本当に体験したちょっと怖い話
最近ちょっと話題になってるアニメを見て思い出した子供の頃の体験談です。
本当に体験したちょっと怖い話
夢だったかも知れない、けど、こんなに明確に記憶して居ると言う事は本当の事だったのかも知れない、そんなお話。
うちは商売をして居たので、両親は当然共働き、爺ちゃんは持病の状態が余り思わしく無く俺が小3の時に亡くなってしまって居る、夏休みになると俺や弟の面倒を見れるのは婆ちゃんだけになるのだが、その婆ちゃんがそれを面倒がって居た様だ。
そこで両親は俺達兄弟を、毎年夏休みが始まると直ぐに飛行機の搭乗券持たせて母の実家に送り出すと言う、今思うとかなりすげぇ事をして居た。
俺は長男で、弟と妹がいる3人兄弟だったんだが、妹は女の子と言う事でこんな無茶苦茶な旅には参加させなかったようで、毎年弟と二人だけで田舎へと送り出されて居たのだった。
そして盆になると両親が車で何百キロも離れた田舎へとやって来て一緒に車で帰るのが毎年の定番になって居た。
とにかく小学生の頃は毎年これをやって居て、6年生にもなると慣れたもんで、最寄りの駅から羽田空港まで行き、自分で搭乗券を発行して貰って搭乗口まで行き、飛行機に乗ると言う無茶な子になって居た。
案内板さえ読めれば何とかなると言う妙な自信が有った様に思う。
あれは、凡そ40年前、多分昭和55年頃の事。
俺は当時、確か小6だった。
ここからその明晰夢だったのかも知れない出来事が起こる。
何時もの夏休みの様に、盆に田舎へ迎えに来た両親と共に帰って来たその晩、何だか違和感を感じて、何故か無性に不安になって、車を運転して疲れて寝こけている筈の両親の目を盗む様に家を飛び出した俺は、田舎のじいさんに貰った小遣いと貯金箱の金を持って電車に飛び乗ったんだ。
何が不安だったかって?
帰って来た俺の家は、俺の家であって俺の家では無いと言う気がして居たんだ。
もしかしたら、あの場には俺だけで両親も弟達も居なかったのかも知れない、それほど簡単に、誰にも会わずに家を出られたのだ。
すると、辺りはどう言う訳かガスってて、視界が異様に悪かった。
道路の案内板を見ながら、俺はお袋の実家を目指し、駅へと歩いた。
しかし、毎年利用していた飛行機で行くのは夜と言う事もあって非現実的だった。
俺は新幹線を使って行く事にしたんだが、”鉄ちゃん”でも無かったのでそれまで新幹線なんか一度も利用した事は無かった、つまり実際何処から乗り換えられるのかも知らなかったし、新幹線だけでは辿り付かないので何処で乗り換えて良いのかも知って居た訳では無い、当時、新幹線は”ひかり”と”こだま”のみ。
料金の都合上、ひかりには乗れないと思いこだまに乗車、新横浜、小田原・・・と言った具合にちゃんと停車駅に泊まって居たのを記憶している。
夢であるとしたら、新幹線の停車駅を知らなかったにも拘らず、そこを明確に記憶しているのが不思議だが、そもそもこんな深夜に新幹線が走っている等、今思えばあり得ないし、不思議だと感じて居た事も事実であったが。
そしてそれは突然やって来た。
次の停車駅は浜松、の、はずだった・・・
しかし、何故か30分位延々と走り続けるこだま。
もう気付いた人も居るのでは無いだろうか、そう、かの有名な都市伝説”きさらぎ駅”だ、異様に古ぼけている上に、駅名がひらがなだった事で良く覚えている。
当時小学生、しかも今の様にメディアの発達した世の中では無かった為にきさらぎ駅に関しては知って居る筈も無いが、その駅は存在してしまった。
いや、存在して居なかったのかも知れない、だが、それは其処にあり、その風貌は新幹線が停車して良いような近代的な駅などでは、毛頭無いのだ、しかし、車内アナウンスは、ザザーと言うノイズが短く響いた後、それまで聞いて居た車掌の声では無く、深遠より響くような、女性の声のようでありながら低い声で、問題の駅名を告げたのだ。
「間も無く、きさらぎ駅に停車いたします。」
俺は、明らかにオカシイ駅名、明らかに有り得ない朽ちたホームに恐怖を覚えたが、この先に乗って行ってはいけないと思い、飛び降りた。
しかし、降りた所でどこに行けば良いのかなど知る由も無い。
不安に押し潰されそうになりながら、それでも俺は直感を信じて、朽ちた駅舎や駅の出口には向かわず、ホームを飛び降り何も無い広大な荒れ野原のような大地を、振り返りもせずひたすらに走った。
今になって思うと、あの時は直感と思って居たが、それだけでは無かったと思う、数年前に亡くなった爺ちゃんが導いてくれていたように思うのだ。
どれほど走っただろうか、もう走れない、何度もそう思いながらも足を止めず、何度もくじけそうになったが、それでも走り続けた、何故ならば、異様な雰囲気の何かに追われている気がして居たのだ。
暫くすると、永遠に続きそうに思えたその宵闇が、何時の間にか、朝日が昇った様に明るくなって居る事に気が付いた。
明るくなった事に気が付いた俺は、ようやくその疲弊した足を停める事が出来た。
そしてようやく、辺りを見回すと、少し高い場所に居る事に気付く。
近くには、寺と思われる立派な鬼瓦を携えた瓦屋根、だが、自分の住む東京とは屋根の角度が違い、結構急な角度、雪の多い地域の特徴があった。
そしてその先には、海が見えていた。
意外な風景に、自分が何処に居るのかはわからなかった、降りたのは浜松の手前、普通ならば掛川付近か、その辺りだと思う、しかし明らかに静岡県では無いと思えた。
何故ならば、自分が今見て居る、海が眼下に見える麓側に太陽が無かったからだ。
俺の母の実家は日本海側だったので、体感上、無意識に理解して居たのだ。
ここは日本海側の何処かである事は間違い無かった。
どうやったらそれだけの離れた距離を走って移動出来たのかなんて判らない、これに関しては今でも判らないが、きっとあの駅はありとあらゆる場所に繋がって居るのでは無いだろうか、そう思って居る。
そんな事より、今は無事に元の世界に戻って来れたかも知れない事に安心し、もう走れない程に疲弊した両足の休ませたくて、兎に角近くに在った切り株に座った。
もっと手頃な高さの石も有ったのだが、それは下手に座ってはヤバい気がしたからだ。
まぁ、只の気のせいだったかも知れないが、兎に角その石に座るのは嫌だった。
しばらく休んだ俺は、眼下に見えていた寺と思しき屋根を目指して山を降りる事にした。
やはりその瓦屋根は、寺だった。
俺は何処をどう通ったかは知らないが、日本海側の山寺の裏山に居たのだ。
未だここが何処なのかは判らない、そのまま寺を後にして、海を目指して歩く事にした。
海を目指せば大きな通りにも出られるであろうし、そうすれば道路の行き先表示で自分の現在位置もある程度掌握できると思ったからだ。
ひたすらに下り坂を降り、ふらふらになりながらも国道に出られないかと歩き続けた、流石に腹も減って来た。
当時、コンビニなんてものは、東京でも一部にしか存在しなかったので、当然ながらこんな田舎風景の中にそんな物がある訳もなく、先程の寺で事情を話して何か食べさせて貰えば良かったと今更ながらに後悔をしつつ、それでもまだ歩く。
まぁ、事情を話した所で信じて貰えるとも思ってはいなかったが。
早朝と言う事もあり、田畑が広がる田舎の風景で、余程で無いと人には出会わないとは思うが、ここ迄人には会わなかった。
そして延々と歩いて行くと、徐々に傾斜がなだらかになり、そんな折に思わぬ物を発見して命拾いした思いになった。
それは、未だ開店して居ない個人商店の脇にぽつんと立つカップ麺の自動販売機である。
その昔は、割とそこかしこに在ったのだ、この、”サッ△ロ一番カッ〇スター”の、給湯器付き自販機が。
アナログな自販機で、お金を挿入口に入れ、ガチャポンと同じシステムのハンドルを回すとコトンとカップ麺が一個出て来る。
そして、カップ麺の蓋を半分開けて、給湯口の蓋を開けて中にカップを入れ、ボタンを押すと適量のお湯が出るのである。
今の若い人は見た事無いだろうな。
それこそ、ドライブインなんかにあるうどんやラーメンが出来上がった状態で出て来るあの自販機なんかよりもずっと昔の遺物だしな。
あ、それ以前にカップ〇ターを知らないかも・・・
しかし本当にどれ程有り難いと思って食べた事か、泣きながら貪るように食った。
空腹の解消、走って汗をかいて居るので水分も補給出来、塩分までも補給出来る、これ程有り難い物は無かったと思う。
そこからまたもう少し歩くと、国道の可能性のある大きな道路にようやく出る事が出来た。
暫くその道沿いに歩く、しかしやっと見つけた行先表示板を見ても、そこは小学生である、知らない地名で此処が何処なのか余り把握出来なかった。
仕方が無いので、又海の方へ向かって歩き出す。
一応、国道等には車が走って居たのであの変な世界空間では無いのは確かだと思い、少し安心する。
やっと海辺の集落に付いた時には、すっかり日が高くなっていた。
くたびれたので、海辺で寝転ぶ事にしたが、浜から民家までが余りにも近いので、行き倒れや遭難者と間違われても困ると思い、何処かいい場所は無いかと思い、付近を散策して見ると、ちょっと奥まった所に、それまでの浜とは隔絶した、少しごつごつした浜を見つけた。
多分この辺りの子供はここでも遊んで居るのだろうが、盆を過ぎて居るのでクラゲが多いだろうと思われるので、恐らくは誰も来ないだろう、そう思い至ってここで少し寝る事にした。
どの位眠れただろうか、女の子の声で起こされた。
方言を聞く限り、母の実家の物とは少し違うが、恐らくはそう激しく離れた地域では無いと思えた、それだけ何処と無く似たイントネーションだったのだ。
歳は恐らく俺とほぼ同じくらいだろうか。
彼女はおにぎりと、水筒に入れた麦茶をくれた、素性も判らない変な小学生に、ろくに何も聞かずこんな施しをしてくれるなんて、なんて優しい子なのだろう、と覚えている。
何度も礼を言って、最寄り駅がどっちの方角かを聞いて、また歩き出す。
ようやく駅に辿り着いた時にはもう日も落ちかけていた。
駅に着いてようやくココが何処だか判った、母の実家の隣の県だった。
自分の家に付いた時点で既に自分だけ違う世界へと踏み込んでしまったと言う認識だったが、ココは普通の世界だと認識できる今、ここからちゃんと家に帰れば元の世界の家に帰れると思えたので、ここから帰る事にした。
今度は、この駅から、大分離れた新幹線の停車駅へ行き、乗り換えて新幹線、そしてもう一度、自分の家へ辿り着ける電車に乗り換えて帰れば良かった。
何度も乗り換える様なのかも知れないと覚悟して居たが、思いの外少ない乗り換えで帰れそうで安堵したのだった。
そうして、帰る途中、新幹線でつい居眠りをしてしまう。
目が覚めると、そこは家だった。
何処から何処までが夢だったのだろうか・・・初めから最後まで夢だったのか、最後だけが夢だったのか、、初めだけが夢だったのか、それは今となっては判らない。
次にこの事を思い出したのは、妻と結婚をする前、ご両親へご挨拶に行った時だった。
驚いた事に、そこはあの浜のある集落だったのだ、付近を散策して見たいと言うと、妻が案内してくれたのだが、あの時の浜は立ち入り禁止になって居た、しかし、昔は良くこの先の浜で遊んで、近くの岩場に泳いで行ってアワビやサザエを取って食べたものだと妻は楽しそうに話してくれた。
うん、何となく知って居る、いや、この先に入った事あるよ、俺。
俺は、その時、何となく、来た事が有る気がすると妻に話した、余り余計な事は話さないけれど、来た事が有る気がする、とだけは伝えた。
すると妻は、何故か懐かしい者を見るような目で俺を見つめた。お互い多くは語らなかったが、もしかすると、あの時の子が妻だったのかも知れない。
それから、又長い時が過ぎて、現在に至るのだが、何故突然文章に起こす気になったのかと言うと、最近話題になって居るあのアニメを見た、そのアニメで、あの時降りたあの駅が題材になって居たので、あの駅、”きさらぎ駅”の元ネタを調べて見ると、実際にそんな記述の投稿のあった掲示板のログを残しているサイトがあったりした為である。
あれは本当にあった事と言う事なのだろうか、謎は未だに深まるばかりである。
因みに俺は、小学校の時に習った俺の記憶にある歴史と、現在言われて居る歴史が少しズレて居ると言う事が割と良くあって、困惑している、ここは本当に俺の生まれた世界線なのだろうか・・・
もしかすると、少しずれた世界線なのかも知れない・・・
だけど、今俺は、こうして与太話を投稿しながら、傍らで笑う妻と、喧嘩もせず、仲良く馬鹿を言い合って笑って居る、幸せである。
だからきっと、これで良かったんだろう、しかし本当に、あの駅やあの奇妙な世界は何だったのだろうか・・・