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三話・魔界大決戦 vol.1

 例年にない猛暑だった。

 いつも通り走って帰った鯖丸は、川沿いの公園で一休みしていた。

 セミが、信じられないくらいやかましく鳴いている。

 昔からある川沿いの公園は、生い茂った木々と川からの風で、涼しかった。

 コンクリート製の古いベンチは、ペンキが剥げ落ちてひなびていたが、ひんやりしていて心地よい。

 少し涼んでから、水飲み場の蛇口を捻った。

 あまり使われていないせいか、少し鉄さび臭い、しかし冷たい水が勢い良く吹き上がった。

 顔を洗ってから、多少マシになって来た水を飲んだ。

 論文に必要な実験で、学校に泊まり込みになってから、もう十日程が過ぎていた。

 どうにか一段落して、家に帰る途中だった。

 学校とバイト先を往復する生活も、とりあえずこれで終わりだ。

 夏休みも、一週間くらいなら取れるかも知れない。

 有坂の顔も、十日間見ていなかった。

 疲れているのでもう、エロい事する余裕もない感じだが、早く会いたい。

 それから、一緒にごはん食べて、十日振りにゆっくり寝よう。

 帽子代わりに頭に巻いていたタオルを外して、顔を拭いていた鯖丸は、ふと気が付いて顔を上げた。

 公園から一段高くなっている土手沿いの道を、自転車に乗った男が、ゆっくり通って行く。

 麦わら帽子を被って、自転車を漕いでいる男には、何となく見覚えがあった。

 向こうも、何か覚えがあったらしい。

 自転車を降りて立ち止まり、じっとこちらを見ている。

 強い日差しで陰になって、表情は読み取れなかったが、口元が動くのは分かった。

「お前、玲司か…?」

 自転車を押して、公園に降りて来た男に、鯖丸は尋ねた。

「叔父さん?」

 父方の叔父、武藤慎一に会うのは、六年振りだった。


 叔父には大変な迷惑を掛けた。

 今だからそう思えるが、当時はただ、叔父に捨てられたと思っていた。

 武藤慎一は、亡くなった父親の、年の離れた弟だった。

 精神的に問題を抱えて、その上低重力症のリハビリも必要な甥の面倒をいきなり見る事になった当時の叔父は、本当に困っていたに違いない。

 全寮制の高校に進学すると言った時には、ほっとした顔をしていたが、それがどれくらい経済的な負担になっていたかも、今なら分かる。

 大学に進学すると決まった時にも、とりあえず当初の費用は出してくれた。

 スポーツ振興財団の審査に通って、学費は負担してもらえるし、奨学金の枠も取れたので、生活費はバイトでどうにでもなると甘い考えで居た。

 叔父と縁を切ったのはその時だ。

 以来、連絡も取っていないし、一度も会っていない。

 地方都市の同じ市内に住んでいても、その気がなければ意外と会わないで過ごせるものだ。

 実際、叔父の事は再会するまでほとんど忘れかけていた。

 久し振りに会った叔父は、六年分以上に年を取っている様に見えた。

 叔父さんって、今年幾つだったろうと考えたが、大まかにしか思い出せない。

 まだ、四十才くらいだ、たぶん。

 当時は中学の先生だった叔父が、今現在何をしているのかは知らなかったが、勤め先の中学は、この土手の先にあった。

 今も、同じ様に先生なんだろうか…。

「お久し振りです。あの…」

 昔の事については、謝ればいいのか、恨み言を云えばいいのか、微妙だった。

 お互いそうだろう。

 叔父さんも、何だか困った顔をしている。

「元気だったか?」

 聞かれたのでうなずいた。

「はい」

「そうか」

 心底、ほっとした顔をされた。

「何か困ってる事は無いか」

 意外な事を聞かれた。

 まぁ、実験が思わしく進んでいないのは困っているが、叔父さんが聞きたいのはそんな事ではないはずだ。

「いいえ、別に」

 叔父さんは何か言いたげだったが、結局飲み込んでしまった。

 この人は、昔からこうだ。

「うん」

 一人で何か納得している。

「いや…今更かも知れないが、困ってるなら…」

「特に困ってはないですけど」

 久し振りに会った叔父に、どういう態度を取っていいか、良く分からなかった。

 懐かしいのは確かだが、特に話題もないし、居心地も良くない。

 疲れているから、早く帰りたい。

「あの、急いでるから、これで」

 我ながらどうでもいい言い訳をすると、叔父さんはなぜか少し、ほっとした顔でうなずいた。

「そうか。忙しいのはいい事だよ、うん。元気でな」

「はい」

 公園を抜けて、住宅街を通り、幹線道路に出るまで、鯖丸には叔父さんの不振な言動が理解出来ないで居た。

 道路沿いにある、大きなパチンコ店のガラスに、歩道を歩く自分の姿が映っていた。

 店内が見えない様になっている店の壁面は、ほぼ鏡と同じだった。

 立ち止まった鯖丸は、呆然とガラスの壁面を見た。

 再会した叔父の、不振な態度がなぜだったのか、やっと分かった。

「ああ、大変だ、こりゃ…」

 ぼんやりとつぶやいた。


 有坂カオルが帰宅すると、十日振りに戻って来た武藤玲司は、ちゃぶ台代わりのコタツの前であぐらをかいて腕組みし、真剣に何かを考え込んでいた。

 コタツの天板には、財布の中身がぶちまけられて、札と硬貨が並べられている。

「どうしたの、玲司君」

 バイトから戻って来た有坂は、もらって来た残り物の総菜を、冷蔵庫に詰めてから、麦茶を取り出した。

 武藤君との付き合いが長くなるにつれて、貧乏性が悪化している。

 良くない傾向だ。

「人って見た目も大事だよね」

 今まで、聞いた事のない意見が口から出た。

「人は見た目じゃないわ」

 今更、男前だとか心にもない嘘はつけないので、一応言った。

「いや…容姿の美しさとかじゃなくて、身だしなみの問題として」

「ええと…」

 有坂は、心から困った顔になった。

 そんな事は、一般の常識問題だが、そもそも貧乏をこじらせて常識が消失しているのが、武藤君の通常の状態なのだ。

「急にどうしたの」

「俺、散髪する」

 ケータイの電卓を呼び出して計算しつつ、武藤玲司は言った。

 それはいい事だ。

 千円くらいでカット出来る店があるのに、節約とか言って髪の毛も伸ばしっぱなしだ。

 そのくせ、長髪だとシャンプーがもったいないとか言って、石鹸で頭を洗っているので、ただでさえひどい剛毛が、ごわごわになっている。

 秋頃にあるはずの、就職内定者向けの企業説明会までにはどうにかするだろうと思って、もう、積極的に放置の方向だった。

「あと、服買いに行くから付き合って」

「熱でもあるの」

 額に触ってみた。

 武藤君が、就活に絶対必要とか、そういう理由も無いのに服を買うなんて、考えられない。

「違うよ」

 天板の上に並べられた財布の中身は、千円札が数枚と、後は硬貨だった。

 これで買えるのは普段着だ。

 一年中、継ぎの当たったジャージと、よれよれのTシャツかトレーナー以外の服を着ているのは、仕事着以外では見た事がない。

「何かあったの」

 心配になったので、聞いてみた。

「うん」

 麦茶を少し飲んでから、武藤玲司はうなずいた。

「さっき、六年振りに叔父さんに会って…」

 身内の話を聞くのも、初めてだった。

 色々事情はあるらしかったが、詳しい話は聞いていない。

「たぶん、ホームレスと間違われたと思う」


 高校を卒業と同時に縁を切っていた甥が、再会したらホームレスになっていたら、それはショックだろう。

 実際ホームレス大学生だった時期もあるが、今の所将来設計は順調だ。

 問題なのは、その辺のホームレスより身形が悪い事だった。

 それも、服の老朽化と共に、年々悪化している。

「分かっててやってると思ってたのに…」

 有坂はつぶやいた。

 無自覚だったとは、より病の根が深い。

 長年愛用しているジャージは、破れた所に継ぎが当たっているだけではなく、全体が毛羽立って毛玉だらけの上に、要所要所が薄くなって、大変見苦しい状態になっている。

「分からなかったよ、何でもっと早く教えてくれなかったの」

 逆ギレだ。言っても聞かないくせに。

 まぁいいか。これでどうにか、通常の人類に一歩近付くかも知れない。

 人類…待て、私は人類ですらない様な男と、一年も付き合ってたのか…。

「ダメだ…何か心が折れそう」

 今まで折れてなかったのが、どうかしているのだった。





 人外や、人類以外相手でも、全く心が折れない鋼鉄の女、如月トリコは、今日は少し遅い時間に出勤して来た。

 小学校の担任に呼び出されていたのだ。

 自分の息子が、お世辞にも大人しいタイプではないのは知っていたが、ちょっと悪戯したくらいでいちいち呼び出すな、全く。

 外界の人間は、子供を構い過ぎだ。

「やってられるか、くそっ」

 階段の途中で立ち止まって、壁に蹴りを入れていた所へ、後ろから誰かが上がって来た。

「すいません」

 謝って脇へ避けると、後から来た男は不振な顔をした。

「何やってんの、トリコ」

 聞き覚えのある声だ。

 しげしげと相手を見てから、やっと鯖丸だと気が付いた。

「どうしたんだお前、変だぞ」

「壁に蹴り入れてる人に、言われたくないよ」

 本人はそう言ったが、鯖丸は全体的に変だった。

 まず、髪が短い。

 確かに以前は短かったが、きちんと整えられて寝癖が付いていない状態は、初めて見た。

 大体、襟の付いた半袖のシャツなんか着て、破れてないズボンを履いているなんて、絶対おかしい。

 尻に大穴が空いて、唯一持っていたジーンズが引退して以来、ジャージ以外の姿は、仕事でしか見た事が無かった。

 今日は何か特別な日だっけ…と、トリコは考え込んだ。

 靴だけは、相変わらず少林サッカーの主役みたいなのを履いているのを見て、ちょっと安心した。

 きっと靴まで予算が回らなかったんだな。

「何か嫌な事でもあったの」

 鯖丸はたずねた。

「こっちが聞きたいわ」

 トリコは反論した。

「お前、先に事務所に入れ。皆が驚く所が見たい」

「よし。男前にモデルチェンジしたこの姿で、皆の度肝を抜こう」

「それは、びっくりするくらい気のせいだがな」

 行く先々で驚かれるので、すっかりいい気になっている鯖丸は、事務所のドアを開けた。

 案の定驚きの声が上がる中、ご声援にお答えして両手を挙げ、くるりとターンして見せた。バカだ。

「何か辛い事があったなら、相談に乗ろうか」

 所長が親身になっている。

 普通の服を着ただけで、ここまで驚かれるのは、彼くらいだろう。

「あの…仕事があるって言うから、来たんですけど」

 肯定的な意見が一つも出ないので、鯖丸はちょっとがっかりした様子で、仕事の話に移ろうとした。

「うわ、お前朝からシャンプーと石鹸の匂いがするぞ。どこの怪しいお店に行ってたんだ」

「行くか。そんな金あったら、靴も買い換えるわ」

 毎日風呂に入れと説教を続けて来たジョン太にまで、この言われ様だ。

「洗ってない犬の匂いがするから、遠くからでも見つけやすかったのに。朝からシャワーなんか浴びてんじゃねぇよ」

「うん、その原因が分かったから、朝練の後体洗う事にしたんだけど」

 熟成された防具四点セットと、あんまり洗ってない道着のせいだったのだ。

「そう…今まではシャワー浴びるだけで、洗ってはなかったのね」

 ジョン太の心も、ぼきぼき折れている。

「たまには洗ってたよ。風呂だって週一は入ってたし」

「うん…もういい」

 これ以上聞くと、辛さが倍増しそうなので、ジョン太は話を打ち切る事に決めた。

「ようこそ、通常の世界へ。さぁ、仕事の話をしようか」


「実は、今度の依頼主は、政府公認魔導士協会の、四国支部なんだが」

「あ、帰ります」

 政府公認魔導士と関わって、ろくな目に遭っていない鯖丸は言った。

「話ぐらい聞けや、コラ」

 所長は怖い顔で睨んだ。

「だって俺、浅間に本名知られてるんですよ。危ないじゃないですか」

 浅間龍祥とは、彼が政府公認魔導士関西本部に居た頃からの因縁があった。

 とりあえず、二度と会いたくない類の男だ。

「政府の仕事と云っても、今度は割と報酬もいいぞ」

 所長は、魅力的な事を言った。

「何ならボーナスも付けよう」

 相変わらず金の話に弱い鯖丸は、ちょっとだけ躊躇した。

「いや…やっぱダメです。今年の夏は、リサイクルショップで配送の仕事やるし…」

「夏休みなんだから、魔界の仕事もやれよ」

 ジョン太が横から言った。

「院生に夏休みなんか無い」

 本当はちょびっとあるが、言い切った。

「依頼者、浅間じゃないぞ」

 所長は言った。

「一応、指名は君ら三人に来てるんだが、ダメだったら、るりかを入れようと思ってる」

 最近やっと、会社でも魔界名で呼ばれる様になったるりかは、机の前に座って仕事をしていたが、ええーっと抗議の声を上げた。

「私、来週から有給取ってるし、受理されてますけど」

 こいつ、絶対夏コミに行く気だ。

「もちろん、武藤君が我がまま言わなければ、君は夏休みを取れる訳だが」

 所長は言った。

 俺の夏休みは、消滅の方向かよ。

「先輩、お願いします。初めて壁に配置されたんですよぅ」

「意外と大手なんだ…」

 どんなエロ同人誌作ってるのかは知らないが…。

「あの…月末にちょっと大がかりな実験やる予定が入ってて、それと被らないなら、何とか」

 報酬は魅力的なので、少しだけ譲歩した。

 これをきっちりやらないと、論文が完成しない。ここだけは絶対譲れないのだ。

「そこまで長引かんよ。向こうも、早く解決したい様子だし」

 所長は言った。

「詳細は、君ら三人で、直接聞いて来てくれ。無理なら断っても構わん」

 そう言われたので、一応受ける事にした。

 大変な事になるとは、全く予想しないで。


 家に帰ると、有坂カオルが待っていた。

 夏休みとは云え、お互い色々忙しいので、この時間帯に居るとは思わなかった。

 卒論の準備や、留学の為に受けなければいけない試験の勉強で、有坂もけっこう忙しい。

 留学に必要な試験を通っても、資金的にけっこう厳しいと云うのも聞いていた。

 両親や兄が援助してくれるから、どうにかなるとは言っていたが、慣れない外国での生活は、楽ではないだろう。

 そろそろ、二人の将来の事を、本気で考えないといけない時期だなとは、思っていた。

 留学してしまえば、有坂は何年も帰って来ない。

 自分も、来年にはこの土地を離れて、首都圏に近い場所に引っ越してしまう。

 これからどうなるんだろうと思うと、色々な事が不安だった。

「お帰りなさい」

 有坂は、にこやかに笑った。

 夏の夕暮れで、蒸し暑い部屋の窓は開け放たれていて、扇風機が首を振りながら回っている。

 テーブルの上には、夕食の用意が調っていた。

 ああ、幸せな光景だ。このままずっと、続けばいいのに。

「ええ、何?今日は豪華じゃん」

 テーブルの上を見て、驚いた。

 唐揚げとか、オムライスとか、好きなニューが並んでいる。

 いつもなら、怪しい魚の煮付けとか、安売り野菜の炒め物とかなのに、サラダもお洒落な感じだ。

「お誕生日だから、ちょっと豪華にしたんだけど…」

 有坂は言った。

「誰の?」

 鯖丸は聞き返した。

 待て、有坂の誕生日って、三月だろ。俺の勘違いだったのか…うわ、やばい。

「自分の誕生日、忘れてたの」

 有坂カオルは、驚いた様に言った。

 本気で忘れていた。

 誕生日を祝う習慣が無かったからだ。

 両親が健在だった頃は、誕生日にプレゼントをもらったりしていたが、それももう、昔の話だ。

 何か印象的な出来事があれば別だが、たいがいの誕生日は、後から思い出す程度だった。

「忘れてた」

 もう二十四才になるんだなぁと思った。いい大人だと思うが、意外と実感がない。

「本当に忘れてた。ありがとう」

 自分の誕生日を忘れるなんて、本気で人生に余裕がない。

 多少落ち込みながらも、ありがたく祝われる事にした。


 翌日、呼び出された鯖丸は、トリコと一緒に、政府公認魔導士協会の四国支部に向かっていた。

 こちらの都合に合わせてくれる様な相手では無いので、二三用事をキャンセルしなければならなかった。

 トリコは、西谷商会に来るまでは、ここで働いていた。

 色々あったのかも知れないが、あまりいい扱いをされていなかった。浅間同様、印象は悪い。

 ひとまず家に帰って、いつものジャージからこざっぱりした服に着替えた鯖丸は、トリコに電話して拾ってもらった。

 軽自動車で迎えに来たトリコは、文句を言った。

「家の前まで来させるなよ、お前は。気まずいだろうが」

 いくら同僚でも、新しい彼女と同棲している家の前まで、元カノを迎えに来させるなんて、どういう鋼鉄の神経だ、こいつは。

「ごめん。着替えに戻ってたら、時間なくなって」

 迎えに来てもらったのは悪いと思っているが、気まずさについては全く感じていないらしい。

「近所だし、通り道だからいいだろ」

「そういう物理的な話をしてるんじゃない」

 車を発進させてから、トリコは文句を言った。

 るりかと組んだ時は、それなりに気を使っていた様子なのに、私はもう、こいつの中で女扱いの範疇に入ってないのか。

 微妙にむかつく。

「大体、服買ったのに、何で着替えに戻らなきゃいけないジャージを、また着てたんだ」

「つい、習慣で…」

 習慣って、恐ろしい。

「何だ、靴も新しいじゃないか。すごく普通に見えるぞ」

 少林サッカーな靴が、真新しい白いスニーカーになっている。

 本当に、普通の大学生だ。

「昨日誕生日だったんだ。お祝いしてもらって、プレゼントにこれ貰った」

 昨日誕生日だという事は知っていたが、姐さんも大人なので、あえて気が付かないふりをしていた。

「そうか、良かったな」

 照れくさそうに自慢している姿を見ると、本当に良かったなぁという気持ちになって来る。

「実は、あんまり良くないんだよね」

 鯖丸は、急に深刻な顔をした。

「忘れてたんだけど、昨日付で低重力症患者の認定、外されちゃって。俺もう、当分怪我も病気も出来ないや」

 低重力で育った、宇宙からの帰国子女には、定期的な検診と治療が必要なので、重度の障害者並みに医療費が安くなっている。

 もちろん、経済状況も考慮されるが、鯖丸は誰が見ても貧乏だ。

「地球に来てから一定期間、何の問題もなく日常生活を送れてたら、認定外されるんだ」

「そうなんだ…」

 確かに、最初に会った頃に比べて、鯖丸はずいぶん変わった。

 気合いと根性で、無理矢理体を鍛えている様な感じは無くなった。

 いい事なんだろうが…。

「今度の、危ない仕事じゃなきゃいいなぁ」

 切実な口調でそう言ったが、たぶん危ない仕事だろうというのは、予想が付いていた。


 ジョン太は、先に来て待っていた。

 時間通りに来たのに、遅いとかぶつぶつ文句を言ってから、県庁の近くにある建物の二階に上がって行った。

 一階も、政府公認魔導士協会の窓口だが、一般向けに様々な相談に乗ったり、魔界関係の事務的な手続きをするのに使われている。

 ここへ来るのは初めてだった鯖丸は、多少きょろきょろしながら、二人の後に続いた。

 関西本部には、一度入った事があるが、四国支部に来るのは初めてだ。

 三人を迎えたのは、菟津吹という男で、トリコが退職してからここへ来たらしく、面識はない様子だった。

「座ってください」

 三人を、向かいの席に掛けさせてから、菟津吹は席に着いた。

「先ずお断りしますが、これは本来警察沙汰になる様な類の事件です。しかし、ある程度の状況を我々が把握するまで、他言はしないでいただきたい」

「依頼者の秘密は守りますよ。基本的には」

 ジョン太は答えた。

「浅間龍祥は、ご存じですね」

 三人は、うなずいた。

「一月前、戒能悠木奈を拉致したまま、魔界で消息を絶ちました」


 浅間がそんな事になっているというのは、予想外だった。

 以前会った時に、何か企んでいる様子ではあったが、大体いつも、何か企んでそうな奴なので、また組織内で返り咲く方法でも探しているのだろうと思っていた。

 るりかとプライベートで魔界に入って、プレイヤーみたいな真似をした事は、ジョン太にもトリコにも話していない。

 鯖丸は、黙って話を聞き続けた。

「戒能悠木奈が行方不明になった場合は、必ずうちに依頼が来るんですが、今回はまだ入ってませんね」

 ジョン太は言った。

「共謀している可能性も、戒能氏が脅迫されている可能性もあります。両方かも知れない」

 菟津吹は言った。

 地味な小男で、少し聞き取りにくいしゃべり方をするが、実直そうで印象は悪くない。政府公認魔導士には、めずらしいタイプだ。

「私は、ここ数ヶ月しか知りませんが、浅間は、四国支部へ配属されてから、不審な行動や奇行が目立ったそうです。

 同僚を悪く言いたくはありませんが、権力志向の強い人間が挫折すると、厄介ですからね」

 悪く言いたくないとか云う割には、けっこう辛辣な意見だ。浅間とは仲が悪かったのかな…と、何となく思った。

「暴力団組織と積極的に親交を持ったり、異界について、独自に調査をしていた事も確認されています」

「それで、我々に何をしろと?」

 ジョン太は尋ねた。

「彼が、取り返しの付かない大事を起こす前に、身柄を確保したいんです」

 菟津吹は答えた。

「いや…そうじゃなくてね」

 ジョン太は、姿勢を崩して身を乗り出した。

 自分の外見が恐いのを充分わかって、合法的に威圧しているのだ。

 おっちゃんも相変わらず、本気出すと黒い。

「何で、政府公認魔導士みたいな、魔力の高い雁首揃えた集団が、身内の恥をさらしてまで俺達に依頼して来ているのかって聞きたいんだけど」

「理由は簡単です」

 菟津吹は言った。

「我々は全員、浅間に本名を押さえられているんです」

「ああ、そういう…」

 トリコはうなずいた。

 政府公認魔導士は、外界での私生活にも本名は使わない。

 魔界では、本名を押さえられると、最悪死ぬ事もあるからだ。

 浅間龍祥も、トリコの亡くなった夫、如月海斗も、本名ではない。

 しかし、外界出身であれば、ほとんどの場合、戸籍上の名前が本名だ。

 巧妙に隠しても、違法な手段を使えば調べる事は可能だ。増して、同じ組織内の人間なら。

「貴方がた二人は、浅間に本名を押さえられていない」

 魔界出身のトリコは、もちろん、戸籍上の名前が本名ではない。更に云えば、如月トリコは戸籍上の名前ですらない。

 しかしジョン太は思いきり本名バレてるはずじゃないのか。

 鯖丸は、ちょっと考えてから、今までほとんど気にした事が無かった事実に思い当たった。

 ジョナサン・T・ウィンチェスターって、ミドルネームのTは、何の略なんだ。

 その辺が保険になって、完全には本名を押さえられないのだろう。

 実際、四年も組んでいるのに、鯖丸はジョン太のミドルネームを知らなかった。

「あの…すいません」

 一応、意見を言う事にした。

「俺は、思い切り本名押さえられてるんで、降りていいですか」

「強要はしませんが、出来れば参加してください」

 菟津吹は言った。

「貴方は、ランクSの中でも、魔力が高い。本名を押さえられていない方と組めば、充分戦力になります」

「あの…知ってるかもしれませんけど、俺、学生なんですよ。来年の四月からは、普通の会社に就職するし、正直、こんなヤバそうな仕事は…」

「知っています」

 菟津吹は言った。

「菱田重工の、宇宙船舶開発部でしたね」

「個人情報って、何だろう…」

 遠い目になってしまった。

「調べれば分かる事です」

 菟津吹は言い切った。

「勤務地は神奈川。しかし首都圏に近い地域です。こんな田舎とは、比べものにならないくらい、家賃も生活費も高いですよ。貴方の経済状況も知っていますが…」

「社員寮に入るから、心配してくれなくてもいいです」

 何で、初対面の男にこんな事知られてるんだ。

 逆に云うと、浅間にもこの程度の事は知られているはずだ。うわ、気持ち悪い。

「社員寮は、同社で働く工場労働者と、外国からの技術交換留学生が優先されます。貴方の様な高学歴の人間が入居出来る可能性は、半々ですね」

 菟津吹は、ジョン太とトリコを無視して、鯖丸に語りかけた。

「この仕事には、破格の報酬を用意します。都会でステキな新生活を始められるくらいの」

「ジョン太、鯖丸を止めろ。何か変な世界に取り込まれる」

 トリコは、危険な雰囲気を察して言った。

「正気に戻れ、バカ」

 ジョン太は、鯖丸の後頭部をどついた。

「でも、依頼は受ける」

「受けるんだ…」

 正気に戻った鯖丸は、不満そうに言った。


「お前は降りていい」

 帰り道で、ジョン太は言った。

 鯖丸は立ち止まった。

「本名押さえられてるんじゃ、シャレにならねぇからな」

「うん」

 トリコは、地下の駐車場に車を取りに行ってしまったので、今日は歩きか電車だったらしいジョン太と二人で、待つ事になった。

「正直、こんなに長い間お前と組む事になるって分かってたら、最初から偽名で仕事してもらったんだけどな」

「しょうがないよ。俺も、四年も魔法使いやるとは、思ってなかったし」

 それも、来年の春には終わりだ。

 感傷的になってしまった鯖丸は、気を取り直した。

 まだ、半年以上先の話なのに、今からこんなでどうする。

「この仕事は受けるよ」

 顔を上げて言った。

 ジョン太は、意外そうな表情をした。

「トリコの事が心配なんだ。浅間とは、出来ればこれ以上関わらせたくないんだけど」

「そうだな。俺も、どっちかというと、この仕事降りてほしいのは、トリコの方だ」

 浅間ともう一度顔を合わせたら、トリコが冷静で居てくれる保証は無い。

「でもまぁ、あいつもプロだし大人なんだから、その辺はきちっとやってもらうさ」

 ジョン太は言った。

「うん、そうだね」

 地下駐車場から、赤い軽自動車が出て来た。

 二人は、路肩に寄せた車に、乗り込んだ。


 その日の内に、三人は一度魔界に入った。

 別の仕事があるので、後で行くと言っていた菟津吹は、三人が倉庫で準備をしている間に現れた。

「ここ最近の行き先は分かっています」

 菟津吹が乗って来た車に乗り込んで、四人は観光街に向かった。

「蒲生組という暴力団組織を乗っ取って、実質組長の様な立場に居るそうです」

「また、微妙な弱小組織を乗っ取るなぁ…」

 ジョン太は、るりかと殴り込んだ時の鯖丸と、全く同じ意見だった。

「組長の蒲生は、構成員の羽柴仁、富良野一郎と共に、外界に潜伏中ですが、他の組員は皆、浅間に付いている様です」

 車を運転しながら、菟津吹は説明を続けた。

「サキュバスとは、以前から親交があった様子です。その辺は、貴方がたの方が、良くご存じかも知れませんが」 

 三人はうなずいた。

「二ヶ月前、サキュバスを拉致した浅間から、戒能氏に連絡がありました。娘を無事に帰して欲しければ、腰骨山周辺を含む地所の所有権を寄越せと」

「あの辺、戒能さん所の土地だったのか」

 ジョン太も、初めて知ったらしい。

 魔界でも、当然だが土地にはそれぞれの所有者がいる。

 戒能氏は、この辺りが魔界になる前から、一帯の土地を所有していたという話だった。

「それで、どうなったんだ」

 トリコが聞いた。

 運転席で、トリコと並んで座っている菟津吹は、ちょっと居心地の悪そうな顔をした。

 自分は関わっていないが、政府公認魔導士だった頃に、トリコが中々愉快な扱いを受けていたのは知っているだろうし、真面目そうな男なので、気まずいのかも知れない。

 単に、巨乳で色っぽいお姉さんと並んで座るのが、気恥ずかしいだけかも知れないが。

「戒能氏には縁のある、先祖代々の土地だったそうです。しかし、魔界でもへんぴな場所ですし、居住している訳でも無い。資産価値は…まぁ、あるんですけど、戒能氏にとっては、大した額ではなかった様です。正式に、所有権を浅間に譲り渡しています。それで、サキュバスも戻って来たのですが」

「また連れて行かれたと…」

 菟津吹はうなずいた。

「正直、浅間の目的が分かりません。確かに褒められた人柄ではありませんが、無意味な行動をする人ではないと思います」

 車は、観光街の周辺を通り過ぎて、戒能氏の邸宅だった旧家に近付いていた。

 殿の城が、間近に見える。

「ごめん、俺、隠してた事があった」

 大事にならない内に、白状した方が賢明だと判断した鯖丸は言った。

「サキュバスを連れ戻す仕事が終わった後、あの屋敷に行って、捕まってた蒲生と羽柴を救出した」

 しばらく、皆は沈黙した。

 菟津吹はもちろん、独断で妙な行動をした同僚を、二人が責めるだろうと思った。

 しかし、トリコとジョン太は、全く違った反応をした。

「えぇぇぇぇぇ、嘘おぉぉぉ。あり得ない」

「どこか悪いのか。お前が金にならない事するなんて」

「ああ、そういうキャラなのは知ってましたけど、そこまで…?」

 菟津吹は、ちょっと引いた。

「いえ…俺は基本好青年なんですけど、ちょっと生活苦がね」

 鯖丸は言い訳した。

「お前は、基本的に好青年じゃないし、貧乏をこじらせて、スーパーのレジ袋をエコバッグだと言い張って持ち歩く痛い奴だ」

「いいじゃないか。エコバッグ高いだろ。レジ袋なら有料のスーパーでも安いし、意外と頑丈」

「後で、食事でもおごらせてもらいます。マジで」

 菟津吹は涙ぐんだ。

「それで、どうなったんだ」

 トリコは聞いた。

「結局、浅間の目的は聞けなかったんだけど、ここの土地に固執していた理由は、何となく分かるんだ」

 蒲生組を乗っ取ったのも、書類上ではなく、この場所の本当の支配権が欲しかったのだ。

「だって、殿の城と魔界の穴がある土地だから」


 日常的に魔界に入る人間や、魔界の住人でも、穴の周辺には近寄らない。

 穴は、異界との接点だ。

 魔界は、穴の周囲から漏れ出す、異界の法則で成り立っている。

 魔法を使えるのも、生き物が変化するのも、異界の影響だ。

 しかし、実際の異界は、人間にはきつ過ぎる。

 魔力の低い者なら、穴に近寄っただけでダメージを受けるし、魔力が高くても、異界に行って帰って来た人間は少ない。

 殿は異界人だが、相当力があるから、殿にとっての異界である場所で、定住していられるのだ。

 旧戒能邸を素通りして、一行は殿の城に向かった。

「あそこはもう、調査済みです。組員が何人か詰めているだけで、浅間もサキュバスも居ませんでしたね」

 蒲生組と看板のかけられてしまった戒能邸の前を通り過ぎる時、菟津吹はそう言った。

「後は、殿の城なんですが、あそこは我々には手が出せない場所で…」

 過去に何人もの調査員が、殿の城に入ったまま消えている。

 戻って来たのはトリコくらいだろう。

「ああ、それならこいつに行かせよう。顔パスだし」

 ジョン太は、鯖丸の頭を軽くこづいた。

 先月まで、北島の代理で宅配をやっていたので、政府の人間には難攻不落の城に、普通に出入りしていたのだ。

 元々、三人とも殿とは友達だ。

「入り口の見張りの人が変わってなければ、すぐ入れてくれると思うけど」

 車を降りた鯖丸は、皆と一緒に細長い坂道を上がった。

 小高い山肌に覆い被さる様に作られた殿の城までは、けっこう歩かなければいけない。

 入り口に着いたトリコと菟津吹は、二人して道端に座り込んだ。

「ああもう、お前ら歩くの速い。魔獣出して乗ってけば良かった」

「坂道を歩くペースじゃないですよ、あなた方は」

「たまには運動した方がいいぞ。特にトリコ」

 ジョン太は注意した。

 鯖丸は、通用口と書かれた小さなドアに歩み寄って、軽く叩いた。

「ごめんくださーい、宅配でーす」

 返事がない。

 鯖丸は、勝手に開けて入ろうと、木戸の取っ手に手をかけたが、諦めて戻って来た。

「閉まってる。いつも鍵かかってた事なんて無いのに」

「ええっ、そんなセキュテリィーゆるゆるなんですか」

 政府公認魔導士達が、さんざん手を焼いていた殿の城が、出入り自由だったとは。

「入るのは簡単だよ。出て来れないだけで」

 さりげなく恐ろしい事を言いながら、鯖丸は城の周辺を巻いている小道を歩き出した。

「正面玄関に行ってみる」

 歩き始めてすぐに、四人は異変に気が付いた。

 元々みかん山だった名残で残っている、裾野のみかん畑に、粗大ゴミが大量に散乱していた。

 無造作に積み上げられたガラクタが、そこかしこに散らばっている。

「おい、殿大丈夫なのかよ。城がゴミ屋敷になってるぞ」

 ジョン太は、顔をしかめた。

「ゴミじゃない。これは殿の宝物だよ」

 周囲を見回して、鯖丸は言った。

「これは、先月配達した憶えがある」

 古そうな目覚まし時計を拾い上げた。

 客観的に見ると、薄汚れた古いプラスチックの目覚まし時計だ。

 人の想いがこもった品は、魔力を増幅させる。

 殿はそう言って、様々なガラクタを収集していた。

「大変だ」

 まだ青いみかんを、勝手にもいで食べていたトリコは、急な斜面の下を指差した。

 余所の畑の物を、勝手に食うなと注意してから、ジョン太も下を見下ろした。

「喉が渇いたからつい」

 言い訳をしてから、木に捉まって、下を覗き込んだ。

 急な斜面に作られたみかん畑の中に、作業用の細い道がつけられている。

 その途中に、四角い物が転がっていた。

 カラオケの機械だ。

 放り捨てられて、スピーカー部分に張られた布も、すっかり無くなってしまったそれは、なぜか上に座布団が乗っていた。

 農作業の休憩時に、椅子として使われている様子だ。

「殿がカラオケを捨てるなんて、あり得ないな」

 ジョン太は腕組みした。

「行ってみる」

 山肌を三分の一ほど迂回した場所に、正面玄関があった。

 城全体を覆う、骨の様な色と質感の壁面に、大きな穴が開いて、内側に木で出来た観音開きの扉があった。

 ちょっと引っ張ってみてから、鯖丸はさっきと同じ様に声をかけた。

「宅配でーす。開けてください」

 内部で、人の気配があった。

 しかし、返事も無ければ、戸も開かない。

「殿にお届け物なんですけどー」

「殿は、ここには居ない」

 戸の向こうから声がした。

「お留守だったら、代わりに荷物受け取ってもらえませんか。あと、サインか判子ください」

「殿はもう、ここには住んでねぇんだよ。さっさと帰れ」

 乱暴な口調で言われた。

「じゃあ、引っ越し先教えてください」

 鯖丸は食い下がった。

「てめぇ、あんまりしつこいと、痛い目に遭わすぞ」

 がつんと、戸の内側から蹴りでも入れる様な音がした。

 鯖丸は、とりあえず引き下がって、皆の所に戻って来た。

「ダメだ。何か様子がおかしい。本当に殿は居ないのかも」

「見て来る」

 魔獣を呼び出したトリコは、背中に乗って、空中に飛び上がった。

 殿の部屋がある頂上付近を、何周か飛び回ってから、城に近付こうとした時、いきなり空気のはじける音がした。

 ばらばらにされた水の魔獣が空中に飛び散った。

 鯖丸は、重力操作で城の壁を駆け上がり、空中に飛んでトリコを拾った。

 そのまま、大気を操って落下速度を落とし、みかん畑の中に墜落した。

 ジョン太が駆け寄った時には、二人とも無事で、あちこちに付いた土や木の葉を払い落としている所だった。

「ああ…仕事用の靴で来るんだった…」

 泥が付いてしまった真新しいスニーカーを、鯖丸は悲しげに眺めた。

 かなり遅れて、みかんの木につかまりながら、急な斜面を恐る恐る降りて来た菟津吹は、大丈夫ですかと声をかけた。

「とりあえず、ここを離れよう」

 ジョン太は言った。


 畑と田んぼの中に、民家が点在する田園地帯を、四人は車に向かって引き返していた。

「どうなっちゃったんだろう、殿」

 離れた場所から見る殿の城は、何の変わりもない姿だった。

「本当に引っ越したとも思えないがな」

 ジョン太も考え込んだ。

「殿が、力ずくで追い出されたとも考えにくいしなぁ」

 トリコも、めずらしく難しい顔になった。

 異界人の魔力は、人間の比ではない。

 魔力の高い人間が、寄ってたかって、どうにか対抗出来るかも知れないというレベルだ。

「異界に帰ったのかなぁ」

 つぶやいた鯖丸の足下で、何かががさりと動いた。

 先を歩いていたジョン太も、立ち止まって振り返った。

 作業小屋とも呼べない様な、屋根の低い、三面しか壁のない掘っ立て小屋に、何かボロ布のような物がうずくまっていた。

 布のかたまりが動き、その下から見覚えのある姿が現れた。

「おお、久し振りだな、君達」

 薄汚れた格好になってしまった殿が、なぜか快活な口調で言った。


「殿おぉぉぉ」

 三人は叫んだ。

「何やってんだ、こんな所で」

 ジョン太は尋ねた。

「寝ていたのだが」

 殿は、普通に答えた。

「最近、夜が遅いんでな」

「いやいやいや、もうちょっと基本的な部分を聞いてるんだけど」

 ジョン太は、城を指差した。

「どうなってるんだ、あれと…」

 殿を指差して続けた。

「これ」

「ああ」

 殿は、布団にしているらしいボロ布を脇へたたんで、作業小屋に積んだ杭の上に座った。

 いつも、演歌歌手のようなど派手な着物姿だったのに、古着屋で手に入れた様なくたびれたシャツとズボンを身に着けている。

 今日に限って云うと、鯖丸より身形が悪い。本当に、どうしてしまったんだ。

「よく分からんが、あの城の正式な持ち主というのが現れたのでな。まぁこうして浮き草の身となり果てた訳だ」

 言ってる事は気の毒だが、本人はけっこう楽しそうな口調だ。

 異界人はよく分からない。

「あの土地は、ずっと前から持ち主が居ただろうが。今更なに追い出されてんだ」

 ジョン太は呆れた。

「誰も抗議せんから、吾輩の所有物として認められていると思っていたが」

 そりゃ、恐くて誰も言えなかっただけでは?とも思ったが、あっさり利権を浅間に渡したと云う事は、本当の持ち主だった戒能にとっては、どうでもいい事だったのかも知れない。

 畑とみかん山は、おそらく他人に任せっぱなしなのだろうし、広いだけで大した資産価値がある訳でも無い。

 特に、穴の周辺は、何の利用価値もない場所だ。

「まぁ、何十年も住んでりゃ、所有権が移る事もあるけどな。数年じゃ無理だ」

 ジョン太は、無駄だと思いながらも、一応人間界のルールを説明した。

「殿を追い出したのは、クイックシルバーか?」

 浅間の魔界名を出すと、殿はうなずいた。

「ええっ、あいつがそこまで強いはずないよ。どうしちゃったの、殿」

「いや…どうもこうも」

 殿は、やけに人間ぽい仕草で、頭を掻いた。

「正式な持ち主だと言われて、書類を提示されれば、立ち退くしかなかろう」

「そんな簡単な事で…今まで行方不明になった捜査員の犠牲は、何だったのだ」

 菟津吹は、頭を抱えた。

「ああ、彼らには暇を出しておいた。近々戻るだろう」

 殿の手下には、行方不明の捜査員も居たらしい。

「そんなんで簡単に立ち退いて、あっと言う間に落ちぶれるな。バカかあんたは」

 あんな要塞みたいな城に籠もられてしまったら、浅間を捕まえるのがより難しくなってしまう。

 ジョン太に怒られた殿は、一時しゅんとしたが、すぐに明るい笑顔に戻った。

「でもいいんだ。全てを失っても、吾輩には歌があるから」

 アイドル物のヒロインみたいな事を言い始めた。

「もう異界に帰れ!!てめぇは」

 ジョン太は一応突っ込んだ。


 殿は、零落した生活を、思い切りエンジョイしている様子だった。

 これから街へ仕事に行くとか言って、古びたギターケースを取り出した。

「仕事って?」

 せっせと働いている異界の怪人というのも、異様だ。

「流しのギター弾き」

「ああもう、どこから突っ込んでいいのか」

 ジョン太は、全てを諦めた。

「その辺の事情はもういいや。ちょっと話があるんだが」

「では、街へ行くから、歩きながら聞こう」

 殿は、さっさと歩き始めた。

 真夏なのに、古びた薄っぺらいコートを着て、ほどけかけたドレッドヘアーに、ギターケースなんか下げていると、後ろ姿は謎の殺し屋みたいだ。足下は草履だが。

 殿が表を歩いているのも初めて見た。

「どうせなら、街でメシでも食いながら、話を聞くよ」

 ジョン太は、菟津吹の方を向いた。

「経費で落としといてくれ」

 仕方ないですね…と、菟津吹はうなずいた。

 後でおごるとか言ってしまったし。

 どんな高級店に連れて行かれるのかと思ったが、殿の希望でラーメン屋に決定した。

 本気で、落ちぶれっぷりを満喫しているらしい。

「これこれ、この、化学調味料たっぷりのスープがいいのだ。あと、焼き餃子」

「殿さぁ、あんまり馴染むと異界に帰れなくなるんじゃないの」

 相手が、生き物かどうかすら分からない異界人だという事を、すっかり忘れかけていた鯖丸は、注意した。

「心配は無用だ。大体吾輩は今、こちらには居ない」

 殿の外見が、以前よりも人間っぽくなっている。

 しかし、これは作り物の体のはずだ。

 本体が異界に居るから、安心して落ちぶれライフを楽しんでいられるのだろう。

「で、何が聞きたいかね」

「浅間の事を」

 ジョン太は言った。

「いや、聞きたいだけじゃなく、あいつを確保したいから、出来れば協力して欲しいんだが」

 殿は、しばらく無言でラーメンをすすっていたが、半分程食べ終わってから言った。

「それは難しいな」

 意外な事を言われた。

「あの、見返りが必要なら、言ってください」

 菟津吹が口を挟んだ。

 殿は、人間ぽい仕草で、首を横に振った。

「そんな事ではないよ、君」

 殿らしい口調に戻った。

「今手を出すと、均衡が失われるのだ」


 訳の分からない事を口にしてから、殿は黙ってしまった。

 浅間が現在城に居る事や、蒲生組の構成員を増やしている事等、聞けば色々答えてはくれたが、浅間が何をしているかについては、沈黙した。

 諦めたジョン太が、今日はもう撤収を決めると、初めてこちらから聞いていない事を話してくれた。

「急いではいかんよ、君達。物事が安定するまで、事態を保留しなさい」

 一見人間ぽくなったが、相変わらず言っている事は謎だ。

「まぁ、今日の所は、保留にして帰るよ」

 ジョン太は、ラーメン屋の店主に領収証を切らせて、菟津吹に押し付けた。

「もう帰るんですか」

 まだ夕刻だ。

 菟津吹は不満そうに言った。

「働き過ぎは、良くないからなぁ」

 いいかげんな事を言って、帰路についた。

 帰り際に振り返ると、まだ明るい夏の夕空に、殿の城がいつも通りに建っていた。

 すっかり見慣れた光景の中で、ふいに背後の空その物が、ぐにゃりと歪んだ気がした。

 鯖丸は、目をこすってから、もう一度空を見た。

 城の背後で、空気が渦巻いているのが、薄ぼんやりと見えた。

 それは、空気操作系能力者が感知している大気の流れで、いつもの事だった。

 あの下には、異界への穴がある。

 大気の流れは、いつも安定していない。

 しかし、今ちらりと見えた歪みは、それとは違う様に思えた。

「そうか、君には見えるか」

 ふいに、殿が話しかけて来た。

 頭の中に直接音を流している。周囲の誰も、聞こえている様子はない。

「あれが出て来たら、何とかするつもりだが、吾輩一人の手には負えない可能性がある」

 鯖丸は、殿の方を見た。

「時が来たら、協力を頼む。世界の拡張は、止めねばならんのでな」

「待って、殿。どういう…」

 話しかけた時には、殿はもう消えていた。

 菟津吹が、怪訝な顔でこちらを見ていた。

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