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三話・魔界大決戦 vol.3

 翌朝、妙な面子が事務所に揃っていた。

 政府公認魔導士の菟津吹が、どこかへハイキングに行く様な格好をして、事務所の入り口で待っていた。

 通常の営業は九時からなので、皆、仕事の都合で早出しなければいけない時以外は、ぎりぎりにしか来ない。

 早めに来て掃除でもしようかという者が、誰一人居ないのが、さすが世間基準でダメ人間の多い魔法使いの集団である。

 掃除は大体、空いた時間に斉藤さんがやっている。

 事務所の鍵を持っているジョン太が、少し遅れて、八時五分前に現れた。

 茶をいれて待っていると、ほぼぎりぎりで鯖丸が駆け込んできた。

 別に急いでいる訳ではなく、例によってデフォルトで走って来るのだ。

 今日は、きっちり仕事用の服を着て、靴も仕事用のトレッキングシューズを履いている。

 ジョン太が入れてくれた茶を飲んで、さあ出掛けようという時に、トリコが来た。

「お前はいいって言ったのに」

 道路状況が回復していなかったら、めんどくさい事になるぞ…と思いながら、ジョン太は言った。

 トリコの後ろから、黒っぽい物が音もなく現れた。

「うわ、フリッツ。何で居るんだ」

 油断していたので気が付かなかったらしく、ジョン太は本気で驚いた。

 原型に近いハイブリットは、嗅覚が鋭いので、知り合いが近くに居て気が付かない事は少ない。

 フリッツがこちらに来ているのも、誰も知らなかった。

「や、久し振り」

 フリッツは、適当な挨拶をした。

「これ、お前ん家のペットだろ。連れて来るな。ついでにお前も来るな」

 ジョン太はトリコに抗議した。

「誰がペットだ」

 フリッツは反論した。

「おー、フリッツが日本語しゃべってる」

 鯖丸は、普通に驚いた。

 U08の件以来、メールや電話でのやり取りはあったが、会うのは二年振りだ。

 変に訛っているが、英会話は不自由なく出来るので、日本語で会話するのは初めてだ。

「ていうか、何で居るの?」

「誰ですか、この方は」

 菟津吹が、不思議そうに聞いた。

「初めまして、国連軍魔界対策本部のバーナードです」

 目を細くして、にこっと笑った。猫っぽい笑い方だ。

「たまたま休暇でこちらへ来ていたのですが、ついでに今回の異変を調査して来る様言われましてね」

 どこまで本当の話なのか、怪しい所だ。

 休暇で来ていた所までは、確実に本当だろうが。

「差し支えなければ、同行させてください」

「差し支えるから帰れ」

 ジョン太が、横合いから口を挟んだ。

「お前、本当はプライベートだろ」

「だったら、どんなに良かったか…」

 フリッツは、ため息をついた。

「本当に、言った通りの事情だ。昨夜指令が来た。四ヶ月振りの休暇だったのに…」

「じゃあ、そっちの秘密をリークしてもらおうかな」

 ジョン太は、フリッツの首根っこを捕まえた。

「秘密なんか無い。むしろ、秘密を持っているのは、その人だ」

 菟津吹を、鼻先で指している。

「これは、政府公認魔導士が失踪して、民間人が誘拐されたとか云う、単純な事件じゃない…と、思う」

「依頼内容を、簡単にしゃべるな」

 ジョン太は、トリコに言った。


 道のりは長かった。

 道すがら、菟津吹は四人に事情を説明した。

「我々も、事実関係を把握したのは、つい先程なんです」

 魔界に居た政府公認魔導士が戻って来て、様々な出来事が報告された。

 実際には、戻って来たというより、脱出とか避難とか云う言葉の方が正確だった。

「先ず、先日の地震ですが、震源地は魔界内部と発表されていますが、実際には違います」

 地震が起きて二日経った今でも、正確な震源地は報道されていなかったが、それは、魔界内部の調査が困難だからだろうと、誰もが思っていた。

「震源地は、境界です」

 菟津吹の言っている事が、皆は分からなかった。

「境界のどこかって云う事?」

 鯖丸は聞いた。

 五人の乗った車は、魔界に向かう道の、海岸線近くまで来ていた。

 昨日ハートが来た時から復旧が進んでいなければ、もう少し先からは歩きになるはずだ。

「違います。境界全部です」

 菟津吹は、おかしな事を言った。

 四国の魔界は、海を含む直径十数キロの地域だ。

 確かに、震源地をピンポイントで特定するのは難しいが、境界のどこかではなく、境界全部という言い方はおかしい。

「戻って来た調査員の報告ですが、実は、魔界内部は、そんなに揺れていません」

 離れた市内でも、かなり揺れていたのに、奇妙な話だ。

「揺れは、魔界と外界の境で起こっています。それと、揺れが起こる度に、魔界が徐々に拡大しているんです」

 小さな余震は、あれから何度も起こっていた。

 ハートが言っていたのと、ほぼ同じだ。

 近所のうわさ話は、バカに出来ない。

「じゃあ、平田さん達と連絡取れないのって…」

「あいつらの住んでる辺りまで、魔界になってるんだろうな」

「魔界は、今の所二キロほど広がっている様です」

 菟津吹は言った。

「それから、バイパスは使えません。トンネルが危険な状態なので、封鎖されています」

「それ、早く言って」

 鯖丸は、海岸沿いの旧道に入る為に、強引に路肩に寄せてUターンした。

「まぁ、旧道の方も、ちょっと先で崩れてるんですが」

「ええと、結局どっちへ行けばいいの」

 車を止めてから、鯖丸は聞いた。

 トンネルの方から、諦めてUターンした車が、何台も引き返して来る。

「ここを越えれば、向こう側に調査員が乗り捨てて来た車がありますから」

 菟津吹は、トンネルが貫いている小高い丘を指さした。

 海に迫る様に盛り上がった丘の斜面には、みかん畑と自然林が混在している。

「農作業用の道を通れば、向こう側に出られます」

 トリコは、絶望的な顔で、急な斜面を見上げた。

「奥道後温泉から今治に抜けて、反対側から魔界に入った方がいいんじゃないのか」

「どんだけ歩きたくないんだ、てめぇは」

 あり得ない遠回りを提案したトリコを、ジョン太は、即座に却下した。

「フリッツ、こいつがごねたら、お前の責任で運搬しろ」

「四ヶ月も月に居て、戻ったばかりなのに…」

 フリッツは、悲しげに言った。

 普通の人間だったら、まだリハビリしている所だ。

 トリコは諦めて、急な坂を上り始めた。

 しばらく、畑の中を登り続けると、見晴らしのいい場所に出た。

 海岸線を通る旧道が見下ろせる。

 物の見事に山肌が海に崩れ落ちて、分断されている道路が見えた。

 畑の中を抜けて、けっこう長いトンネルの前に降りた。

 こちら側から見ると、トンネルの入り口も土砂で塞がって、そのまま海岸線まで雪崩れているのが分かる。

 路肩には、かなりの数の車が、路駐されていた。

「ああ、あれです」

 菟津吹が、旧式のワンボックスカーを指さした。

 魔界でも動く車を選ぶと、どうしても旧型になってしまう。

 五人は、車に乗り込み、今度は菟津吹がハンドルを握って、走り始めた。


 いつもの定食屋は営業していたが、道路が分断されているので客は少なかった。

 先を急ぎたそうな菟津吹を無視して、ジョン太は強引に車を停めさせた。

「おい、今日の勘定はこいつ持ちだから、好きなだけ食っていいぞ」

 更に理不尽な事を言い始めた。

 まぁ、最終的には必要経費として落とせるのではあるが。

「あー、俺もそんな、昔みたいには食えないって」

 定食屋で危険人物としてマークされている鯖丸は、厨房に「ご飯炊いて」と言いに走ろうとしたおばちゃんを止めた。

 店内は、普段と違って、長距離トラックの運転手は見当たらず、近所に住んでいるらしい年寄りが数人居るだけだった。

「この先の道路。どうなってるか分かる?」

 朝定食を注文してから、ジョン太はおばちゃんに聞いた。

「もうちょっと向こうで、また崩れてるけど、バイパスは大丈夫だよ」

 朗報だと思ったが、何だか嫌な内容が続いた。

「ただ、道路は封鎖されてるから、通れないけどね。トラックの人達は、橋を渡って本州に迂回してるんだよ」

「封鎖って、どういう事ですか」

 初耳だったらしい菟津吹はたずねた。

「さぁ、よく知らないけど、魔界が広がってるとか言ってたね。こっちまで来なきゃいいけど」

 政府公認魔導士が、魔界関係の事情を報されていないというのも、おかしな話だ。

 とりあえず近所の情報は手に入ったので、皆で朝定食を食べて店を出た。

「お前が朝定食だけって、本当にどっか悪いのか」

「別に。家出る時パン食って来たし」

 ジョン太は本気で心配になったが、鯖丸はそっけない口調で言った。


 道路は、自衛隊に封鎖されていた。

 災害と言えば自衛隊出動は定番だが、武器を持っている者も居て、様子が少し違う。

 封鎖された道路の向こうに、遠景ではあるが魔界との境界が見えた。

 本来の境界からは、遠く離れてしまっている。

 魔界が広がっているというウワサは、本当だったのだ。

 周囲には、自衛隊の車両が何台も停まっていた。

 たぶん、トリコが提案した遠回りの道を来たのだろう。

 通り抜けようとしたが、止められた。

 車を覗き込んだ自衛官は、明らかに怪しい組み合わせの五人を見て、断固制止すると決めた様子だった。

「これから、調査に入るんですが」

 菟津吹が身分証を提示すると、うなずいたが、全員の身分証を提示する様に言われた。

「運転免許でいいかな」

「あ、学生証持ってます」

「俺、パスポート」

「スーパーのポイントカードを…」

「全員ダメだ」

 自衛官は言った。

「彼らは民間の魔法使いで、捜査に協力してもらっているんですが」

 菟津吹は言った。

「現在、魔界への出入りは出来ません」

 断固として止められてしまった。

「それじゃあ、向こう側に住んでる人は、どうなってるんだよ」

 鯖丸が抗議した。

「それも、お答え出来ません」

 菟津吹は、一人で車を降りて、自衛官と言い争った後、電話をかけ始めた。

 四国支部とどうにか繋がったらしいが、何か話し込んだ後、別の場所に電話を始めた。

 かなりの時間、そうやって会話していた菟津吹は、少し怒った様な顔をして戻って来た。

「ダメです。関西本部にもどうにも出来ないと言われました。どうやらこの地震は、魔界発のテロ事件として扱われています。我々の管轄外です」

 少しためらって、付け加えた。

「僕一人なら、政府公認魔導士として中に入れますが」

「俺も、事情を説明すれば入れると思うが」

 フリッツが言った。

「組織の後ろ盾って、大事だなぁ」

 鯖丸はため息をついた。

「全くだ」

 スーパーのポイントカードでどうにかしようとしていたトリコがうなずいた。

 いくら何でも、それは客観的にアウトだ。

「しばらく待てば、いずれ政府公認魔導士に出動要請が来ます。自衛隊は、とりあえず封鎖しているだけですからね。そうすれば、こちらの権限で、あなた方を通す事も出来るはずですが」

 大人しそうな顔の菟津吹が、らしくないきっぱりした口調になった。

「これが自然災害でないなら、そんな悠長な事は言ってられません。突破しましょう。責任は僕が取ります」

「かっこいいー。一生に一度くらいは言ってみたいセリフだな、おい」

 ジョン太は、菟津吹の背中を叩いた。

「茶化さないでください」

 菟津吹は、むっとした表情で反論した。

「かっこいいけど、そんな無茶する必要はないぞ。こっそり忍び込めばいいだけだからな」

「また、歩きなのか」

 トリコは再び絶望した。


 封鎖箇所から見えない場所まで引き返した一行は、車を停めて再び農道に入った。

 身分証や免許の類は、普段なら会社の倉庫に置いて行くのだが、少し先から魔界になっているので、車の中に残した。

 一体、どこをどう通っているのか謎だったが、人間カーナビのジョン太は、農道からあぜ道に抜け、住宅地に入り、複雑な路地を通り抜けてから、再びみかん山を一つ越えた。

 目の前に境界があった。

 見慣れた境界だったが、通り抜ける時に妙な違和感があった。

 普段なら、車で移動している道を、皆はゲートに向かって歩き続けた。


 ゲートは上げっぱなしになっていた。

 いつもの係員は、やけになっているのか、何のチェックも無しに五人を通した。

 ゲートが魔界の内側になってしまっては、もうチェックする意味も無いからだ。

 倉庫の周囲には、何人かのプレイヤーらしい連中が集まって、外壁を打ち壊しにかかっていた。

 魔界関係の仕事をしている会社の倉庫には、様々な武器が保管されているからだ。

「あれ、一応追い払っとくか」

 フリッツが聞いた。

「私がやるよ」

 トリコが、魔獣を呼び出して、一心に壁を壊している四人の集団をぐるりと巻いた。

「食うぞ、コラ」

 脅すと四人組はあっさり逃げ去った。

 倉庫の中は、物が倒れている以外は、無事だった。

 普段、魔界の宅配に使っている軽トラが、倉庫の中に収まっている。

 車の運転免許を持っていない北島は、いつもここまで原付で来てから、魔界に入っているのだ。

 荷物が多い時どうしているのかは、割と謎だった。

 もしかしたら、外界でも、無免で軽トラを乗り回しているのかも知れない。

 あまり使っていなかったオフローダーのバイクは、ばったり倒れてミラーが割れてクラッチレバーが折れてしまっている。

 いつもの銃と、久し振りに短機関銃も装備したジョン太は、バイクのエンジンをかけてみた。

 特に問題はない様子だ。

「お前、理工学部だからメカに強いだろ。これ、直しとけ」

 折れたクラッチレバーを指さされた。

「専門は、宇宙船のエンジンなんだけど…」

 文句を言っていたが、工具箱に予備のレバーがあったので、割合手早く交換してしまった。

「あー、フロントフォークも曲がってるよ、これ」

 前輪にがんがん蹴りを入れ始めた。よい子は真似しないでください。

「冗談で言ってみたんだけど、本当にメカに強いんだな、お前」

 ジョン太は、感心した様にうなずいた。

「じゃあ、このバイク、お前が乗って行け」

「それは、断固断る」

 直せても、運転は出来ないのだ。

 いつもの刀と、予備をもう一本持って、軽トラの運転席に座ってしまった。

 フリッツは、物珍しげに所長が使っている刀を抜いて見ていたが、長すぎるとか文句を言って、倉庫の中を物色した。

 それから、ちょっと錆の浮いたナイフを何本か発掘して、ベルトにねじ込んだ。

 外へ出ると、菟津吹が政府公認魔導士の出張所から戻って来る所だった。

 民間とは、明らかに作りが違う施設で、きっちり管理はされているが、外壁には壊そうとした跡がついていた。

 政府も民間の施設も、外界でならそれなりに安全で、セキュリティー会社との契約もしているが、魔界になってしまった今は、魔力の高い人間なら壊せる、ただの箱だ。

 建物全体を封印してからやって来た菟津吹は、こっちのも封じておきましょうかと軽く言った。

 普通そうに見えるが、政府公認魔導士だ。魔力にはかなり余裕があるらしい。

「いや…こっちは俺がやっとく」

 倉庫に結界を張ったジョン太は、オフローダーを押して、軽トラの横に並べた。

「そっちは車無かったのか」

 政府公認魔導士の方が、装備には余裕があると思ったが、菟津吹は首を横に振った。

「皆出払ってます。予備のガソリンはありますけど…」

 軽トラのこちら側に回り込んで来て、オフローダーを見つけた。

「うわーKTMじゃないですか。乗っていいですか」

「乗って、もうどんどん乗って。ちょっとハンドル曲がってるけど」

 自分が運転したくない鯖丸は、強力にオススメした。

「俺も二輪はだるいから、良かったら乗ってくれ」

 ジョン太も譲る方向だった。

「あの、後ろどうです」

 なぜかトリコに、声をかけている。

「いや、車の方がいい」

 さっさと助手席に乗ってしまった。

「トリコって何か、顔の割にモテるよね」

 鯖丸は言った。

「お前が言うか、それ」

 一応反論した。

「俺が特殊な趣味なのかと思ってたから」

 有坂も、微妙に可愛くないとか言われているし。

「分かってないな、巨乳とタンデムは男のロマンだぞ」

 ジョン太は言ってから、別に男と二人乗りは嫌なので、素早く荷台に乗ってしまった。

「そんなにいいか?巨乳」

 フリッツは、返答しないでやはり荷台に乗り込んだ。

「前から思ってたけど、お前の女の好みって、一貫してないよな」

 トリコは一応聞いた。

「うーん」

 少し考えてから答えた。

「やらせてくれる人が好き」

「死ねぇ」

 容赦ない魔法攻撃が、運転席に炸裂した。


 鯖丸が仮死状態になったので、ハンドルはジョン太が握った。

 魔界内部は、いつもと変わらない光景だった。

 地震の被害も、それ程ある様には見えない。

 ただ、空気だけが何か異様な感じだった。

 観光街に入る前に、街の外で車とバイクを止めた。

「いつまで死んでるんだ、コラ。ボケならツッコまれて十秒以内に生き返れ」

 ジョン太は、理不尽な事を言って、荷台に放置された鯖丸を引きずり下ろした。

「ああこいつ、寝てただけだ」

 隣に乗っていたフリッツは、冷静な事実を言った。

 どこでも寝るのはいつもの事だ。

 バイクと車を、一カ所にまとめて魔方陣で隠してから、一行は観光街に入った。

 遠景に、殿の城が見えている。

 背景が奇妙に歪んでいるのが、もう、誰の目にも明らかだった。

 観光街は、いつもと全く違っていた。

 人の気配はあるのだが、人通りが全く無い。

 老朽化した建物が、所々壊れていたが、地震の被害は外界よりも少ない。

 しかし、街は異様な雰囲気だった。

「めん吉の所にでも、行ってみるか」

 ジョン太の提案で、皆は情報屋の店に向かった。


 うどんのめん吉も、他の店同様にのれんを下ろして休業していた。

 勝手に戸を開けて入ると、狭い店のカウンターでは、めん吉が一人でうどんをすすっていた。

「素うどん五つ」

 勝手に入って、勝手に注文したジョン太に、相変わらずスキンヘッドで強面のめん吉は抗議した。

「休みだ。見りゃ分かるだろ」

「じゃあ、情報だけでいいや。それと、領収証くれ」

 休みだと言っていたのに、めん吉はうどんをゆで始めた。

「朝飯は食った。情報だけでいいよ」

 素うどんというのは、情報込みの暗号だったので、ジョン太は止めた。

 この店には、実は素うどんというメニューはないのだ。まぁ、かけうどんはあるので同じ事ではあるが。

「もうすぐ昼だ」

 めん吉は言い切った。

「このままじゃ食材が腐る。全部食って行け」

 麺大盛りで、具材全乗せの凶暴なうどんが出て来た。

「じゃあ、営業しろよ」

 あり得ないうどんを目の前に置かれて、ジョン太はうんざりした風に言った。

 きつねと天ぷらが同時に乗ったうどんなんか、初めて見た。

「出来るか、こんな状態で」

 鯖丸の前には、なぜか一回り大きいどんぶりが置かれた。

「ほら、めん吉特製、メガ盛り全乗せスペシャルだ」

 それは普通、うどん屋のネーミングじゃない。

「食欲無い」

 鯖丸は、不機嫌な顔をしてあり得ない事を言った。

「食えよぉ、お前のポジションはディスポーザーだろう」

「いや…別にもう、食べ盛りじゃないんで」

 言い争い始めた二人を、ジョン太は制した。

「何でこんな事になってる?」

「知るか」

 めん吉は少々ヤケ気味だった。

 飲食業にあるまじき事に、カウンターの中で煙草を吸い始めた。

「殿が城を追い出されてから、この辺は散々だ。全く、あんな城建てたなら、きちっと仕切ってもらわなきゃ困る。変な連中をのさばらせて」

「その、変な連中について聞きたいんだが」

「ああ、変なヤクザと、頭のおかしい政府公認魔導士な」

 一心にうどんを食っていた菟津吹が、顔を上げた。

「あいつらが、穴に何かしてるのは確かなんだ。地震が起こる度に、魔界が広がってるし、穴から異界の化け物が出て来ている」

「異界の化け物?」

 長年魔界関係の仕事をしているジョン太も、まだ見た事は無かったが、異界にも、殿のような人間タイプ以外の物が居る。

 こちら側へ出て来た例は、世界中でもごくまれだった。

「嫌でももうすぐ見られる。そろそろ時間だからな」

 めん吉は言った。

「ここで何が起こってるか、自分で見た方が早い」

 カウンター席に並んだ皆は、箸を止めてめん吉を見た。

「ただし、外には出るな。持って行かれるからな」


 それは、じわじわ来た。

 先ず、ジョン太とフリッツが、異変に気が付いた。

 あの、地震の前に聞いた変なノイズが、ゆっくりと起こり、徐々に大きくなった。

 それは、普通の人間の可聴域ではなかったので、周囲は、顔を歪めて耳を塞いでしまった二人のハイブリットを、怪訝な顔で眺めた。

 どこか遠くで、犬が猛烈に吠え始めていた。

 可聴域の広い者には、相当な騒音らしく、二人は両手で耳を塞いでカウンターに突っ伏した。

 続いて、揺れが来た。

 それは、外界で最初に経験した地震とは全く違う、ゆるい振動だった。

 安普請の家なら、横をトラックが通った方が、もっと揺れるような程度だ。

 しかし、同時に、何かじわじわとした嫌な感触が、地面の低い場所を這い進むように来た。

 水がしみ出す様に、暗い色の空気が、店の壁を平気で通り抜けて、侵入して来た。

「それに触るなよ」

 めん吉が注意した。

 言われなくても相当に嫌な感じがしていた皆は、椅子の上に足を上げてやり過ごした。

 どこか遠くで、悲鳴が聞こえた。

「ああ、こんな時に運悪く外を歩いてる奴が居たな」

 カウンターの中で、椅子にあぐらをかいて、めん吉は言った。

 水のような空気は、気持ちの悪い感覚を撒き散らしながら、徐々に外へ広がり、消えて行った。

「これで終わり?」

 鯖丸は聞いた。

 皆の中では、自分のダメージが一番少なそうだった。

 トリコも、それ程堪えてはいない。

 魔力の高い人間の方がダメージが少ないとしたら、これは一体魔法なんだろうか…。

 菟津吹もそれなりに魔力は高いらしく、まだ床から足を離したまま、表情を無くしてはいるが、無事な様子だった。

 ハイブリット二人は、それ以前に音で相当なダメージを受けていた。

 めん吉が、一番堪えたらしく、青い顔をしていたが言った。

「まだ終わりじゃないが、足はもう下ろしてもかまわねぇよ」

 言われても皆、床に足を下ろす決心が付かず、椅子の上に上がり込んでいる。

「後は、穴から化け物が出て来て、ワンセットだ」

 ぶうん…と、今度は人間にも聞こえる低いうなりが、あちこちで起こった。

 めん吉はあわてて、換気用の窓を閉めたが、入り口の格子戸にはまったすりガラスの向こうを、なにかが飛び回っている影が見えた。

「あれも、その内帰って行く。今の所、戸を開けて入ってくる様な事は無い。これで終わりだ」

 低いうなりは、しばらく表を飛び回ってから、消えて行った。

 何がどうという訳ではないが、恐ろしかった。

 皆は、ほっとして力が抜けたまま、黙り込んだ。

「あんなのが何回ぐらい来たんだ」

 ジョン太は聞いた。

 毛皮で顔色は分からないが、耳の内側が白くなっている所を見ると、血の気が引いているのだろう。

「さぁ、最初に大きい揺れが来た時から、数えて十回ぐらいかな」

 めん吉は言った。

「最初に来た時には、まだ訳が分からなかったから、外を歩いていた奴らのほとんどが持って行かれた。

 今はこうして凌いでるが、周期が一定じゃないから、逃げられない。いや…逃げた奴も居るが、無事に魔界を出たかどうかは分からん。

 魔界全体がこうなのかも、分からねぇしな」

「工業街の辺りは、普通だったそうです。少なくとも、昨日の時点では」

 菟津吹は言った。

 政府公認魔導士の調査員は、何人かは知らないが無事に戻っている。

 穴から離れた場所では、それ程影響は無いのだ。そうだと思いたい。

「もって行かれるっていうのは、何処へ」

 トリコが聞いた。

「分からないが、城じゃないのかな。とにかく、あの水みたいのが来ると、触れた奴は、そのままどこかへ消えちまうんだ」

「これ、浅間がやってるんだろうか」

 鯖丸は、眉をひそめた。

「あいつの力で出来る事だとは思えないが、他に心当たりがない」

 トリコは言った。

「とにかく、城に行ってあいつを止めよう」

 内心、ついでにぶっ殺そうと考えているかも知れない。

 今度は、フリッツも居るから、止めてくれるだろう。

 絶対に、そうしてもらわなきゃいけない。

「まぁ、待て」

 ジョン太は言った。

「その前に殿だ。あいつ、地震の直後に俺達をこっちへ呼びつけようとしたんだからな」

 何か、事情は知っているはずだった。


 殿は、街の中に居た。

 あれが起こった直後なら、比較的安全という事なのか、街の中には人が出歩き始めていた。

 皆、急ぎ足で、早く用事を済ませて、安全な場所に戻ろうとしている様だった。

 荷物をまとめて、足早に街を逃げ出す者も多かった。

 外界にあてがある魔界人や、魔界に来ていて足止めされていた外界人は、外を目指して、車や魔導変化した動物やバイクに乗り合わせて、外へ向かっていた。

 境界を封鎖していた自衛隊は、この人達を通すんだろうか…と、少し不安になったが、境界なら穴からは遠い。

 そこまで行ければ、ひとまず安全だろう。

 境界がまだ、あの場所にあるのかどうかは、ここからは分からないが。

 あれが起こった後の、比較的安全な時間帯だけ開けているらしい店で、殿は一人で煮込みをつつきながらホッピーを飲んでいた。

 本当にもう、どういう異界人だ、こいつ。

「おお、来たか、君達」

 連絡が来たのは一昨日だが、別に遅いとも何とも言われなかった。

 異界人の時間感覚は、人間とは違うのだろう。

「昼間からいい身分だな、おい」

 一応突っ込んでから、ジョン太は隣に座った。

 仕方ないので、鯖丸も隣に腰掛けた。

 何も注文しない訳にもいかないので、酒を二杯頼んだジョン太は、案の定両方とも鯖丸に押し付けた。

「お前、これ片付けとけ」

 皆ええかげんにしろとは思うが、アルコール耐性が全く無いジョン太に飲ませる訳にもいかない。

「へーい、キン肉マンディスポーザー、行きまーす」

 とりあえず、一杯目は一気飲みした。

 つまみまで注文されなかっただけ、まだマシだ。

「この辺りで待っていれば、君らが見つけてくれると思ったのでな」

 殿は、煮込みをハシでつつきながら言った。

「まず、この状況を説明してもらおうか」

 ジョン太は凄んだが、異界人には当然だが通用しなかった。

「殿が言ってた世界の拡張って、これなの」

 鯖丸もたずねた。

「いや…こんなもんではないよ、君」

 煮込みを半分食べ終わってから、ホッピーをちびちび飲み始めた。

「世界の拡張って、お前、そんな話聞いてないぞ」

 ジョン太は、鯖丸を睨んだ。

「うん、言おうと思ってたんだけど、色々あったから忘れてた」

 あっさり言い切ると、ジョン太は諦めたらしかった。

「まぁ、お前の色々は後で聞くとして、これから何が起こるんだ」

 殿は、しばらく返答しなかった。

「それとも、もう起こってしまってるのか?」

「世界の融合だ」

 殿は言った。

「あれは、我が弟子がやろうとしていた事を、実行するつもりだ」


 殿の弟子という名前は、久し振りに聞いた。

 いや…そもそも名前ではないが、殿の弟子の名前は、誰も知らなかった。

 良く考えると、殿も名前ではない。

 殿の弟子は、浅間と接触があったはずだ。

 そして、何らかの取引をしている事も、確認されている。

「物事が安定するまで待てと言ったな」

 ジョン太は殿に聞いた。

「本当にこれが、あの時より安定した状態なのか」

 余程悪くなっているとしか思えない。

「あと一息で、魔法陣が完成する。それまでは手を出してはいかんよ、君」

 殿は、真顔で言った。

「何でだ。こんなヤバイもんは、完成する前に壊すのが定番だろうが。俺らはヒーローが変身し終わるまで律儀に待ってる悪役か?」

 襟首を掴まれた殿は、別に堪えていない様子で言った。

「これは複雑な魔法なのだよ。途中で手を出したら、世界を壊しかねない」

 殿の言う世界が、どれくらいの範囲なのかは考えたくなかった。

 出来れば、この魔界の周辺とか、狭い範囲ならいいのだが。

「発動してしまったらもう、安定するまで傍観するしかないのだ」

 店のオヤジは、三人の会話をうろんな顔で聞いていたが、言いにくそうに声をかけた。

「あの…すいませんがね、そろそろ終いにしますんで」

 先刻のあれが起こってから、二時間ちょっとが過ぎている。

 また、余震が起こってあれが来るまでは、余裕がある様な気もしたが、危険な事はしたくないのだろう。

 出歩いているこちらとしても、そろそろ戻った方がいい。

「ああ、長居したな」

 いつも通り領収証をもらって、店を出た。

 殿を連れて、とりあえずめん吉の店に戻るつもりだった。

 観光街の裏通りを歩いていたジョン太は、足を止めた。

 妙な顔をして空中を見上げてから、ふいに耳を塞いだ。

 これはヤバイ。

「もう来るのかよ」

 とにかく、地面から離れなければ。

 鯖丸は、ジョン太の腕を掴んで、空中へ逃れる準備をした。

 それから、殿の方を振り返った。

 異界人が、こちらの助けが必要とは思われないが、一応確認した。

「屋根に上がるけど、引っ張った方がいい?」

「いや、大丈夫。君らもここに居なさい」

 魔法の事で異界人に意見するのは、釈迦に説法もいい所だが、先刻のあれを見ているので、鯖丸は躊躇した。

 ジョン太はもう、耳を塞いだまま動けなくなっている。

 聞こえる者には、相当な騒音らしい。

 空気が異様に振動しているのが分かった。気のせいかも知れないが、皮膚が少しひりひりする。

 戸外で見て、あれがどうやって来るのかが分かった。

 それは、城ではなく、背後の穴から始まった。

 穴の上空の空気と空間が、異様に歪むのが分かった。

 この場所からは直接見えないが、あれがじわじわ近付いて来るのが分かった。

 周囲の店や民家は、一斉に戸を立て、息を潜めている。

 思っていたより早く、それは来た。

 コンクリの上に、黒い染みを作りながら広がる水のように、地面を暗い色に染めながら、水のような空気が音もなく近付いて来る。

 続いて振動が来た。

 城の周囲を、黒い霧のような物が飛び回り始めた。

「吾輩から離れないように」

 殿が注意した。

 あれは、殿を避けて通った。

 そこに何かの囲いでもあるかの様に、殿の周囲に、丸い乾いた空間が取り残された。

 ジョン太が、魔力レベルを調節しているのが分かった。

 今起こっているこれは、魔力が高い方が影響が少ない。

 城の周囲をぐるりと回ってから、霧のような物が来た。

 近付くとそれは、先程すりガラス越しに見た影だと分かった。

 羽根のような物が生えて、コウモリの様に飛行して来る物、蛇の様にうねる物、空中をうごめきながら這い進む物、それぞれの形は違っていて、そして輪郭はぼんやりしていて、しかしおぞましい姿をしていた。

 影のような化け物の集団は、水と同じく殿を避けて通った。

 うかつに近寄った物は、火で焼かれでもしたかの様にはじかれ、形を変え、悲鳴だと思われる異音を発した。

 はじかれる直前に、鯖丸は間近でそれを見てしまった。

 黒いもやもやした、しかし不気味な姿のそれは、腹らしき部分だけが肉色だった。

 あり得ない形に歪んだ人の顔が、化け物の腹からこちらを見た。

 恐ろしいとか、気持ち悪いとか、そういう言葉には出来ない、奥深い部分から来る嫌悪感が襲った。

 吐きそうだ。

 水のような空気と、化け物の群れは、来た時と同じに引いて行った。

 殿は、巣穴に帰るコウモリの様に、城へ向かって飛び去る黒い群れを睨んだ。

 その口から、奇妙な音が漏れた。

 先程の化け物が発した音に、少し似ていた。

 殿が、人間の擬態を忘れて、素に戻ってる。

 すぐに気が付いたらしく、殿の表情と口調が、いつもの調子になった。

「なに、無害な動物だ。こちらで言えば鳥とか蛇とか熊とか」

「待て、最後の奴無害じゃない」

 ジョン太は一応突っ込んだ。

「しかし、思いの外規模が大きい」

 殿は言った。

「君達は仲間を連れて来たな。案内してくれたまえ。皆でこの事態を収拾しよう」

 そもそも、この事態がどういう事態なのか、殿以外にはまだ誰も分かっていなかった。

 ふと気が付くと、周囲の民家と店から、隠れていた皆がこちらを見ていた。

 化け物を見る目付きだった。


 めん吉の店の二階で、皆は殿を囲んでいた。

 うどん屋の奥と二階は、住居になっていたが、明らかに客が使用するらしい、家具も荷物もほとんどない部屋が、一階の奥と二階にあった。

 何か、うどん屋と情報屋以外の仕事もやっているのだろう。

 内容は聞かない方が良さそうだ。

 その、二階にある六畳間に、皆は車座になっていた。

「おそらく、あと一度で魔方陣は完成する」

 殿は、出された渋茶をすすって、言った。

「そうなれば手出しも可能だ。皆で行って、あれを壊してしまおう」

「あれというのは…」

 トリコが聞いた。

「城を壊してしまって、いいのか」

「かまわんよ」

 殿は、何でもない事の様に言った。

「これで、我が弟子がしでかした不始末も、全て収拾出来る。もう、城は必要なかろう」

 まるで、これが終わったら居なくなってしまう様な言い方だ。

「殿は、異界に帰るの?」

 鯖丸は聞いたが、殿は答えなかった。

「次が来たら城へ戻るつもりだが、どうだね」

 反対に、皆に聞いて来た。

「ああ、俺はそれでいいが」

 ジョン太は、トリコの方をちらりと見た。

「いいのか?今日中には帰れないぞ」

「ああ、そのつもりで来た」

 トリコはうなずいた。

 託児所か知人に、由樹を預けて来たという事だ。

「お前の所は、報告に戻らなくていいのか」

 菟津吹にたずねた。

「ええ、大丈夫ですよ」

 自衛隊の包囲を突破しようと言い始める様な奴だ。実際には、大丈夫ではないのかも知れないが、深く問い詰めるのは止めた。

 皆から少し離れて、部屋の隅に座っているフリッツを見た。

「お前も来るのか」

 そこだけ英語になった。

 殿が怪訝そうな顔をした所を見ると、この異界人は、人間の言葉は日本語しか分からないらしい。

「お前が一番魔力が低いから、聞いてるんだよ」

 ジョン太は言った。

 容赦のない言い方だが、フリッツは特に気にする風でも無かった。

「同行する。邪魔だと思ったら、その時置いて行けばいい」

 およそ、気が強くてプライドの高いフリッツらしくない言い方だった。

 いや…トリコ以外が知っているのは、二年前のフリッツだ。

 あれから、色々あったのかも知れない。

 ジョン太はうなずいた。

「じゃあ、次のあれが起こるまで、休憩だ」

「宿泊費はもらうぜ」

 横合いから、めん吉が声をかけた。


 次の余震は、中々来なかった。

 既に夜になってしまっている。

 いつになく歩き回って疲れたのか、トリコは部屋の隅に布団を敷いて寝てしまっていた。

 菟津吹も、横になってうとうとしている。

 いつあれが来るか分からないので、締め切った部屋の中は蒸し暑かった。

 ジョン太は、その辺を見回って来るという口実を作って、夜風に当たりに行ってしまった。

 めん吉は、店を開けられる予定も立たないのに、下の店で仕込みをしていて、殿はそれを見物していた。

 窓の外を、魔導変化した蛍が数匹、飛んでいる。

 外界の蛍よりも輪郭の柔らかい、しかし大きな光で明滅しながら、窓の外を横切った。

 虫の声も無数に聞こえる。

 街が息を潜めて、灯りもほとんど消してしまっているので、それは余計に耳に付いた。

「フリッツは」

 鯖丸が話しかけたので、窓の外を見ていたフリッツは、振り返った。

 汗でじっとりしたTシャツを脱いで、うちわを使っている。

 よく見ると、微細な魔法で空気の流れを循環させているが、大した効き目は無さそうだった。

「トリコと離れてて寂しくないの」

 何でいきなりそんな事を聞くのかと、フリッツは怪訝な顔をした。

 二年振りに会って、いきなり聞く様な話題でもないと思う。

 大体俺ら、友達でも何でもないし。一度、一緒に仕事をしただけだ。

 眠っているトリコの方をちらと見て、それだけでもないかと思い直した。

「寂しいが、我慢出来ない程でもない」

 意外と素直な答えだった。

 ツンデレは廃業したのか?

「今時、連絡も取れない場所なんて、あまり無いし」

 多分、魔界くらいだ。魔界だって、時間をかければ手紙くらい届く。

 こいつ、何の話がしたいんだろうなと思いながら、フリッツは逆にたずねた。

「お前、まだトリコの事、好きなのか」

「そうだよ」

 意外とあっけない口調で、鯖丸は言った。

「フリッツが考えてる様な意味じゃ、ないと思うけど」

 良く分からないが、ライバルにしたいタイプではない。

「何て言うか、家族みたいなもんかな。俺が一方的にそう思っているだけかも知れないけど」

 鯖丸がR13の出身だというのは知っていた。

 きっと、家族も親族も居ないだろう。

「何だ。じゃあ俺の事は兄ちゃんって呼んでいいぞ」

「フリッツそういうキャラだった?気持ち悪い」

「元々、お前が変な事を聞くからだ」

 一応抗議した。

 二年の間に何があったのか知らないが、ダメっぽい所は残っているが、人柄は随分丸くなっている。

 色々あったのだろう。

「遠距離恋愛のコツでもあったら、教えてもらおうと思って」

「何だ、悩みがあるなら兄ちゃんに相談しなさい」

 フリッツは、チェシャ猫の様に笑った。

「うん、断る。何かキモい」

「お前が言い出したんじゃ、コラぁ」

 腕ひしぎ十字固めが決まった所に、あれが来た。


 フリッツが両手で耳を押さえてしまったので、関節技は簡単に外れた。

 めん吉と殿が、二階に駆け上がって来た。

 少し遅れて、ジョン太が二階の窓から入って来た時には、鯖丸がフリッツに首四の字を決めていた。

「お前ら、何遊んでるんだ」

 騒音が止んだらしく、体勢を立て直したフリッツは、技を返して弓矢固めまで持って行った。

「ギブって言えー」

「嫌だぁ、まだ負けてない」

「いい加減にしろ、お前ら」

 ジョン太は二人を引き離した。

「来たぞ」

 菟津吹はとうに起きていた。

 トリコも、しぶしぶ目を覚ましている。

 あの、水のような空気は、さすがに二階までは来なかった。

 しかし、窓の外には不気味な影が飛び回っている。

 ハイブリットの二人には、暗い空を飛び回るそれがはっきりと見えるのか、不快な物を見てしまったという風に、視線を反らせた。

 殿が居るせいなのか、窓の近くまでは飛んで来ないが、別の民家が、それにたかられるのが見えた。

 窓を破って入る事は無さそうで、あわてて灯りを消した民家の窓から、それは離れて行った。

 どこかで悲鳴が上がった。

 うかつに外に居たのか、暑さに耐えられず窓を開けていたのか。

 騒ぎは唐突に引いて行った。

 黒い影も城のある方へ帰って行く気配だった。

 殿が、奇妙な動作をした。

 人間なら、耳を澄ませる様な感じだろうか。しかし、音は聞いていないのが分かった。

 空気がしんと静まりかえった。

 それから突然、突風が吹いた。

 窓ガラスがびりびりと震え、家がきしむ程の風だった。

 それは、外界の方から来ていた。

 まるで、今まで広がり続けていた魔界の反動が、吹き戻って来たかの様だった。

 風は、徐々に止んだ。

 ゆっくりと平安が戻り、再び虫が鳴き始めた。

「さて」

 殿が言った。

「出発だ、諸君。覚悟はいいかね」


 目指す方向にある城は、暗がりの中で薄く発光していた。

 今まで、そんな状態は見た事がない。

 光は、うすぼんやりと、人が呼吸するくらいの間隔で明滅した。

 六人の…五人の人間と、一人の異界人は、城へ向かっていた。

 おそらく一キロ程度の道のりだ。

 普通に歩けば、登りがあるとはいえ二十分もかからない。

 しかし、何かあった時の逃げ足を確保する為に、軽トラとオフローダーで、行ける所まで行く事にした。

 青い稲穂が実り始めた水田の間を、狭い道を抜けて一行は進んだ。

 軽トラとバイクのヘッドライトは、用心の為に消している。

 あの、影のような化け物が、灯りにたかるのを見てしまっているからだ。

 夜目の利くハイブリットの二人が、運転を担当して、一行はそろそろと城へ近付いていた。

「ここで停めよう」

 コンクリートで舗装された農道の終点で、軽トラのハンドルを握っていたジョン太が、聞こえるか聞こえないかの声で言った。

 バイク運搬担当のフリッツは、それでも聞こえたらしく、軽トラに並んでエンジンを停止した。

 助手席定位置のトリコが降りて、鯖丸と菟津吹は荷台からそっと地面に足を付けた。

 理由は分からないが、軽トラの屋根に座っていた殿は、気が付くと側に立っていた。

「うわ、これはヤバイな」

 ジョン太の言葉に、フリッツは低くうなって答えた。

 夜目の利かない人間には、周囲の状況は分からない。

 薄暗く明滅する城のせいで、かすかに辺りは見えるが、かろうじて転ばないで歩ける状態だ。

 足下で、にちゃりと音がした。

 何か、生暖かくて嫌な感触の物を踏んでいる。

「見るか?」

 ジョン太が、鯖丸の腕を掴んだ。

 けっこう忘れがちになっていたが、リンクを張っているので、その気になればある程度視覚をこちらに送り込める。

 自分が見ているのとは全く違う、明るい夜景が流れ込んだ。

 色彩はにぶいが、夜とは思えない、くっきりとした景色だ。

 ジョン太は、こんな風に見えているのかと感心して、それから出かかった声を飲み込んだ。

 城に、根が生えていた。

 城の表面を覆いながら、血管のように張り出した根が、地面を縦横に這い回り、光の明滅と共に脈動していた。

 自分が踏んでいたのは、その、血管のような根の一つだった。

 足下から腐臭が漂って来た。

「見せろ」

 トリコが、鯖丸に触れた。

 ジョン太から鯖丸を経由した情報は、多少劣化したが、それで充分だったらしい。

「腐ってるぞ、これ」

 トリコは言った。

 情報的に置き去りにされた菟津吹は、何か言おうとしたが黙った。

 殿が口を開いたからだ。

「人間にしては、よくやっている」

 殿の、人じゃない目線を語られても、正味どうしていいかは分からない。

 これを本当に浅間がやっているんだろうか。

「あいつの魔力ランクって、Aの中間くらいだよね」

 決して低くはないが、ここまでの大事を起こせるとは思えない。

 いや…そもそも、どんなに魔力が高くても、人間にはここまでの事は出来ない。

「諸君らが、何を基準に分けているのかは知らんが、この魔方陣は、技術と知識が重要だ。力は、余所から持って来れる」

 殿が言った。

 何だかとっても、嫌な予感がする。

「それはまさか、持って行った人の魔力を吸い上げてるとかじゃないよね」

 鯖丸は聞いた。

「君は察しがいいね」

 褒められたけど、全然嬉しくない。

「じゃあ、俺とかトリコって、いいカモじゃん」

「そうだ。捕まらない様にな」

 今頃になって、変なアドバイスをしている。

 そういう事は早く言えとか、異界人に言っても仕方ないのだろうが。

「気を付けるよ」

 一応言った。


 闇に紛れて、城の入り口まではたどり着いた。

 城の通用口は開いていた。

 葉脈のように城の表面を覆った物は、木の扉には及んでいなかった。

 中は薄暗い。

「おじゃましまーす」

 小声で要らん事を言って、鯖丸は中に入った。

 中は見慣れた城の光景で、石と木で出来た廊下が、上へ続いていた。

 入り口の横に、見張りが使っていた、昔の小学校から持って来た様な椅子が転がっているが、中は無人だった。

 しかし、上には確かに、何かが居る。

 ジョン太が先頭に立って、フリッツが列の最後尾に付いた。

 夜目が利いて身体能力の高いハイブリットの二人は、ランクSが二人居ても、それが当然の配置だと思っているらしかった。

 城を囲む様に螺旋状に巻いた通路を、一行は上へ向かった。

 壁の様子が、少しずつ変わって来た。

 外で見た血管の様な物が、白い壁に浮き出ている。

 その密度が、徐々に濃くなっていた。

 奥の部屋から、何かが出て来た。

 それが何なのか、最初は分からなかった。

 ずるりと、肉色の触手を引きずって、じりじりとこちらへ近付いて来る塊が、あの、根の様な、血管の様な物を体中から生やした人間だという事に、やっと気が付いた。

 こちらを向いた顔には、見覚えがあった。

 浅間側に付いてしまった、蒲生組の構成員だ。

 開いた襖の向こうに、部屋の内部が見えた。

 部屋の大半は、気味の悪い肉色の根で埋め尽くされていた。

 外にある物の様に腐りかけてはいないが、むわっとする湿気と共に、生臭い空気が漏れ出した。

 天井に近い部分は、やけにもやもやと真っ黒だった。

 菟津吹が、悲鳴を飲み込むのが分かった。

 男は、その部屋から生えていた。

 引きずっている様に見えた触手は、部屋の中の肉塊と繋がっている。

「まさか、こんな所まで来るバカが居るとはな」

 目を覆いたくなる姿の割に、口調はまともだった。

「殿様まで居るのか。俺の手に負えるかな」

 言いながら、ずるずると触手を脱ぎ捨てた。

 中から出て来たのは、意外な事に派手なアロハシャツを着た、普通の人間だった。

 魔法攻撃は、いきなり来た。

 空気操作系の衝撃波が、限られた空間を塞ぎながら、通路一杯に来た。

 鯖丸が、反射的に出した空気の壁で押し留めている間に、トリコが放った水の魔獣が、衝撃波を吸い込み、飲み下した。

 魔獣の半透明な体表が、ぶるぶると震えてから止まった。

 二人のハイブリットが、間髪入れず前へ出て、男を取り押さえた。

 菟津吹は、どこから手出ししていいのか分からず、傍観した。

 殿はまだ、身動きもしていない。

 薄いコートのポケットに手を入れて、悠然と立っている。

「意外と強いな、こんなだったか、こいつ」

 蒲生組の構成員とは、以前仕事で何度かやり合っている。

 この男がその時居た記憶はあるが、何の印象もない。

 その程度の魔法使いだったという事だ。

 今は違う様だが。

 しかし、異界人とランクS二人と戦闘用ハイブリット二人。菟津吹にしても、魔法使いとしては強い方だ。

 魔力が上がっているとはいえ、一人で止められる面子ではない。

「浅間の所へ案内しろ」

 ジョン太が銃を抜いていた。

「こんな所にお化け屋敷作って、何やってんのか聞きたい」

 フリッツが、男を後ろから羽交い締めにしていた。

 戦闘用ハイブリットの反射速度で関節技をかけられたら、どんなに強力な魔法使いでも逃れる術はない。

 その気になれば、相手が魔法を出す前に絞め落として意識を奪えるだろう。

 男は全く動じなかった。

 フリッツに拘束され、ジョン太に銃を向けられているのに、表情は平静だ。

「あの人は上に居る」

 男は言った。少し、楽しそうな口調だった。

 奥の部屋で、何かがうごめいた。

 水が流れ出す様に、黒いもやもやが、部屋から出て来た。

 それが、あの地震の後に来る影と同じ物だと分かるのに、少しかかった。

 気が付くともう、周囲を囲まれていた。

 もやもやと空中を漂いながら、次第に形を露わにして行く。

 それは、悪夢に近い物だった。

 百鬼夜行の絵巻や、ボッシュの絵画に似ていなくもないが、ユーモラスな部分は全く無かった。

 気が付くと、派手なアロハシャツの男は、フリッツの腕から抜けていた。

 余裕があったのは、はなから自分が侵入者の相手をする気など無かったからだ。

 殿が居るせいで、化け物達は近づけない様子だったが、囲まれてしまって、こちらも一歩も動けない。

 一つ一つの化け物には、それぞれ出鱈目な位置に、歪んだ人の顔が付いていた。

 恐ろしいと言うより、生理的に嫌悪感を催す相手だ。

 殿は、平然として皆の中心に立って、化け物を遠ざけていたが、時折勇気がある者なのか、単に無謀なのか、殿から離れた者に襲いかかった。

 アロハシャツの男を追おうとしたフリッツは、化け物にたかられて、舌打ちしながら後退した。

「大丈夫か、お前。吸われてるぞ」

 トリコが言った。

「体がだるい」

 フリッツはうなった。

「体温が下がっていますよ。生体エネルギーを吸われたのか、単に熱を奪われたのかは、分かりませんけど」

 菟津吹が言った。

 黒いもやは、通路の向こうからもどんどん吐き出され、数を増していた。

「吹き飛ばしてみる」

 鯖丸が、刀を抜いて前へ出た。

 次第にもう、背後より前方の影が濃くなっている。

 鯖丸は、意外と本気だった。

 これがヤバイと、何となく感じているのだろう。

 追い詰められた時くらいしか見せないくらい、本気の表情で、抜いた刀に魔力を溜めている。

 普通の魔法使いなら、あり得ない速さで繰り出された空気の鎌が、通路を薙ぎ払った。

 菟津吹は、ため息をついた。

 ここまで速くて強いとは思わなかった。

 噂半分で聞いていたが、高い依頼費を払っても、これならおつりが来る。

 しかし、めったに見られない様な、見事な魔法攻撃は、影を素通りした。

「うぇ…」

 けっこう傷ついたらしい鯖丸は、変な声を出した。

「魔法が効かないのか」

 トリコが、水の魔獣をけしかけてみたが、物の見事に通り抜けた。

「ちっ」

 銃を抜いていたジョン太は、用意していた魔法弾を、一応何発か撃ち込んだ。

 火炎系の魔力がこもった弾丸は、任意の場所で爆発させたり、相手を焼き払ったり出来るはずだったが、期待していた様な魔法の発動は無かった。

 それなのに、弾をくらった化け物は、床に落ちた。

「あれ…」

 ジョン太は、首を捻って考え込んだ。

 それから、全く魔法を使わずに、銃弾だけを相手に撃ち込んだ。

 化け物が、ばさばさともがいて、床に落ちた。

「こいつら、もしかして、物理攻撃にはめっちゃ弱くね?」

 殿に聞いた。

「我々の世界の物は、物理攻撃には弱い。周知の事実だ」

「早く言え」

 ジョン太は、手近の化け物をぶん殴った。

 それは、あっけなく床に落ちた。

「よっしゃー」

 刀を構えた鯖丸は、前へ出ようとした。

「止めなさい」

 殿は止めた。

「吾輩は別に構わんが、致命傷は与えない方がいい」

「え…?」

 床に落ちた影が、変化し始めていた。

 黒いもやの様な影が、徐々に四散し、周囲に消え、歪んだ人の顔が、影の中から露わになった。

 それは、もやから吐き出され、形を取り、胎児の様に体を丸めた人の姿になった。

 意識があるのか無いのか、薄ぼんやりとした顔で、ただ横たわっている。

「これ…」

 鯖丸の表情が引きつった。

「人間?」

「向こうから出て来た奴らじゃないのか」

 ジョン太は、殿を問い詰めた。

「そうだ。しかし弱い物達だ。こちら側に留まるには、媒体が要る」

「掠って行った人達を…」

 さすがに、剛胆なトリコも、顔色を無くしている。

「問題ない。倒し方が分かったんだ」

 フリッツが言った。

「殺さない程度に叩けばいいのだろう」

 一度抜いていたナイフを、ベルトに戻して身構えた。

 ジョン太も、銃をホルスターに納めた。

 魔界で、回復魔法が使えれば、たいがいの人間は一発や二発撃たれたくらいでは死なないが、後味が悪い。

 戦闘用ハイブリット二人が、前方を引き受けたので、鯖丸は敵影の薄い後方に回った。

 トリコは魔法が使えなければ戦力外だし、菟津吹もそれ程は当てにならないだろう。

 殿は、そもそも手出しをするつもりがあるのかどうかも、不明だ。

 刀の刃を返して、背の部分で空中を薙ぎ払った。

 影が落下し、次々と人の姿が現れた。

 年齢も性別もばらばらな、一糸まとわぬ人々が、影の中から現れて横たわった。

 若い者も年寄りも、子供まで居る。

 中には、ペットだったらしい犬や猫まで混じっていた。

 後方で、アロハシャツの男が、奥の部屋に逃げ込むのが見えた。

 部屋に積み重なった、肉塊の様な根が、男を飲み込んだ。

 一本の根が太さを変えながら脈動し、男をどこか別の場所に送り出すのが見えた。

 見た目は普通だったが、まともな人間の行動ではない。

 これは…この状態は、何も分からないまま先へ進んで、大丈夫なのだろうか。

 前方の影が、ほぼ倒されていた。

 戦闘用ハイブリットが二人も居るのだ。

 物理攻撃で負ける要素は、全く無い。

「このまま行きますか」

 思っていた事を、菟津吹が先に聞いた。

「用心に越した事はないが、行ける所までは先に進もう」

 ジョン太は言った。


 螺旋状に城を巻いた通路を、皆は上へ向かった。

 黒い影の化け物は、時折行く手を塞いだが、倒し方が分かってしまった今となっては、大した障害にもならなかった。

 壁はもう、一面がびっしりと、根の様な血管の様な、肉色の管で被われていた。

 床に使われている石や、部屋を仕切る木戸や障子は、素材として馴染まないのか、そのままの姿だ。

 簡単に倒せるとはいえ、生理的に気味の悪い…しかも元々は人間を叩き伏せて行くのだ。

 皆は次第に無口になっていた。

 城を半分以上登った時だった。

 影の様な化け物は、もうほとんど出なくなっていた。

 掠って行った人間の数にも、限りはあるだろうが、そこまで沢山の化け物は倒していない。

 残りがどうなっているのかは、薄々気が付いていたが、皆はもう無言だった。

 すえた様な匂いの漂う城の中で、ハイブリットの二人も、嗅覚が鈍っていた。

 螺旋状に巻いた通路は、遠い先までは見通せない。

 だから、出会い頭だった。

 渋い色合いの和服を着たサキュバスが、行く手に立っていた。

 何だか少し、楽しそうに笑って、こちらを見ている。

「ここまで来たのね」

 バトルマンガの敵みたいな事を言って、笑った。

 サキュバスの魔法範囲は、半径百メートル。インドア戦で、一番会ってはいけない相手だ。

 幸い、トリコにはサキュバスの魔法は効かない。

「任せた」

 一緒に前へ出ようとしたフリッツの首筋を掴んで、ジョン太は後ろに引いた。

 気休めだ。

 城の中では、サキュバスの魔法から逃れる距離は取れない。

 後はトリコに任せるしかなかった。

「何でだ」

 サキュバスの魔法特性を知らないフリッツは、文句を言ったが、即座に黙った。

 皆、それどころでは無くなっていた。

 サキュバスの魔法は、特殊だ。性的な刺激を伴って、相手を支配し、正気を奪い、精力を吸い取る。

 ノーマルな指向の男と、試した者は居ないが、同性愛者の女相手なら、本名を押さえようが、魔力が格上だろうが、問答無用で支配して来る。

 既に、体の自由が利かない。

 結果は同じだが、魔法の効果には、個人差があった。

 自力で魔力ランクを変えられるジョン太が、一番マシな状態だった。

 菟津吹は、悲鳴を上げている。

 鯖丸とフリッツは、苦痛は感じていない様子だが、全く動けなくなっている。

「任せろ」

 トリコが身構えて前へ出た。

「何だ、つまらない」

 サキュバスは、動けなくなった鯖丸の方を見た。

「ちょっとの間に、どんだけ遊んでるの、あんた」

 菟津吹の方を向いた。

「まだ、あんたの方が美味しそう」

 待て、それ、何のどういう基準だ。

 以前、サキュバスに捕まった時の様な苦痛は、確かに無かった。

 るりかと魔界に入った時にもそうだった。

 もしかして、性体験の少ない方が、サキュバスの魔法を苦痛に感じるのか?

 最初に見た時は、百メートル範囲の外からでも、吐くほど不快だった。

 しかし、釈然としない。

「待てぇ、経験豊富な超絶テクの方が重要だろうが」

「何でしゃべれるの」

 サキュバスは聞いた。

「すいません。何か、こんなにしちゃった一因は私なんで」

 トリコは一応謝った。

「それはそれとして、お前は倒す」

「まぁ、大変」

 サキュバスは笑った。

 トリコには、サキュバスの魔法は効かない。

 そうなれば、どう考えても勝ち目はないはずだった。

 サキュバス一人が相手なら。

 温存されていた影の化け物が、サキュバスの背後から現れ、押し寄せた。

 物理攻撃能力は、平均以下のトリコは、しばらくの間抵抗したが、影に取り押さえられた。

 状況から言えば、全滅だ。

 撤退すら出来ない。

 唯一頼りになりそうな殿は、微動だにしない。

 ひたひたと、地震の前に現れていた、水の様な空気が来た。

 城の上から、傾斜した通路を降りて来たそれが、間近に居たトリコの足下に触れた。

 まばたきする程の間に、トリコが視界から消えた。

 何の抵抗も出来なかった。

 フリッツが、日本語でも英語でもないスラングで何か罵りなから、一歩前へ出た。

 この状況で動けるのが凄い。

 ハイブリットだからとか、そういう事ではない。これは、気合いの問題だ。

「あんたは要らない。混じってるから」

 サキュバスは、手の平を空中で払った。

 フリッツは後ろによろけて倒れた。

「あんたも」

 ジョン太が、同様に追い払われた。

「それとあんた。人じゃないくせに、気持ち悪い」

 指さされた殿は、その場で止まった。

「これとこれ、もらって行くわ」

 鯖丸と菟津吹を指さした。

「すいません、逃げます」

 菟津吹が叫んだ。

 サキュバスの支配下なのに、魔法が発動していた。

 瞬間移動能力だが、通常の物とは少し違っていた。

 自分の周囲を巻き込み、近隣の空間ごと移動しようとしている。

 どういうからくりか分からないが、今は撤退するのが賢明だ。

 フリッツが、訳の分からない事を叫びながら、前へ出ようとした。

 ジョン太が、どうにか力を振り絞って、首根っこを捕まえ、更に鯖丸の方へ手を伸ばした。

 鯖丸が、気が付いてこちらへ手を伸ばした。

 何か言おうと口を開いたまま、トリコ同様に持って行かれた。

 瞬間、菟津吹が範囲内に取り込んだ皆の姿が、その場からかき消えた。

 ジョン太が、相棒の名前を呼びながら手を伸ばしたのは、城から随分離れた、田んぼの真ん中だった。

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