2 紫陽花
次に会ったのは、意外にも早く、一週間後だった。雨のために駅まではバスでゆこうと自宅前のバス停でバスに乗った。
終点まで四つほどあるバス停で、真っ白いワンピースの女の子が乗ってきたと思ったら空子ちゃんだった。
裾には淡紫の錨に似た花の刺繍があった。料金を先払いして、空子ちゃんがステップを上がってくる。僕は一番後ろの椅子に座っていた。こちらに近づいてきたので手を振ると気付いたのか頭をぺこりと下げた。
「こっち、空いてるよ」
「すぐに降りますから」
けれど空席が目立つのに立っているのは躊躇われたのだろう。少し間をおいて、空子ちゃんが隣に座った。可愛らしい真っ赤な傘を手にしっかりと持っている。取っ手の部分がぐるぐると渦巻きになっていた。
僕はあまり傘にはこだわらないけれど、やっぱり女の子だなぁ、と感心する。
信号待ちしていたバスが動き出した。外では雨が小雨になってきている。止むかもしれない。僕は空子ちゃんに視線を向けて首をかしげた。
「どこまで行くの?僕はねぇ終点で降りるんだ。どうせなら大学前までバスがあるといいんだけどね」
「真辺さんは、雨はお好きですか」
やっぱり空子ちゃんは答えなかった。突然、妙なことを言われて迷う。雨が好きか嫌いかなんて、考えたことはない。雨は降るときは降るものだ。けれど、小学校低学年の頃は、雨が降ると体育が中止になるので嫌いだったかもしれない、と思い出す。
「え?あぁ、うーん。大学に行くのが面倒になるし、バイクに乗れないし、あんまり好きじゃないかも。空子ちゃんは?」
「わたしは嫌いではありません」
自分でふった話題だからだろうか、空子ちゃんは答えて小さく笑った。僕は少しだけ嬉しくなって首を傾げてみせる。「どうして?」と続けると空子ちゃんは手に持った傘を少しだけ持ち上げた。
「傘が使えるからです」
「気に入ってるの? その傘。確かにかわいいね」
僕が頷くと、空子ちゃんは珍しく多弁になって続けた。外では雨が降っている。空子ちゃんの好きな傘は広げたらどんな風になるのだろうと気になった。普通の傘と同じような形なのだろうか。それとも、時折街で見かけるような丸いふっくらとした形の傘なのだろうか。紫陽花のように咲くのだろうか。
「二年前に買いました。突然雨が降ったので、即席で買っていただいたのですが、とても似合っているといわれたのでとても大切にしています」
初めて空子ちゃんが人間に見えた。
大げさな言い方だと自分で苦笑するが、僕は前回会ったときには空子ちゃんが人間の子供に見えなかったのだ。けれど、こうして宝物を自慢するようなぎこちない笑顔を浮かべる空子ちゃんは、可愛かった。
バスが急ブレーキをかけて体が躓く。僕は手すりに寄せた手に力を込めて踏ん張る。空子ちゃんは一瞬傘の所在に困ったようだが手を放すことはなく、両足をしっかり床につけて衝撃を堪えた。バスが何事もなかったように動く。会話が終わっては、と不安になって僕は傘に視線を向ける。
「取っ手がすごくかわいいね。うん、確かに空子ちゃんに似合ってるかも」
「ビニール傘も愛嬌がありますが、やはり傘は丈夫で鮮やかなほうがいいです」
一瞬ビニール傘のどのあたりに愛嬌があるのか迷ったが、彼女がそうだと言っているので頷いておく。そういえばずいぶん前の曲で色鮮やかな傘の群れを紫陽花と歌っていたものがあった。なんだっけ、ドリカムだ。まだ三人だった頃の。タイトルを思い出そうとしている脳を、空子ちゃんの声が引っ張った。
「これから大学ですか」
「うん、今日は午後からだからこの時間なんだ。まぁ、課題提出だけなんだけどね。空子ちゃん、学校は?」
「雨が止んできましたね」
やっぱりはぐらかされた。けれど不快には思わず、むしろ楽しんでいる自分がいた。僕は気にした様子もなく窓の外に顔を向ける。小雨だった雨は、今はもう落ちてこない。溜まっていた水溜りも車の振動で僅かに揺れるだけだ。
「あぁ、がっかりだね。これじゃあもう傘は使えない」
空子ちゃんの傘を見たかったのに、と少し残念に思う。どんな形だったのだろう。今頼んで見せてもらうこともできるかもしれないが、雨の降っていないところで傘を広げてもらうのは面白くない気がした。それに、空子ちゃんは雨が好きだというからがっかりしているかもしれない。そう思って空子ちゃんを振り返ると空子ちゃんは答えなかった。
機嫌が悪くなったのかな?と考えていると終点に着いてしまう。僕と空子ちゃんは立ち上がって中央の出入り口からステップを降りて出た。
雨とアスファルトの臭いが漂う。周辺に生えている草が湿っていた。そういえば、雨の後はよくバッタやカタツムリが飛び出すから近所の空き地でよく虫を取っていたっけ。
少し先を歩く空子ちゃんが、振り返らずに言葉を紡いだ。
「晴れていれば傘が汚れないので降らないことは残念ではありませんよ」
空子ちゃんは空を見上げながらこともなしに言う。僕はさすが空子ちゃん。と笑った。僕は振り回されてばかりだ。僕は手に持った傘をクルクルと回しながら空子ちゃんの隣を歩く。
「真辺さん。見てください。虹が出ていますよ」
傘を持っていないほうの手で空子ちゃんが空を指差した。遮るものが何も無い晴れた空に小さな虹が掛かっていた。僕の視力では緑と黄色と赤と青しか判別できないけれど、空子ちゃんには一体何色に見えているのだろう。
「本当だ。綺麗だね。空子ちゃん。なんだかロマンチックじゃない?映画みたいだよ」
頷いて、最後に虹を見たのはいつだったのか考えた。きっと、僕が気付かないだけで空に虹がかかることは沢山あったのかもしれない。雨が上がって空を眺めるなんてなかった。
「虹の中で好きな色は何ですか?」
「うーん。緑かな。ほら、グリーンってなんだか優しい感じがするでしょう」
「優しいですか」
では身体からグリーンの液体が出てる宇宙人も優しいってことになるのだろうかと自分で言って考えてしまったが空子ちゃんがそう突っ込むことはなかった。僕は虹を見詰めたまま目を細める。虹の緑は綺麗だ。エメラルドグリーンと心の中で繰り返すと空子ちゃんが言葉を続けた。
「わたしは赤が好きですね。色は赤が断然いいです」
「白かと思ってた。なんか空子ちゃんのイメージって白って感じ」
白い体に白いワンピース。空子ちゃんを構成する色は白だから、そう感じたのかもしれない。けれど、空子ちゃんの気に入っている傘は赤だから、好きな色と似合う色は違うのかもしれないとぼんやり思う。空子ちゃんは頷いた。
「もちろん白も好きです。でも赤は一等なんですよ」
「懐かしい響きだね。一等って」
階段を上がって、駅の入り口に出る。僕はこのまま真っ直ぐ行って、階段を下りて大学へ向かうのだ。空子ちゃんは切符売り場に視線を向けて、僕に頭を下げた。
「それではわたしはこちらですから」
「あ、そうなんだ? うん。それじゃあ」
元々偶然会っただけなのに、なんだか寂しいと感じた。けれど僕が大学をサボれても、空子ちゃんは自分の用事を優先するに違いない。
笑って手を振ると、空子ちゃんが「それでは、さようなら」と頷いてそのまま切符売り場へと向かっていった。真っ白いワンピースを揺らして歩くその姿を見送って、僕は歩き出す。