あなたが落としたのはこの王子ですか? それとも……
ここは、王城の豪華絢爛な大広間。
国内外の貴族や客人たちを迎え華やかな席が設けられるはずのこの場は、今日に限ってはなんとも微妙な空気に包まれていた。
というのも――。
「本当なんですっ! 私はファルビア王子殿下と運命の恋に落ちたんですっ! 殿下は私に愛を誓ってくれたわ。私を伴侶にしてくれるって、約束してくれました! だからこうして会いにきましたわ」
メロイーズという名の町娘が、頬を上気させ叫んだ。
波打つ淡い色の髪はとてもなめらかにきらめき、身なりもそれなりに小綺麗にしている。もちろん一介の町娘に過ぎず、貴族令嬢の洗練された姿とは比べようもないが。
とは言え、とても美しい人目を引く少女ではある。
そんなメロイーズは、当然町で妻に恋人にと引く手あまただった。
けれどメロイーズは運命の恋を夢見ていた。人生にたった一度の、運命の恋を――。
そこに現れたのが、この国の第一王子ファルビアだった。
メロイーズは町をお忍びで訪れていたファルビアと偶然に出会い、ひと目で恋に落ちた。ファルビアもまたその思いに応え、ともにめくるめく一夜を過ごしたのだという。
「ファルビア殿下は言ってくださいましたわっ。『あなたは私のただ唯一の運命の女性だ。必ず王城へ会いにきてくれ。そして私の伴侶になってほしい』と! ですからどうか、ファルビア殿下に会わせてくださいっ! きっと殿下も私がくるのを待っていてくれるはずよ……!」
メロイーズは切なげに目を潤ませ、場に集まった観衆たちに切々と訴えかけた。
自分がどんなに情熱的に愛をささやかれ、大切に扱われたかを。決して一夜の遊びなどではなく、一生に一度の真実の愛だったのかを。
けれど観衆はどこか懐疑的だった。
そもそも国の未来を背負って立つ王子ともあろう者が、そんな軽々しく町娘に愛をささやき未来を約束したりするだろうか。百歩譲って本気の恋に落ちたとして、不穏の種となりそうなことくらいわかりそうなものだ。
もうひとつは、メロイーズの訴えの端々に感じる違和感だった。
「殿下はとても素敵でしたわ……。とても紳士的で洗練されていて……」
「……」
「髪は流れるように波がかっていて、目元も涼しげで……」
「……」
「たくさんのことをよく知っていらして、話もおもしろくて……」
「……」
この辺りまでは、観衆の顔に疑いの色はない。だが――。
「あごのラインなんてすっとしてまるで彫像のような美しさで……」
「……」
「体つきもすらりとして、とてもスマートで……」
「……?」
「手だってすべすべで、ほっそりとしていてとても繊細な美しさで……」
「……??」
この辺りから、観衆は首を傾げはじめた。
貴族たちは当然のことながら、王位継承順第一位であるファルビア王子をよく見知っていた。その風貌も人となりも。
けれどその人物像とメロイーズが語る描写とが、どうにも重ならなかったのだ。
だって、ファルビアはどちらかと言えば繊細とか美しいというよりはむしろ――。
場に流れはじめた微妙な空気には気づくことなく、メロイーズのうっとりと夢見るような発言は続いた。
「声もとても甘くてとろけるようで、私に一晩中『君の吐息はまるで宝石のようだ』なんておっしゃって……」
「……?」
「紡ぐ言葉もとてもロマンチックで、『私の腕は君を抱くためにあったのだな』って優しく抱き締めてくださって……」
「……??」
「別れの時には、さっそうと美しい白馬にひらりとまたがって去っていかれましたわ……。必ず君を自分の妃にするから、必ず会いにきてくれとそう言い残して……。きっと殿下も、私がくるのを心待ちにしてくれているに違いないわ!」
その言葉を聞いた瞬間、観衆はいよいよもって確信を強めた。メロイーズの恋の相手がファルビアであるはずがない、王子の名をかたる偽物だ、と。
にわかにざわめき立つ観衆。
ようやくおかしな空気が漂いはじめたのに気がついたメロイーズが眉を潜めたその時、ひとりの令嬢が静かに歩み出た。
「メロイーズ様……とおっしゃいましたわね? それは何かの間違いに違いありませんわ。あなたの恋のお相手が、ファルビア殿下であるはずがないのです」
やわらかな衣擦れの音とともに、優雅な仕草で歩み寄るその姿。そのたたずまいは凛として、気品に満ちている。
磨かれていないままの原石がメロイーズならば、この令嬢は丁寧に時間と手をかけてこれ以上なく磨き上げられた宝石そのものだった。
それが誰であるのかに気がついた観衆が、はっと息をのんだ。
一気に緊張感を帯びた空気と近づく気配に、メロイーズが令嬢を鋭い目で見やった。
「それ、どういう意味です? あなたは一体……」
「……これは失礼いたしましたわ。お初にお目にかかります。私は、ロスデール侯爵家の長女リステアと申します。メロイーズ様」
瞬間、メロイーズの目が大きく見開かれた。
「ロスデール侯爵家って……確か、ファルビア王子と婚約中の……」
震える声で問いかけたメロイーズに、リステアは無言のまま淑女らしい挨拶で応えた。
リステア・ロスデール。代々王室とのつながりの深い名家であるロスデール侯爵家の長女で、ファルビアの婚約者として名を知られる貴族令嬢である。一介の民に過ぎないメロイーズも、その名に覚えはあったらしい。
動揺の色を浮かべたじろいだメロイーズではあったが、すぐに口元を引き結び声を上げた。
「で、でも婚約はなくなったって聞いたわ……。ファルビア殿下が私にそう言ったもの! 他の王子の婚約者に据え替えることになったんだって……。だから私と恋仲になっても何の問題もないんだって!」
さすがのリステアも、その言葉にピクリと反応した。
「まぁ、それはまたあんまりな嘘をついたものですわね……。ですがそれはとんでもない誤りですわ。私は今も、正真正銘ファルビア殿下の正式な婚約者です。解消などしてなどおりません」
「……で、でも私は確かにそう聞いたわ! 殿下が嘘をついたっていうの!?」
婚約者としての余裕に圧されたのか、メロイーズがじりと後ずさった。リステアは落ち着いた表情を微塵も崩すことなく、まっすぐにメロイーズを見やった。
「……メロイーズ様。大変にお気の毒とは思いますが、おそらくメロイーズ様が一夜とともにした男性は、ファルビア殿下ではございません。まったくの別人ですわ」
「はっ!?」
「つまり、誰かがファルビア殿下の名をかたってあなたをたぶらかしたのです。ですから、婚約が解消したなどというそんな嘘を……」
メロイーズの顔がみるみる真っ赤に染まった。
「なっ……!? いくらファルビア殿下を私に取られて悔しいからって、そんな嘘を……!」
リステアは静かに首を横に振った。
メロイーズがどんなにその相手と愛をささやきあったとて、真実は変えられないのだ。
「いいえ、嘘ではございません。あなたが一晩をともに過ごしたそのお相手が、ファルビア殿下その人でない証明は簡単につきますわ。……きっとここにいらっしゃる皆々様も、それがわかっていらっしゃるはずです」
「ど、どういうこと……!?」
メロイーズは目に見えて狼狽した。
「そ……そんなこと、あるはずないわ……。あの人がファルビア殿下じゃないなんつ、偽者だなんてこと、あるはず……! 確かに聞いたんだもの……。私はそれを信じて……、だから……」
観衆から注がれる憐れみの視線に、メロイーズの声が次第に小さくなっていく。
次第に勢いが消えていくのを見て取ったリステアは、なだめるように静かに告げた。
「すべてはメロイーズ様自らの目でお確かめになった方がよろしいかと存じますわ。僭越ながら、私もそのお手伝いをさせていただきます。……正直、こんな事態は私にも到底看過できませんし」
「……私の、目で?」
「えぇ……。その方がきっと、真実をのみ込めるかと存じます」
メロイーズが小さくうなずいたのを見て、リステアは速やかに衛兵をそばに呼び寄せ何事かをささやいた。
「はっ!! ただ今……!!」
すぐさま衛兵が、大広間からかけ出していく。
その後ろ姿を見つめ、リステアはメロイーズには気づかれぬようそっと安堵の色がにじむ息を吐き出したのだった。
◇◇◇
リステアの心中は、正直なところ穏やかではなかった。――ついさっきまでは。
けれどもうすっかり心は凪いでいた。
それもそのはず、メロイーズの話を最後まで聞いたことで今ではファルビアへの疑念はすっかり晴れていたのだから――。
リステアとファルビアの婚約が結ばれたのは、今から十年前。その日からずっと、リステアはファルビアに恋をしていた。
貴族の結婚など、しょせんは政略的な目的あってのもの。なんなら一度も顔を合わせたこともないまま、婚礼でこんにちはなんてこともざらにある。
けれど、リステアの場合は違った。
『さぁ、ご挨拶を。リステア、こちらはこの国の第一王子殿下――ファルビア殿下よ』
『はじめまして……、リステアと申します。ファルビア王子殿下。お目にかかれて……えっと……光栄です』
まだ三歳の誕生日を迎えたばかりのリステアは、その日はじめてファルビアに出会った。覚えたての挨拶を頭の中で思い出しながら、やっとのことで口にすれば。
『こちらこそ会えて嬉しいよ。リステア。王城には近い年頃の子はいないんだ。仲良くしてくれると嬉しい』
三つ年の離れたファルビアは、リステアにはとても大人びて見えた。
茶色い髪の毛からのぞくどこかキリリとした目元も。とても六歳とは思えないくらいに、凛としたたたずまいも。
リステアが生まれてはじめての、運命の恋に落ちた瞬間だった。
母と王妃とが学友だった上、ロスデール侯爵家の立ち位置的に言ってもふたりの縁組は好ましかった。
よってリステアはまもなく、ファルビアの婚約者となった。
あれから年月が流れ――。
ファルビアは今や、国と民のために率先して剣を奮うたくましい青年に成長していた。
リステアもまた、そんなファルビアにふさわしくありたいと日々努力を重ね、国中が認めるほど立派な淑女に成長したのだった。
そこに現れたのが、メロイーズだった。
こともあろうにファルビアと一夜をともにし、伴侶になる約束を果たしにきたと王城へかけ込んできたのだ。
その時のリステアの気持ちといったら――。けれど今は、何の揺らぎもなかった。
(よくよく考えてみれば、お忙しいファルビア殿下が町でのんびり過ごすなんてあり得ないわ。放っておいたら睡眠も満足に取らず、国のために働く人なのに……。それなのに疑ったりして、私ったら……)
あのファルビアが、自分以外の女性と本気の恋に落ちたのかもしれない。あまつさえ子をなしたりでもしたら――。
そんな想像に、リステアは呆然としたのだ。
もちろん跡継ぎ問題を考えれば、場合によってはいずれ側妃を置く必要が出てくる可能性だって皆無ではない。が、ロスデール侯爵家は代々多産家系であったし、リステアも丈夫な質であったから子をなせない心配はそれほどしていなかった。
なのに他に愛する女性との間にもし子でもできたら、自分は形ばかりのお飾りの妻になり果てるのか、と。
そんな絶望と悲しみで、今のうちにメロイーズをこっそり事故か何かに見せかけて片付けた方が未来の火種にもならずに済むのでは、などと物騒なことを考えたほどである。
もともとロスデール家は、昔は王家の安寧を守るために少々後ろ暗いことも担ってきた一族だ。古い記録を紐解けば、毒や事故に見せかけた暗殺に手を染めたなんて話もいくつもある。それもすべて、国の安泰のため。
そうした役目を請け負ってきたせいか、ロスデール家の人間にはどこか仄暗い強さが受け継がれていた。
それは、リステアも然り――。
だが、そんな心配は杞憂だった。
(思い余って行動に起こさずに済んで、本当によかったわ。いくら巧妙にことを仕組んだとしても、やっぱり一度は疑いの目が私に向くでしょうし……。とはいえ、厄介な問題は残っているのだけど……)
リステアには、別の懸念が生まれていた。
(話の内容からして、殿下の名をかたったのはきっとあの人よね。本当に仕方のない人……。いくらロスデール家でも、王命なくあの人に手出しはできないわ……。ここはやはり、殿下の判断を仰ぐしかないわね)
リステアの脳裏に、ある青年の姿が浮かんだ。見た目はいかにも王子然として美麗だが、中身はなんとも残念な青年が。
おそらく身分を考えて、生涯幽閉が妥当といったところだろうか。それとも僻地で軟禁の上、地味に一生を終えさせるという方法もある。
どちらにしてもその存在を公にするわけにはいかないとなれば、なんとも処分は難しいことになる。
とても普通の貴族令嬢とは思えない実に不穏な考えを巡らしながら、リステアはその時を待ったのだった。
最愛の婚約者であり、この国の第一王子であるファルビアがこの場に現れるのを――。
しばらくして、大広間に衛兵の声が高らかに響き渡った。
「ファルビア王子殿下のおなりでございます……!」
カツン、カツン、カツン、カツン……!
高い天井に響く、重々しく力強い靴音。そのあとから、もうひとつどこか頼りない靴音もついてくる。なんとも対照的なそのふたつの靴音を聞きながら、リステアは下げた頭の下で口元をわずかに緩めた。
続いて、幾人かの大臣がなんとも言えぬ渋い顔をして入ってきた。
「……このような場にわざわざお呼び立てして申し訳ございません。ですが、これは王家の威信にも深く関わる繊細なことですので、ぜひ判断を仰ぎたく……」
リステアはやわらかな笑みをたたえ、ファルビアに声をかけた。
「いや……、君にも迷惑をかけたようですまない。リステア。ことの始末は私がつける」
「はい」
リステアは静かにうなずき、ファルビアをちらと見やり思わず頬を染めた。
分厚い筋肉に全身を覆われた、見上げるほどに大きな体。日に焼けた肌と少々赤茶けた髪の毛。肌には戦いによるものと思われるいくつもの古傷が薄っすらと残る。
こんな場であることもつい忘れ、あまりの凛々しい姿に見惚れてしまうのも無理らしからぬことだった。
ファルビアはその鋭い威厳漂う眼差しで、いまだ頭を垂れたままの観衆とメロイーズをぐるりと見渡した。目を伏せていても届く圧に、観衆の肩がびくりと反応する。
観衆たちは皆この国の貴族であるからして、当然ファルビアがどの人物であるのかはすぐにわかった。メロイーズの相手が、ファルビア本人であるはずがないことも。
けれどこの場でただひとり、それをいまだ理解していない者がいた。この場に現れたどの人物が、本物のファルビアであるのかを――。
「ではまず、今一度メロイーズ様におたずねしますわ」
リステアの声に顔を上げたメロイーズが目の前に並んでいたとある人物に目を留め、はっとしたように頬を上気させた。
リステアはメロイーズに向き直り、核心を突く問いを投げかけた。
「……あなたが落としたのは、こちらの王子ですか? それともこちらの方ですか?」
「は……、なんですって?」
メロイーズがぽかんと口を開いた。
「あら……。私としたことが、落としたなどという言い方はちょっとアレでしたわね。ええと……つまり、あなたが運命の恋に落ちたのは、このおふたりのどちらの方でしょう? こちらの立派な体躯の方か、それともその後ろにいる細身の方のどちらでしょう?」
「……は??」
メロイーズはゆっくりと目を瞬き、一体何を言っているのかと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「……はぁっ!? 馬鹿なこと言わないでよっ。王子様なのよ? 王子様といったら当然こっちの方に決まってるじゃないのっ! こんな熊みたいな大男が王子なはず、ないでしょっ!」
メロイーズが迷いなく指し示したのは、威風堂々と佇むファルビア――ではなく、その後ろに立っていたもうひとりの青年だった。
本物のファルビアとは似ても似つかないような細身な青年で、美麗ではあるがどちらかと言えば弱々しい雰囲気さえ漂わせていた。
リステアが今一度メロイーズに確認する。
「……間違いございませんね? このいかにも屈強そうな大柄の男性ではなく、その後ろにいるこの方があなたの恋したファルビア殿下なのですね?」
「当然よっ! だって私、その方と確かに一夜をともに過ごして愛を誓い合ったんだものっ……! 恋した人を間違うはずないわっ」
きっぱりと言ってのけたメロイーズに、観衆からなんとも言えぬ吐息がこぼれ落ちた。当の青年はと言えば、困惑した顔を大きく引きつらせ視線をさまよわせるばかりで、メロイーズをちらと見ようともしない。
その態度に、メロイーズの顔が不安げに歪んだ。
「ファルビア殿下……? どうして何も答えてくださらないの……? メロイーズです……! 私、約束通り会いにきました……! なぜ私を見てもくださらないのです?」
「……」
一瞥さえしようともしないつれない反応に、メロイーズが戸惑ったようにリステアを見た。そのすがるような眼差しに同情の念を感じながら、リステアはメロイーズに問いかけた。
「メロイーズ様はこれまで、ファルビア殿下を一度もその目でご覧になったことがないのでしょう? たとえば絵姿とか、遠目からでもご覧になったことも……」
「えぇ……、ないわ。だって私の家は商売をやってるんだもの。殿下が式典なんかで民の前に姿を見せられる時はかき入れ時だから、見に行ったこともないわ。絵姿だってあんなの大抵、実物とは似ても似つかないように描いてあるものでしょう……? だから……顔なんて知らないわ」
「やはりそうでしたか……。それがすべての悲劇のはじまりだったのですわ……。もしもメロイーズ様が、ファルビア殿下がどんな方であるのか知っていたのなら、こんなことにはならなかったはずですもの……」
「どういうこと……?」
リステアはついに真実を告げた。
「……メロイーズ様。あなたがファルビア殿下と信じて疑わないこの青年は、ファルビア殿下などではありません」
「え……!?」
「本物の殿下は、あなたの目の前にいらっしゃいますわ。……こちらの体の大きな雄々しい殿方こそ、この国の王位継承順第一位の王子であらせられるファルビア殿下なのです。後ろにいる青年はまったくの別人ですわ!」
「そ……、そんなっ……! じゃ……じゃあ、その人は一体……!?」
メロイーズの驚愕と困惑の視線が、この国の本物の第一王子の前でぴたりと止まった。
「う……嘘よっ! そんなはずないわっ。だって王子様なのよっ!? 王子様といったらもっとこう……気品にあふれていて麗しく、優雅でスラリとしていて……。こんな熊みたいなゴツい人が王子なはずないじゃないのっ! 何かの間違いよっ」
その言葉に、リステアの頬がピクリと反応した。
世界で唯一の愛しい人をゴツい熊呼ばわりされて、物申したい気持ちはある。けれど今まずなすべきは、真実を明らかにしこの醜聞を一刻も早く収めることである。
波立つ感情を抑え込み、リステアは続けた。
「とは申されましても、これが真実なのです。メロイーズ様の恋心を踏みにじり、ファルビア殿下の名をかたったのは……まぎれもなくここにいるログタン様なのですっ!」
「ログタン……?」
その名前にきょとんと目を瞬かせたのは、メロイーズだけではなかった。観衆もまた、ログタンという名に首を傾げた。
「それは……一体誰です? ログタンなんて人、私知らないわ!」
激しく狼狽するメロイーズに、さすがのリステアも言い淀んだその時。
「あとは私が引き受ける。リステア」
ファルビアの頼もしい声に、リステアは安堵の息をこぼし小さくうなずいた。
「……はい。ぜひにお願いいたしますわ」
ファルビアの婚約者であるリステアとて、さすがにログタンの正体について自ら口にするのははばかられた。なんといっても、ログタンの存在は王家がこれまでひた隠しにしてきたものであり、王家の秘密に関わることなのだから。
ファルビアが低い声で、メロイーズに問いかけた。
「そなたにファルビアと名乗った男は、そこにいるログタンで相違ないのだな? その男がファルビアと名乗り、そなたを伴侶にすると……?」
放たれる圧におびえの表情を浮かべたメロイーズが、小さくうなずいた。
どうやらメロイーズはいまだ目の前にいるのが本物の王子であり、自分の恋した相手が偽者であるとは受け入れがたいらしい。本物のファルビアに向ける視線はどこか懐疑的だった。
「そう……です……」
消え入りそうな声でメロイーズが答えた。
その儚げな姿に小さく嘆息すると、厳しい視線でログタンをちらと見やった。
「……実は、ログタンは王家の血を引く者なのだ。出自を明らかにできぬ身ゆえ数年前から王城で暮らしているが、王位継承権はない」
「ええっ!? で、ではログタン様も王子様……??」
明かされた王家の秘密に、観衆から大きなざわめきが起こった。メロイーズも信じがたい顔を浮かべ、けれどどこか希望にすがるような声で問いかけた。
けれどそれを、ファルビアがすぐさま打ち消した。
「いや、王子としての身分は与えられていない。もとは城下で暮らしていたのを、権力争いに利用されることのないように王城に迎え入れたまでのこと。ゆえに何の特権もなく、貴族ですらない」
その瞬間、観衆は理解した。つまりログタンは、王族――おそらくは女癖が悪いと噂の前王が町で作った落胤に違いない。ゆえに公にはできず、王城に迎え入れたのだろうと。
けれど大人になるまで町で育った者が、容易に王城暮らしになじめるはずもない。ログタンは思い余って王城を飛び出し、こんな騒ぎを起こしたのだろう。
「じゃあ……やっぱり私をもてあそぶつもりで……だますつもりで王子だなんて嘘をついたのね。あの夜私に言ったことも全部……嘘だったのね……。名前も……身分も……好きだって言ってくれたのも」
よろよろと力なく床に膝をついたメロイーズに、リステアがそっと歩み寄った。
「……先ほど私があなたのお話を聞いて、あなたのお相手がファルビア殿下ではないと確信したと言いましたわね? それは、あなたの説明がどうにもファルビア殿下と重ならなかったせいですわ。見ての通り、ファルビア殿下とログタン様とはまるっきり違いますもの」
「……」
いよいよすべての種を明かす時がきた。
なぜメロイーズが口にした最後の言葉で、ファルビアがメロイーズの運命の相手ではないと確信にいたったのか――。
メロイーズの話から受けるファルビアの印象が、実際とはまるで重ならなかったこと。その言葉も行動も。
けれど確信に至ったのは――。
「メロイーズ様のお話の中でもっとも決定的だったのは、白馬に乗って帰っていったというくだりですわ。本物の殿下ならば、白馬になど乗れるはずがありませんから」
「なんで白馬じゃだめなの……?」
メロイーズが涙に濡れた目をぱちくりと瞬いた。
「物理的に無理なのです。これほど大柄で筋肉質なファルビア王子殿下の体をしっかりと支え、厳しい戦闘にも耐えうる馬ともなるとそうは多くありません。よってこの国で現在殿下が乗ることのできる馬は、二頭だけ。そのどちらも黒鹿毛なのですわ」
「つまり本物の殿下なら、白馬になんて乗っているはずがない……。だからあなたは、私が恋したのは別人だって言ったのね……。よくわかったわ」
すっかり勢いの消えたメロイーズは、じっとりとログタンを見やった。
「ひどい……、ひどいわ……。人生でたった一度の、運命の恋だと思ったのに……。本気で好きになったのに……。だから身も心も……。でも、こんなのってあんまりよ……」
さすがのメロイーズも、もう真実から目を背けることはできなかった。あんなに愛をささやきあったはずの青年は、今やおどおどと頼りない態度で目をさまよわせている。そんな姿に、涙に濡れるしかない。
ファルビアは怒りをにじませた目をログタンに向け、冷たく言い放った。
「……ログタン、お前は自分のしたことの意味がわかっているのか? ひとりの民を心から傷つけ踏みつけたばかりか、王家の信頼を失墜させたのだぞ」
「……」
ファルビアの猛禽類のような鋭い目に見据えられ、ログタンの体がぶるぶると震えだす。
「申し開きしたいことがあるのなら、言ってみろ」
ファルビアの鋭い言葉に、ログタンが震える声で語り出した。
王城での息が詰まるような暮らしに辟易し、こっそり町に出たこと。そこでメロイーズに偶然出会い、一目惚れをしたこと。決してだますつもりなどはなく、ただたった一夜の恋でも自分のことを忘れずにいてほしいとの思いから、ほんの冗談のつもりで王子と名乗ったのだと。
「メロイーズだって、自分の国の王子の絵姿くらい見たことがあるだろうと思ったんだ。町でよく売ってるだろ? 肖像画とかさ……。だからすぐに冗談だって笑ってくれるだろうって思ったんだ。でも今夜だけは王子と恋に落ちたんだって、特別な夜だったんだって覚えていてくれるかなって……」
今にも卒倒しそうな青い顔で必死に弁明するログタンに、リステアの鋭い突っ込みが飛んだ。
「……ずいぶんと不敬な冗談ですわね」
その冷ややかさに、ログタンは一層深くうなだれた。
「それは……。でもメロイーズは本気にしちゃってさ……。今さら嘘だなんて言えない空気になって……それでそのままファルビア王子の振りをして別れたんだ。でもまさか本当に王城に乗り込んでくるとは……」
ファルビアの声が一層鋭さを増す。
「……では、メロイーズとのことはただの一夜の遊びのつもりだったのか? 二度と会わない前提でメロイーズをもてあそんだ、と?」
「それは違う……! 私はメロイーズに本気の恋をしたんだ! こんな気持ちははじめてで……できることならふたりで逃げ出したいって思った。でも私は一生王城に閉じ込められたまま、自由に生きることなんて許されないんだろう……? だから……!!」
ログタンは、がっくりと肩を落としひざまずいた。
「望まない暮らしを強いられたことに、同情の余地はある。だがだからといって、ひとりの女性の心を踏みにじり一生を台無しにするなど許されることではない。まずはメロイーズに向けて何か言うべきことがあるのではないか? ログタン」
ファルビアのその言葉に、ログタンがはっとしたようにメロイーズを見やった。そしてよろり、と立ち上がった。
「……」
「その……メロイーズ。君には本当に申し訳ないことをしたと思っている。よく考えもせずに口にした言葉で、君をこんな目にあわせてしまって……。すまない……」
「……」
「すまない……。メロイーズ。許してくれ……。でも本当に君への気持ちは嘘なんかじゃなかったんだ。今だって……」
うつむいたまま黙り込んでいたメロイーズが、鼻をぐすぐすと言わせながら顔を上げた。
「殿下……じゃなくて、ログタン……様。それ……本当ですの……? 気持ちは嘘じゃないって……」
その目に浮かんだかすかな希望の光に、ログタンの顔が明るく輝いた。
「当然だ! 私は君に本当に一目惚れをして……、どうしても君と離れたくなくて、それでついあんなことを……。君を運命の人だと感じたから……」
「それ……、本当なの……? 信じて……いいの?」
「どうかそれだけは信じてくれ……! メロイーズ。君を愛しているといったのは真実だ……!!」
懸命に思いを告げるログタンの姿に、メロイーズは大粒の涙をぽろりと落とした。
「ログタン様……!!」
「メロイーズ……!!」
ここにきて、ふたりの視線がようやくピタリと重なった。
メロイーズにとっては、取るに足らないことだったのかもしれない。一夜を過ごしたのが何という名前の青年であったのかも、その青年が王子であるのかどうかも。大切なのは、その人が人生でただ一度の本物の恋の相手なのかどうか。運命の恋であるのかどうかだけ。
どうやらそれは、ログタンも同じであるらしかった。
頬を上気させ、きらきらと目を輝かせながら手を取り見つめ合うふたりを、皆が困惑顔で見つめていた。
リステアもまた、先ほどとは打って変わった熱のこもったふたりの空気に難しい顔で考え込んだ。
(いくらふたりが本当に愛し合っていたとしたって、このまま無罪放免なんてわけにはいかないわ。王族のひとりとはいえ、王子の名を勝手にかたって町娘と将来を誓い合うなんて……。殿下はああ見えて、とても情に厚い優しい方……。一体どんな罰を下すつもりかしら……?)
これは間違いなく王家の醜聞である。仮にも王籍にある者がいたいけな町娘をだまし、王家の秘密も公になってしまったのだ。このまま有耶無耶に帰すわけにはいかないだろう。
けれどログタンは一応は王家の一員である。どんな処罰を与えるのか、非常に難しい問題だった。
しばしの間のあと、ファルビアが苦々しい表情を浮かべログタンを見やった。
「……ログタン。お前の言い分はわかった。だがだからといって不問に帰すわけにはいかない。お前は軽々しい行為でひとりの民の人生を狂わせたばかりか、王家の名も汚したのだ。……厳罰に処すことになるから、覚悟しておけ」
その瞬間、メロイーズが悲痛な声で叫んだ。
「だめですわ……! ログタン様がひどい目にあうのは、絶対にだめですっ!!」
メロイーズの必死な形相に、場が静まり返った。
「ログタン様は確かに私に嘘をついたわ……。でも……仕事で荒れた私の手を優しくなでて、頑張り屋のきれいな手だってほめてくれた。きらびやかに着飾る令嬢なんかより、私の方がずっときれいで輝いてるって……。それに……」
メロイーズの切なげな声が、高い天井に響き渡る。
「それに……あの夜ログタン様は、自分の孤独を理解してくれる人がただひとりそばにいてくれたら、地位もお金もいらないって言ってた……。私はそんなログタン様を好きになったの……! だから罪になんて問わないで!!」
「メロイーズ……」
メロイーズの涙ながらの訴えに、ログタンの目が潤む。
「私、すべて撤回します! 何もログタン様との間にはなかったって……。そうすれば、ログタン様は無実のままでいられるのでしょ……? ログタン様が不幸にならずに済むのなら、私は身を引きますわ。そして永遠に口をつぐみます!」
きれいな大粒の涙をぽとりぽとりとこぼしながら、メロイーズが叫んだ。その悲壮な姿に、観衆は声を失った。
ログタンもそんなメロイーズのけなげな言葉に、目を潤ませ声を絞り出した。
「メロイーズ……、君という人は、やっぱり私の唯一の人だ。王城なんて出て、君と一緒になれたらどんなにか幸せか……」
「私も同じ気持ちですわ……! 私……、あなたが王子だから恋したんじゃないもの。あなたがあんまりにも寂しそうで心細そうで、でもそれを必死に押し殺して我慢している姿がいじらしくて助けてあげたくなっちゃったんだもの……!」
「あぁ……! メロイーズ!! 君が好きだっ。心から愛しているっ!!」
「私も好きですっ! ログタン様!!」
王子の前だということも忘れ、メロイーズとログタンは感情を爆発させひしと抱き合った。その情熱的な抱擁は見る者の心を大きく揺さぶった。
メロイーズがリステアに問いかけた。
「メロイーズ様……。あなたはそれで……それでよろしいのですか? 何も……恋なんてなかったと?」
「……はい。かまいませんわ。それでログタン様が苦しまずに済むのなら……」
「……」
はじめは自分から愛しい人を奪い取る恋敵かと思った。なんならこっそり排除してしまおうかとも。けれど今となっては同じ恋に落ちた者同士、わかり合える思いもある。
リステアは隣に立っていたファルビアを見やった。
その眼差しににじむ懇願の色と場に漂う空気を感じ取ったのだろう。ファルビアの顔になんとも言えない困惑の色が浮かんだ。
「むぅ……。しかし、さすがに無罪放免というわけには……。それにメロイーズとて、このままというわけにも……」
「それは……」
リステアはしばし考え込み、はっと顔を上げた。
「……では、こういうのはいかがしょう? ちょっとお耳を……」
リステアはファルビアの耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。
「いや……、しかしそれではあまりに……」
「問題ありませんわ。いざ目に余る行動を取るようなら、ロスデール家の力でどうとでも……」
「……」
「うーむ……」
「……運命の恋に落ちた者の気持ちは、私にもよくわかるのです。ですから……」
「……」
リステアの顔に熱のこもった笑みが浮かび、それを見たファルビアは渋々とうなずいたのだった。
その後、ログタンの処遇が正式に言い渡された。当然のことながらログタンの存在についての厳しい箝口令も敷かれた。もしも外部に情報がもれるようなことがあれば、あの場に集っていた者全員を厳罰に処す、と。
それからしばらくが過ぎた、とある城下の片隅では――。
「ログ様! はい、あーん!」
目の前に差し出されたスプーンに乗ったスイーツを、ログと呼ばれた美麗な青年がだらしなく眉を下げぱくりと飲み込んだ。
「んんんんっ! 今日もメロイーズの作ってくれたパイは最高においしいなっ。さぁ、今度は君も! ほら、あーん!」
「うふふふっ! ログ様ったら。あーん!」
砂糖がたっぷりと入ったパイなんて目じゃないくらい、甘い甘い空気を漂わせるふたりの姿に、通行人たちがげんなりとした表情を浮かべ通り過ぎていく。
けれどふたりはそれを気にもとめることもなく、幸せそうに笑い合っていた。お腹に宿ったばかりの新しい命をそっとなでながら――。
◇◇◇
その日ファルビアの執務室に、一組の夫婦にまつわる定期報告書が届いた。それに目を通したリステアは、やわらかく微笑んだ。
「君の予想通りの結末になったな。あのふたりに温情をかけてやれば、きっとこの先も悪事なんて企むことなく平穏な一生を送るはずだ、と」
ファルビアのどこか不本意そうな顔に、リステアは小さく笑い声を上げた。
「ええ。これ以上ない結末ですわ。殿下がログタン様に温情のある罪を言い渡したことで、運命の恋がひとつ守られたのですもの」
「運命の恋……か」
「ふふっ」
ログタンに下された罪状は、王籍剥奪と生涯に渡る監視下で国のために働くというものだった。
ゆえに一生城下から離れることは許されず、職から逃げ出すこともできない。とはいえ、王城での窮屈な暮らしからは解放され、自分が王家の血を引くことは一生口をつぐんだ上で結婚の自由も与えられることになった。
ログという新しい名を与えられ町に放り出されたログタンは、その足でメロイーズと教会で式を挙げ夫婦となった。
今ではこれ以上なく仲睦まじい甘い夫婦として、見張りの役人と町の人たちをげんなりさせているらしい。
「まぁあれの仕事ぶりも悪くないようだし、君の言う通りおかしな欲をかいて悪事を企むこともなさそうだ。なんといっても幸せそうだしな。王城にいた頃はまるで亡霊のように浮かない顔をしていたから、これでよかったのだろう」
「当然ですわ。もともとログタン様にはそんな知恵も欲もありませんし、そんな質でもありません。頭にあるのは、メロイーズ様のことだけですもの」
運命の恋に落ち、とんでもない騒動を巻き起こしたふたり。けれど運命なんて、そうそう出会えるものではない。
思いを確かめあったふたりの姿に、リステアはどうしても応援してやりたい気持ちにかられたのだ。どうにかふたりの運命の恋を守ってやりたい、と。
「せっかく運命の相手に出会えたのですもの。その仲を引き裂くのは無粋というものですわ。……それにもし万が一のことがあれば、いつでもロスデール家が動きますからご安心を」
リステアの横顔にちらと垣間見えた冷えた鋭さに、ファルビアが苦笑した。
「まったく……運命とは、大変なものだな。何もかも飛び越えて、人生を大きく変えるのだから」
どこか含みのあるファルビアの言葉に、リステアはふふと微笑んだ。
運命の恋に翻弄されているのは、リステアとファルビアも同じだ。
リステアは知っていた。ファルビアもまた、自分に対してこれ以上ないほどの運命を感じていることを。
「私たちも同じですわ。私も、殿下にこれ以上なく運命を感じておりますもの。運命に無理やり抗おうとすれば、かえって不幸を招くもの……。心のままに受け入れるが吉ですわ」
もしもファルビアが他の女性に心移すようなことがあれば、果たして自分はとうするだろうか。自分の立場も忘れ、思い切った行動に出るかもしれない。
半分は本気で、半分冗談でそんなことを思いながら、リステアはファルビアの手にそっと触れた。
その瞬間、ファルビアの目に熱いものが揺らいだ気がしてはっとする。
「……そんなこと、とうの昔にわかっている。私とて運命の強さを身をもって知っているのだからな」
ファルビアの力強い腕が、リステアの腰に回る。
その腕に込められた隠し切れない愛情と独占欲に、リステアは頬を染め幸せそうに微笑むのだった。
王となったファルビアの御代は、後世にも長く語り継がれるほど平穏と繁栄を誇った。
王妃リステアとの間には四人の王子とふたりの王女が生まれ、ふたりは生涯仲睦まじく暮らしたという。
〈 おしまい 〉