刺青ー逆ー
ぶつり。
皮膚を裂く、聞こえるはずのない音を、生れて初めて聞いた。
針を刺すことは、越境だ。私と世界。お前と私。境を越えて、色を流し込む。
「御免下さい。」
荒波に浮かぶ海藻のような縮れた長髪を揺らし、脂の塊のような巨体を申し訳無さそうに縮こまらせて。
濡れ鼠になった女が男の「店」に這入ってきたのは、もう夕暮れ近い頃合いで、その薄暗さが一層女の不気味なほどの醜さを際立たせていた。この世のものとは思えぬ生白い皮膚だけが濡れて、半地下の店の薄灯りに照らされて、ぬめぬめと光り輝いていた。
「私の背に、これと同じものを、彫っていただけないでしょうか。」
ちりめんのように、高くか細くちぢれた声だった。丸々と膨れた右手が、鞄から大切そうに絵を取り出す。絵はぼろぼろに古呆けて擦り切れてはいたが、間違いなく、遥か昔男が描いた習作であった。それは花の水墨画だった。ありとあらゆる花の美しい部分を切り取り継ぎ接ぎした、存在しない花を、手遊びのように描いたものだった。
女はその花に惚れ込んだ。気が付いたら女は取り憑かれたようにその絵を買い、美術雑誌だとかその手の好事家だとか、手当たり次第に心当たりを探して、その絵の作者を探した。
そうしてとうとう見つけたのが、かつて画家を志していた少年が中年となり、彫師として糊口を凌ぐこの店だった。
「きっと一生、人に見せることはないけれど。
たった一つ、世界の何より一等美しいと思えるものが私のからだに在ったなら、どんなにか心強いだろう。そう思ったんです。」
髪の隙間からかろうじて見えるひび割れた分厚い唇は震えていた。
男は昼も夜もない生活をしていたし、
机に積まれた相場の何倍もの金が、男は慾しかった。何より女の執念に気圧されて、男は「やりましょう。すぐにでも」と口にしていた。
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「それにしてもこんな古いものをよくもまぁ……。
こんなもん、誰にだって描けますよ。」
「いいえ。いいえ描けません。あなただけです。私、初めて水墨画に色を見ました。」
「…何色に見えたのですか?」
「赤です。血の赤よりも赤い赤。」
女の両腕は、羽二重餅のように丸々と膨れている。その両手のひらを異国の宗教者のようにぎゅうと組んで、女は耐えていた。
唇は食い千切らんばかりに噛み締められている。
一針ごとに一層食い込んで、手の甲や唇に赤みを増していくのが、ずっと目の端にちらついていた。
「さぞお痛みでしょう。何でもいいから声をお出しなさい。少しは楽になります。」
「いいえ、いいえ。私のようなものが、ほんの少しでもみっもない声を上げるなんて。嫌です。
もし同情して下さるというなら、せめて何か、布でも噛んでいさせて下さい。」
朦朧としたような声で顔も上げずに女は言った。
男の針は特別に痛かった。最初は威勢のいいことを言っていた名の通ったやくざ者でさえ、ちょっと針を刺してやると情けない声でひいひいと泣き喚いた。男はそれがつまらなかった。しかし今はどうだろう。何とかしてこの女に一声でも出させてやりたいような、そんな気がしていた。
しんと冷たい晩秋の部屋に器具の音と、女が時折息を詰める音だけが響いていた。
どのくらいの時間が経ったか定かでない。男は手の甲で自分の額の汗を拭った。
女の背は巨大で、脂の塊のように生白い。
一針入れる毎に、この背に食われているような気さえした。背が針を色を男を、食虫植物のごとく飲み込んでいく。
とうとう女は一声も発しないまま、刺青は完成した。
女は髪をたくし上げ、背中を姿見に映す。
そこには血の赤よりも赤い赤が、溢れんばかりに広がっていた。
「ああ……、きれい。
綺麗だねえ」
女の声は夜明けの空気の如く澄み切ってやけに響いた。
「一寸だけ眠っていっても構わない?」
女の視線は真っすぐに男を射抜いていた。
「あ、ああ、好きなだけ休んでいくといい」
「ありがとう」
たくし上げた髪を結い直す手つきは滑らかで、艶やかささえ感じた。男はどぎまぎするのを誤魔化した。
女は机にもたれ掛かると、すぐにすやすやと眠ってしまった。一晩中気を張っていたのだ。無理もない。
男も疲れていた。しかし、いつもの疲れとは違う。まるで、吸い付くされたような、そんな疲れだった。
何処から這入ってきたのか、こんな湿った半地下にいるはずのない蝶が、ぱたぱたとはためいて、吸い込まれるように女の背の花に止まった。蝶は吸蜜するような動きを繰り返している。
「はは」
男は気付くと笑っていた。
女があらゆる男を一息に吸い付くし、中国の妲己の如く踏み躙って哄笑する幻を見た。
「はじめからおれは、画家だったのか」
そんな言葉が無意識に口をついた。自分の口にした言葉に自分で驚く。しかしそこには奇妙な満足と感動があった。
だが同時に、男はもはや抜け殻であった。
蝶は羽根を靡かせ、吸蜜を続けている。
おしまい!




