤバイと思え。空中にでも居ったら別じゃが」

 羽柴は、嫌な事を言った。

「確実にやるには、触らんと無理じゃが、適当に飛ばすなら、近付いただけで出来る」

 むしろ、適当に飛ばされる方が恐い。

 壁や土の中に埋まったり、その他生存に不都合な場所へいきなり転送されたり。

「サキュバスを確保して逃げたいんだけど…」

 海上を、ジョン太がけっこういいスピードで移動している。

 普通の人が、どの程度の速さで泳げるのかも全く分からないが、明らかに人外の速度だ。

 さすが、戦闘用ハイブリット。

「向こうもそう思っとる」

 羽柴は、銃と刀を両手に身構えた。

「それと、助っ人も出て来た様じゃ。覚悟せぇよ」

「救命胴衣、脱ぐんじゃなかった」

 今更言っても遅いが、鯖丸は愚痴った。


 この船に、他にも乗組員が居るのは、最初から分かっていた。

 魔力も高そうだし、物騒な気配を垂れ流していた連中が、今まで出て来なかったのは、様子を伺っていたのか、単純にサキュバス一人で片付けられると思っていたのか、その辺は分からない。

 蒲生組の構成員とは、明らかに違うタイプの男達が、デッキに現れた。

 人数は五人。

 下にはまだ、三つか四つの気配がある。

 ジョン太が、サキュバスだけでも確実に眠らせたのは幸いだった。

 普通の魔法使い相手なら、勝ち目はある。

「御堂、お前は日室に加勢しろ」

 先頭に居る、線の細い男が言った。

 体格はきゃしゃだが、こいつが皆を仕切っているらしい。

 長髪で、ちょっと整った顔をしているが、黒ずくめの格好で、余計に細く見える。

 しかし、動作が素人ではない。

 魔力が高い上に、何かの格闘技をやっている感じだ。

 油断出来ないのは、こいつと御堂だと当たりを付けた。

「命令するな」

 御堂は、黒服の男に言った。

「日室さんは、お前らの手下になった訳じゃないんだ。姐さんの指示だから、一応従ってるだけなんだぞ」

 ああ、こいつらやっぱり、蒲生組とは別なんだ…と納得した。

 言っちゃ悪いが、田舎ヤクザの蒲生組より、よほどしっかり統制が取れている様に見えるし、第一、やばい仕事をやっている様には見えるが、ヤクザには見えない。

「じゃあ、お願いします御堂君。日室さんがピンチなので、助けてあげてください」

「当たり前だ」

 御堂の姿は、その場からかき消えた。

 いや…君、頭弱過ぎでしょう、御堂君。

 黒服の男は、手を少し振っただけで背後の人間に合図を出した。

 背後に居た一人が、サキュバスを抱えて、デッキから姿を消した。

 ジョン太が、そんな風に指示を出しているのをU08で見た事がある。

 どういう類の人間かは知らないが、少なくとも戦闘の素人ではない。

 羽柴の方を見ると、どうやら色々覚悟を決めて肝が据わったのか、先程の様な怯えた表情は無かった。

「あいつら、どういう連中か知ってる?」

 隣に居る羽柴に、小声で聞いた。

「サキュバスが関西魔界で手を組んだ組織の…まぁ用心棒みたいなもんじゃ」

「へぇ…」

 鯖丸は、抜き身でぶら下げていた刀を、両手で構えた。

「じゃあ、こいつら、ぼこぼこにしてもいいって事だな」

「そらええけど…何言うとんじゃ、マグロ」

 羽柴が、じゃきりと拳銃を構えた。

「ジン君が戦ってるとこ、見た事は無いけど、割と強いんだろ。とりあえず…」

 ふう…と呼吸を整えてから、鯖丸は魔力を刀に集めた。

 今まで、自分の魔力を内側にたたみ込んでいたせいで、誰も、目の前の変な格好をした青年の魔力の高さに気が付かなかった。

 唯一、黒服の男だけが、あまり意外そうな顔をせず、対した。

「背中は任せた。暴れるぞ」

 いきなり、何の前触れもなく繰り出された空気の刃が、周囲を切り裂いた。

 デッキに居た何人かは、海上に吹き飛ばされた。

 気が付いた時には、重力操作で空中に居た。

「お前、わざとやっとんか、これ」

 もう、高い所が恐いとか、そういうレベルではない。

 空中をぐりんぐりん振り回されて、足下に堅い床が感じられた時には、正直、涙目になっていた。

 失禁しなかっただけ、よく頑張った、わし。頑張った自分を、褒めてあげたい。

「何で撃たなかったんだ。いい位置に持って行ったのに」

 鯖丸は、容赦ない事を言った。

「海に放り込むぞ、貴様。誰だって苦手はあるんじゃ」

 鯖丸は黙った。

 というか、船から落ちたら高い確率で死ぬくせに、何でこんな無茶が出来る、こいつは。

 ただのバカで無かったら、空中戦の精度に余程の自信があるのだろう。

「もうええわい、必要だと思ったら飛べ」

 羽柴は、諦めた。

「今度はちゃんと的に当てる」

 一応、付け加えた。

「なるべく、最低限必要な時だけな」

「よし」

 吹き飛ばされたデッキの向こうで、ばちりと小さな稲妻が光った。

 黒服の男が、両手を広げて笑っていた。

 その手には、白く光る球雷が発生し始めていた。


 鯖丸が派手に暴れ始めた時、ジョン太はクルーザーに戻るのをやめた。

 間近まで迫った漁船に、音もなく取り付いて忍び込んだ。

 案の定、舵を取っているのは日室だった。

 舵を任せた女の子に、これだけ的確な操縦が出来る訳が無い。

 甲板の隅に固まって、身を寄せ合っていた娘達は、少しほっとした様子で表情を緩めた。

 声を立てない様に、口元に手を当てて合図してから、ジョン太は銃を抜いた。

 空中で一振りして、海水を振り払ってから、更に魔法で加熱した。

 銃身から湯気が上がり、使用に耐える状態まで乾燥した拳銃の周囲に、ジャケットの内側に仕込まれた弾丸が、螺旋を描きながら待機した。

 プレイヤーも居るとはいえ、玄人の高度な魔法を見る機会は、そんなに多くない。

 オジサンかっこいい〜という小声の意見に、ちょっと静かに…という様に合図してから、姿勢を低くして、狭い操舵室の背後に回り込んだ。

 日室は、魔力は高いが普通の人間だ。

 船のエンジン音が響く中では、たとえ集中していても、ジョン太の接近には気が付かなかっただろう。

 後頭部にごりっと銃口を押し当てて、言った。

「そのまま操縦しろ。自然な感じでクルーザーを迂回して、遠ざかれ」

 日室は、ぴくりと緊張して、それからふいに全身が歪み、その場から消えた。

 消える前に二発打ち込んだが、致命傷ではないのは手応えで分かった。

 たとえ消えていても、足音と匂いは誤魔化せない。

 大量に空中待機させた弾丸を撃ち込めば、確実に足止め出来る。

 日室は、その辺の事は理解していた。

 だから、女の子達が固まっている船尾へ、姿を消したまま逃げ込んでいた。

 日室が何処に居るのかは分かる。

 しかし、高い精度で日室だけを狙う事は出来ない。

 ジョン太には珍しい事だが、判断に困って、その場で固まった。

 ふいに、ぐらりと船が揺れた。

 至近距離まで近付いた屋形船から、トゲ男が飛び移って来ていた。

「そいつの事は任せて。早く」

 ジョン太の背後に、御堂が出現していた。

 御堂と日室を接触させたら、消えたまま瞬間移動する、最悪のユニットになってしまう。

 人間にはあり得ない反射速度で、背後に銃弾が撃ち込まれた。

 御堂は、悲鳴を上げて再びその場から消えた。

 御堂が居た場所に、何滴か血痕が残った。

 その間に、官給品の刀を抜いたトゲ男が、消えたままの日室を捕らえていた。

 サーモグラフィー能力のあるトゲ男から、こんな寒い冬の海上で長時間消えるのは不可能だ。

 死体にでもなれば別だが。

「警察だ。首を落とされたくなければ、投降しろ」

 刀を構えたまま、トゲ男は言った。

「殿の手下が、何で警察なんだ」

 日室が、諦めたのか姿を現した。

 不健康に痩せた体に、海水を含んだ服が張り付いている。

 このまま放っておいたら、確実に疲労凍死する様な状況だが、感覚を遮断しているのか、元から鈍いのか、冷静な目でこちらを睨んでいるのが、かえって恐い。

「いや…単なる人違いだろ。それより、自分の置かれた状況を考えろ」

 ジョン太に撃たれた御堂の気配が、まだ間近に在った。

 とっくに、夜は明けていた。応援はすぐ来る。

 それまで、こいつを確保して、持ちこたえなくては…。

 隣接したクルーザーの上では、派手な騒ぎが起こっていた。

「気にするな、あっちは鯖丸が片付ける。そいつを放すなよ」

 油断無く、周囲に魔力を巡らせて、ジョン太が両手に銃を構えた。

 御堂が、何処に現れるか見当は付かない。

 プレイヤーを含んでいるとはいえ、半数は無力な女の子の集団が、背後に居る。

 何時、人質に取られるか、分からない。

 転送能力というのも、けっこう厄介だ。

 頼りは、こちらの反射速度だけだった。

 どんなに素早い魔法使いでも、戦闘用ハイブリットの反射速度には絶対追いつけない。

 日室の確保はトゲ男に任せて、ジョン太は周囲の気配に集中した。


「頼りない奴らだな」

 黒服の男は言った。

 漁船の上で起こった騒ぎを、把握している様子だ。

 いや…ジョン太の強さが反則なだけだろ…と、鯖丸は思った。

 トゲ男の特殊能力も、日室に対しては有利だ。

 おかげで、目の前に居る相手に集中出来る。

「ビーストマスターは、どうやら居ない様だな」

 背後に、バランス良く四人を配して、黒服は言った。

「どうだか…」

 抜いた刀には魔力を溜めていたが、手加減をした状態だった。

 全力を出せば、クルーザーを粉砕する事も出来る。

 それが海面に与える衝撃波の大きさも、理解していた。

 小さな漁船や、遊覧目的の屋形船は、ひとたまりもなく波に呑まれてしまうだろう。

 大体、クルーザーを粉砕したら、自分も危ない。

 魔力を、小さく鋭く絞り込んで、切っ先にだけ集めた状態で、鯖丸は身構えた。

 大雑把に何もかもぶち壊す方が、ずっと楽だ。

「後ろの四人の、任せていいか」

 羽柴に聞いた。

「お前、雑魚はわしに押し付けて、ええとこ持って行くつもりか」

 羽柴は愚痴を言った。

「逆でもいいけど…」

 羽柴は、少し考えた。

 刀を構えている鯖丸を見て、ほんの一瞬で判断はついた。

「分かった、任しとけ」

 背後に居た四人の内の一人が、床に手を付いていた。

 もう一方の手には、水の入ったペットボトルがあって、それが床に流れ出していた。

 展望デッキから船腹まで、わずかに付けられた水の跡を伝って、海面が這い上がって来ている。

 左手に構えた拳銃から、魔力を込めた弾丸が撃ち出された。

 空中を飛ぶ一瞬の間に、それは風を切りながらぐんと縦に伸びた。

 鋭い音と共に、床が鋭利に切り裂かれた。

 船の上に、筋の様に付けられた水気を頼りに這い上がっていた海面が、その場で止まった。

 雷撃系を水の魔法でサポートされると厄介だ。

 直前で食い止めたが、黒服の魔法は、止まらなかった。

 両手にあった雷球が、二人に向かって襲いかかって来た。

 攻撃の為には、ほとんど魔力を回していないので、鯖丸は楽に雷撃をはじき返した。

 そのまま、掛け声と共に距離を詰めた。

 黒服は、刀の切っ先から身をかわし、もう一度攻撃を繰り出した。

 鯖丸は防御にだけ魔法を使っている。至近距離の直撃を障壁で防いで、更に前へ出た。

 海上で、無茶な攻撃魔法を使って足場を無くすくらいなら、いっそ魔法は防御だけに使って、物理攻撃で相手を叩きのめす事にしたのだ。

 今度は、水蒸気が上がった。

 水系の魔法使いが呼び寄せた海水を、火炎系の男が一気に蒸発させたのだ。

 水蒸気になった水は、低い気温の中、一瞬で霧に変わり視界を塞いだ。

 霧を伝って、雷撃が来た。

 刀に魔力を通し、はじき返す。

 羽柴が、いつ回り込んだのか、四人の男の背後に居た。

 いや…二人になっている。

 ジン君もやるなぁと思いながら、刀の一振りで風を起こして、霧を追い払った。

 黒服が空中から襲いかかった。

 鋭い風切り音と共に、蹴りが繰り出された。

 ほんの少し軸をずらして、すれすれで避けた目の前に、両腕から雷撃が来る。

 その場に踏みとどまり、雷撃を押し返しながら斬りかかった。

 驚いた事に、黒服は刀を腕で受け止めた。

 がちりという、堅い音がした。

「うおっ、刀が痛む」

 要らん事を気にしながら、鯖丸は飛び下がった。

 海水で濡らした上に、どっか欠けたりしたら、確実に所長に怒られる。

「よく避けたな」

 黒服は、顔をしかめた。

 本気で人を斬るつもりはないので、刀身を逆に構えていたが、普通よりも長くて分厚い長刀だ。

 こんな、自分より十キロ以上軽そうな奴に、受け止められるとは思っていなかった。

「こっちが言いたいよ…」

 黒服は、すらりと立つと、両手を一振りした。

 袖口から、手の甲に向かって、刃物が飛び出した。

 こんな、がんがん魔法を使いながら、体術でも攻めて来る奴に、懐に入られたら終わりだ。

 長刀と体格のリーチを活かして、距離を取らなければ…。

 魔界での戦いではなく、剣道の試合のつもりで集中した。

 本気で現役だった二年前程には動けない。くそっ、これ終わったら、マジで溝呂木先生所に通おう。

 黒服が、弧を描きながら、流れる様に連続攻撃を仕掛けて来る。

 押され始めて、仕方なく少し魔法を使った。加減が難しい。

「ああもう、めんどくさい。船ごと吹き飛ばせたら楽なのに」

「くさるな、加勢は出来ん」

 羽柴が、黒服の背後で二人の男と対していた。

 先にあっさり倒された二人より、だいぶ強そうだ。

 苦戦する程でもないのか、両手に刀と銃を構えて、しかし羽柴は決着を急いでいる様に見えた。

 細かく配置していた魔力を刃に集めて、こちらに攻撃を飛ばそうとしていた男の腕を、容赦なく切り落とした。

 切り離された腕から、コントロールを失った魔法が放たれ、暴発する。

 怯んだもう一人に、振り返りざまに弾丸を撃ち込んだ。

「うっわー、ひどい事するなぁ。それ、めっちゃ痛いのに」

 腕を切り落とされた経験のある鯖丸は、正直ちょっと引いた。

「何言うとんじゃ。お前こそ、そんな組織の殺し屋、ちゃっちゃと片付けんか」

 ああ、やっぱりこいつ、殺し屋的な何かだったのか。サキュバスも何連れて来てるんだ、全く。

「わしは、ノルマも果たしたし、下へ行くぞ。これ以上、高い所には居りとうない」

 さっさと、この場から離れようとしている。

「待て、ジン君」

「大口たたいたんじゃ、後は一人で何とかせぇ」

 羽柴が、本当にデッキを降りて行く。

 いや…うっかり手が滑って、本気で魔法をぶちかましてしまった時に、間違って巻き込みそうだから、見える場所に居て欲しかったんだけど。

 目の前に居るのは、勝ち目のない相手では無いが、手加減出来る程弱くもない。

 威力はあっても精度のない自分の魔法が、ちょっと腹立たしかった。

 それから、羽柴が妙に勝負を急いでいたのも、引っかかった。

 下にはまだ、四人か五人の男達と、気を失ったサキュバスが居る。

 そいつらも引き受けてくれるつもりなのか。それとも、何か急ぐ理由でもあるのか。

 陸地の方向と、海の上に広がる境界の向こうから、船が近付いて来るのが見えた。

 黒服の男もそれに気が付いたのか、ふいにその場から身を翻して、逃げようとした。

 殺し屋だか用心棒だか知らないが、必要なら敵に背を向けて逃げるくらい、何とも思わないのだろう。冷静な表情を崩さない。

 しかしこっちも、なりふり構わない戦い方では、剣道協会の偉い人が眉をひそめる様な芸風だ。

 黒服の退路に回り込んだ。

 姿勢も崩さず、そんな速い移動をして来るとは予想しなかったのだろう。

 黒服は、一瞬止まったが、魔法で後押しまでして、無理な高速移動をした為に、ちらりと見えた隙を逃さなかった。

 両手の刃を、打撃技の様に使って、突きを入れて来た。

 何か、明らかに人体とは違う手応えがあった。

 金属ではないが、物凄く堅い木材に突き刺さった様な感触。

「かかったな、バーカ」

 目の前で、鬼の姿に変わった男が、悪い顔でにやーっと笑った。

 切り裂かれた、小汚いセーターの下から、甲殻類の殻の様な装甲が見えた。

 装甲のすき間に、腕に付けた刃の切っ先が食い込んでいる。

 力を入れているのか、引き抜けない。

 腕から、仕込みナイフの付いたアームガードを外して、逃れようとする所を掴まれた。

 腕を通って、魔法が来た。

 ずん…と、船全体が少し沈み込んだ。

 あり得ない重力が襲いかかり、黒服の男はその場にくずおれた。


 重力操作を解き、床にめり込んだ両足を引き抜いてから、鯖丸は元の姿に戻った。

 まだ、動けないでいる黒服の男を叩き伏せて、刀を仕舞った。

「また服が破れた。何で、いつもこうなんだ」

 元に戻った皮膚には、微妙な切り傷が残っていたが、あっという間に消えた。

 外界で放って置いても、二、三日で治る様な傷だ。

 羽柴が、急いで下へ行った理由が気になっていた。

 鯖丸は周囲を確認してから、下の甲板に飛び降りた。


 どこまでも追って来る。

 逃げ回りながら、御堂はチャンスを伺ったが、全てブロックされた。

 何の魔法なのか、全く魔力を感知出来ないのに、獣人の男が振り切れない。

 こんなに近いのに、日室さんの所まで行けない。

 転送を繰り返しながら、御堂は屋形船と漁船を移動していた。

 まさか、相手が身体能力だけで追って来ているとは気が付かなかった。

 そもそも、日室を救出したくて周辺を飛び回っているだけの自分が、簡単に発見されるという事実にも思い至っていない。

 撃たれた傷が痛い。

 こんなに魔法を使い続けていたら、まともに治療も出来ない。

 出血を止めるだけで精一杯だ。

 おまけに、日室は全身緑色でトゲトゲの男に、きっちり押さえられている。

 トゲトゲには、消えている日室が見える様だ。

 港と、外界との境界から、おそらく味方ではない船が近付いて来る。

 外界から来る船の船腹には、海上警察の文字が見えた。

 詰んでしまった。

 もう、どうしていいのか分からなくなった御堂は、涙目で周囲を見回した。

 現在立っている屋形船の屋根からは、クルーザーの甲板が見渡せる。

 そのクルーザーで、憶えのある人影が立ち上がった。

 呼び寄せる様に、こちらへ手を差し出した。

 追い付いたジョン太の目の前で、御堂は再びかき消えた。


「そもそも、最初から怪しかったんじゃ」

 武器を構えたまま、羽柴仁は言った。

 目の前には、関西魔界の人身売買組織の用心棒と、それからサキュバスが居た。

 嫌な予感がしていた。

 拉致に使う薬の中和剤がある事くらい、同じ蒲生組の構成員だった羽柴は知っていた。

 あの犬型ハイブリットも、所詮は表の世界の人間だ。詰めが甘い。

 サキュバスは、騒ぎの間に意識を取り戻していた。

 半径百メートルの彼女の魔法が発動してしまったら、為す術がない。

「あら、やっぱり一緒に来る?」

 まだ、少し薬の影響が残っているのか、関西魔界の用心棒二人に支えられて、サキュバスは笑った。

「わしらの組は、そら、カタギの人間からしたら、褒められたもんじゃないが」

 羽柴は、銃口をサキュバスに向けた。

「そこそこ無難にやっとった。お前らが来るまではな」

「あの人を助けて、きっかけを作ったのはあんたでしょ」

 サキュバスは、何の同情も込めないで言った。

 その通りだ。

 松田組への一斉摘発で、怪獣みたいな女に追われている浅間を好奇心で助けなければ、蒲生組は今でも、魔界の弱小暴力団として、細々と存続出来ていただろう。

 別のどこかの組が、代わりに巻き込まれただけだ。

「そうかも知れんなぁ」

 羽柴は言った。

 俯いて、ちょっと諦めた様な顔で笑った。

「あんたと浅間、どっちが黒幕だったんじゃ」

「さぁ…」と、サキュバスは曖昧に笑った。

「今更、どっちでもいい事じゃないの」

 周囲の空気が、妖しげにゆらいだ。

 魔法を使われる…。羽柴は身構えた。

 派手な音を立てて、サキュバスの背後に鯖丸が飛び降りて来た。

「あら…あんたにしては、手こずったわね」

 自分の味方が倒されたのに、大した感慨も無げに言った。

「船ごとぶっ壊して欲しかったのかよ」

 鯖丸は反論した。

「どうせ、この船は捨てる事になるからいわ」

 徐々に薬の効果が切れて来たのか、もう、用心棒に捉まらないで自力で立っている。

「伝言を頼まれてくれるかしら」

「言えよ」

 この先刑務所で愉快な暮らしが待っているんだろうし、それくらいはお願いを聞いてやってもいい。

 最も、こいつなら保釈金積んで、すぐ出て来そうな気はするが。

「お父様に、私の捜索は打ち切る様に言って。どうせもう、戻らないんだから」

「え…?」

「お金はあるけど、無駄遣いは嫌いなの」

 海上に向かって、片手を招く様に差し出した。

 目の前に、御堂が出現した。

 押さえた右肩に、血の跡が滲んでいる。

「姐さん」

「退くわよ、御堂」

 サキュバスは命じた。

「嫌だ、日室さんを助けてください」

 御堂は、必死の表情で訴えた。

「バカね、私達まで捕まったら、もう、助ける人が居ないでしょ。一旦退くわ」

「はい」

 瞬く間もなく、御堂とサキュバスと、用心棒の男達はその場から消えた。

 鯖丸と羽柴は、誰も居なくなった空間を挟んで、向かい合った。

「くそっ、やられた」

 らしくない表情で、羽柴がつぶやいた。

 それから、両手に持った銃と刀を、鞘と内ポケットに収めた。


 すっかり明けた朝の海を、海上警察と、県警のチャーターした船が、陸と沖から近付いて来た。

 日室を確保した秋本は、元の姿に戻って、やって来た同僚に引き渡した。

 捕まったのは、日室と、屋形船に取り残された蒲生組の構成員二人。それに、上部甲板で羽柴に倒された用心棒四人だった。

 黒服の男は、自力で逃げたのか、いつの間にか消えていた。

 やって来た船の上に、菟津吹と並んでトリコが居た。

「何で?」

 鯖丸は聞いた。

 この仕事から…というより、魔法使い家業から降りたと思っていたトリコが、ここに居る。

「何でじゃないよ」

 トリコは、ため息をついた。

「ジョン太から、魔界に入る前に連絡があったんだ。お前、いいかげん私を安心させてくれ」

 自分がどんな経緯でここに居るのか、やっと思い出した。

「ごめん…」

「それで、あの娘は無事だったのか」

 元カノにそんな事聞かれる状況というのも、けっこうせつない。

「うん、掠われた皆も無事だったし、有坂が掠われたのは俺の勘違いだった」

 正直に言うと、トリコは「それは良かったな」と言った。


 NMCこと西谷商会は民間企業なので、警察の事後処理にはあまり関わらない。

 港に戻ったジョン太とトリコは、すぐに帰り支度を始めた。

 というか、そもそもトリコは、仕事で来た訳では無いらしい。ジョン太の個人的な要請で、菟津吹に同行して来ただけだ。

 鯖丸も、仕事ではなく100パーセント私情で来た。長居して、警察の邪魔をしない方がいい。

 ジョン太がマヒルから借りて来た車に、乗り込もうとした。

 警察から事情聴取されて、心細そうな顔で佇んでいる女の子達が見えた。

「あの…ちょっといい?」

「いいよ」

 トリコは同意した。

 ジョン太も、特に異論はないという顔をした。

 怯えている女の子達の中心に立って、事情を説明している松本の姿が目に入った。

「まっちゃん」

 きりっとした態度で警官と話していた松本は、少し気が緩んだのだろうか、振り返って泣きそうな顔をした。

「大丈夫?」

「あんまり」

 松本は答えた。

 いきなり、ヤクザに路上で拉致されて、一応何事もなく無事だったとはいえ、連れ回されて怖い目に遭ったのだ。

 平気な訳はない。

「あの…外界に戻るまで、一緒に居ようか?」

 元々、仕事で来ている訳でも無いので、行動は自由だ。

 提案したが、松本は首を横に振った。

「早く帰りな。カオルもきっと心配してるよ」

 ジョン太はジョン太で、彼女に何か引け目があるのか、申し訳なさそうに言った。

「連絡先渡しとくから」

 名刺を取り出した。

 相変わらず、肩書きが課長になったままの、カタカナ表記の怪しい名刺だ。

「今度の件で、何かトラブルあったら、言ってくれ。すぐに対処するから」

 少し間を置いて、付け加えた。

「済まんな、君も怖かっただろうに、変な役割押し付けて」

「いいのよ」…と、松本は笑った。

「苦労は、出来る人の所にしか来ないんでしょう」

 ジョン太も笑ってうなずいた。


 境界を出てから、ジョン太はマヒルと連絡を取った。

 幸い、保護された四人の捜索は仕事扱いにならなかった事を伝えて、車を返す段取りをつけている。

 話し終わってから、鯖丸の方を向いた。

「お前、あの娘と同じ大学だろ。明日学校まで乗って行って、俺の車、引き取って来てくれ」

「ええっ、うちのアパート、近所に車駐める所ないのに」

「うちの駐車場に駐めな。どうせ引っ越すから、車処分した所なんだ」

 トリコが言った。

 そうか…引っ越すんだ。

 意外と近い場所に住んでいるのに、別れて以来一度もあの部屋には行っていなかった。まぁ、当然ではあるが。

「引っ越し、手伝おうか」

 思わず言った。

 トリコは、何だか微妙な顔をした。

「いいよ。かさばる物は、全部置いて行くから」

「そうなんだ」

 知らない土地で、何もかも変えて、新しく始めるんだろうか。

「欲しい物あったら、やるよ」

 トリコは言った。

「ううん、いい。俺もどうせすぐ、引っ越すから」

 鯖丸は答えた。

「いや…お前、家に買ってやったパジャマとか茶碗とか、置いて行ってるだろ。持って帰れ。あれ出す度に、フリッツが嫌な顔をする」

 出すなよ、そんなもん…と、内心思ったが、捨てろと言えないのが貧乏性の恐ろしい所だ。

「分かった。車にでも入れといて」

 お前も、そんなもん引き取ってどうしたいんだ…と、横で聞いていたジョン太は考えた。

 大体、トリコにもらったマフラーを、未だに愛用しているし、こっちがはらはらするわ。只の貧乏性なのは分かっているけど。

 まだ、事務所に戻って色々やる事があるので、ジョン太は途中で車を降りた。

「お前、その、とっ散らかしたティッシュ、ちゃんと拾っとけよ。人の車なんだから」

 降り際に言うと、鯖丸は割と神妙な顔でうなずいた。


 トリコが月末までは借りている駐車場に車を駐めて、徒歩でも二十分もかからない道を走って帰ると、今度こそ有坂は部屋に居た。

 松本から、無事だとは聞いていたが、姿を見ると全身の力が抜けた。

「ああ、ほんとに無事だった…良かった」

 へなへなとその場に座り込んだ鯖丸を、有坂は呆然とした顔で見た。

 まさか、自分が誘拐された事になっていたとは、夢にも思っていないが、連絡が付かなかったのは自覚しているので、少しは反省している。

 驚いたのはそこじゃない。

「玲司君…また、変な格好で帰って来て」

 二度目だから前程驚かないが、今回の方がひどい。一体、どこで何やってたの、この人は。まぁ、魔界で何かしてたんだろうけど。

「靴は?」

 鯖丸は、外から帰って来たのに、まぎれもなく裸足だった。

「破れた」

 元から破れてたじゃない、あの靴は…と思った。いくら剣道やってるからって、日常戸外で裸足って何なの。

 大体、新しい靴あげたのに、どうして履かないで棚に飾っておくのかも謎だ。

「服も…」

「破れたから、これ拾って来た」

 ああ…ダメだこの人。

 何か色々、諦めと疲労感が襲って来た。

「待ってて、今、タオル持って来るから」

 どうやって帰って来たのか知らないが、裸足で外を歩き回って、そのまま部屋に上がられてはたまらない。

 タオルを濡らして、足を拭ける様にして持って来ようとしたのに、その場でがばと抱き留められた。

「心配したのに。物凄く心配したのに」

「ごめん」

 何だか分からないが、一応連絡が取れなかったのは自分に非があるので、有坂は素直に謝った。

 そこまで心配される事じゃないと思うけど。

「うう…無事で良かった、良かったよぉ」

 声を上げて泣き始めた恋人の肩を抱いて、有坂カオルはちょっと途方に暮れていた。


 本当に大変な事が起こっていたと理解したのは、翌日松本に会って話を聞いてからだった。

 アホみたいに泣き崩れている武藤君の話は、何だか微妙に要領を得なかったからだ。

 心配してくれるのはありがたいけど、大げさな人だなぁ…くらいに思っていたのだ。

 この人、何だか少し、お父さんと芸風が似て来てる様な気がするけど、気のせいかしら…と、将来的な不安が心を過ぎった。

 有坂が行方不明になっていたのは、割と簡単な理由だった。

 松本の所に泊まりに行った時、携帯が故障して、電源が入らなくなったのだ。

 二人で、近所のショップに修理に出しに行った後、ゴキゲンで酒やらつまみやらを購入し、松本のアパートに戻る途中、ふと、来週からバイトのシフトが変わると言われていたのを思い出し、松本のケータイを借りて連絡を入れだのだ。

 この辺からがすれ違いの始まりだったのだが、運悪く、常勤の社員が病欠で手が足りないので来てくれと呼び出されてしまった。

 友達や後輩もやって来て、楽しい宴会になるはずだったのに、と思いながら、結局翌朝までぎっちり働く事になってしまった。

 翌日からは、新年総力祭大キャンペーン中とかいう催し物で、スーパー全体が殺気立っていたので、もうちょっと休みたいとも言い出せず、家に帰って昼過ぎまで寝てから、いつもの時間に出勤。

 その日も忙しくて、いつもより少し遅くなったが、帰って来ると武藤君は居なかった。

 そして、台所には謎のカレーが残されていた。(尚、掠われた松本が持っていた酒とつまみは、蒲生組の皆さんに美味しくいただかれてしまいました)

「待てぇ」

 事の経緯を聞いていた鯖丸は、思わず叫んだ。

「いっぺん帰ってたのかよ」

「そうだけど」

 食器が片付いていたり、洗濯物の位置が動いていたり、一目見れば分かりそうなものだが、実は鯖丸は、意識して周囲を観察しようとしていない時は、自分に興味のない物はあんまり視界に入らない。

「じゃあ、何で伝言とか残してくれないんだよ。ていうか、俺のケータイは壊れてないんだから、連絡しろよ」

「うっかりしてて」

 有坂は、ものすごくあっさり言い切った。

「玲司君のケータイ番号とかアドレスは、メモリーに入ってるから憶えてなくて」

「バイト先の番号は覚えてるのに?」

 あまりの事に脱力してしまった。

「ひどい、ひど過ぎるよ。カオルちゃんは俺の事なんか愛してないんだな」

 じゃあ、自分は私の番号暗記してるのかと聞きかけて止めた。実家の連絡先から、学内の直通番号まで全て暗記してそうで、聞くのが怖い。

「何よ、自分だって、カレー作ってる閑があったら、メモの一つでも置いて行ってくれればいいじゃない」

 有坂も言い返した。

「大体、ごはんにカレーかけた上からラップして、冷蔵庫に入れるって何なの。何かの嫌がらせなの。うちには電子レンジがないのに、どうやってあれを食べろって言うの」

「何だと、電子レンジも買えない甲斐性無しだと言いたいのか」

「もっと、後先考えてから行動してって言ってるのよ」

 ケンカになってしまった。


 翌日、二人はマヒルの車で登校した。

 朝には二人とも仲直りしていたのだが、バカらしいのでもう、詳細は書きません。

 車を預かった経緯は、筋道立てて説明されたのに、駐車場まで一緒に行くという意見は、全力で却下されたので、有坂はまた少しご機嫌を損ねていた。

 鯖丸は隠しているつもりだが、事情は薄々知っている。

 仲良く手を繋いでいる割に、微妙に不機嫌な顔の二人は、学内の駐車場から少し歩いた所で松本と行き当たった。

 松本は、何だか複雑な顔をして、二人を見た。

「松本さん、もう大丈夫なの」

 鯖丸が聞くと、松本はうなずいた。

「まっちゃん、大変だったんだって」

 事件に巻き込まれたという程度の話は聞いていたので、有坂も言った。

「まだ、警察とか、色々呼ばれると思うけど、とりあえず大丈夫」

 二人仲良く歩いている姿を見て、何となく遠慮でもしたのか、松本はすぐに立ち去りかけた。

「あ、待って」

 鯖丸は、ポケットから携帯を取りだした。

「篠原が早く来いって言ってるから、俺、行くわ」

 ちらりと画面に目を落とす振りをした。

「帰りに、別の車引き取って返しに行くから、後でまた連絡して」

 有坂の方に言った。

「ケータイ、もう直ってるから、取りに行くんだろ」

「うん、そうだけど」

「俺の番号、今度こそ忘れてないよな」

 実は忘れている。

 得意技が文系に偏っているので、数字や記号の暗記は苦手だ。でも、メモしてあるから大丈夫。

「もちろん」

 有坂は、にっこり笑ってうなずいた。

「じゃあ、四時頃に。帰りの車は新型で乗り心地いいよ」

 それはまぁ、ジョン太の車だし、学生がバイトして買った古い型の軽に比べたら、普通に乗り心地はいいに決まっている。

 魔界では全然動かないが。

「松本さんも、方向一緒だから送ろうか」

「ええと」

 松本は言い淀んだが、有坂が送ってもらいなと言ったので、うなずいた。

 鯖丸が立ち去ってから、有坂はため息をついた。

「あれでも気を使ってるつもりなの。何か悪いね、逆に気を使わせちゃって」

「ううん」

 と、松本は言った。

「あんたの彼氏って、意外といい男だと思うよ」

 付け加えた。

「魔界限定で」

「それ、私には何の関係もないじゃない」

 文句を言ってから、有坂は聞いた。

「まっちゃん、魔界で何があったの」


 大体の事情は松本に聞いた。

 マヒルの車と交換したジョン太の自家用車は、高級車という訳では無いがそこそこの車で、学生には確かに高級品だった。

 あんまり、ガソリンエンジン以外の車は運転した事がなくて…と、自分で言い出した割に、うろんな事を言っている鯖丸に軽い不安を覚えつつ、二人は後部座席に並んで座っていた。

 助手席には、がっつり荷物が置かれていたからだ。

 いつものディバッグと、なぜか剣道部に置きっぱなしだった防具と。

 それで、松本と有坂は、後部座席に並んで座って、ぼんやり車窓を見ていた。

 特に会話もないので、運転している鯖丸の方がテンパってしまったのか、カーオーディオのスイッチを入れた。

 デスメタルが爆音で流れ始めた。

 ジョン太ぁぁ〜〜!!

 これが誰の車なのか忘れてた自分も悪いが、みっちゃんも乗っているはずなので油断していた。

 ていうかジョン太、ハードロックだけじゃ飽き足りず、変な懐メロばっかり集めやがって。

「ああ…ラジオ、ラジオでも聞こうかな」

 少し焦りながら、鯖丸はタッチパネルを操作した。

 当たり障りのない、ニュース番組が流れ始めた。

 これで一安心だ。

 しかし、後部座席の二人は特に会話もなく、鯖丸は何だかはらはらしながら、松本のアパートに程近いケータイショップに向かった。

 サポートの範囲内だとかで、修理代は請求されなかった。

 松本のアパートまで送ると、彼女は「ありがとう」と言って、手を振った。


 帰りの車の中でも、しばらく沈黙が続いた。

 車内で二人なのに、助手席に荷物を積み込んで、運転席と後部座席のポジションが、まずおかしい。

 鯖丸が言い訳を始める前に、有坂が言った。

「ありがとう」

「え…」

「まっちゃん、大変だったんだね。私なら、何も出来なかったと思うし」

「聞いたの」

 事件の詳細について言わなかったのは、松本や被害に遭った女の子達が、知られたくないだろうと思ったからだ。

「ごめんね、そんな事になってるとは思わなくて、色々言って」

「ううん、俺も冷静に行動出来たら良かったけど」

「冷静で居られたら、それはそれで嫌だ」

 有坂は言い切った。

「でも、気を使うならもっとさりげない方がいいと思うよ」

「ええ、俺的には全力でさりげない感じだったけど」

 人には向き不向きがある。

 しばらく、ハンドルを握って前方を睨んでいた鯖丸は、ふいに言った。

「俺は、お礼なんて言われる資格はないんだよ」

「何で」

 松本に聞いた話では、捕まっていた女の子達を助けて、魔法を使うヤクザや人身売買組織の人達を叩き伏せて、凄い大活躍をしたはずだ。

 魔界に入った事が無いので、具体的な想像は付かなかった。子供の頃に兄と一緒にやってたゲームの勇者みたいな感じを連想した。

 全然違うけど、強さ的にはかなり近い。

「だって、まっちゃんよりもっと何十倍も酷い目に遭った娘も居るのに、俺、カオルちゃんが掠われたと思うまで、全然…」

 ちょっとの間、言葉が途切れたが、言った。

「掠われて、酷い目に遭ってたら、あいつら皆殺しにするつもりだった」

 それ、やろうと思えば出来るの?と、聞きたかった。

 何となく怖くて聞けなかった。

「俺の事、怖くて危ない奴だと思う?」

「ううん」

 有坂は言った。

「私だって、同じ事が出来たら、そうするかも知れないし」

 正直な所を言うと、武藤玲司はやっと、素の表情に戻った。


 翌日、車を返しに事務所に立ち寄ると、思わない人が居た。

「あれ、ジン君」

 怪訝な顔をしていたら、お前、何で昨日の内に車持って来ないんだ…と、ジョン太に後頭部をしばかれた。

「だって、歩くのめんどかったから」

「お前が? いつも走ってるのに」

 ジョン太の家はちょっと遠いが、充分徒歩圏内だ。(鯖丸的には)

 有坂も鍛えているので、その程度なら軽く一緒に走って帰る事も出来る。

 松本を送って行く時、一人で後部座席にぽつんと座っているのも嫌だろうと思って、ついでに剣道場に置きっぱなしの防具を積み込んだのがまずかった。

 むき出しの防具一式を抱えて歩くのは大変だし、じゃあ着て帰ろうかな…と言ったら、有坂が一緒に歩く事を断固拒否したのだ。

 という訳で、その日ジョン太の車は、さんざん私用に乗り回されたあげく、トリコが借りている駐車場に駐められる事になった。

「駐車場使うのはいいけどな、彼女と大声でケンカするのはやめろ。家まで聞こえたわ」

 トリコが文句を言った。

 まだ色々仕事が残っているのか、机の前でノートパソコンを広げている。

 その隣に羽柴仁が居て、横から引きずって来た事務椅子に座って、トリコのパソコンを操作していた。

 鯖丸と目が合うと、なぜかにやりと笑って椅子を立った。

「これは鯖兄さん、おはようございます」

 自分が座っていた椅子を勧めて来た。

「どうぞ座ってください。今、お茶でもお入れしますんで」

「その前に、何でここに居るのか、話してくれないかな」

 とっても嫌な予感がする。むしろ、嫌な予感しかしない。

「ああ、こいつ私の後任で、ここで働く事になったから」

 トリコが、あっさり言い切った。

 それはまぁ、実力的には申し分ない人材だが、こんな後ろ暗い元ヤクザを雇って、大丈夫なのか。

「そう云う訳なんで、よろしゅうお願いしますわ、兄さん」

「誰が兄さんだ、芸人システムか。ジン君の方が年上だろうが。兄さん言うな」

「いや、こいつお前より年下」

 トリコが、意外な事実を暴露した。

 そう言えば、外界での羽柴は、魔界に居る時より幾分若く見える。それは前から気が付いていたが、せいぜい魔力を感じられなくなるからとか、ヤクザファッションじゃないからとか、適当に納得していた。

 というより、野郎の外見なんぞ、そこまで気にしない。

「え…そうなの」

 一応驚いたが、別にどうでもいい事だ。

「いやー、兄さんそう見えてけっこうええ年なんですね。あと、姐さんから昔の面白い話も、色々聞かせていただきましたわ」

 トリコ、何を話した。

 鯖丸は不機嫌な顔をして、どかっと椅子に掛けた。

「羽柴、茶」

 いきなり命令した。これだから体育会系は…。

「へいへい」

 羽柴は、笑いながら給湯室へ消えた。

「所長、いいんですか、あれ」

 羽柴が見えなくなってから、一応聞いてみた。

「まぁ、バレてる範囲内では、大した犯罪もやってないし」

 所長は相変わらず大雑把だった。

「トリコの後釜は必要だ。正味、魔界の裏事情に詳しい人材は欲しい」

「そうですか」

 所長がいいなら、別にいいけど、警察と組む様な仕事もあるのに、大丈夫なのかな…と、一抹の不安は残った。

 まぁ、俺が心配する事じゃないが。

「あいつ、意外と事務系のソフトも使えるし、即戦力として重宝すると思うよ」

「ヤクザも、色々出来んと、やって行けんご時世ですけんのう」

 羽柴が、茶を持って来た。茶菓子も付いている。気が利く奴だ。

 とりあえず、茶菓子一個で懐柔されている事実に気が付かない、鯖兄さんだった。


 魔界での誘拐事件は、一通り決着が付いていた。

 サキュバスの消息は分からないままで、あの口振りからすると、捕まった日室も、以前逮捕されている浅間も、外へ出す算段がある様子だった。

 でも、それはもう、自分が関われる事ではない。

 普段通り、バイトして、大学に通って、少しだが時間が出来たので、出来る限りは溝呂木先生の道場に通った。

 剣道部の後輩に、稽古を付ける様に頼まれて、見知った顔が知らない間に実力を付けているのに驚いた。

 時間は、確実に流れている。

 その日、いつも通りに塾のバイトが終わってから家に帰ると、有坂が待っていた。

 いつも通りに、少し遅い夕食を終えた。

 普段なら、あっという間に食器を片付けてしまう有坂が、何か言いたげに座っている。

 反射的に、あ…この話は聞きたくないと思った。

 でも、きっと大事な話だ。

「玲司君、グレゴリー先生って、憶えてる」

 意外と、普通の事を聞かれた。

 一年前まで、英米文学科の講師だった男で、一時は一般教養の英語講師も兼ねていたので、顔と名前は知っている。

「君の英語は最悪だって言われた事あるよ。下品なコロニー訛りだって」

「そうなの、ごめんね」

 待て、何でカオルちゃんが謝る。

「先生今、本国に帰ってるんだけど、ホームステイ先とか編入手続きとか、色々手配してくれて」

「そうなんだ」

 口は悪い…というか、宇宙人に偏見はある様子だったが、根はいい奴なのかも。

「それで、卒業に必要な単位は足りてるから、すぐに来ないかって…」

「へえ…」

 軽く返事をしてから、ふいに気が付いた。すぐって何時だ。

 卒業式は三月下旬だが、来月からは春休みに入る。有坂は真面目だから、卒論もきっちり終わって、必要な単位も全てクリアしている。

 欧米の大学は、日本とは新年の区切り時期が違う。途中からの編入になるのは分かっていたが、こちらで卒業式を迎えてからだろうと、何となく思っていた。

 四月が来るまでは、一緒に居られると思っていたのだ。

 本気で勉強したい事があるなら、早方がいいに決まっている。賛成してあげないとダメだ。

 自分に言い聞かせたのに、声が出なかった。

 たった一月もしない内に、有坂が居なくなる。

 せめて後ちょっとは、今のままの生活が続くはずだったのに。

「嫌だ」

 言わないでおこうと思っていた言葉が、口に出てしまった。

「何処にも行っちゃ嫌だ。俺を一人にしないで」


 その日は、朝から良く晴れていた。

 一人で出来る様な小商いの仕事を片付けて、魔界から戻って来た鯖丸は、事務所のドアを開けた所でトリコと顔を合わせた。

 残っていた私物でも取りに来たのだろうか。

 普段、仕事には着て来ない様な、かっちりしたコートを着て、髪の毛をきちんとまとめて、スカートを履いている。

 反射的に「あっ」と思った。

 どこか、遠くへ出掛けるような雰囲気だった。

 トリコが居なくなるのは分かっていたが、何時とは聞いていなかった。

 こんなに急なのか。

 会社で送別会とかやったり、もっと色々あってからだと思っていたのに。

 言葉が出ないまま、入り口に立って固まっている鯖丸を、トリコが見上げた。

「何て顔してるんだよ、お前」

 言ってから、少し困った表情で笑った。

 こんな顔をしている彼女は、初めて見た。

「だって…」

 肩が震えた。

 割と涙もろい方だが、最近何だか泣いてばっかりだ。

 大事な人と離れ離れになるのは、確かに辛いけど、別にどれも不幸な出来事じゃないのに。

「そんな顔するな。笑って見送ってくれよ」

 自分も、少し泣きそうなくせに、トリコは言った。

 唐突に気が付いた。

 トリコは、遠い所へ行く。

 自分は、もうすぐ魔界から離れてしまう。

 連絡を取ろうと思えば出来るし、顔を見ながら話をする事だって、やろうと思えば出来るだろう。

 でも、この先もう二度と、会う事は無いかも知れないのだ。

 トリコと別れた時は辛かったし、その後何事も無かった様な顔をして、一緒に仕事をしなければいけなかったのも、正直辛くなかったと云えば嘘になる。

 それでも、一緒に居られて良かった。彼女は、大事なパートナーだ。

「うん」

 少し、無理をして笑った。

 改めて見ると、事務所には、ほぼ全員が揃っていた。

 ハートとるりかは居なかったが、シフト表には午後から魔界入りと書いてあったので、きっと少し前までは居たのだろう。

 トリコが、自分が戻るまで待っていてくれたのだと分かった。

「元気でね。たまには連絡して」

 本当に素直に言えた。

「お前もな」

 ぎゅっと抱かれて、手を伸ばして頭をぐしゃぐしゃ撫でられた。

 自分が知っている、ちっちゃいトリコでも、魔界での色っぽい姐さんでもなく、今現在の素の彼女に、そんな事をされたのは初めてだった。

 それから振り返って、事務所に居る皆に、おそらく挨拶はもう、とっくに終わっていたのだろうが、もう一度頭を下げた。

「今までお世話になりました」

 所長が、めずらしく真面目な顔をしてうなずいた。

 そうして、如月トリコは退場した。


 家に向かって歩いていた。

 これから帰るとメールを入れると、分かったという返事が来た。

 家に居る様子なので、メールはやめて直接電話した。

「仕事終わったから、今から帰る」

「うん、晩ご飯作っとく。今日は湯豆腐鍋」

 お腹空いた。早く帰ろう。

「どうしたの」

 どう説明したらいいんだろう。

「大事な人が、居なくなった」

 本当に素直に説明すると、電話の向こうで、変な雰囲気が伝わって来た。

 弁解しようと思ったけどやめた。

 代わりに言った。

「カオルちゃんは、居なくなっても、ちゃんと戻って来てくれるよね」

「何言ってるの、玲司君、あの…」

 有坂は、少し間を置いてから言った。

「私が何も知らなかったって思ってるの?」

「ええと…」

 普通なら、ここからケンカになるパターンだ。

 でも、そんな事したくない。

「俺ら、あとちょっととしか、一緒に居られないんだよね」

 言うと、電話の向こうで、少しの間沈黙があった。

 ケンカなんかしたくない。また会えるけど、楽しい事だけ残したい。

「全部話すよ。だから、待ってて」

 我ながら、思い切った事を言った。

 声は聞こえなかったが、電話のこうでうなずくのが分かった気がした。

 それから「うん」と、声がした。

 家に帰ろう。

 あと少しだけの間だけど、待っていてくれる人が居る。

 この先どうなるか分からない。何もかも変わって行くし、自分だって、これからどうなるのか分からない。

 でも、頑張ろう。

 今までだって、そうして来たんだから。

 ケータイをディバッグに仕舞って、鯖丸は走り出した。

 市街地を全力疾走する青年は、周囲の注目を集めたが、あっという間に皆の視界から走り去った。

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