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夜が明ける 第98回オール讀物新人賞最終候補作

作者: 加藤竜士

私は過去4回、オール讀物新人賞の最終候補に残っています。

しかし、受賞は叶わず。

「夜が明ける」はそのなかの一作です。




 二挺の駕籠が漆黒の闇のなかを疾駆する。

 たよりは、棒鼻につけた提灯の心許ない灯だけである。

 刻は子の上刻(午後十一時)。静寂の底に沈んだ街道に聞こえるのは、「はん、ほぉ、はん、ほぉ」という駕籠舁かごかきの掛け声と、そのあとにつづく肩替わりの駕籠舁き人足十四人の足音だけである。

 提灯の明かりにぼんやり照らし出される小石まじりの路面は、ついさきほどまで降っていた雨をふくんで、先を急く足を阻む。

「急げ、急げ」

 後ろの駕籠から、野口伝乃介の怒鳴り声が聞こえた。

 あいつは若い、と前の駕籠に乗っている山縣正太夫はなかば気を失いそうになりながら思った。五十六の身体には、激しい揺れに堪えるだけで精一杯で、声を出す気力も残っていない。

 早駕籠を仕立て、麹町の江戸屋敷を発って今日で三日目である。

 吊り紐にしがみつき、舌を噛まないように手拭いをくわえ、激しい揺れで内の腑が傷まないよう晒し布をきつく巻いているが、身体は一日目で早くも悲鳴を上げた。目が眩み、全身が軋む。

 半刻(一時間)ほどまえ、京の東寺を過ぎて西国街道に入ったから、残すは二十里あまり、お城まではあと一日だろう。

 正太夫のふところには、江戸家老有賀喜久左衛門の書状がしたためられている。それは、松平家の禍難と悲運を伝える報せだった。

 恐れていた最悪の事態が現実のものとなってしまったのだ。もっともそれは、いずれその日が来るとわかっていたことだった。

 禍根は、今から十二年前にさかのぼる。そのとき家中の者はうちひしがれ、世の不条理を呪ったが、声を大きくしていえることではく、ただ堪え忍ぶしかなかった。そしてそれはいま決定的なかたちを成して御家に降りかかってきたのだった。

 二人の急使を乗せた駕籠は昼夜わかたずひた走り、郡山宿本陣、瀬川、昆陽こや、西宮と宿駅を駆け抜けて、播磨はりま明石の城に着いたのは、翌日暮れ六つ(午後六時)すぎのことだった。

 駕籠から崩れ落ちるように出てきた正太夫と伝乃介は、息も絶え絶えに表玄関までたどり着くと、声を振り絞った。

「城代家老、辻村左馬介様へ、江戸表より急使にござる!」

 正太夫は、城代家老の役部屋に通されると、遅くまで残って執務にあたっていた辻村に一通の書状を差し出した。

「江戸表より急ぎの報せにございます」

 それを受け取り文面に目を走らせた辻村はことばを失い、うつむいた。恐れていたこととはいえ、やはり現実のものとなってみると、家臣には耐え難い苦渋だった。

 書面には、藩主・松平斉韶まつだいらなりつぐが隠居し、養嗣子である斉宣なりことが家督を継ぎ藩主に就く運びとなったとあった。斉宣は十一代将軍徳川家斉とくがわいえなりの子で、

二歳のとき松平家に養嗣子に入って今年で十五歳になる。

「殿はまだ三十七にあらせられるぞ」

 辻村は愁嘆に顔をゆがめ、小さく吐き出した。

 家斉は、みずからの子を松平家の藩主に据えるため、斉韶がまだ三十七歳という若さにもかかわらず、無理矢理引退に追い込んだのだ。

 徳川家斉は将軍の座を家慶いえよしに譲ってもなお、大御所として西ノ丸で権勢をふるっていた。

「城代」

 正太夫が声を押し殺すように辻村を見た。

「どうした」

「公の書面にしたためることははばかられるため、有賀様が辻村様に口頭でお伝えせよと」

「なんじゃ」

「……至誠院しせいいん様が……」

 至誠院は藩主斉韶の正室である。

「いかがいたした。早く申せ」

 辻村が不吉な予感にとらわれたように先を急かした。

「斉宣様が藩主に直ると決まったその日、高輪の御屋敷にて喉を突かれ、ご自害なされました。壮絶な最期でございました」

 辻村は、ふたたび絶句し、急使の二人を見た。

 斉韶には直憲なおのりという嫡子がおり、至誠院はその生母である。家斉は斉韶だけでなく直憲までも退けて我が子である斉宣を藩主としたのだ。

 御方さまのご胸中いかばかりだったろうかと、家中の誰もが涙した。

「さぞかし、ご無念であられたろう……」

 辻村は唇を震わせた。

 正太夫と伝乃介も畳に頭をすりつけ、泣いていた。

 天保十一年三月朔日、春とはいえ、肌を刺すような寒い日の夜のことだった。




      一


「殿様を除くというんだ」

「除くとは、どういうことだ」

 剣道場の稽古場を出て支度部屋で着替えていると、ひそひそと話し声が聞こえてきた。

「斉宣様を亡き者にするということだろう」

「暗殺か?」

「しっ、声が大きい」

 武者窓から覗くと、目の前にある水場を備えた井戸のそばで、汗を洗い流しながら若い門弟たちが話をしていた。高山敏治郎、坂上万太と、もう一人は顔は知っているが、名は覚えていない。

「ほんとうにやるわけではないだろう」

「それはわからんぞ。もう我慢ならんと息巻いていた」

「それは穏やかではないな」

 と声をかけると、窓越しに突然話に割り込んできた有賀喜久左衛門に気づいた少年たちは、その場に凍りついた。

 「今行く」と声をかけて洗い場まで出ると、

「殿のお命を頂戴するとはいかにも物騒な話だの。だれがそのような戯言ざれごとを申しておるのだ」

 と訊いた。

「いえ、あの……」

 少年たちは一様に口ごもってうつむく。

 安気な声音で話しかけたつもりだが、かつて明石藩の江戸家老でもあった喜久左衛門に、孫ほどの齢でしかない門弟たちは、震え上がってしまったようだった。

「なにも、おまえたちをどうこうしようというのではない。申せ」

 高山敏治郎がおずおずと口を開いた。

「鉄心会という集まりです」

「はじめて聞くな。何だそれは」

「藩校の西沢組の門下でつくっている勉強会です。もともとは孔子を学ぼうという集まりだったのですが、近頃はそんな話ばかりだとか」

「鉄心会の者たちが殿を襲おうというのか」

「そのようです」

「おまえはそれを誰から聞いた」

「……藤井さんです」

「藤井? 藤井悦弥か」

「はい」

 悦弥もこの道場の門弟で、いま話している敏治郎の三、四歳年上である。たしか、徒士頭藤井なにがしの次男だったかと思う。喜久左衛門も何度か竹刀を合わせたことがあるが、鋭い動きと太刀筋に圧倒された。あとで聞いたところによると、目録をもらうところまで来ているという。

「藤井も鉄心会なのだな?」

「というより、その集まりの会頭です。おまえも参加しろとしつこく誘われて……」

「こうなると、行かぬほうが無難だな」

「……はい」

「西沢組の者といったが、西沢先生はそのことをご存じなのか」

「いいえ。最近は先生とは関わりなく、藤井さんの家に集まってやっているようです」

「藤井は?」

 まだ竹刀を打ち合う音が聞こえる道場のほうを見て喜久左衛門が聞いた。

「さきほど帰られました」

 と、となりにいる坂上万太が答えた。

「そうか。おまえたちももう帰って良いぞ」

「有賀様」敏治郎が、戻ろうとする喜久左衛門を呼び止めた。「どうなさるおつもりですか?」

「このまま捨て置くわけにもいくまい。藤井と会って話してみるつもりだが、安心せい。おまえたちの名は出さぬ」

 少年たちはほっとしたように表情をゆるめて辞儀をすると、そそくさと帰っていった。

 喜久左衛門は着替えて道場から出ると、空を仰ぎ、大きなため息をついた。これからのことを考えると気が重かった。

しかしそれでも、気持ちを奮い立たせて通りへと足を踏み出した。

 空は晴れ渡り、雲一つなかった。まだ肌寒いとはいえ、陽射しは柔らかくなり、春の気配を感じる。

ときおりすれ違う藩邸内の人々のなかには、羽織を着ていない者もちらほらと見かけた。もうすぐ桜の季節である。

 喜久左衛門が江戸家老を辞して息子の聡兵衛に家督を譲り、隠居の身となって五年になる。

 そのころから目に見えて顕著になってきた肉体の衰えに気づくたびに、このまま老いさらばえ朽ち果ててしまうのか、と切ない思いに囚われた。

 少しは鍛え直そうと思い、何十年ぶりに藩邸内の氷野道場に通いはじめた。若くして当道場で直心影流の免許を受け、居合い抜きの田宮流も修めたが、ひさしぶりに手にした竹刀は思うように動かず、足も運べず、最初はひどく往生した。しかし、稽古をつづけるうちしだいに勘が戻ってきて、いまでは若い頃とまでは行かぬものの互角以上に打ち合えるようになった。それを見ていた道場主の鍋田心衛に頼まれ、今では年少の門弟たちに稽古をつけるまでになっていた。

 喜久左衛門にとって、今日たまたま耳にしてしまった悦弥のことは、そんな夕凪ゆうなぎのような長閑のどかな日々に突然降りかかってきた災厄のようなものだった。

 悦弥の住む表長屋を探り当て声をかけると、出てきたのは四十半ばと見える母親だった。息子を訪ねてきたのが見知らぬ老人だったからだろう、母親は怪訝けげんそうな表情を浮かべ、悦弥は帰って来てすぐに出て行ったと言葉少なに答えた。

「どちらへ行かれたか存じ寄りか」

「いえ……、聞いておりませぬ」

「では明日にでもまた来てみよう」

「いえ、それが……」

「ん?」

「しばらく家には戻らないと……」

 その一言で、にわかに戦慄がはしった。

 しかし、それを悟られないよう、のんびりした声音をつくって言った。

「ならば、いたしかたない。戻ったときは、有賀が話をしたがっていると伝えてもらいたい」

「あの……どちらの有賀様でしょうか」

「なあに、氷野道場の剣道仲間だ。そう言えば息子殿もわかり申す」

 悦弥が姿を消した。斉宣公の命を狙うというのは一時の妄念でも大言壮語でもない。本気なのだ。そうなると、もう、わし一人の手には負えない。

 喜久左衛門は表長屋をあとにすると、すぐに江戸家老の役宅に足を進めた。

 本来なら大目付か近習頭取にでも知らせるべきだろうが、そのまえに、江戸家老に話を通しておくほうがいいと判断したのだ。

 悦弥の言動を知って、ここ数年、家中にくすぶっていた憤懣ふんまんがついに飽和状態に達したような切迫感にとらわれていた。

 江戸家老の吉添文吾に面談を申し出ると、すぐに役部屋に通された。今は隠居の身とはいえ、かつての威光はまだかろうじて残っているようだった。

 文吾はまだ役部屋にいた。七年前、当時三十二歳で江戸留守居から家老に転じ、三年前には江戸家老に昇った。若い頃から切れ者と評され、人格も備えた頼もしい男である。

「やあ、有賀様、おひさしぶりでございます。本日はいかがなされました」

 文吾は机の書類から目を上げると、親しげな笑みを浮かべて言った。

 ひさしぶりに会うその容貌は、いささかふくよかになったように見えたが、濃い眉と鋭い眼光は昔のままである。

「お勤め中、恐れ入る」

 喜久左衛門はかしこまった言い方をし、立ち上がろうとする文吾に手を振って席にもどらせ、向かい合って座った。

「お勤めを離れてどれほどになりますか。ご壮健なようで、なによりでござる。隠居暮らしはいかが?」

「その話はまたの折りに」

 そう断って、喜久左衛門はすぐに要件に入った。

 聞き終わった文吾はすぐに大目付を呼びだし、経緯を話してただちに藤井悦弥を見つけだし身柄を押さえろと命じた。仲間がいると思われるので鉄心会全員の身柄も押さえて取調べるようにと念押しするのも忘れなかった。

 さらに近習頭取を呼び出し、一部に殿の命を狙う不穏な動きがあるので、なおいっそう厳しく警備に当たれと申しつけた。

 そんな対応の早さと適格な采配ぶりを、喜久左衛門は感慨深げに見ていた。

 文吾に対しては、今もわが教え子、という思いがどうしても抜けない。前髪の頃から知っており、氷野道場の同門でもあり、可愛いもう一人の息子のようでもあった。

 重職の家柄ではない文吾を小姓組に召し上げたのも喜久左衛門だったし、機会あるごとに重用してきたのも喜久左衛門だった。それほど優れた人材だったし、おのが見る目に間違いはなかったと満足したのだった。

「袴田殿にもお知らせしておかねばなりませぬな」

 文吾はそういって、至急お伝えしたいことがあるのでお越し願いたいと、かたわらにいた下僚の者に命じた。袴田銀丞はかまだぎんじょうは、藩主斉宣の側用人である。

 下僚が出て行き、二人だけになると、喜久左衛門が言った。

「近頃、周丸しゅうまるはどうじゃ」

 十九歳の藩主を幼名で呼び捨てにした。

「相も変わらずです」文吾は大きくため息をつき、一段と声を落として言った。「先だっても、狩りだと称して奥御殿の庭に百羽の鶏を放させ、追い回してつぎつぎと斬り殺したそうでございます」

 喜久左衛門は思わず眉間にしわを寄せた。

「一刀のもとに斬り殺してしまうより、血をほとばしらせもがき苦しみながら死んで行く様を眺めるのが何よりも楽しいのだと」

 文吾も嫌悪感を露わにしていった。

 斉宣の奇矯や無法ぶりは今に始まったことではない。そしてその残虐な行為は、いつも猟奇的な匂いを帯びていた。

「さらに悪いことに、近頃は、家政向きにまで口出ししてくるようになりました」

「それは困ったものだの」

「先日も、それがしと留守居役の横井泉次郎が呼びつけられ、ひどく叱責をうけ申した」

「なぜゆえ?」

「ご存じかとは思いますが、今年三月、江戸城本丸で火を出しましてな、当藩がその改築普請を命じられたのでございます。藩財政が窮しておるこのときになぜお手伝いけができなかったのか。御公儀への根回しが不首尾だったと、激して横井を足蹴にいたしました」

 お付きの小姓や女中が殴られたり蹴られたりということは以前にもたびたびあった。しかし、親ほども年上の重臣を足蹴にするとはなにごとか。

 喜久左衛門がすぐに思い出したのは、四年前の事件である。

 斉宣は、藩主となって初の国入りをしたとき、松平家の名に傷をつける深刻な不祥事を起こしたのだ。


 その日、麹町隼町にある松平家の江戸藩邸は、朝からどんよりと重い雲に覆われ、ひっそりと息をひそめていた。

 喜久左衛門の致仕が決まって、最後の勤めとなる日のことだった。いつものとおり、朝の四つ(午前十時)より小半刻はやく出仕して御用部屋に入ろうとすると、長い廊下のむこうから白髪の男が走ってくるのが見えた。江戸留守居役の横井泉次郎だった。

 蒼い顔をしてやってきた泉次郎は、

「御家老、一大事でございます」

 と言った。

「何事か」

 泉次郎は人の耳をはばかるように廊下を見渡し、誰もいないと見ると、喜久左衛門とともに御用部屋に入り、座りもせずに言った。

「昨夜、尾張徳川家から呼び出しがかかりまして、今後、松平家が尾張藩の領内を通行することは断じてならぬと申し渡しがございました」

「なに? あの一件か」

「はい。いたくご立腹の様子で」

 十日ほど前、家督を継いで藩主となった十五歳の斉宣が初の国入りをした。事件は、その参勤交代の道中に起きた。尾張藩領を通過中、三歳の幼子が行列の前を横切ったのである。行列に行き合わせた村民たちは沿道に平伏して通過を待っていたが、たまたま猟師の息子が親の手を離れ飛び出してしまったのである。腹を立てた家臣たちがその幼子を捕らえ宿泊先の本陣へ連行した。村民たちが押し寄せ懇願したにもかかわらず、十五歳の斉宣はみずから太刀を取り、一同の目の前で幼子を斬り捨ててしまったのである。

 これを知った尾張藩は激怒し、御三家筆頭の面子にかけて今後は尾張藩の領内の通行は相成らぬと伝えてきたのである。

「たしかに一大事」

 眉間に皺を寄せ、喜久左衛門は愕然として慨嘆した。

「いかが致しましょう」

 斉宣が江戸にもどってくるのは一年後である。そのときにはまた尾張藩領を通らなければならない。

「ほかの街道を使うしかあるまい」

「ほかに街道などありません。使うとしたら奥深い山道しかございません。細く険しい獣道のようなもので、大名行列が通るのは至難でございます。それに、何日も余計にかかりますし、雨や嵐に遭えば、死人がでることも……」

「しからば……」しばし考え込んで喜久左衛門は言った。「行列は立てず、藩士たちは脇差一本を帯びるだけにして、百姓や町人に擬装して通るしかないな」

「仮装して尾張藩領を通るのでございますか?」

「そうじゃ」

「殿も?」

「やむを得まい」

「しかし、それはいくら何でも……」

「相手は御三家筆頭の徳川様ぞ」

「むむ………」

「いたしかたあるまい、天に向かって唾を吐けば、わが身に降り落ちてくるのだ」

 不機嫌に顔を歪め、吐き出すように言った。

 喜久左衛門は十五歳の藩主の顔を思い浮かべ、「あのれ者が」と憤怒にまかせて吐き捨てたが、もちろんそれは胸の裡のことで、声に出すことはなかった。

 斉宣がうちに抱える狂気は、すでにこのときから顕在していたし、それは生まれついてのものかも知れなかった。

そのような者が藩政に関わってくれば御家はどうなってしまうのだ、と喜久左衛門は暗澹たる思いに囚われる。


「吉添」

 大きな声が廊下に響き、振り返ると、役部屋に入ってきたのは側用人の袴田銀丞だった。

「や、有賀殿」喜久左衛門に気づいて、足を止めた。「どうしてここに?」

「ひさしぶりに吉添殿のご尊顔拝したくなりましてな」

「いやいや」

 銀丞は、皮肉めいた笑みを浮かべて近づいてくると、言った。

「江戸屋敷の中枢で辣腕をふるっておられたころが懐かしくなられたかな?」

「さようなことは」

「また執政に返り咲こうと?」

 嫌みな笑みを浮かべて喜久左衛門を見た。

 江戸家老だった喜久左衛門を失脚に追いやった張本人が、銀丞だった。

 銀丞は思い出したように文吾のほうを振り返って言った。

「吉添、火急の用とはなんじゃ」

「殿のお命を狙う者がおります」

「なんと……」

 銀丞は身体を硬くした。

 文吾があらましを説明して言った。

「大目付に手配り万端にと命じましたので賊はまもなく取り押さえられましょうが、用心に越したことはござらん。しばらく目立ったことは控えられるがよろしいかと」

「目立ったこと?」聞きとがめ、銀丞が目をつり上げて言った。「目立ったこととは何のことを申しておるのかな」

「左様……たとえば人の出入りが多い催しや大勢の供を連れての他出などは」

「鷹狩りも茶も武士のたしなみ。それをいらぬ贅沢事と申すのか」

「いや、そのようなことは……」

 斉宣は昨年茶道に目覚め、裏千家に入門して奥儀を授けられた。それを機にたびたび貴人を招いて茶会を催すようになり、その費用も馬鹿に出来ないものだった。

 ただでさえ十万石格という藩の格式の維持に汲々とし、将軍の子であるがゆえに莫大な支出を余儀なくされているのに、遊興にうつつを抜かし、好き放題に金を使って、勝手向きを苦しめているのはほかならぬ斉宣だった。

 銀丞は腹立ちがおさまらぬのか、さらに言いつのった。

「そのほうはことあるごとに藩の台所の苦しいことをたてに、殿のなされることに難癖をつける」

「そうではござらぬ。刺客に狙われやすいことはしばしお控え願いたいと申しあげておるだけで」

「警固を盤石ばんじゃくにすれば良いだけのこと。おのれの不首尾を棚に上げて、殿に責を押しつけるか」

「いえ、決してそのような」

「吉添、肝に銘じよ。江戸家老たるもの、在府の殿をお守りするのが至上の使命。それを忘るるでないぞ」

 斉宣が松平家に養子入りするとき、側近の付き人として二人の人間が付いてきた。一人が田安家の用人を務めていた青木甚左衛門で、もう一人が御用人格の袴田銀丞だった。いわばそれは、幕府が命じた斉宣の世話役であり後見人だった。

 銀丞は、斉宣が十五歳で藩主の座に着くと同時に、側用人となった。

 御側御用取次である側用人が藩政に力を持つようになるのはめずらしいことではない。家老たち執政が藩主に意向をはかりたくとも、それを取り次ぐも取り次がぬも側用人の胸三寸しだいであり、側用人が案件を意図し、それを殿のご意向であると強弁すれば通すのも難しくはない。つまり、思うがままに

藩政を動かせるのだ。

 銀丞は大御所家斉公の命を受けて入ってきた人間だから、松平家としてもないがしろには出来ず、結果としてその専横を許すこととなってしまった。高飛車な物言いも立ち振る舞いも、すべては将軍家の威光を背負っているからだった。

 養子の斉宜が藩主に直った時、明石藩は二万石の加増を受けて八万石となった。しかし、斉宣はさらに十万石への加増を幕府に求めた。

 将軍の子が大名になると、御三家への挨拶が慣例となっているのだが、尾張徳川家に挨拶に上がった際、正門を通れるのは十万石以上の大名に限るとされ、側門を通らされるという屈辱を味わったからだった。十万石の願いを出したのは、銀丞の差し金だったのではないかと言われている。

 ひょっとすると、と喜久左衛門は思う。お手伝い普請についての憤懣も、斉宣自身の意思ではなく、銀丞に焚きつけられたからではないのか。

 銀丞は、

「殿に万一のことがあったときは、わかっておるな? 腹を切るだけでは済まぬぞ。御家取り潰しと覚悟せい」

 言い捨てると、喜久左衛門に一瞥をくれることもなく出て行った。

 久方ぶりの愛弟子との再会は、不快きわまりない罵声で汚された。




      二


 喜久左衛門は、床の中からじっと天井を見つめていた。

 昨夜はあまり眠れなかった。しばらくまどろんだが、未明に目が覚めると、もう眠れなくなってしまった。

 いまはとらの刻(午前四時半)を過ぎたころだろうか。暗い空から姿を現した朝の日を受けて障子のそとが白みはじめている。

 江戸家老の職を離れて、喜久左衛門がいちばん戸惑ったのは、時の過ごし方である。手足をもぎ取られたように、することが何もなかった。

 勤め一筋だった自分には、気づけばこれといった趣味もなく、あらたになにかはじめるにしても、興味をそそられるものも見つからなかった。

 無趣味であることを恥ずかしいとは思わないし、人として劣っているとも思わないが、時間をもてあます退屈な暮らしが苦痛だった。だから、道場に通いはじめたのだ。それは、老いへの焦りだけでなく、有り余る時間をつぶす意味もあったのだった。

 あと何年生きられるか知るよしもないが、残された時間はそう長くはないだろう。生を受けてから隠居するまでの六十年間、数限りなく試練を受け、悩み苦しみ、打ちのめされ、辛苦をかさねてきたのだ。それでもう十分だろう。残された余生は幸福と喜びに満たされたいのだ。甚大な危難に巻き込まれ

翻弄ほんろうされる余生など、断じて受け容れるわけにはいかない。

 しかし、一方で、御家の一大事だ、座視しているわけにはいかないという焦燥が渦巻く。

 いや、やめておけ。御家が滅びるなら、それは天が定めた運命だ。それをどうやって食い止めようと言うのだ。老いぼれのおまえ一人があがいてどうなるものではない、ともう一人が押しとどめる。

 自分のなかで戦っているうち、奥底のほうで渦巻いていたひとつの思案が突如かたちを結んだ。そしてまた、それを押しとどめようとする声も同時に聞こえた。

 そのような大それたことを考えるな。やめろ、危険だ。おもてにあらわれてしまえば、それこそ、おまえ一人の切腹ではすまない。御家取り潰しは必定。

 しかし、この葛藤はながくは続かなかった。

 喜久左衛門は夜具を跳ねのけ、むっくと起きあがった。

 次の瞬間、早朝の深閑とした寝所に怒濤の声が轟いた。

「是非もなし!」

 血が沸き立っていた。その高ぶりは、ひさしく味うことのなかった感覚だった。


「おお、喜久左」

 松平斉韶は部屋に入ってくるなり相好を崩し、近づいてきた。

 湯島にある藩の中屋敷である。斉韶は隠居が決まると、麹町の上屋敷からこちらに居を移した。

「上様におかれましては---」

「やめいやめい。そのような堅苦しい挨拶は」

 四十二歳の若い隠居は喜久左衛門の顔を上機嫌で覗き込む。

「久しいのう。顔色も良いし、息災でなによりじゃ」

 喜久左衛門は、斉韶六歳のとき御傳役おもりやくに用いられ、十三歳で家督を継ぎ第七代藩主になると小姓としてお側につき、その後御用人に召し上げられ、家老に抜擢され、最終的には江戸家老に昇った。三十六年の長きにわたって寄り添うように生きてきた間柄である。

「勤めを退いてから一度も顔を見せないとは薄情ではないか。寂しかったぞ。会いたかったぞ」

 永年仕えた忠義な家来というより、齢の離れた兄か父のように今も慕ってくれているのが伝わってきて、喜久左衛門は心が温まる思いがした。

「非礼はなにとぞお許しを。上様もお変わりなきようで嬉しゅうございます」

「四年か……」

 斉韶は、流れた歳月を噛みしめるように呟いた。

 喜久左衛門が江戸家老の職から身を引いたのは、斉宣が藩主の座に着いた四年前のことである。

 幕府から斉宣を藩主に直せとの命を受けたとき、すべてが終わったと思った。打ちのめされ、底なしの喪失感に囚われた。家中の者のほとんどがおなじ気持ちを抱えていたし、正室の至誠院が自害したのもそのせいだった。

 そんな失意の底にある喜久左衛門に、とどめを刺すように追い打ちをかけてきたのが側用人の袴田銀丞だった。喜久左衛門が斉韶公を藩主にもどす策謀をめぐらしているなどと、いわれのない言いがかりをつけてきたのだ。

 さらに、斉宣が藩主になったことに対して、もとの家の血筋にもどすべしという不敬の声が家中であがっていること、至誠院の自害などつぎつぎと並べ立て、それら謀叛むほんともいえる不祥事はすべて江戸家老の家中仕置き不行き届きであると、退陣を迫ったのだった。

 銀丞の執拗なまでの糾弾は、ことあるごとに斉宣の不行跡に苦言を呈し対立する喜久左衛門を排斥したいがためと察しがついたが、それに立ち向かう気力は失せていた。

 日々、御家のために心血をそそいできた結果がこれか。この四十余年は何だったのか。なにもかも嫌になった。だから隠居を決意したのだ。

 それは現実に背を向け逃げ出すことにほかならなかったが、踏み堪える力はもう残っていなかった。 それは、斉韶もおなじだったろう。

 永年御側に仕えてきたから、喜久左衛門にはわかる。斉韶は心優しく、柔和な人柄である。政治や即断には少々力の欠けるところがあり、迷い悩むこともたびたびだったが、結果的には、御家や家臣、領民にとって最善の温情あふれる施策を導き出すのだった。

「まだ日は高いが、一献いっこんかわそう」

 斉韶は手を叩いてお付きの者を呼び、酒の用意をするように言いつけると、また嬉しそうに喜久左衛門を見た。

「久しく無沙汰してしまいました。いかがお過ごしでしたか」

「おお。身体だけは丈夫でな。暇で暇で困っておる」

「わたくしも同様。暇を持て余して困っております」

 江戸家老の職を辞したとき、斉韶公から、国元に帰らず江戸に留まることを許され、役宅を出たいまも藩邸内にある屋敷を与えられて住んでいる。江戸生まれ江戸育ちの喜久左衛門にはありがたい処遇だったが、そこに喜久左衛門の居場所はなかった。

 息子の聡兵衛も嫁の由乃も、隠居しても以前と変わらず敬い、懇ろに扱ってくれるが、どうしても身の置き場に困ってしまうのだ。みずから隠居を決めたというのに、なぜか世間から見捨てられたような惨めさが気持ちの奥底に澱んでいる。何もせず日々を送るわが身が、役立たずの厄介者のようで負い目を感じてしまうのだ。この世に生きていながら、この世は、喜久左衛門のはるか遠くにあった。

 それは、己の心の問題だと喜久左衛門もわかっている。わかっているのだが、どうにもできなかった。

「そうだ、こんど書画をはじめることにした」

 と斉韶は言った。

「書画でございますか」

「うむ、御用絵師の門下の者に知己を得てな、習うことにした」

「それはお楽しみでございますな」

「喜久左は嗜好とするものはないのか」

「囲碁、将棋、盆栽、俳諧、茶事、書画と、片端から試みてはみたものの、どれも続かず、すぐに放り出してしまう体たらくで」

「喜久左らしい」斉韶は笑った。「そなたはお勤め一筋だったからの」

 まもなく酒肴の膳が運ばれてきて、二人は盃を交わした。藩主と膳を挟んで酒を飲むなど、はじめてのことだった。喜久左衛門は感慨をもって美酒を味わった。

 他愛のない、そして愉しいひとときが過ぎた。

 やがて斉韶は盃を膳にもどすと、

「さて、それでは話を聞こうか」

 と言った。

 斉韶は心細やかでさとい人である。喜久左衛門が目途をもって訪ねてきたことを敏感に感じ取ったようだった。

 喜久左衛門はそれまでの笑みを消して言った。

「御家が危のうございます」

「はて……」

「家中の憤懣が、いまや抑えきれないところまで来ております」

「何に対する憤懣だ」

「お察しのとおりにございます」

「……斉宣か」

「斉宣公の奇矯、無法ぶりは目にあまります。藩主としてあるまじき、許さらざる行いの数々。藩中の憤懣遺恨は今や爆発寸前でございます」

「………」

「いまのこの状況は、四年前のあのときから積もり積もったものです」

 世嗣である斉韶の子直憲を排し、斉宣が藩主の座におさまったときからはじまっていた。直憲の生母である至誠院の自害も、不条理を強制した大御所家斉への精一杯の抗議でもあった。

「家臣たちは爆発寸前か」

「まさに、御家は危急存亡のとき。現に、一部の者が暗殺を企て、動き始めました」

「まことか……」

 それは藤井悦弥という徒士頭の息子を頭首とする鉄心会であること、それを阻止すべく大目付に手配りさせたことを伝えて、喜久左衛門は言葉を継いだ。

「しかしながら……、そやつらの心気はよくわかり申す。それがしもおなじ思いでござる」喜久左衛門はきっぱりと言った。「我らも斉宣にはもはや堪忍なりませぬ。できるならこの手で成敗してやりたい」

「………」

 斉韶は何も言わず、喜久左衛門を見た。

「なおも斉宣の不祥事がつづけば、いずれは御公儀の耳に入り、わが藩は何らかの処分を受けることになりましょう」

「しかし、家中の者が大御所の和子わこである斉宣を暗殺したとなれば、ご公儀は黙っておるまい。そうなれば明石藩は進退これきわまる」

「いかさま。それがしもそのことについては思い寄りました。それゆえ、鉄心会の企ては何が何でも阻止せねばなりませぬ」

「それで?」

「……は?」

「そのほう、言いたいことはそれだけではあるまい。申せ」

 斉韶はすべてを見透かしているようだった。

 喜久左衛門は腹をくくった。

「有賀喜久左衛門、隠居したこの老いぼれに、もうひと働きさせていただきとう存ずる。つきましては、上様の御意を賜りに」

「………」

 障子を開け放した部屋を、春ののどかな風が明るい陽射しをのせて通り過ぎて行く。

 二人の沈黙のなかを、すぐ裏にある神田明神の杜に遊ぶ野鳥の声が流れていった。

「聞こう」

 斉韶も腹をくくったのか、毅然とした眼差しを喜久左衛門に向けた。

 二人のいる奥座敷の空気が、たちまち張りつめたものに変わった。

 喜久左衛門の決意を聞き終わって、斉韶は沈思していたが、やがてぼそりと言った。

「大御所様(徳川家斉)がお隠れになってどれほどになるかの」

「三年に」

「そうか、三年か……いまが潮時かの」

「今こそ、そのときかと」

「喜久左、わしに許しを請いにきたといったが、その一計、わしの意に反することと思うか」

「それでは……」

「わしの永年望むところでもあった」

「そのお言葉、安堵いたしました」

「わしはよき家臣に恵まれた」

 斉韶は感に入ったように、ぐっと唇を噛みしめた。

「もったいないおことば」

「これは、奥の敵討ちでもある」

「………」

 喜久左衛門は頭を垂れた。今も妻女至誠院の死に胸を痛めている斉韶に感じ入ったのだった。

「だが、喜久左」斉韶が険しい目を向けた。「その前にひとつ約定してもらわなければならぬことがある」

「……約定とは?」

「おぬし、その一計を成し遂げたら、腹を切るつもりであろう」

「………」

 喜久左衛門は言い当てられて息を呑んだ。もちろん、その覚悟だった。おれは一度死んだのだ、と思う。職を退いて隠居となったあの日、おれは死んだのだ。すでに死んだ命をもう一度絶つことに何の痛惜があろうか。

「なぜそのほうが腹を切る」

 斉韶の声が聞こえた。

「おのが主君を殺めるのです。不忠の大罪ですぞ」

「隠居の老いぼれが我が身ひとつですべての責を負おうというのか」

「………」

「死ぬことは相ならぬ。喜久左が死ぬというなら、その一計、断じて許すわけには行かぬ」


 膳の酒盃に伸ばしかけた江戸家老吉添文吾の手が止まった。

「斉韶さまもご承知ですと?」

「ご承知というより、これは上様のご内意でもあるのだ。わしはご下命と受け止めている」と喜久左衛門は言った。「ことは急を要する。ただちにかかれと」

 文吾は腕を組み、ううむ、と低く呻いた。

 霊岸島にある小料理屋「いと屋」の奥の小座敷である。酒問屋が軒を並べるこの界隈では、小料理屋や居酒屋も多く、出てくる酒はどこでも旨い。

 「いと屋」は店の構えも小さく、身分のある武家が使うような格式のある店ではなかったが、密談のため、あえてここを選んだのだった。

 文吾は申し伝えたとおり、供は連れず、脇差一腰と地味な着流し姿でやって来た。喜久左衛門も媚茶色の軽衫かるさんに脇差一腰で、竿と魚籠でも持てばまさに魚釣りに出かける隠居姿だった。

 店は混み合い、職人や漁師など酔客の賑やかな声が聞こえてくるが、ふたりがいる部屋なら盗み聞きされる心配はない。

「それにはまず藤井悦弥の動きを一刻も早く止めなければならん」

 と喜久左衛門は言った。

「悦弥はまだ見つかっておりませんが、徒士目付によると、鉄心会から姿を消した者がもう一名おるようでござる」

「誰だ」

「徒士組の田代なにがしの惣領で周蔵という者だそうです」

「悦弥と一緒だな」

「左様に思われます」

「斉宣のここひと月の日程は出ておるか」

「はい」

「他出の予定は?」

「花見ですかな」

「花見?」

「三年前からはじめたのですが、いずれも向島の墨堤で」

「開花は、あと二、三日後だろうか」

「いえ、墨堤の桜は八重桜ですから時期がすこしずれるはずです。ソメイヨシノが散りはじめるころに咲き始めましょう」

「なるほど」

「両国まで駕籠で行き、そこから船を何艘も仕立てて、呼び集めた女芸者や男芸者、万歳師、手妻師など大勢の芸人とともに川下りを楽しんで、寺島村の渡し場から陸に上がって、そこで宴を張ってどんちゃん騒ぎをするのが恒例とか」

 上野は公儀の目が厳しく、酒宴も許されず、花見客は夕刻には追い出されるし、東叡山寛永寺の番人である山同心の目もある。飛鳥山や御殿山はそれほど厳しくはないが、公儀の目があることに変わりはない。斉宣は八重桜が好きだからではなく、公儀の目が届かないから向島を選んだにちがいなかった。

 喜久左衛門は思案をめぐらせる。

「その日の警固は?」

「いつもは近習組から四名出ますが、今年は鉄心会のことがあるので十名に増やすように命じました。それと小姓が三名」

「ま、それくらいいれば心配はなかろう」

「は」

「その花見に銀丞は同道するのか」

「例年通りなら今年も」

「さようか。銀丞も若いころ剣で鳴らしたというから、警固の助けになろう」

「われらの計略を進めるには、近習組や小姓も加えなければなりませぬな」

「それと、なにより御医師だ。近習医長の桂斎けいさいがいいだろう」

「わかりました」

「近習頭取のなにがしといったか。その者は信用できるか」

「浅野井武親ですか? 人物はまちがいありません。御家のためとあれば身命を惜しまず働きましょう」

「それは心強い。よしなに頼むぞ」

「心得ました」

 文吾は、恐れることもためらうことも、そして、必要以上に昂ぶることもなかった。やるべきと判断したときには、感情に惑わされず、冷静沈着に、確実に、物事を進める男だった。

 ふたりの密談は二刻(四時間)にも及び、計画は、綿密に練られた。




      三


 吾妻橋を渡り、中ノ郷瓦町から北に折れて小さな橋を渡る。左手にはいま渡ってきた隅田川が豊かな水を湛えてゆったりと流れている。

千住大橋から下流は隅田川と呼ばれ、浅草付近では浅草川、宮戸川、両国付近では両国川、吾妻橋から下流は大川と場所によって呼び名が変わる。

 右に水戸様の大きな屋敷を見ながら隅田川沿いの道を北上する。

 空は突き抜けるように晴れ渡り、雲一つない。頬をなでる穏やかな風は心なしか温かく、春の到来を告げている。

 上野や飛鳥山の桜はそろそろ咲き始めていると聞くが、墨堤の八重桜はまだ硬い冬芽をつけたままで、開花はしばらく先になりそうだった。

 長く続く緑の土手を、菜の花のあざやかな黄花が点々と彩っている。

 春のはじまりの美しい風景が喜久左衛門を優しく包みこむように広がっているが、それを愉しむゆとりはない。たえず周囲に目を配り、人の姿が目にとまると、藤井悦弥ではないかたしかめる。町人や百姓に身をやつしていることも考えられるので、いっときの気のゆるみも許されない。

 悦弥たちが藩邸内に押し入って襲おうとしても、部屋住みの身分では至難だろう。藩邸に立ち入ることも斉宣に近づくことも難しいし、万一近づけたとしても、斬りかかる前に取り押さえられてしまうにちがいない。

 襲うとしたら、藩邸から外に出たときだ。花見しかあるまい、と喜久左衛門は思っている。

 今はまだ青葉だけの八重桜の並木が終わって木母寺まで来ると、折り返して川端を南へと戻る。この往復を一日何度かくり返し、日が傾きはじめると、あきらめて帰途につく。これを三日前からつづけている。老体にはつらい、気の疲れる作業だったが、ほかに悦弥を見つけ出す場所も手だても思いつかなかった。

 徒士目付が潜伏先と思われる場所をしらみつぶしに探しているのだが、いまだに見つからないのだから、ここしかないという確信が日増しに強まってきている。

 斉宣が花見に来るのは七、八日先になるだろうが、事前に何度か現場を下見に来ているはずだし、ひょっとすると、すでにこのあたりに身を潜めて待ちかまえているかもしれなかった。

 渡し場のすぐそばの茶店で一休みすることにした。川端に一軒だけ、花見客をあて込んでこの時期だけ開いている葦簀張りの仮小屋である。

 店前の床机に腰を下ろすと、茶店の主人に「茶を頼む」と声をかけた。それにしても気が早い、と喜久左衛門は胸の中で笑う。花が咲くまでにはまだ間があるし、そのせいだろうが遊客の姿はほとんどなく、近くの寺の坊主や百姓がたまに行き過ぎるだけである。

 初老の主人が盆に茶を運んできて、「甘いものはいかがですか」という。

 床机に置かれた盆を見ると、茶に大福餅が添えてあった。ここに来るようになって四日目、日に何度か立ち寄り、主人とはすでに顔なじみになっていた。

「ありがたい」

 甘味は好きである。早速手を伸ばし、頬張った。柔らかな餅とつぶし餡の甘さが口の中にあふれた。

 休むといっても、目はたえず通りをゆく人の姿をとらえている。

 喜久左衛門はとっさに食べかけの大福を皿にもどし、葦簀よしずの裏に入り込んでおもてに目を凝らした。侍が向こうから歩いてくる。菅笠を被っていて顔は定かではないが、体つきや歩き方に見覚えがある。

 侍は茶店のそばまでくると笠を上げ、川端のほうに目をやった。顔が見えた。やはり藤井悦弥だった。

 悦弥は一人だった。仮装もせず武家の衣装そのままで、大小を差している。

 道からそれて喜久左衛門のいる葦簀の前を通り過ぎ、渡し場のほうに降りていった。桟橋の上に立ち、じっと周囲を見回している。

 喜久左衛門は茶店から出て近づいて行くと、声をかけた。

「藤井」

 悦弥は振り返り、喜久左衛門だと気づいて息を呑んだ。

「襲撃の下見か」

 悦弥の顔が強張った。

「もう一人の仲間はどうした。田代なにがしという若い者は」

「………」

「恐れをなして逃げたか」

「………」

「まさか---」

「………」

 悦弥が無言で首を振った。

「よかった。裏切ったので殺したのかと思ったぞ」

「………」

 それに答えて、悦弥がまた首を振った。

「そのほうに殿を討ち取ることは出来ぬ」

「………」

「近づくこともかなわんだろう。命を無駄に捨てることになる。諦めろ」

「………」

「諦めぬか。……ならば、力ずくでも止める」

「手向かいますぞ」

 悦弥がはじめて声を発し、刀の柄に手をかけた。

 間髪おかず喜久左衛門の身体が動いていた。だっと懐に飛び込み、左手で自分の刀を鞘がらみに抜き上げて悦弥のみぞおちに突き込んだ。同時に右手が悦弥の刀を掴んでいた。

 悦弥が突き飛ばされて倒れ込んだときには、すでに悦弥の刀は腰から抜き取られて喜久左衛門の手にあった。

 みぞおちを押さえてうずくまり、しばらく口がきけなかった悦弥が、やっと声を絞り出した。

「斉宣に天誅を……」

「諦めろ。勝算はない」

「……それがしをどうなさりますか。打ち首ですか」

「いいからついてこい」

 そう言って、喜久左衛門は先に歩きだした。


 喜久左衛門が悦弥を従えてやって来たのは、日吉山王大権現の裏、溜池に接する福壽院ふくじゅいんという寺だった。有賀家の菩提寺で、七年前に亡くなった妻の幾乃もここに眠っている。

 所化しょけに案内されて通された二十畳ほどの宿坊にはだれもいず、宿泊客は喜久左衛門たちだけだった。

「おまえはわしとともに、しばらくここに寝泊まりする。逃げ出すなど余計なことは考えぬほうがよいぞ。おまえはお手配の身だ。藩を上げて探し回っているから外に出ればすぐに捕まってしまう。そうなればそのほうの切腹か打ち首だけでは済まぬぞ。家族にも累が及ぶし、家名は断絶だ。心するのだな」

 脅かし過ぎたかなと喜久左衛門は思いながら、さらにつづけた。

「この寺の住持とは懇意だし、言い含めてあるから、心配はない」

 藩邸内の屋敷に悦弥を匿ったり、悦弥を連れて頻繁に出入りするのは危険だし、銀丞たちに目をつけられる恐れもあるので、ここにいっとき宿を移すことにしたのだった。

「わたしはどうなるのですか」

「明日にはわかる。今日はゆっくり休め」

 つぎの日、床を上げて身づくろいをすませたころ、江戸家老の吉添文吾がやってきた。ここにいるから来て欲しいと、昨日のうちに寺に使いを頼んで伝えてあったのだ。

 福壽院に来て欲しいと伝えただけで、詳細はいっさい知らせていない。悦弥の身柄を預かっていることが、まんいちにも漏れることを恐れたからだった。

 文吾が宿坊に入ってきて悦弥を見、

「この者は?」

 と聞いたが、すでに察しはついているようだった。

「藤井悦弥だ」と喜久左衛門は言った。「この者と、もう一人の田代なにがしという若者のお手配をすぐに解いてもらいたい」

「承知いたしました」と文吾は即答した。「殿を暗殺するつもりはまったくなかった、いっときの高ぶりで高言を吐いただけということで、目付のほうにお構いなしと申し送りましょう」

 意外な成り行きに、悦弥は驚いて目を剥いた。それは喜久左衛門と文吾が先日の話し合いですでに合意していることだったが、悦弥はそのことを知らなかった。

 喜久左衛門が悦弥に向かって言った。

「大御所家斉公の和子である斉宣が、家臣に襲われ斬殺されることなど断じてあってはならぬのだ。それが明石藩の企みと少しでも疑われれば、わが藩の命運は尽きる」

「では、斉宣をこのまま生かしておくのですか?」

「斬らない。斉宣は病死する」

「えっ……」

 悦弥は息を呑んだ。毒飼どくがい(毒殺)を画策していると察したのだ。

「病死だとしても、なかには疑いを持つ者がいるやも知れぬ。騒ぎ立てて幕府に注進などされては面倒なことになる」

「誰のことを申されておるのですか」

「袴田銀丞だ」文吾が横から口を挟んだ。「そもそも袴田銀丞は、わが藩の政治向きと財政を危うくしている元凶ともいえる男だ」

「われら下の者は、そこまで考えが及びませんでした」

 喜久左衛門がつづけた。

「あの男なら、斉宣が急の病で倒れたことに疑念をもち、騒ぎ立て、ご公儀に訴え出ぬともかぎらぬ」

「………」

「まず除くべきは、袴田銀丞だ」

「……万事呑み込みました。では、銀丞はいかにして……」

「おれたちが斬る」

「おれたち……」

「おれとおまえだ」

 と喜久左衛門は言った。




      四


「つい先刻、二葉町に入りました」

 田代周蔵が宿坊に息せき切って駆け込んできて、喜久左衛門たちに告げた。悦弥に誘われ斉宣暗殺に加担しようとしたが、直前で怖くなって逃げた若者である。

 家に立ち戻ったところをつかまえ、言い含めて、銀丞暗殺計画に参画させることにしたのだ。とはいえ、剣術の腕は頼みにできないので、銀丞の見張り役にしたのだった。

 見張りをはじめて、月はすでに五月にかわっていた。

 銀丞の本宅は赤坂御門からほど近い諏訪坂にあり、そこに妻子もいるが、帰ることは滅多になく、暮らしの中心は、もっぱら隼町の藩邸内だった。

 銀丞を殺す場所は、藩邸内であってはならない。藩の関与や、藩内の紛争と疑われるのは何としても避けたいからだ。とはいえ、公用で藩邸を出るときは供がいつも何人かついているし、人目もあるので襲うのは難しかった。

 身辺を探るうち、銀丞が芝の二葉町に女を囲っており、月に何度か泊まることがわかった。以前吉原で芸者をしていた、二十歳になる女である。

 妾宅に泊まるとき供はいない。それらはすべて、江戸家老の文吾を通じて、近習頭取の浅野井武親からもたらされた情報だった。斉宣暗殺は、今や藩ぐるみで動き出している。

 そして今夜、銀丞が妾宅に入ったのを周蔵が確認したのだった。狙うのは今夜しかなかった。

 周蔵を帰らせると、喜久左衛門と悦弥は黒装束に着替え、夜が更けるのを待って福壽院を出た。

 二人は江戸の町を駆け抜けた。

 丑の刻(午前二時)。町は闇と静寂に塗り込められて、夜盗にしか見えない怪しげな二人を見咎める者はなかった。

 土橋を渡り、突き当たりの二葉町の路地を一本入ったところに目当ての一軒家はある。

 ふたりは裏手に回り、そこで頭巾を出して顔を包むと、柴折り戸を開けて近づいていった。

 寝込みを襲うのだから、相手は刀を手にとる間もないし、造作なく終わるだろうと踏んでいた。

 まずは勝手口近くの小部屋に寝ているであろう住み込みの下女を縛り上げる。つぎに寝屋に踏み込み寝ている銀丞を斬る。添い寝していた女に金を出せと脅し、奪って逃げるという算段である。すべては、押し込み強盗の犯行に見せるためだった。

 勝手口の腰高障子に手を掛けたが、動かなかった。心張り棒をかましてあるのだろう。外せと喜久左衛門に目顔で指示され、悦弥が障子に手を掛けた。

 障子戸がかたかたと小刻みに鳴った。緊張で手が震えているのだ。

 喜久左衛門がその手を押さえ、自分が代わった。

 障子戸を持ち上げるようにして手前に引き、取りはずす。

 心張り棒をどけて二人は土間に踏み込んだ。

 かまどと水場の奥に小部屋があった。

 足音を忍ばせ近づくと、障子を静かに開けた。

 夜具がのべてあり、人のふくらみが見えた。喜久左衛門がその上に馬乗りになり、下女らしき女を押さえつけて、口を塞いだ。

「声を立てれば殺す」

 女は抵抗しなかった。

 悦弥があらかじめ用意した手ぬぐいで猿ぐつわをかませ、布紐で手足を縛った。まだ震えがおさまらないのか、手際が悪い。

 おまえはここで女を見張っていろと手で示して、奥に向かった。

 廊下の奥の右手に、ぼんやりと障子が明るんでいる部屋が見えた。枕元に置いた有明行灯の明かりだ。そこが寝間だろう。

 喜久左衛門は静かに刀を抜くと、足音を忍ばせて近づいていった。

 ズバッ。

 寝間の障子戸を開けようと手をかけたとたん、障子紙を破って剣先が飛び出してきた。

 とっさに身を引いたが、前腕を斬られた。

 障子戸が大きな音を立てて開き、抜き身を持った銀丞が出てきた。

「何者だっ」

 それには答えず斬りあげたが、弾き返された。

 たちまち激しい斬り合いがはじまった。

 室内での動きやすさを考えて喜久左衛門が手にしているのは長さ二尺の脇差である。それに対して、銀丞は大刀で突きを繰り出してくる。狭い室内で大刀を振り回せば、壁や柱にぶつかったり、打ち込んで抜けなくなる恐れがあるからだ。

 銀丞は、喜久左衛門の刀を跳ね返しながら、執拗に喉や胸元を突いてくる。そのたびに打ち払い、斬りつける。しかし、ことごとく払いのけられる。

 喜久左衛門は太刀を受け止めて身体をぶつけていった。

 激しいつば迫り合いになった。

 相手の力は強く、押し返されそうになる。力を込めると、斬られた前腕の傷が激しく疼く。

----まずい。

 このままではやられる。相手は四十そこそこ、こちらは六十五。完全に力負けしている。

 押さえ込んでいる銀丞の刀身がじりじりと持ち上がってくる。

 眼前に迫ってきた白刃が行灯あんどんのかすかな灯りを受けてぎらっと光った。

 おれの命もここで終わりか。

 ももが触れた。

 銀丞を突き飛ばし、同時に足を力いっぱい踏みつけた。

 それは空振りし、ぎゃくに足をかけられ払われていた。

 廊下の床に仰向けに叩きつけられた。

 相手の白刃がひるがえり、喜久左衛門の身体のうえに振り上げられた。

 そのとき----

 目の上で大刀を逆手に構えた銀丞の動きがぴたりと止まった。

 ゆっくりと崩れ落ちていくそのむこうから姿を見せたのは、刀身を突き出している悦弥だった。

 悦弥が立ちすくみ、握っていた刀を離した。

 銀丞が身体のなかに抜き身を入れたまま、喜久左衛門の視界から沈んでいった。

 うううう……とうめき声を漏らしながら悦弥がその場に立ちつくしている。

 うむとうなずき、礼を伝えたとき、首を持ち上げて夜具の中からこちらを見ている女に気づいた。銀丞の妾だ。

 喜久左衛門は恐怖で身動きできなくなっている女に刀を突きつけ、

「金を出せ。金はどこだ」

 と言った。

「お金? そんなもの、ありゃしませんよ」

 女は震える声で、それでもどこか太々しさを感じさせる声で言った。

「ない? そうか、おまえもあの男のようになりたいか」

 切っ先を突きつけ、刀身に貫かれ廊下に倒れている銀丞をあごで指した。

「わ、わかりましたよ」

 女はよろよろと夜具を出ると、違い棚の地袋から何かを出してきて、喜久左衛門のまえに投げ出した。ザクッと音がした。

「これがうちの有り金ぜんぶですよ」

 道中財布だった。手に取ってみると、さして重くはなかった。紐を解いて中身を確かめるまでもない。文銭と、よくてほかに小粒が数枚といったところだろう。どこかほかに大きな金があるにちがいなかったが、銀丞を討つという真の目的はすでに果たしている。金は、多寡にかかわらず、奪いさえすればよかった。

「よし、引き上げだ」

 二人は家から飛び出した。


 銀丞を討ったあと、ただちに毒飼にかかる手筈だった。斉宣の食事に混入し、七、八日かけて死に至らしめるという計画だったのだ。ところが、福壽院にもどったつぎの日、江戸家老の文吾から何の報告もないまま、落ち着かない一日を過ごして夜を迎えることとなった。

「なにかあったのでしょうか」

 悦弥が焦りを見せていった。

「明日にはなにか言ってくるだろう」

 がらんとした宿坊に床を延べ横たわったが、なかなか寝付けなかった。

 暗闇の中、あわただしく近づいてくる足音を聞いてふたりは跳ね起きた。

 枕元の刀を掴んだとき、板戸を開け飛び込んできたのは近習頭取の浅野井武親だった。文吾が信が置けると太鼓判を押した男である。

 走ってきたのだろう、息を弾ませ、前置きなしに言った。

「吉添さまが斬られました」

「なに?」

「つい一刻半(三時間)ほどまえとのことにございます」

 御手先衆の浅古家での話し合いを終え、江戸藩邸にもどる帰途、小石川あたりで襲われ、乗物に乗っていた文吾のほか供の者二名が斬られた。

 かろうじて難を逃れた駕籠者二名がちかくの大名屋敷に駆け込み助けを求めて、ただちに医師のところへ運ばれたが、ほとんどの者はすでに絶命していたという。

「いま、吉添は?」

「ただいま当家の藩邸にお運びしているところでございます」

 文吾の死は、あまりにも突然のことで、実際にこの目でたしかめてみなければ信じられなかった。

「行こう」

 喜久左衛門たちはあわただしく宿坊を出て行った。

 藩邸に着くと、すでに文吾は運び込まれて役宅の奥の寝屋に寝かされていた。

 かたわらに藩医の桂斎が座り、見守っている。

「文吾!」

 駈け寄りながら呼びかける喜久左衛門に桂斎が言った。

「お静かに。いま、戦っておられる」

 意味を解しかねて振り返ると、桂斎がつづけた。

「吉添様は、死と懸命に戦っておられる」

「まだ生きておるのか?」

 桂斎は静かにうなずいた。

「乗物から出るいとまもなく斬りつけられたのでしょう。左側の胸と脇腹にかなり深い突き刺しの傷を負っております。血も大量に失ったようです」

「助かりそうか」

 桂斎は力なく首を振り、言った。

「医者としてやれることはすべてやりました。あとは、吉添殿の生きる力を信じるしかござりません」

 喜久左衛門は文吾に目をもどした。どう見ても死んでいるようにしか見えなかった。顔に血の気はなく、ぴくりとも動かず、息をしているのかもさだかではない。

「襲ったのは何者だ」

 文吾を見つめたまま武親に問いかけた。

「わかりません。駕籠者が見たようですが、覆面をした四、五名の武家だったということしか」

 悦弥が茫然と声を漏らした。

「誰がなぜ……」

「いちばんに考えられるのは………」喜久左衛門が呟くように言った。「銀丞だが……」

 すでにこの世にはいない。昨夜、我らがみずからの手で討ち果たした。

 背後で無遠慮な足音がして振り向くと、一人の男が入ってくるところだった。

 それを見てその場にいる者たちが凍りついた。藩主の斉宣だったからである。

 あとから、側近の青木甚左衛門が追いかけるように入ってきた。四年前、銀丞とともに将軍家から送り込まれてきた田安家の用人である。

 斉宣は横たわる文吾のところまできて見下ろし、

「死んだか」

 と誰に言うともなく声を上げた。

 一同が答えず黙っていると、

「吉添、死んだか!」

 一同がはっと息を呑んだ。いきなり文吾を力まかせに蹴りつけたのだ。

 喜久左衛門がとっさに前に入って、なおも蹴りつけようとする斉宣を、押しとどめた。

「瀕死の者にございまする」

 斉宣が目に前にはだかる喜久左衛門に気づいて、驚きの声を上げた。

「そのほう、なぜここにおる?」

「見舞いに」

「見舞い? 吉添は死んではおらぬのか」

「はい」

「うぬ!」

 いきなり脇差を抜き、文吾に斬りかかって行こうとした。

 武親と悦弥も飛びつき、押しとどめる。

「いますぐ殺せ!」斉宣が叫んだ。「この男は逆臣ぞ! わしを亡き者にしようと企む乱魁ぞ!」

 喜久左衛門たちに戦慄が奔った。

 気づかれている。

「殿」

 青木が駆け寄り、斉宣をなだめ連れて出て行った。

 寝屋にどんよりと重苦しい空気が残った。


 横臥する文吾の足元に、男たちが集まって膝を突き合わせている。有賀喜久左衛門、藤井悦弥、医師の桂斎、近習頭取の浅野井武親、そしてあらたに呼ばれた江戸留守居役の横井泉次郎、小姓頭の野口伝乃介である。

 伝乃介は四年前、小納戸役に就いていたとき、江戸家老の喜久左衛門に任じられて上屋敷奉行の山縣正太夫と明石城まで斉宣跡目相続の報せを届けた男である。

 それがいまは小姓頭となって、斉宣の警固や身の回りの世話をしなければならないのだから、苦汁のお役目とも言えた。皮肉なことに、いま斉宣からもっとも信頼を得ている側近が伝乃介だったし、そのぶん、斉宣の性向や昨今の様子までよくわかっていた。

「困ったことに相成った」武親が言った。「気づかれてしまったようですな」

「なぜ気づいた……」

 喜久左衛門も首をかしげる。

「芝二葉町の件はいかが相成りましたか」

 と訊いた武親に、泉次郎があらましを説明した。

 銀丞の事件の探索は月番の北町奉行所によって行われたが、妾や下女の証言から、犯人たちの目的は金銭で、銀丞は運悪く賊と鉢合わせになり、殺されてしまったのだと結論づけられた。二人組の押し込み強盗の身元に繋がる手がかりは、今のところまったく見つかっていない。

 殺されたのが大名家の重臣だったので、ただちに幕府大目付と、ここ江戸屋敷にもその旨が報告された。

「そのことですが………」

 伝乃介が、重苦しい空気のなかで口を開いた。

 押し込み強盗に殺されたと聞いても、斉宣は信じなかった。吉添だ、吉添文吾がやったのだと即座に決めつけた。常日頃衝突の多かった銀丞を排斥するために仕組んだ偽装強盗だと。

 かねてから藩内に漂う不穏な空気を感じ取っていたのか、銀丞が殺されたことを知って、つぎは自分の番だと恐慌を来し、疑心暗鬼に陥っているという。

 それを聞いて喜久左衛門は苦々しく思った。狂人は、時として常人以上に勘が冴えるものらしい。

 文吾から毒を盛る役目を命じられていたのは、小姓頭の伝乃介である。明石藩の江戸屋敷には御膳部吟味役とよばれる毒味役が二名いる。銀丞殺害を遂げたつぎの日の朝、伝乃介が手筈どおり、毒味が済んだ膳部に桂斎から渡された石見銀山を混入して運んだのだが、斉宣は今朝は食する気分ではないと

拒否した。今後の膳部は、伝乃介が目の前で毒味をするのを見たあと食べると言い出した。

 そんなわけで毒飼は頓挫し、だから喜久左衛門への報告も遅れたのだった。

「ひょっとすると………」悦弥が声を漏らした。「吉添様を亡き者にしようとしたのは、斉宣自身でしょうか」

「そういえば」伝乃介が応じた。「銀丞さま殺害の知らせを受けてすぐ、青木さまを呼びつけてなにやら話しておられました」

 それを聞いて悦弥が断定するようにひとりごちた。

「仕組んだのは斉宣と青木だ」

 喜久左衛門もそうだと思った。そして、それは確信にちかいものだった。

 文吾の哀れな姿を凝視しながら、こんなふうにしたのはわしだ、と喜久左衛門は自分を責めた。斉宣暗殺計画に巻き込んだせいでこの男を死の淵に突き落とすことになってしまったのだ。

 許せ、と胸の中で悲痛に叫んだ。

「さて、いかがしたものか……」

 武親が力なく声を吐き出した。

 この計略のいわば総大将である文吾が倒され、そのうえ斉宣にも察知されて、すべては暗礁に乗り上げてしまった。

「八方ふさがりか……」

 喜久左衛門がため息まじりに言った。

「まさか……」悦弥が悲痛な声を上げて一同を見回した。「諦めるのですか?」

 それに答える者は一人もいなかった。

 悦弥がふたたび口を開いた。

「毒飼がかなわぬなら、いっそ斬ってしまえばいいのです。御上には病死と偽って届ければいいだけのことでしょう」

 と桂斎を見る。

 桂斎が頷く。

 幕府には跡目相続の届けである跡目書き上げを出さなければならないが、そこに斉宣の死亡証明書を書いて添えるのは桂斎である。

「しかし、青木がおる」留守居の横井泉次郎が声を上げた。「斬り殺した遺体を見れば病死でないことは一目瞭然。暗殺が露呈し、ただちに御上に注進されてしまうであろう」

「その前に口を封じるしかありません」

「青木も斬るというのか?」

 伝乃介が驚いて悦弥を見た。

「それしかございません」

 そのとき、喜久左衛門がぼそりと声を漏らした。

「そうか、青木か……」

 一同が振り向いた。

 皆の視線を集めながらも、黙考を続けていた喜久左衛門が、やっと口を開いた。

「青木は殺さない。生き証人にするのだ」

 一同がいぶかって喜久左衛門を見る。

「よいか、ご一同……」

 手招きされて、五人の男たちは喜久左衛門の前に額を集めた。

 いつのまにか、障子の外が白々と明るみはじめている。

 すぐそばでは、男たちの話が聞こえているのかいないのか、文吾が死人のように眠っている。

 まもなく、夜が明ける。




      五


「伝乃介」

 斉宣の声に、隣室に控えていた伝乃介は寝所の襖を開けた。

「お呼びでございますか」

「酒を持て」

 夜具は延べてあるが、斉宣はその中にいず、険しい顔で部屋のなかをうろうろ歩き回っていた。最近なかなか寝つかれないようだった。

御酒ごしゅでございますか」

「うむ」

「御酒ばかりではお体にさわりますぞ」

 あの日以来、斉宣はほとんど食べ物を口にしていず、口にするものといえば酒だけだった。

「まだ寝る気にならん。早う持て」

 苛々とした声が返ってきた。

 伝乃介の後ろに控える小姓が座を立とうとすると、斉宣が言った。

「酒は伝乃介が用意いたせ。他の者はならぬ」

 伝乃介は立ち上がり行こうとしたが、思いついたように振り返って声をかけた。

「青木さまもお誘いしてはいかがでしょうか。今夜は月がきれいでございます。お二人で月見酒など」

「うむ」

 刻は四つ(午後十時)過ぎ。青木はもう寝ているかも知れなかった。

 小姓が青木を呼びに走り、伝乃介はくりやへと向かった。

 小姓頭は小姓や小納戸を統括する役目で、直接身の回りの世話をすることなどないのだが、銀丞が殺されてからというもの、斉宣の命ですべて伝乃介が行うこととなっていた。

 薄暗く誰もいない厨に入って行くと、伝乃介は用意を始めた。

 膳を二つ出し、それぞれに盃を置く。酒を燗して二つの片口に注ぎ、膳に載せて塩を盛った小皿を添える。斉宣は夏でも燗酒を好み、また、どこで覚えたのか、酒飲みの通人を気取って、塩だけをつまみに嘗めながら飲む。肴を出しても、ほとんど箸をつけることはない。

「殿、御酒の用意が---」

 二つの膳を持って寝所に入っていった伝乃介の足が一瞬止まった。斉宣が抜き身の太刀を手に仁王立ちになっていたのだ。

「わしは殺されんぞ! いつでも来い、返り討ちにしてくれる!」

 暗殺者の影に怯えていた。

 伝乃介は斉宣の言葉が耳に入らなかったように庭の障子に歩み寄ると大きく開け、そこに膳を据えて空を見上げながらのどかに言った。

「殿、よき月ですぞ」

 そこへ小姓に案内されて青木が入ってきた。

「殿、月見酒とは風流でございますな。ご相伴にあずかれるとは望外の幸せ」

 眠そうな目をしながらも、いつもの追従笑いは忘れていなかった。

「付き合え」

 刀を手にしたまま、酒の膳が置かれている縁に座った。

 そんな姿に異状を勘づかないはずはなかったが、青木は愛想笑いを浮かべて片口をとり、酌をしようとした。

「待て」

 斉宣が抜き身の先を伝乃介に向けて言った。

「伝乃介が毒味をいたせ」

「それがしがこの手でご用意いたしました。ご懸念は無用にございます」

「お主、わしを裏切らぬか」

「なにを申されるかと思えば……」

 驚きの表情をかすかに浮かべて言った。

「決して裏切るでないぞ」

「申すまでもござりませぬ」

「ではその証しにここで毒味をして見せろ」

「は」

 伝乃介は斉宣の片口を取って盃に注ぐと、ためらうことなく一気に飲み干した。異変はなにも起こらなかった。

「青木の分もだ」

 伝乃介は迷わず、同じように毒味をして見せた。やはり異変は起こらなかった。

「塩もだ」

 塩も嘗めたが、何ごとも起こらなかった。

 これで斉宣も納得したようである。

 伝乃介は口をつけた青木の盃を拭いて膳にもどし、斉宣の盃もおなじようにして膳にもどすと、うしろに退いた。

「下がってよい」

 青木に言われて隣室に下がった。

 寝所の縁先で二人だけの酒宴がはじまったようだった。

 小半刻(三十分)もたったころ、突如、悲鳴にも似た鋭い声が夜の静けさを切り裂いた。

「誰か! 誰か!」

 青木の声だった。

 伝乃介たちが飛び込んで行くと、斉宣が縁をのたうち回っていた。吐瀉物があたり一面にぶちまけられている。

「桂斎先生を」

 伝乃介が小姓に命じ、駆け寄って呼びかけた。

「殿、殿。いかがなされました」

 斉宣の喉がぐぶぶと鳴った。慌てて身体を横向きにさせる。吐いたものを吸い込まないようにするためである。

 斉宣はその後も嘔吐を続けた。白目を剥き胸をかきむしって悶苦し、うめき声のほかに声を発することもできなかった。


 喜久左衛門は福壽院を引き払い、藩邸内の屋敷に戻った。

 朝餉を済ませると、庭ばさみを持って狭い庭を一巡し、気になった枝葉を剪定せんていし、自室に戻って茶を喫する。つまり、かわりばえのしないごく平穏な暮らしに戻った。銀丞に斬られた左前腕には今も痛みが残っているが、日々の暮らしに困るほどではない。

 傍目から見れば以前と変わりないのどかな暮らしだが、心はたえず波立っている。

 文吾、死ぬな、とこれまで何度も胸の中で叫びつづけてきた言葉をまた繰り返した。

 自宅でやきもきしているくらいならいっそ会いに行こうと立ち上がった。

 着替えを済ませ、嫁の由乃に出かけると声をかけた。

「お出かけでございますか? 雨が降りそうな雲行きですが」

「うむ」

「傘を」

 由乃が傘を取りに行った。

 玄関の式台に下りたところへ、あわただしい足音がして、悦弥が飛び込んできた。

「有賀様」

「いかがいたした」

 走ってきたのだろう、額に汗を浮かべ荒い息をしながら悦弥が言った。

「文吾さまが……、お気がつかれました」

 そのとき、静けさを破るように、おもてで雷鳴が轟いた。


 喜久左衛門は文吾とともに湯島の中屋敷を訪れ、通された奥の座敷で斉韶を待った。

 梅雨に入ってひと月ほどたち、雨の日がつづいていたが、今日はめずらしく空に晴れ間が見えて、朝から蒸し暑かった。

 開け放たれた向こうに広がる庭には紫陽花あじさいが豊かな薄紫の花を咲かせ、微風に揺れている。

 部屋に入ってきた斉韶は開口一番言った。

「吉添、無事と聞いて嬉しかったぞ」

 文吾は深々と辞儀をして、「ありがたきお言葉でございます」と礼を言った。

 動かすと傷口がまだ痛むので腕を吊っているが、すこしずつ日常の暮らしに戻っていた。

「こたびはそのほうたちに大儀をかけた」

 斉韶はあらためてねぎらいの言葉をかけた。

「直憲さまがめでたく世嗣となられました」

 喜久左衛門があらためて報告した。

 跡目書き上げが通って、幕府から許しが出た。八月には藩主としてはじめて徳川家慶公に拝謁することも決まっている。

 斉韶が「うむ」と、感慨深げに頷いた。明石藩が越前松平家の血に戻ったのだ。

「これで、奥の死もいくらかは報われるやも知れぬ」

 斉韶が呟くように言った。自害した至誠院に遠く思いを馳せているようだった。

「すべて吉添文吾のぬかりない差配のおかげでございます」

 喜久左衛門が言うと、

「この戦略の総大将は有賀様ですよ」と文吾が言う。「わたくしは命じられるままに動いただけで」

「しかし……」斉韶が言った。「斉宣のこと、よくぞ首尾よく運んだものだの」

 斉宣が吐瀉した夜、すぐさま駆けつけた桂斎は、胃の薬を処方して飲ませた。何日も食事を摂らず酒ばかり飲んでいたので、胃の腑が荒れていたのだろうとそばで心配げに見守る青木に桂斎は言った。

 しかし、その後、薬を煎じて飲ませても症状が治まることはなかった。それどころか、つぎの日には、悪寒と高熱に襲われ、排尿の痛みを訴えるようになり、夕刻を過ぎた頃からぐっしょり濡れるほどに汗をかいて、たびたび夜着を替えなければならなかった。

 小姓たちの付きっきりの介抱にもかかわらず、五日目には全身に発疹と四肢に紫斑があらわれ、意識が混濁し、呼吸が乱れ、悪夢でも見るのか、意味不明の言葉を発するようになった。

 六日目には、医師団の必死の治療の甲斐もなく、完全に危篤状態に陥った。

 症状から診て、これは胃患いではなくコロリ病かもしれないと桂斎から耳打ちされ、青木は震え上がった。斉宣につきっきりだった自分にも感染したのではないかと恐れたからである。たしかにその症状はコロリにも似ていた。しかし、青木はもとより、家中で同様の症状を訴える者はいなかったし、どこから感染したかもわからなかった。

 八日目、斉宣はついに息を引き取った。天保十五年五月十日、薄黒い雲が空に広がり、雨が江戸中を覆い尽くす夕刻のことだった。

 もちろん、それがコロリ病でなかったことを喜久左衛門たちは知っている。

 はじめに毒を盛ったのは伝乃介である。当夜、酒の用意を仰せつかった伝乃介は、厨で二人分の酒の膳をこしらえたあと、懐に忍ばせてあった薬包紙の包みを出し、別の小皿に白い粉末を移して少量の湯で溶いた。石見銀山の粉末は冷水ではなく温水ならよく溶ける。それを人差し指の先に塗りつけて寝所まで膳を運んでいった。毒味が済んで盃を拭いて膳にもどすとき、斉宣の盃にだけその毒液を塗りつけたのである。

 石見銀山の液を塗った伝乃介の指はその夜から黒ずみはじめ、やがて皮が剥け、あとに白い跡が残ったが、ほかにこれといった異変はなく、命にも別状はなかった。

 使った毒がごく微量だったのと、桂斎に言われたとおり、寝所を退いてすぐに指を洗ったのが良かったのかも知れなかった。

 二度目の毒は、発病して三日後、桂斎がみずから胃の煎じ薬に混入して飲ませた。少しでも毒飼を悟られないため、微量ずつ二度にわけて飲ませる方法を選んだのである。

 斉韶が訊いた。

「青木のことが気にかかるが、この先面倒はないか」

「ご懸念はご無用かと」文吾が応じた。「それがしを襲った者が青木の手の者である証拠を掴んでおると申し伝えましたので」

「襲った者の正体がわかったのか?」

「いえ、はったりでございます」文吾がにやりと不敵な笑いを浮かべて言った。「そのことが表にあらわれれば、御身も無事では済みませんでしょうなと暗に脅してやりましたら、きゃつめ、顔色を変えて出て行きました」

 それを聞いて斉韶は屈託のない笑い声を上げた。

 文吾が喜久左衛門を振り向いていきなり言った。

「戻っておいでにはなりませんか」

「どこに?」

「執政の席に」

「家老にと?」

「いまの拙者の席です」

「江戸家老に?」

「はい。いちおう執政会議にはからねばなりませんが、こたびの活躍と手腕を見たのですから、反対する者はおらぬでしょう。有賀さまは、隠居なさるには早すぎました。まだまだ藩のためにひと働きもふた働きもおできになられる」

「待て待て」と斉韶が割って入った。「あの日、戦略とその覚悟を打ち明けられたときから存念しておったのだ。喜久左は直憲の側用人が良い」

「おう」

 文吾がはたと膝を叩いた。

「直憲はまだ十八。新しく藩主となった直憲をそばで支える者が必要だ。それは喜久左しかおらぬ。昔わしの側で支えてくれたようにな」

「それはまさに適役にございますな」

 斉韶と文吾が声を上げて笑うのを遠くに聞きながら、喜久左衛門はどんな顔をしていいのかわからず困っていた。


 夜明け前に目が覚めて、喜久左衛門は床を出た。

 障子を開け放ち、縁側に出ると、目の前に広がる庭は静寂をたたえてまだ眠りから覚めていないようだった。梅雨時の生ぬるい空気が流れて、肌にまとわりついた。空は薄闇を残し、黒い雲に覆われている。

 昨夜はあまり眠れなかった。

 緊張しているのか? と自問し、すぐにそれを認めて苦笑する。今日から、新しいお殿様の側用人としてお勤めに出るのだ。

 老体となったこの身に、かつてのような働きが出来るだろうか。そんな不安を追いやり、静かに、強く思った。

---年寄りの底力を見せてやろうではないか。

 これで生まれ変わるのかも知れない。一度は死んだ身だが、生き返るのだ。心の張りを失い、大げさにいえば、生きていることが無意味にしか思えなかった以前のおのれと訣別するのだ。わしは、世間から忘れ去られた無用の人間ではなくなった。

 突如鋭い閃光が、群がり立つ雲間を奔り、雷鳴を轟かせた。

 はて、これは新たな門出への祝砲なのか、それとも暗雲立ちこめる明日を暗示する警鐘なのか。

 また雷鳴が鳴り渡り、空を揺るがした。

 雨がぱらぱらと降ってきたかと思うと、たちまちそれは激しい雨となって庭に叩きつけ、濡れた土を撥ね上げた。

 雨と雷は、ますます激しさを増してくる。

 黎明れいめいは、暗雲と雷光とどしゃぶりの雨で覆い尽くされた。

 目の前に繰り広げられる光景に圧倒され湧き上がってくる恐れに似た気持ちは、やがて快感へと変わった。

 縁側にたたずみ庭を眺める喜久左衛門の顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。

                                        了                                                                                                          



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