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3 白梅


「光子に振られた」


 この世の終わりだ、と言わんばかりに一政は電信柱にもたれ掛かった。フラれたも何も、キミたちとっくに終わってなかっただろうか?僕は疑問に思ったがもしかしたら僕の知らないところで実は二人はヨリを戻していたのかもしれないと黙っておく。


 大学が終わって二人で駅前を歩きながら一政はぐだぐだと絡んできた。これじゃあ折角の男前もただの三枚目だ。夕飯の買い物帰りのおばさんが一政を自転車で轢きそうになった。情けない。


 仕方なく一政と二人で飲もうということになり、僕らは普段行っている魚民や和民ではなくて駅の近くにある小さなバーに入ることになった。普段行く場所では同級生に会うかもしれない。男前で通っている一政のこんな姿を見せて人気を落とすのは気の毒だ、と僕なりに配慮したのだ。余計なお世話かもしれないが、僕は一政にはカッコいい男で通って欲しかった。ヒーローはヒーローのままで終わって欲しいという子供じみた思いかもしれない。


 坂道の途中、産婦人科の前にある小さな店は六時から営業らしく、外から覗いた限りではまだ客は入っていなさそうだ。僕は一度外に出している黒板のメニューとオススメを確認してドアに手をかけた。

金の取っ手はひんやりと冷たく、力を込めて引くと上に取り付けてある鉄の大きな鈴がカランカラン、と鳴った。


「いらっしゃいませ……」


 来店に気付いたウェイトレスの女性がシェイカーを拭いていた手を止めて顔を上げ、目を見開いた。マスカラを塗った黒い睫毛と、アイラインの引いた大きな目がさらに大きく開く。「あ」と小さく声を上げた。


「光子!」


 僕が進まないのを不審に思って後ろから押してきた一政が、ウェイトレスを見て叫ぶ。抑え目の金髪を後ろで一つに結び、黒いエプロンと白いシャツを着た女性は形のいい弓形の眉を寄せ、僕らに向かって礼儀正しく頭を下げる。


「お客様本日店内は満席となっておりますので…」

「めちゃくちゃ空いてんじゃん」


 突っ込んで僕は誰もいない店内を見渡した。カウンターが七席と、大きなテーブルが二つ。二人用の四角い机が一つだけあるこぢんまりとした店内だ。


「世界は狭いねぇ。っていうか、大学の近くなんだしいつかバレると普通は思うよね」


 灯台下暗しって言うけど普通はありえないよと、他人事のようににっこりと笑うと光子に睨まれた。光子は綺麗な顔をしてるだけに、怒った顔は怖い。恐ろしい、というわけではないのだけれど、どうやら僕は気の強い女が苦手なのかもしれない。


 僕らは店の入り口で立たされたまま光子と対峙していた。落ち着いたバーの中はダウンライトで近くに行かなければお互いの顔もよく見えない。光子は呆れたようにため息を吐いて沈黙を破る。確かに僕らがいつまでもここでドラマしてるわけにはいかない。今は他に客もいないけれど、これじゃあ来店者に迷惑だ。


「…アタシはね。もう一度アンタに会ったら決心が鈍っていけないって思ったからスッパリ別れたかったのに」

「俺は、お前が好きだ。お前だって、俺のこと、好きなんだろ」


 客が他にいないとはいえ、よくもまぁそんなセリフをあっさり吐けるものだと感心してしまう。光子は眉を寄せて一政から視線を外した。


「一政、アンタねぇ…それって、結構ストーカーっぽいわよ。振られたんだから、諦めてよ」

「俺は、お前が男だって気にしない!」


 耐え切れなくなったように一政が叫んだ。なにやら一瞬不思議な単語があったような気がして僕は硬直する。しかし二人とも僕には気付かず、話を進めている。光子は困ったように額に手をやって、ため息を吐いた。


「アンタが気にしなくても、素人の男相手にするなんてアタシがヤなのよ」

「お前は立派な女じゃないか!」

「ちょ、ちょっと待って!」


 何やら盛り上がっているようだけれど、僕は会話に無理やり入った。一政は一瞬口を挟むのは遠慮して欲しそうな顔をしたが、それどころではない。


「え?光子、男って?」

「本名、坂上晃生」


 答えた声は普段聞いていた光子の少し低い落ち着いた声ではなくて、ドスのきいた男のものだった。僕は一瞬停止してしまう。それを見て光子が笑った。コロコロと、落ち込むよりは反応を楽しんでいるようだ。


「あー、ヒイてるヒイてる。ほら、ご覧なさい。普通こういう反応するのよ? アンタがアタシと付き合ってるって、親御さんにどう説明するのよ。あんた、将来棒に振る気?」

「あー…ごめん、僕、ちょっと先帰るよ…」


 この二人の修羅場を見ても、僕は何の利益もない。いや、人生経験は増えるかもしれないけれど、遠慮したかった。頭痛のしてきた額を押さえ、折角店に入ったのに何も注文せずに僕は扉を開けた。

駐車場を越えて坂の上のバス停の方へ足を勧めると、前から白い人影が現れる。


「空子ちゃん?」


 紫色の桔梗が描かれた真っ白いワンピースの空子ちゃんがこちらに向かって歩いてきている。僕に気付いて首を傾げた。


「……あ、こんばんは」

「光子サンに会いに来たの?」

「お取り込み中みたいですね」


 空子ちゃんは店内を窺って肩を竦めた。まだ光子と一政は言い争いでもしているのか、と思えばなんと二人は抱き合っている。僕はなんとなく視線を逸らして空子ちゃんを見詰めた。


「…空子ちゃん、光子サンって、その?」

「知らなかったんですか。普通気付きそうなものですが」

「いや、だって…光子サン綺麗だし、声だって、普通だったし…」

「少し、歩きましょうか」

「あ、うん」


 言われて僕らは歩き出した。坂道を登って暫くして空子ちゃんが口を開く。


「光子は、高校のときまでは普通の男性だったんです。でも、高校二年生の夏に突然女子の制服を着始めて。写真見ます?」


 うん、と僕が頷くと空子ちゃんは鞄の中から真っ白い手帳を取り出して、最初のページを開いて僕に渡してくれた。無印商品のような質素な手帳だ。表紙の裏に二枚のプリクラが貼られている。左隅のプリクラには顔立ちの整った中々綺麗な男子生徒が空子ちゃんと一緒に写っている。僕は空子ちゃんがプリクラを撮るなんて想像できなかったので少し驚くけれど、その隣の、もう一枚のプリクラを見て停止した。


「え?この、ハイビスカス頭に挿してるギャル?」


 二枚目にも空子ちゃんが写っていた。髪が伸びているのでこちらのほうが後に取られたのだろう。写真には、僕らが高校生のときに流行していた山姥ギャルが、清楚な少女と一緒に移っていた。空子ちゃんは小学校一年生くらいの時だろうか。僕は山姥にショックを覚えた。


 一枚目の真面目そうな男子生徒がここまで変わったことも驚きだが、あの光子が元ギャルだったことの方が驚きだ。僕はまだ光子が男であることを今一認識できていないからかもしれない。


「………なんで、また」


 男やめたの? それとも元々心は女だったの? 


 聞くと空子ちゃんは首をかしげた。イトコなのに理由を知らないのかと少し驚くと気付いたのか空子ちゃんが答えた。


「言いたくないことを聞く権利はありません」


 確かにそうだ。車が通り過ぎた。少し気分が悪くなる。吐き気に似た症状だ。気分を紛らわせようと空を見上げる。


「でも、驚いたなぁ。それじゃあ、一政はそれを知ってて光子サンと付き合ってたんだ」

「恋愛は、自由だと思います」

「うん、そうだよね。じゃあ、僕も応援しないと」

「一政さんは、まだ光子が好きなんですね」

「うん」

「光子も、一政さんを愛していますよ」


 愛している、なんて小学五年生があっさりと口にする言葉じゃないと思って笑った。だけど、状況がもう普通ではないから、これもありなんだろう。笑ったのをごまかすために、僕は空子ちゃんから視線を外して上を見上げた。


「両思いなんだね」


 たまたま目に入った一軒家のベランダで、ピンク色のエプロンをつけたおばさんが洗濯物を取り込んでいる。目の前がぐるんと回ったと思ったら、真っ白いワンピースの裾が見えた。あれ、空子ちゃんだ。地面に身体を預けたまま呟くと、桔梗の刺繍が軽く揺れる。


「何をしているんですか、真辺さん」

「うん、ちょっとね」


 あ、酔っ払いとかじゃないからね。と続けると空子ちゃんが小さく笑った気がした。なんだか自分もおかしくなってクスクスと笑う。


「何か突然立ちくらみ?そういえば、ご飯食べなかったらどうなるのかなぁって考えて、思えばご飯食べるの忘れてたんだっけ」


 それで一週間スポーツ飲料以外は何も口にしてない。ちょっとした疑問だったんだ。カロリーは身体を動かすためのエネルギーみたいなものだってテレビでやってたから、スポーツ飲料のエネルギーだけでどれくらい動いていられるのかって。でもその実験をしていることを自分が倒れるまで忘れていたなんて馬鹿だ。さっき光子のいたお店で何か食べる気だったのだから。


「バカですね」


 空子ちゃんが地面にしゃがんだ。白いワンピースがコンクリートの上に乗る。汚れるよ、と言うと触れたくらいじゃ汚れませんよ。といわれた。空子ちゃんの服が汚れるのは嫌だったから身体を起こして立ち上がる。


「ねぇ、空子ちゃん」

「何ですか」

「おなかすいてない?どう、牛丼でもさ」


言うと空子ちゃんが小さく笑った。


「バカですね」


 けれど異存はないようで空子ちゃんは僕に手を伸ばして立ち上がらせた。嬉しくなって僕は駅の裏にある吉野家に行くことにする。なんだか牛丼屋に空子ちゃんは似合わない気がした。もっと気の利いた店に入ればよかったと少し後悔したけれど、こういう店が珍しいのか空子ちゃんは不思議そうにカウンターの中にいる店員を見詰めている。


「ひょっとして、こういう所きたことないの?」

「父が外食を好まないので、よほどのことでない限り家で食べています」


え、空子ちゃんって箱入り娘?と聞くと答えは返ってこなかった。それよりも注文した牛丼の並と大盛が前に運ばれてくる。香ばしいニオイがした。僕は両手を丼につけて、暖を取るように体を竦ませる。空子ちゃんは割り箸を丼の前に一度綺麗に並べて、両手を合わせて小さな声で「いただきます」と言った。僕もそれにならって同じことをする。そういえば独り暮らしを始めてからこの言葉を言ったことはなかったかもしれない。一政や友達と食事をするときも、何も言わず箸をつけていた。


幼稚園や小学校のときは「いただきます」と言えるのが嬉しくて無意味に声を上げて叫んでいたというのに。


「生卵とかいらなかった?」


 割り箸を綺麗に半分に割って、丁寧に口に運んでいく空子ちゃんを横目で見て問いかける。初めて牛丼屋に来たのだからツユダクとかネギダクとかそういうコアなことは知らなくてもトッピングを聞くくらいの気を使ったほうがよかったかもしれない。空子ちゃんは一度箸を置いて答えた。


「邪道です」


 きっぱりと言って水を一口飲む。僕も別に卵を入れる派ではないけれど、邪道と切り捨てられて苦笑した。


「おいしいんだけどなぁ」

「光子も時々カレーに牛乳入れたり邪道なこと、しますね」

「邪道じゃないよ、美味しいんだよ?焼きそばに生卵とか」


力説して言うと空子ちゃんが眉を顰めた。


「人の趣向に意見するつもりはありませんが…邪道です」


 やけに深刻そうに言うからなんだかおかしくなった。


 空子ちゃんは綺麗に箸を使って、きちんと姿勢を正して牛丼を口に運ぶ。ご飯と肉が必ず上手いバランスで乗って、空子ちゃんの口に入っていくのを見るのは面白かった。けれどじっと見ていると空子ちゃんが不思議そうに首をかしげてきたので、慌てて丼を傾ける。空子ちゃんはとても美味しそうに食べているけれど、僕は空子ちゃんが感じているほど美味しいとは思えなかった。


 僕の牛丼と、空子ちゃんの牛丼はきっと味が違うのだ、と信じてみた。店の中には部活帰りの学生とサラリーマンが一組いるだけだ。まだ夕食の時間には少し早いのかもしれない。


「送ってくよ」

「結構です」


 以前と同じ会話をした。空子ちゃんは少し笑っていたから、このやり取りを僕と同様に楽しんでいるのかもしれないと期待する。


 牛丼屋を出て二人で住宅街を歩いた。空子ちゃんがどこに住んでいるのか、僕は知らない。けれどこの近くだというのは教えてくれた。駅によく行くのは、二つ先の駅にある生け花教室に通っているかららしい。空子ちゃんには花がよく似合うと思う。


 バスターミナルに着いて、僕はもう一度空子ちゃんに送っていくよ、と言った。けれど空子ちゃんが答える前に、僕らの後ろから声がかかる。


「空子」


 その瞬間、僕は自分が負けたと愕然と感じた。空子ちゃんは一瞬体を震わせ、ゆっくりと振り返る。その時顔に浮かんでいたのは僕が見たことのない、幸福そうな笑顔だ。空子ちゃんは声の主を確認して、一度僕を見上げる。


「父です。それでは、さようなら」


 すばやく言って空子ちゃんは走った。白いワンピースが去っていく。僕は眉を寄せて十数メートル先にいる人物を見た。ダークブラウンのスーツに身を包み、髪を後ろに撫で付けているサラリーマンだ。空子ちゃんはその男に抱きついた。


 当然のように彼はそれを受け止めて、細い空子ちゃんの体を抱き上げる。僕は見ていられなくて視線を外し、やってきたバスに飛び乗った。


 どうしてだろう。気分が悪い。

 


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