三話・魔界大決戦 vol.2
一つの仕事を受けたのに、その後何日も呼び出しが無いのは、初めてだった。
平穏無事な毎日が続いていた。
個人的には色々あったが、少なくとも世間は平穏だった。
鯖丸は有坂カオルの父親に呼び出されていた。
「すいません、遅くなって」
塾のバイトが終わった後、また中学生の群れに捕まっていた鯖丸は、詫びを言ってから席に着いた。
あいつら、時給計算の俺相手に、いい加減にしろとは思うが、頼られると断れないのだ。
それに、塾のバイトは安定した収入源だ。生徒からの評価を落としたくはない。
「言い訳があるなら聞くが」
有坂の父親は言った。
すっかり空になったコーヒーカップがテーブルの上に乗っている。
「いえ…した方がいいですか?」
有坂と同居する時に、一応挨拶には行ったが、その後は会っていなかった。
自分が知らない所で、家族の間で色々あったのだろうが、その辺の事は聞かされていない。
「いや、今日はそんな話じゃない」
やって来たウェイトレスに、自動的にコーヒーを注文されてしまった。
紅茶の方が良かったのに…。
有坂の父親は、しばらく迷ってから、切り出した。
「君は、今後どうするつもりなんだ」
「もう少し具体的に聞いてもらえると、助かります」
「将来的にカオルとどうしたいのか聞いているんだよ」
まぁ、そんな話だろうとは思っていたが、単刀直入に聞かれるとは思わなかった。
「あの…まだ決めてないんですけど」
恐ろしい顔で、睨まれてしまった。
「個人的には色々希望はあるんですけど、一人で決められる事じゃないので」
「個人的な意見を聞きたい」
そんな事、本人より先に、何でオヤジに告白しなきゃいけないんだ。
運ばれて来たコーヒーに、砂糖をがしがし入れながら、武藤玲司は俯いた。
「それは、卒業したら直ぐに結婚して、幸せな家庭を築きたいと思ってますよ。でも、思い通りにいかないのが世の中だから」
「ああ、やっぱり」
有坂の父親は、がくりと肩を落とした。
「武藤君、君には失望したよ」
勝手に失望されても…。
「留学には反対なんですね」
缶コーヒーより甘くなってしまったコーヒーを一口すすってから、鯖丸は聞いた。
「遠い外国で苦労するより、近所の変な奴の所へ嫁に行く方が、まだマシだ」
ダメだ。このおっさん、ただの親バカだ。
「溝呂木君とは懇意にしているから、君の事は知っている。過去に色々あった事も」
「そこまで知っていて、留学させるのは嫌なんですね」
分からなくもない。
短期の気楽な留学ならともかく、有坂が目指しているのは、大学院で学位を取って、研究者になる事だ。
日本に帰って来るつもりがあるのかすら、時々疑わしくなって来る。
しかし、目標を決めて努力する事を否定されたら、どれくらい辛いかも良く分かる。
俺は一体、どうすればいいんだろう。
「どうしたらいいのか、正直分かりません」
率直に言った。
「でも、話し合ってみます」
「ダメだ。説得するんだ」
有坂は、温厚に見えて、絶対意見を曲げない。
無理っていうか、遺伝だ、あんた達は。
「期待はしないでください」
一応言った。
それより一日前。
魔界を出て如月トリコが家に帰ると、フリッツが居た。
何の予告もなしに現れたので、本気で驚いた。
「げっ、突然居る」
軽く引くと、フリッツは涙目になった。
「ひどいよ。一週間前からメール送ってたのに」
「パソコンに送るな。ケータイに送れ」
パソコンではめったにメールチェックしないトリコは言った。
「じゃあ、衛星通信ケータイに換えてくれよ」
今持っている普通のケータイでは、地球外の通信をフォローしていない。
「基本料金が高くなるから、嫌だ」
言い切られたフリッツは、がくりとその場に座り込んだ。
「やっと月から戻って来たのに、そんな言い方って」
ケータイの契約料くらい、こっちで払うと言っても、聞いて貰えないのだ。
「もう、泣いちゃおうかな」
ぶつぶつ文句を言っていたら、ぎゅっと抱きしめられた。
「ずっと月に居たのか。大変だったな」
「知ってるなら、冷たくしないでくれ」
いちゃいちゃしている所へ、由樹が戻って来た。
「あ、フリッツだ。丁度良かった。頼まれたガンプラ買っといたから。シャア専用ズゴックとジオング」
「このバカ猫がー」
トリコは、フリッツの首を絞めた。
「スポーンじゃ飽き足らず、今度はガンプラか。どこの星の緑色の軍曹だー」
月に長期間居たせいか、割と弱っているフリッツは、簡単に絞め落とされた。
有坂に、父親から呼び出された話を切り出すには、しばらくかかった。
まぁ、ほぼ半分以上は、忘れていたのが原因だが、先延ばしにしたかったのも確かだ。
その日、家に帰ると郵便物が届いていた。
先に帰った有坂が、郵便受けから出して、部屋に持って上がったらしく、テーブルの上に目立つように置いてある。
宛名は『宗形様方武藤玲司様』となっている。
偽名で部屋を借りているが、郵便物まで届かなくなるとヤバイので、郵便局にだけは本名で転居届を出している。
案の定、届かないと後々困った事になるだろう、内定者向け企業説明会の案内だった。
日程は十月中旬になっている。
「こういうの、出ないとヤバイのかな…」
晩ご飯の支度をしている有坂に聞いてみた。
「そうだと思うけど、玲司君の方が詳しいでしょう」
今日は、味噌汁と冷や奴がおかずらしい。
こっちに皿を差し出したので、立ち上がって受け取った。
台所で水栽培している葱と、おろし生姜が乗っている。
「俺、四年の時は就活してないし」
一応、言い訳した。
「まだ内定なんだから、行った方がいいよ。どうせ、そこに就職するつもりなんでしょう」
「うん、そのつもりだけど、交通費って高いよなぁ」
「宅配で稼いだお金があるでしょう。行きなさい」
命令されてしまった。
「そうだなぁ、社員寮に空きが出なかったら、住む所も捜さないといけないし、ついでに色々見て来ようかな」
味噌汁と冷や奴って、今日はおかず少ないなと思っていたら、炊き込みご飯が食卓に並んだ。
世間にそういう食べ物があるのは知っていたが、自宅で出て来るのは初めてだ。
「うわ、何これ、うまそう」
「バイト先のおばちゃんに、作り方教えてもらったの」
スーパーでバイトしているので、周囲は主婦が多いらしい。
しばらくの間は、食べるのに忙しくて、会話が中断した。
ヤクザにもらった米がまだあるので、心置きなくごはんが食べられる。
二回目のお代わりをしてから、やっと話題に戻った。
「あのさ、カオルちゃん」
「何?」
真顔でこっちを見られた。
何で顔にごはんつぶ付けてるんだ、こういう時に。
「一緒に来ない?」
「ええと」
少し考えている様子だ。
「二人で旅行する程は、余裕無いと思うけど」
「そんな話じゃないよ」
じゃあ何と言いかけて、話の内容を察したらしく、黙ってしまった。
本当はもっと、お互いに先の事が決まってからにしたかったが、決まってしまったら、有坂は確実に何年か帰って来なくなる。
俺はそんなに、辛抱強くない。
「結婚してくれって言ってるんだよ」
しばらく、黙ったまま返事が無かった。
一分も無かったが、長く感じた。
有坂が全力で考え込んでいるのは、傍目にも分かった。
どういう答えが出るのかも、何となく分かっていた。
「そんな、先の事なんか、分からない」
真剣な顔で言われた。
「玲司君の事は好き。でも、自分の将来がどうなるのかも分からないのに、そんなの決められないよ」
「先って、もう来年なんだぞ。そりゃちょっとぐらいは待ってもいいけど、近いうちに決めてくれよ」
いいかげんな事を言われたと思ったので、厳しい口調になってしまった。
有坂は、何時になく厳しい顔で、こちらを睨んだ。
「玲司君はいいよね。将来の目標も昔から決まってて、努力して目標も達成出来て、本当にすごいと思うよ。でも、皆がそんな風に出来る訳じゃないの」
「俺のどこがいいんだ」
言われたくない部分に触れられてしまった。
「こんなの、替わってくれる奴が居るなら、すぐに替わってもらうよ」
「私は、そういう所好きなんだけど」
「ええ?」
聞き返した時には、不覚にも涙目になっていた。
「だって、決めた事は絶対やり遂げるもん。私もそうしたいの」
やり遂げなくていいから、一緒に居てくれと思った。
何となく、有坂パパの気持ちが、ちょっとだけ分かった気がした。
「留学出来るかどうか決まったら、ちゃんと返事するから、それまで待って」
試験は来月だ。有坂なら問題なく通るだろう。
父親を説得出来れば、ほぼ決定した様な物だった。
八割方、有坂は来年遠くへ行ってしまうな…と思った。
最初から分かっていた事だったのに、現実として把握すると辛い。
「嫌だ。イギリスなんか、宇宙より遠いじゃないか。俺、寂しいと死んじゃうから、絶対浮気するぞ」
とうとう、ウサギちゃんみたいな事を言い出した。まぁ、本物のウサギは寂しくても死なないのだが。
「まだ、行けるかどうかも決まってないのに」
有坂は、ため息をついた。
本人は、客観的に見た状態程は、自分の実力を評価していないらしい。
そして、結局は折れるだろうパパの親バカっぷりも、分かっていない。
「それは、大丈夫だと思うけど」
くそっ、真っ黒い手段で、留学を邪魔して、就職先に一緒に連れて行く手段は、いくらでも思い付くのに、絶対実行出来ない。
そんな事、本気でやったら最低だ。
「でも…」
話しかけた時、いきなりがつんと、世界が揺らいだ。
本当に、何が起こったのか、全く理解出来なかった。
うろたえればいいのか、どこかへ逃げればいいのか、平然としていればいいのか、見当も付かない。
部屋中がみしみし音を立てて揺れていた。
カラーボックスの上に積んでいた本が、なだれ落ちて畳の上に散らばった。
「やだ、地震」
有坂が、案外冷静な口調で言ったので、やっと状況を把握出来た。
地球に来てから、本気で家が揺れる様な地震を経験した事が無かったのだ。
自分的には、今後の人生に関わる大事な話をしている最中だったのに、ちょっとの間失念する程、驚いていた。
自然現象で地面揺れるのかよ、地球恐ぇえ。
「ニュース見ないと」
地球人の…特に日本人の地震耐性は高い。
テレビとケータイで情報を確認しながら、有坂は台所へ行ってしまった。
今時珍しくなったガス調理器の元栓を閉めている。
「震度四だって。まだ揺れるかも知れないから、用心してた方がいいわ」
揺れは収まったが、まだ微細な振動が続いている。
何で、そんなに冷静なんだ。地球育ちって、すげぇ。
「ここの建物って、耐震強度大丈夫かなぁ。一応、貴重品だけでも持ち出せる様にしておいた方が…」
自分のバッグに、確実にこの家で一番貴重品のノートパソコンと、生活費を入れておく用の財布を出して来て、仕舞っている。
「玲司君、大丈夫?」
「あーうー」
変な返事しか出来なくなっている。
貴重品は常に持ち歩く派なので(AVを含む)特に何の準備も要らないが、情けない。
有坂は、ほぼ死にかけみたいな顔になってしまった武藤君を見た。
ダメだこの人。自然災害の時は、全然頼りにならない。
「ま…まだ揺れるのかな?」
とうとう、怯えた小動物の様な目で、こっちを見始めた。本気でダメだ。
「余震はあるかも」
テレビの画面が、ドラマから臨時ニュースに切り替わっていた。
ケータイを睨んでいた有坂は、怪訝な顔をした。
「あれ、緊急地震速報が入ってない。玲司君のケータイは?」
「うん」
揺れが収まって、どうにか落ち着いた鯖丸は、崩れた本の下から、ケータイを発掘した。
地震の事なんて、今まで考えた事も無かったので、速報を受信する設定になっているかどうかがそもそも不明だったが、待ち受け画面のフラッシュニュースには、地震についての情報が流れていた。
テレビのニュースが、変な事をしゃべっているのに気が付いた。
「…尚、震源地が魔界内部である事、地殻の変動が観測されていない事等から、自然災害ではない可能性も…」
二人のケータイが、今まで聞いた事も無い様な警告音を鳴らし始めた。
続いて、画面が勝手に切り替わった。
『立石地区で地震発生 強い揺れに備えてください(気象庁)』
あまり意識した事も無かったが、魔界のある場所の地名だ。
「えええっ、まだ揺れるのかよ」
先程の揺れがあまりに恐かったので、鯖丸は本気で行動していた。
地震。ええと、オヤジが昔何か言ってた。地球に住んでた頃、すごい地震があって、大きい街がめちゃくちゃになって、その頃流行ってたスニーカーを買って来て、枕元に置いて寝てたから、どうにか逃げられたって。
「靴。何か良く分からないけど、地震には靴だって父さんが」
狭い部屋なので、靴を取って来るのはあっという間だった。
有坂が、そんなに慌てないでという顔をして、こちらを見た。
もう一度、どかんという感じで揺れが来た。
さっきより大きい。
揺れていたのがどれくらいの間だったのか分からない。
長い様に感じたが、後から考えるとほんの数十秒の間だったはずだ。
ろくに家具のない部屋なのが幸いだった。
気が付くと、二人で抱き合って部屋の隅に居た。
「今のは大きかったね」
さすがにちょっと青い顔をして、有坂が言った。
台所では、百均でせっせと買い集めた皿が割れて、古いタイプのアルミサッシにはまった窓ガラスには、少しひびが入っていた。
それだけで、大事には至らなかった。
引っ越しておいて良かった。
前のアパートだったら、建物ごと倒壊して死んでたかも。
テレビは、普通に映っていた。
しかし、何が起こっているのか、報道する方にも分かっていないらしく、ただ、地震が発生した事だけを繰り返していた。
「自然災害じゃないって…何だろう」
有坂は、不安げな顔で言った。
「それは、事故とか戦争とか」
宇宙で育った人間の感覚としては、まだその方が、誰が何をした訳でも無いのに地面が揺れるという出来事より理解しやすい。
しかし実際には、それは自然災害でも事故でもなかった。
トリコは、のんびり風呂に入っている時に、地震が来た。
全裸で避難するような事にはなりたくないので、急いで風呂を出て服を着た。
リビングでガンプラを組んでいたフリッツと由樹は、その場に倒壊したシャア専用ズゴックの前で、呆然としていた。
地震のせいなのか、八割方出来上がっていたガンプラが倒壊したせいなのかは、判然としない。
「ああああ、アイアンネイルがぼっきり…」
「ガンプラか…」
トリコは、力なく突っ込んだ。
「お前、本気でケロン軍に売り飛ばすぞ。それと、由樹を巻き込むな」
さすが全員地球人。耐震強度は鯖丸の三倍以上だ。(当社比)
「日本は地震が多いって、本当だったんだな」
いざとなったら、二人を連れて余裕で逃げられるので、フリッツは落ち着いていた。
「うーん」
トリコは考え込んだ。
「これ、地震かな」
「違うのか」
地震以外でこんなに揺れる理由を一通り考えたフリッツは、苦い顔をした。ろくな理由は思い付かない。
「何か、変な感じがする」
魔界でならともかく、外界のトリコは普通の人間だ。運動神経とかは、どちらかというと普通以下だ。
しかし、カンは鋭い方だ。
それに、さっきから、可聴域ぎりぎりの変な音が、かすかに聞こえる。
集中していないと、戦闘用ハイブリットの自分にさえ、ほとんど聞こえない様な音だ。
もしかして、けっこうヤバイんじゃないのかな、これは。
町内放送が「落ち着いて行動してください」と、お節介な情報を流し始めた。
続いて「避難勧告は出ていませんが、家屋の状態などに不安を感じた方は、最寄りの避難場所に避難してください。その際、慌てて行動せず、火の始末等を確認してください」と続いた。
そこまでは、町内会に配布されている固定メッセージで、後は、聞き慣れた町内会のおっちゃんの声で、朝田地区の避難場所は、西村小学校校庭ですと続いた。
「どうする?一応行くか」
トリコは、別にどっちでもいいという口調で言った。
小学校は、ここから見えるくらいすぐ近くだ。
「日本人は、震度六ぐらいまでは平然としてるって、本当だったのか」
由樹に至っては、普段と違う事件が起きたので、どちらかというとはしゃいでいる。
これ、俺の地元だったら大騒ぎだ。
「いやいや、震度六とかそういう大地震じゃないし、これ」
トリコは言ったが、一応避難場所まで行ってみるつもりらしく、財布と携帯だけ持って、コンビニに行く様な気軽さで靴を履き始めた。
「ついでに散歩でもして、ラーメン食って帰ろうか」
「やったー、おれチャーハンも」
由樹は、地震の避難に持って行く物としては絶対おかしい虫除けスプレーを手に取った。
こいつら、メインは河原の散歩とラーメンだ。
「何だ、この、文化の違いは」
それは、文化の違いではなく、確実に如月親子がおかしいだけなのだが、フリッツは考え込みながら二人の後に続いた。
安全に避難場所に着いた時、第二波の揺れが襲った。
大した人数は集まっていなかった。
津波が来る様な地区でもなければ、崩れる様な山や丘も、近くにはない。
せいぜい、幅五メートルもない川が、近所を流れている程度だ。
一応出て来てみました…という感じの人々が、世間話をしている所へ、第二波が来た。
寸前に緊急地震速報が入ったので、皆それ程慌てなかった。
表の道路を走っていた車が、次々と路肩に停止しているのが見えた。
フリッツの携帯は、日本の地震速報が入る設定になっていないが、周囲に居る皆の携帯が、一斉に異音を発したので、ちょっとびびった。
「おおー、この画面、初めて見た」
トリコと由樹は感心しているが、周りの人達は明らかに怖がっている。
良かった。日本人が変なんじゃなくて、この二人が変なんだ。いや待て、それ、全然良くないだろう、俺的には。
しかし、続いて起こると思っていたパニックは全く無く、皆はそれぞれ、ニュースを確認したり、周囲を見回したりして、状況を把握すると、それなりに落ち着いてしまった。
十分もしない内に、帰り始める者も居る。
誰かが持ち込んだラジオが、情報を流し続けていた。
『本日午後八時十六分、立石地区でマグニチュード六の地震が発生しました』
場所については、トリコには引っかかる所があったらしく、ちょっと厳しい顔になった。
由樹は、夜のこんな時間帯に、学校へ来るのが楽しいらしく、同じクラスの友達を見つけて、話し始めた。
夏休みなので、しばらく会っていなかった様子で、ゲームの話や近況報告に忙しい。
「あれ、如月さんも来てたの」
友達の母親らしい女が話しかけたので、トリコも世間話を始めてしまった。
もう、変な音も聞こえなくなったし、状況は落ち着いた様子なので、自分達も帰ろうと声を掛けようとしたが、話の腰を折るタイミングが掴めなくて、フリッツはその辺をぷらぷらしていた。
気が付いたトリコが、じゃあ、そろそろ行こうかと言った。
行き先は、家ではなくラーメン屋だ。
近所にあるのは知っていたが、こんな時に営業しているのか?
話し込んでいた女は、明らかにものすごく目立つ容姿のフリッツを見つけて、それ誰という顔をした。
原型に近いハイブリットだって相当珍しいのに、猫型なんて見るのは初めてなのだろう。
目立つのは慣れているフリッツは、適当にやり過ごそうとしたが、トリコに腕を掴まれて、引き寄せられた。
「ああ、これ、うちのダンナ」
トリコはしれっと言い切った。
「新しい方の」
「わぁ如月さん、相変わらず大胆」
相手も慣れている様子だった。
「前は高校生と付き合ってたのに」
それは、確実に成人…というかまぁ、鯖丸だ。
「これからラーメン食べて帰るんだけど、一緒にどう」
「うん、行く。どうせうちの人、今晩夜勤だし」
由樹と一緒にはしゃいでいる男の子に、声を掛けている。
「ええと…俺はどういうポジションに置かれているのか、一応説明を」
フリッツはお願いした。
「いいだろ。色々説明するのめんどくさいんだよ」
トリコは言った。
「嫌?」
「いや、全く不満は無い。むしろ、この状況を押し切りたいけど」
プロポーズを保留にされて約四ヶ月。
こんなにあちこち飛ばされる状況でなければ、もうちょっと進展はあったと思うが、いずれはどうにかなると思っていた。
もちろん、希望的観測としてで、実際どうなるかは不安だった。
トリコに、しっかり手を握られた。
「私に持病があるのは、知ってるだろ」
知っていたので、うなずいた。
最初に会った頃のトリコは、もっと若い…というより幼い外見だった。
心身成長同調不全症候群という病気で、魔界出身の、魔力の高い者だけがかかる病気だ。
無意識に、魔力で身体能力を底上げするので、肉体的な成長が止まってしまうが、それ以外に健康上の問題はないので、放置される事が多い。
トリコは、数年前から治療を続けていて、今では、魔界に入った時と、外界に出た時の外見は、それ程違わなくなっている。
「来年くらいには治療が終わるんだ」
そういう話をしてくれるのは、初めてだった。
「そしたら、お前と一緒に何処へでも行くよ。別に、今の仕事も辞めたっていいと思ってる」
あまりにも意外な事を言われたので、フリッツはどう返事をしていいか分からなくなって、黙り込んだ。
結論だけ見れば嬉しいが、トリコの様な魔力の高い魔女が、そんな事を言い出すなんて、尋常ではない。
魔界での経験値は、トリコに比べればずっと低いが、U08の事件以来、魔界関係の仕事にばかり回されているフリッツは、そこそこ魔界人の習性は理解していた。
「でも、その前に決着を付けたい事がある」
何か、本気でやり遂げたい事があるんだ、この人は。
それも、あんまり良くない事で。
止めようとは思わなかった。
休暇中だから、問題はない。出来る限りは協力しよう。
「分かった。俺は何をすればいいか言ってくれ」
トリコは、今まで見た事がなかった微妙な表情で笑った。
「とりあえず、ラーメン食べよう」
ジョン太は、晩ご飯の支度をしていた。
おまけに、揚げ物を作ろうとしていたので、油の入った鍋を火に掛けていた。
慌てない慌てない、こんな時は冷静に鍋を…
油がこぼれない様に手で押さえてから、その判断が全然冷静ではなかった事に気が付いた。
慌てて水を出して指を冷やしている間に、揺れは収まっていた。
「父さん、地震だ」
自分の部屋から出て来た拓真が、なぜか落ち着いた態度で言って、これから揚げるつもりだった鰯の大葉巻きにラップを掛けて、冷蔵庫に仕舞い始めた。
他にもっと優先する事が色々あるだろうに、親子揃って冷静にうろたえている。
遺伝って恐ろしい。
唯一、本当に冷静な美織ちゃんは、黙ってテレビを見続けていた。
ドラマの画面に、臨時ニュースの字幕が流れ始めた。
冷静ではあるのだが、何しろ小学一年生なので、むずかしい漢字は読めない。
ちょっと考えてから、キッズチャンネルに切り替えた。
チャンネルは子供向けなのに、字幕は大人バージョンだった。
「何これ」
文句を言いながらチャンネルを切り替えている内に、臨時ニュースに行き当たった。
台所であたふたしていた野郎二人も、一応自分なりに何かを確保して安心したらしく、テレビのニュースを見にやって来た。
拓真は、同時にケータイも確認している。
「魔界で地震だって」
美織は、隣に座った父親に言った。
「ああ」
ジョン太はうなずいた。
さすがに、もう平静に戻っている
「母さん、出ないんだけど」
拓真が、ケータイを耳元に当てたまま、不安げな顔をした。
みっちゃんは、今日も少し遅くなる予定だった。
「大丈夫だ。大きい病院だし、家に居るより安全だ」
内心物凄く心配だったが、息子を落ち着かせる為に、そう言った。
看護師なので、仕事中にいつでも電話に出られる訳ではない。
「救急で怪我人が運ばれてくるかも知れないし、多分忙しくて電話なんか取れないだろう。連絡は…」
揺れた時は驚いたが、果たしてそこまで大規模な災害だろうかと、ジョン太は少し考えた。
まぁ、ある物は使った方がいいかと思い直して言った。
「災害伝言サービスが使える様になってるか、確認してみろ」
「分かった」
しばらくケータイを操作していた拓真は「ダメだ、まだ使えない」と言って、メールを打ち始めた。
「ちょっと待てば使えるんじゃないのか」
多少のタイムラグは出るんじゃないかと考えたので、ジョン太は言った。
そう言えば、ニュースでは地震の発生を報じているのに、緊急地震速報が出ていないのは、どういう事だろうと思った。
たとえ、速報を出すのが遅れて、揺れてからのお知らせになったとしても、一応何か流すのが普通だと思うが。
実は、速報が出ていないのには理由があった。
緊急地震速報は、気象庁が出す物で、放送局とは管轄が違う。
明らかに揺れているので、放送局はそれぞれ独自に臨時ニュースやテロップを流していたが、気象庁は最初これを地震だとは判断していなかったのだ。
結果的に、それはある意味正しかった。
しかし、明らかに揺れているものを、無視する訳にもいかなかった。
第二波の前に、警報が入った。
テレビの画面に、不安になる様な警告音と共に、初めて見る地震速報のテロップが現れた。
ほぼ同時に、ケータイから嫌な音のアラームが鳴った。
第一波が来た後だったので、今頃になって警報かと軽く考えた。
しかし、意識の片隅に変な音が引っかかった。
ジョン太は、テレビを消して、耳を澄ませた。それから急に厳しい顔になって、拓真に言った。
「その音消せ」
「え?」
地震が起こった後なのに、情報源を消せなんて、おかしいんじゃないかという顔で見た。
しかし、普段、あまり厳しい事は言わない父親が、語気を荒くして命令口調になっているので、少し恐くなった拓真は、あわてて電源を切った。
変な音が聞こえた。
ぶうんというノイズが、遠い場所から伝わって来る。
美織も奇妙な音に気が付いた。
三人とも、ハイブリットの平均よりも、相当可聴域が広い。
音は微かだが徐々に大きくなっていた。
ヤバイ。何だか知らないけど、これは絶対ヤバイぞ。
ジョン太の対応は早かった。
元々、脊髄反射の状況判断は得意分野だ。
戦闘用ハイブリットと同等の反射速度を持っている子供二人が、抵抗も協力もする間もなく、首根っこを掴まれて、リビングテーブルとソファーの間に突っ込まれた。
がつんと、第二波の揺れが来た。
美織がきゃあと悲鳴を上げた。
棚が倒れ、さっきまで地震の状況を報道していたテレビがひっくり返った。
キッチンと玄関で、物が壊れる音がした。
幸い、それ以上の被害は起こらず、耳の奥に妙に残るノイズも、次第に小さくなって行った。
これは普通の地震じゃないなというのは、すぐに分かった。
元軍人だったので、その他の可能性も思い付いたが、あの、変なノイズは、そのどれにも当てはまらなかった。
とりあえず、倒れたテレビは、立て直すと普通に使えた。
拓真は、すぐに携帯の電源を入れていた。
今度こそ、災害伝言サービスが機能し始めたので、母親相手に伝言を入れている。
終わってから、更に別の所へ連絡を入れ始めた。
家族以外で、緊急時に誰と連絡取ってるんだと思ったが、相手は大体想像が付いていた。
こいつ、小学生のくせに彼女居るんだ。
まぁ、拓真のモテモテ度からしたら、分からなくもないが、親としてはちょっと微妙だ。
立ち直ったテレビは、地震情報を流していたが、報道側もまだ、詳細が分からないらしく、とりあえずの状況を繰り返していた。
しばらくニュースをチェックしていたジョン太は、助けを求める声を聞きつけて、立ち上がった。
「一緒に来てくれ。誰かエレベーターに閉じ込められてる」
二人の子供達も、聞こえたらしくうなずいたが、拓真は一応父親を止めた。
「分かったけど、パンツ一丁で裸エプロンの格好では、外に出ない方がいいと思うよ」
原型タイプの犬型ハイブリットは、普通の人間より暑さに弱いので、夏場のプライベートは、割と大変な姿になっている。
とりあえず、世間的にセーフの範囲内まで服を着たジョン太は、子供ら二人と部屋を出た。
広くてけっこう洒落た作りだが、築年数は古いマンションは、エレベーターも旧式だった。
声のする三階上の階まで行ってみると、若い女が廊下うずくまっていて、管理人が声をかけている。
どうやら、彼女の夫と子供が、地震発生時に止まったエレベーターに閉じ込められているらしい。
管理人室には、エレベーター内からの緊急電話が直通しているが、通話出来るから問題を解決出来る訳ではない。
通常の事故なら、警備会社に連絡して、すぐに対応してもらえるのだが、災害時なのですぐには来てもらえないという話だった。
この程度のアクシデントなら対応出来ると説明してから、エレベーターのドアをこじ開けた。
声をかけると返事があったので、そのまま停止しているエレベーターの上に降りて、天井の換気口を開き、閉じ込められていた三人を救出した。
もう一人は、宅配便の配達員だった。
礼を言われたが、めんどくさいのですぐに自宅に戻った。
拓真のケータイには「あんまり慌てないで。今日は帰れない」と、みっちゃんから伝言が入っていた。
確かに、慌てず騒がず、冷静に行動するのが正解だ。
とりあえず、停電もしていないし、水も使える。
エレベーターの裏に潜り込んだせいで、すっかり汚れてしまった服を脱いで、シャワーを使った。
毛皮にべったり付いた機械油は、中々取れなかった。
おまけに、風呂場のタイルが何枚か剥がれている。
ここのマンションも古い建物だからなぁ…と思いながら風呂から上がると、台所にはお気に入りだった皿が割れて散乱していた。
出来上がった料理を盛りつけようと思って、テーブルに乗せておいたのが良くなかったのだ。
ああ、新婚の頃買った、ステキな皿が…。
更に、途中で火を消したオーブンの中から、悲惨な状態で生焼けになったナスが発掘された。
ジョン太は、ダメになった夕食と、様々な物が散乱した室内を見渡した。
これ、片付けないといけないのか。
「晩ご飯どうする?」
本棚に本を戻していた拓真がたずねた。
「何かもう、やる気出ねぇ。コンビニで弁当買って来てくれ」
「やった、私買いに行く」
コンビニ弁当や駄菓子を普段食べていないので、美織ちゃん大喜びだ。
「危ないから、一人で行っちゃダメだぞ。兄ちゃんと一緒に行こう」
拓真は、妹の手を引いて、買い物に出掛けて行った。
男前のシスコンという、色々問題のあるキャラになりつつある。
将来的には微妙に不安だが、目の前の心配が先だ。
閉まっている事など、一ミリも疑われなかったコンビニは、期待通り普通に営業していた。
しかし、同じ事を考えた人々が殺到していて、弁当や軽食の棚は空になっていた。
夕食がまだで、台所が使えない状態になっている家は、意外と多かったのだ。
仕方がないので、少し離れたスーパーまで足を伸ばしたが、総菜関係は似たような状態になっていた。
売り場では、崩れた商品を片付けるのに忙しいらしく、人手の足りなくなったレジは混んでいた。
とりあえず、調理しなくても食べられるものを買い込んで帰ると、家の中はある程度片付いていた。
割れたり崩れたりして、危ない物だけ一応片付けた後、気力が無くなったジョン太は、ソファーでテレビを見ていた。
ニュース番組は、徐々に集まって来た情報を何度も繰り返していたが、先程からもう、内容に変化は無くなっていた。
震源地は立石地区、マグニチュード六、負傷者の数は、現在不明。
倒壊した建物や、崩れた道路が、現場からの中継に映し出されていた。
いずれも、立石地区に近い場所で、市内よりも大きな被害が出ていたが、全体で見ると、大災害という程ではない様子なので、ほっとした。
しばらくニュースを眺めていたジョン太は、妙な事に気が付いた。
魔界と、その周辺からの情報が、全く入っていないのだ。
確かに魔界では、放送取材に必要な光学機器のほとんどが動かないが、人間が入って様子を見て来る事くらいは出来るはずだ。
それに、ゲートを抜けても境界の外までなら、普通に撮影も録音も出来る。
震源地で何かがあったのだろうかと思った。
いや、何かがあったから、こんな事が起こったのかも知れない。
ふいに、家庭用の固定電話が鳴った。
ネット通信の回線としてしか使っていなかったので、着信音を聞くのも久し振りだった。
受話器を取ると、奇妙なアクセントの声が聞こえた。
「吾輩だ」
「殿?」
今度はどうやって電話して来ているのだろう。魔界からは出られないくせに。
「どうやって連絡しているのか疑問だと思うが、説明は後だ」
こちらが思っている事は、大体分かるらしい。
異界人なのに随分人間慣れしたものだ。
「事態が動き出した。一刻も早く、こちらへ来てくれ」
ああ、やっぱり異界人だ。
こんな時に、魔界へ出て来いだなんて。
「いや、こっちも色々大変なんで」
話しかけたが無視された。
どうやら、録音された音声を流しているらしい。
じゃあメールにしろよと思ったが、異界人に言っても仕方がない。
「待って居るぞ」
電話は、一方的に切れた。
気が付くと、買い物から戻った子供達が、不安げな顔でこちらを見ていた。
「出掛けるの?」
拓真が聞いた。
二人とも通話相手の声も聞き取れるくらい耳がいいし、震源地が魔界だと分かってから、ある程度は予想していたのだろう。
しっかりしてはいるが、まだ子供だ。
「今すぐは行かないよ。お母さんが帰って来るまで、待ってないとな」
二人の肩を抱いて、極力明るい声で言った。
「それで、晩飯何買って来た」
リビングテーブルの上に、微妙な菓子パンと1.5リッターのコーラが置かれた。
ジョン太は軽く絶望した。
翌日、西谷商会に集まったのは、全員ではなかった。
時間帯もばらばらで、最後にやって来たハートは、バスが通常通り動いていない上に、幹線道路が通れないので、途中から歩いて来たと言った。
「市内は、それ程でもないんだな」
多少物が倒れた程度の事務所は、もう片付いてしまっていた。
「魔界に近い所は、やっぱりひどいのか」
所長はたずねた。
「平田と斑、連絡取れないんだが」
携帯電話は、まだ通じにくいが、固定電話はもう、ほとんどが復旧しているはずだった。
「あの二人、うちよりもっと魔界に近いですからね」
ハートが午後もだいぶ回ってから来た事を考えると、二人が今日来るのは無理そうだった。
「るりかちゃん、今晩泊めて。もう、あの距離歩いて帰る気力が無い」
ハートも、弱い事を言い始めている。
「鯖丸は何で来ないんだ」
所長は、文句を言った。
同じバイトの北島や、パートの斉藤さんはお休みなのに、こういう時だけ正規社員扱いだ。
「あいつ、ケータイしか持ってないから、連絡取れなくて」
ジョン太は言い訳した。
メールは送っておいたのだが、返事が無い。
まぁ、幸い今住んでいるアパートは、前の所みたいに老朽化していないから、生き埋めにはなってないと思うが。
ウワサをしていると、当の本人が現れた。
なぜか、自作らしい変な形のおにぎりを歩き食いしながら、ゆっくり階段を上って来た。
「おはようございまーす」
「早くない、もうすぐ夕方だ」
所長は言った。
「今まで何してたんだ」
「研究室の片付けとか、機材の修理とか」
先に、大学の方へ行っていたらしい。
「仕事、後回しかよ」
「学生ですもん」
炊き込みご飯のおにぎりを食い終わって、事務所を見回した。
「別に、やる事無さそうなんで帰ります」
「待てコラ」
ジョン太に捕まった。
「殿が招集かけて来やがった。菟津吹と連絡が付いたら、魔界へ入るぞ」
「分かった、今日は帰る」
何でそんなに帰りたがる。
「これから行くんだよ。帰るな」
鯖丸には珍しく、あんまりやる気がない。
「嫌だ。こっちは人生の一大事が、地震のせいで中断してるんだよ」
捕まったまま、じたばた暴れ始めた。
「私も、一回帰らないと」
トリコは言った。
あの二人だけで留守番させておくのは、不安だ。特にフリッツ。
「いや…今からじゃ暗くなるだろ。あの道を無理だって」
ハートが止めた。
「そんなひどいのか」
市内の被害状況が大した事もないので、甘く見ていたジョン太は聞いた。
「先ず、堀浦から向こうへは行けないな。車が通れない。それと」
これは、近所で聞いた単なるウワサだと断ってから、続けた。
「余震が起こるごとに、ちょっとずつ魔界が広がっているとか言ってる奴が居るんだ。どこまで本当か分からないが」
魔界が広がったり縮んだりするのは、良くあるが、短期間で目に見える程変化する事はあまり無い。
殿の言ってた世界の拡張って、まさかこれの事か?
「今日は無理そうだな」
所長も、そう判断した。
「依頼の事もあるが、状況が分からないと、今後の仕事にもひびく。とにかく明日、様子を見て来てくれ」
「分かりました」
こういう仕事は、外界でも魔界でも、身体能力の高いジョン太に任される事が多い。
鯖丸は帰りかけたが釘を刺された。
「お前も来いよ。朝八時集合」
「分かった。行ける様だったらメールで…」
「行けないの前提にするな。何があったんだよ、お前」
「そんなのいちいち報告したくないよ」
不機嫌な顔で帰ってしまった。
「私も行った方がいいのかな」
トリコが聞いた。
それは、魔界に入ったら頼りになるだろうが、そこへたどり着くまでの間、足が痛いだの、もう疲れただの、歩くの嫌だの、文句たらたらな様子が目に浮かぶ。
さっと行って、ちゃっと帰って来るなら、十キロは徒歩圏内の鯖丸一人連れて行く方が楽だ。
「いや…いい。状況が分かる頃には、道路も復旧するだろうし。明日は来なくていい」
ジョン太は一応断った。
有坂は、実家に帰ってしまっていた。
別に、ケンカしたとかそういう事ではなく、地震の後だったので、両親の事が心配だったのだ。
しかし、自然災害(仮)のせいで、大事な話が中断したままだ。
実際には、地震が治まって、大して家具がないので部屋の片付けはすぐ終わって、時間は結構あったのだが、お互い怖い目に遭ったせいか、エロい方向へ盛り上がってしまった。
翌朝、ここが大した事ないから、大丈夫だと思うけど、一応家の様子も見て来ると言って、有坂は実家に戻ってしまった。
規模の大きい実験に向けて用意していた機材が心配だったので、鯖丸も一緒に家を出て大学に向かった。
合同でやっている篠原は、近所に住んでいるので先に来ていた。
片付けが終わって、帰りに西谷商会に寄ってから帰宅すると、有坂はまだ戻っていなかった。
いやー、昨夜は久し振りに激しかったなぁ…とか、エロ回想にひたりつつ帰宅して、誰も居ないこの絶望感。
心が折れるまでは行かないが、大体捻挫くらいのダメージだ。
「無理、明日八時集合なんて無理。もうダメだ俺」
地震くらいで大騒ぎして、意外と頼りないのね玲司君って。もう別れようかな…。
「嫌ぁぁぁ。捨てないでぇ」
もちろんだが、有坂はそんな事言っていない。全部妄想だ。
携帯は、まだ通信状態が芳しくなかった。
とりあえず行ってみようと決心して、家を出た。
有坂の実家までは、以前より少し遠くなったが、三キロ程度の距離だ。
道すがら、古い木造家屋が半壊したり、ガレージが歪んだり、瓦が落ちたりしている光景が目に入った。
古い家屋の多い旧市街は、今日見て来た沿道よりも被害が大きそうだった。
揺れた時は怖かったけど、被害については軽く考え過ぎていたな…と反省した。
有坂の実家も、母親が丹精込めて作っていた鉢植えや、壁掛けのプランターが、半分程撤去されていた。
ガレージにある車のボンネットが、不自然な形に歪んでいる。
何かが落下したらしい。
チャイムを鳴らすと、有坂の母親がすぐに出た。
「武藤君、電話してたのよ」
意外な事を言われた。
災害伝言サービスの周知徹底は、全く進んでいない。
「すみません、ケータイ通じなくて、あの…急にご迷惑だとは思ったんですけど」
「いいから上がって。晩ご飯食べて行きなさい」
けっこう大きい規模の地震が来た時に、普通のご家庭がどんな状態になるのかは、全く予想出来ていなかった。
家具も物も多くて、余程の対策を取っていなければ、大変な状態になってしまう。
有坂が帰って来なかったのは、単に片付けで忙しかっただけだ。
何か浅はかだったなぁと思った。
というか、この人は何でそういう状態で、にこにこして晩ご飯を食えとか言えるんだ。
「連絡取れないから、心配してたのよ」
身内が居ないので、心配されると超弱い。ほとんど必殺の一撃だ。
玄関先に突っ立ったままで、涙ぐんでしまった。
通された家の中は、ある程度片付いていたが、まだ色々な物が壊れたり散らばったりしていた。
二階からゴミ袋を持って降りて来た有坂は、怪訝な顔をした。
「どうしたの」
一人で居るのが寂しいから来たとも言いにくい。
それに、昨日の話もまだ、きちんと終わった訳じゃないし…。
ちょっと考えてから、この状況で、家族も居る所では、話し合いをするのは無理だなと気が付いた。
ああ、もう、何やってるんだ俺は。
とりあえず、片付けを手伝って、晩ご飯を食べていると、有坂パパも帰って来た。
無理矢理晩酌の相手をさせられた上に、泊まって行きなさいとか言い始めてしまった。
こちらも、明らかに何かお話がありそうだ。
やっぱりダメそうですとは言えなかったので、脱出する事にした。
ダメだとしても、せめてもうちょっときちんと話し合ってからでないと、報告は出来ない。
「いえ…明日早いので、帰ります」
断って家を出た。
有坂は、玄関先まで見送りに出て来た。
「あの…玲司君」
彼女も、何か言いたい事がある様に見えたが、結局口ごもって黙ってしまった。
しばらく、沈黙が続いた。
色々考えていて、うっかり忘れていたので、あわてて言った。
「明日、仕事で魔界に行くから」
気まずくない話題だったので、ほっとした顔で有坂はうなずいた。
「もしかしたら、一日で帰れないかも知れない。あの…お願いがあるんだけど」
「何?」
そっけない言い方だが、口調は優しい。
「俺が帰った時、家に居て欲しいんだ。帰る前に電話するから」
有坂は、少し考えてうなずいた。
「分かった。気を付けて行って来てね」
「うん」
彼女も閑じゃないのに、我がままな事を言ってしまったなぁと思った。
でも、一人の部屋に帰りたくなかったのだ。
住宅街を走り始めてしばらくしてから、鯖丸は気が付いた。
良く考えたら、今から帰っても一人じゃないか。泊めてもらえば良かった。
今更引き返す訳にも行かないので、そのまま走り続けた。