1 うつぎ
桜も散って緑と錆色の葉がところどころ薄紅の間から伺える。太い幹の前に立ち、今はもう退学してしまった友人と初々しく写真を撮ったのは三年前だ。
僕は木の下に設置された、少し風化の進んでいる三人掛けのベンチに腰を下ろし時間つぶしにと図書室から借りてきた家庭菜園の指南書を開く。講義の始まったキャンパス内はひっそりと静まり返り、場所が場所なだけに自分以外の生徒の姿は他に無い。
確かにサボるのならば校舎からよく見えるこの中庭より、食堂や、裏庭など、もっと適した場所があるだろう。だが、僕はサボっているわけではない。ただ、本来なら今あるべき講義が休講になり、帰宅しても、とくにするべきこともないので友人を待っているのだ。僕は単位が足りているので今待っている友人のように一日何コマも講義を受ける必要はない。それを羨ましい、と言われた事があるけれど、実際退屈で仕方なかった。興味があって大学に入ったわけでもない僕にとっては、単位が足りているのにあえて講義を受ける興味も持てず、理由や義務に追われていなければ中々行動に移せないのである。
本から一度目を離して欠伸をした。卒業後は父親の会社に就職することが決まっている。最後の大学生活においてやることもない。この退屈な時間を十ヶ月ほど続けて、今度はまた新しい場所に移動する。証券会社は、大学より少しは楽しいのだろうか。
「三井一政さんを探しているのですが、ご存知ありませんか」
形だけは読書の姿勢を取っていた僕の頭上から、静かな声が掛かった。知人の名前に反射的に顔を上げて、目を細める。太陽が眩しかったのではない。見れば、小学生高学年程度の女の子が立っていた。黒い百合の花が刺繍されている白いワンピースが、太陽の光を受けて目に染みる。女の子は長い黒髪を左耳の上で一つに結び、肩に垂らしていた。僕が顔を上げたまま彼女を見詰めていると、一瞬眉を動かす。
「失礼、坂上空子といいます。坂上光子の伝言をあずかってきました」
女の子は軽く頭を下げて答える。やけに大人びた口調で話す子だと思った。しかし違和感はない。僕は座ったまま反射的に頭を下げて、首を傾げる。そのとたん、煙草の匂いが微かに鼻をついた。けれど自分は喫煙家ではないしまさか坂上空子も吸わないだろう。気のせいだと思って、思考を切り替える。光子って、あぁ、一政の元カノだ。どうしてその妹が言付けなんて。メールや電話で済ませればいいじゃないかと不思議に思う。一政は高校からの親友で、昔は女遊びが激しかった。
しかし、三年前、大学一年生のときに坂上光子と付き合って一変した。複数あった携帯電話を一つに絞り、毎晩行方知れずで親を泣かせていたのが嘘のように、毎日九時には帰宅して母親の手料理を喜んで食べている、と当時一政の母親が気味悪がって自分に相談してきた記憶がある。光子は謎に包まれた人物であったけれど、一政と光子の三人で、光子が学校を辞めてしまうまではよく遊んでいた。だから、親友を品行方正へと変えるほどの影響力と魅力を持った人物であるとの認識はある。光子はまるで真夏の太陽のように明るく、しかしどこか謎めいた部分があった。女というものは単純で、浅はかで、欲深いと思っていた一政が、そんな光子に革命を起こされて、必死に追うのも無理はないかもしれない。
その妹、ということで僕は目の前の少女に少し興味を持った。人好きのする好青年な笑みを浮かべて言うと坂上空子は眉を寄せる。しかし構わずに口を開いた。
「僕は真辺大悟。一政の友人だよ。アイツは今受講中だから、あと一時間くらいは出てこれないかな…メール打っといてあげようか?」
「そうですか、いえ。結構です。この大学にいることはわかりましたので、失礼します」
と、それだけ言って少女は踵を返し出口の方向へ歩いていってしまった。一瞬あっけに取られ、一体なんだったのだろうかと思いながらもとりあえずは一政にメールを打っておいた。
『なんか、変な女の子に会ったよ。光子サンの妹みたいだけど…キミに用だってさ』しかし、生真面目な友人は授業中電源を切っているのだろう、返事は返って来ないと分かっている。
ベンチから立ち上がって学校用にしている茶色い肩掛け鞄を引っつかんで少女の後を追った。子供の足なのでそう早くはない。校舎を一つ越え、中庭を出てすぐのところを坂上空子が歩いていた。学校帰りではないのか、小さな手提げ以外は何も持っていない少女はスタスタと歩いている。
「待って、空子ちゃん」
名前を呼んでも止まらなかった。聞こえているはずなのに。僕は走って坂上空子の前に回った。迷惑そうな顔をして、見上げられたけれど気付かないフリをする。にっこりと笑って、彼女が何か言うまでに言葉を続けた。
「後一時間も大学をキミがうろついてたら怒られるよ。ねぇ、ボクと外で待ってよう。オレンジジュースでも奢ってあげるからさ」
言って自分で笑えた。なんだかナンパでもしているような気分になる。しかし、それがまた面白かった。噴出したくなるのを抑えて、空子ちゃんの回答を待つ。
「失礼ですが、知らない人についていくなと父に言われています」
「えー…あ…そうだよね。でも僕も光子サンの知り合いだし、それにキミを放っておけないよ」
親切心だ、と暗に告げると空子ちゃんは少しだけ不思議そうに見上げ、考えるようにコンクリートに視線を落とした。おそらく、無碍にするのもどうかと考えているのかもしれなない。僕の胸までしかない少女の頭が見える。黒い頭の真ん中に旋毛があった。
「わかりました。ご迷惑をおかけします」
旋毛を押したら怒られるかなぁと考えていると、空子ちゃんが顔を上げて言った。ぺこり、と頭を下げる。結んだ黒い髪が揺れた。僕は笑って、空子ちゃんの隣を歩くために少しだけ動いた。
「ううん、大丈夫だよ。じゃあ、行こうか」
言って僕は妹にするように手を繋ごうとしたけれど、空子ちゃんはそれをさりげなく拒む。別に手を繋ぎたかったわけではないのでそのまま手をポケットに入れて歩いた。門を越えて、坂道を降りる。駅のすぐ近くにあるこの丘の上の大学は、周囲にほとんど何も無い。駅前にはマクドナルドもなく、立ち食い蕎麦屋があるだけだから待合には向いていないだろう。資格試験会場としても使われているこの大学は、資格試験日になると駅から大学までの橋と道に学研やら何やらの宣伝をするスーツの派遣社員であふれかえっている。けれど、今は誰もいない。時折思い出したように車が道を通る。静かな田舎だった。土地は広いが新宿とは反対方向のために目立った店もない。
僕らは駅から反対方向に少し歩いて喫茶店に入った。宣言通りオレンジジュースと、おまけにショートケーキ、それに僕のためのアイスティーを頼んで二人で席に座る。窓際の四人掛けの椅子は空子ちゃんの座っているほうがソファになっている。僕は、木の椅子を引いて腰掛た。ビニールの感触に腰を沈めながら、目の前の空子ちゃんを伺い見る。
セルフサービスの喫茶店はまだ利用客もなく、有線でバンプの新曲が流れている他は音もない。空子ちゃんはオレンジジュースを飲むためにストローを袋から出して、上下を確認してから下に持っていた方を折った。ひっくり返して、そのままガラスコップに突っ込む。すぐに飲まずに、一度氷をストローでかき混ぜた。オレンジ色の液体と、透明な塊が円柱の中で回る。僕もなんだかたまらなくなって、普段は入れないミルクを紅茶にたらし、ゆっくりと混ざっていく様子を観察した。
鼈甲色の液体に取り込まれた白は一瞬沈んで、駁に浮かび上がってくる。眉を寄せた。あまり気持ちのいい光景ではない。ミルクを半分入れ、青い線の入ったストローで掻き混ぜる。興味を失ったグラスから視線を外して、オレンジジュースを飲んでいる空子ちゃんに問いかけた。
「空子ちゃんって小学生だよね?」
「はい。五年生になります」
「よく一人で大学に入って来れたね。こわくなかった?」
「いえ、別に」
強がっているのでなく本当にそう思っているようだった。あっさりと答えられて次の会話に躓く。僕は別に口下手なほうではないのだけれど、空子ちゃんは他人と会話するのが嫌いなのだろうか。
持て余して僕はストローをグラスから出して、水滴で机の上に落書きを始める。退屈は嫌いなのだ。行儀が悪い、と窘められるかと思ったけれど、空子ちゃんは興味なさそうに外を眺めていた。大通りは平日でも車が行きかっている。このあたりに止まることはないけれど、この道は通過地点としてよく利用されているらしい。
僕はアイスティーで中々見事にウサギを描いた。満足して、ストローを灰皿に捨てる。折角描いたウサギをさっとオシボリでふき取ると空子ちゃんが少し不思議そうに視線を向けてきた。
「消すんですか」
うん、と頷いた。だって、いつまでも残ってて袖が濡れたらヤダし、と答えると少しだけ空子ちゃんが笑った。子供っぽいかわいらしい笑顔、とは思えなかったけれど、まるで花が咲くように笑ったから僕は少し気を良くして、空子ちゃんに話かけることにした。
「今日学校は?」
「大悟さんは光子とはお知り合いなんですか」
無視はされなかったが、空子ちゃんは答えずに逆に問いかけてきた。触れられたくない話題だったのだろうか?自分はおかしなことを聞いたとは思わなかったが、とりあえず問いかけられた言葉の回答をする。
「あ、うん。三年前かな、僕と一政が高校生のときに知り合ったんだ。でももう一年くらい会ってないよ。お姉さんは元気?」
「姉ではありません。光子はわたしのイトコです」
「え、そうなの?」
「はい」
苗字が同じだったのでつい妹だと思っていた。しかしよく考えれば、姉妹のわりには似ていない。イトコなら頷ける程度の類似点があるくらいだ。光子は太陽のように明るく、空子ちゃんは月のよう。似ているところは、その独特の神秘性くらいだ。顔立ちは、と聞かれればそれほど光子の顔をよく見ていなかったので思い出せない。
なんとなく、程度なら記憶にあるけれど、空子ちゃんを前にして光子を思い出すのは不可能な気がしたのだ。うーん、と唸っていると空子ちゃんが僕の後ろを見て目を細めた。
ん? と僕も振り返って見ると入り口で長身の男が店内をきょろきょろと見渡している。真っ白い糊のきいたワイシャツにレザーのネクタイを締め、腰で履いたチェックのズボンに弾丸ベルトを巻いた裏原型の青年だ。短髪に茶色い帽子を被った青年は僕と空子ちゃんを確認して手を上げた。
「大悟、やぁ、空ちゃん。久しぶり」
「早いね。一政」
友人三井一政はにっこりと笑って近づいてきた。まだ講義が終わるまで二十分はあるはずだけど、と時計を見る。一政は「提出物を出して早めに出てきたんだ」と問いかける前に答えた。
「空ちゃん。…それで、どうしたんだい?」
いきなり本題に入ろうとする一政に空子は一瞬大悟を気にするような目をした。だが一政が構わないそぶりをすると、オレンジジュースを一口飲んだ。
一政は落ち着かない様子で胸ポケットから煙草を取り出そうとしたが、僕がにっこりと笑いかけると何事もなかったように手をテーブルの上に置いた。
空子ちゃんは一度息を吐いて、まっすぐに一政を見詰める。真っ黒い黒真珠のような目だった。子供によく見られるようなキラキラとした光は入っていない。どこまでも黒い瞳だ。
僕は一瞬吸い込まれそうになるのをこらえ、空子ちゃんが口を開くのを待った。
「光子さんが、もう会えないと。わたしはそれだけを伝えに参りました」
最初に僕に一政のことを聞いたときと同じ声音で、空子ちゃんは言った。言葉を聞いた一政は一瞬、奇妙な笑みを浮かべ、項垂れる。僕は少し驚いた。一政はいつも自信満々で、少し自意識過剰なほどだったが、かっこよく見えたのだ。それが、たかが女に振られた程度で、親友とはいえ他人の前でこうもあからさまに落ち込んでいる。
「そうか…そんな気はしていたよ」
それでも気丈に空子ちゃんに笑いかけて、一政は言った。空子ちゃんは一度眉を寄せてから、癖なのかテーブルを一度オシボリで拭いて立ち上がる。オレンジジュースはまだ中身が半分残っていた。僕らを交互に眺め、頭を下げる。
「それではさようなら」
「あ、待って。空子ちゃん」
慌てて僕は立ち上がった。椅子を少々乱暴に退かし、歩き出した空子ちゃんの背中に声をかける。真っ白いワンピースよりも、白い空子ちゃんの肩が細くて頼りなさげで、僕は不安を感じたのだ。
「もう暗くなるし、送ってくよ」
このあたりは田舎で人通りも少ないから変質者が多い、と聞いたことがある。空子ちゃんがこの辺りに住んでいるのかどうかは分からないけれど、駅まででも送っていくことはできるのだ。しかし、空子ちゃんは振り返って、眉を寄せると首を振った。
「結構です」
きっぱりと断られ、僕は苦笑する。言うと思った。けれど、引き下がるわけにはいかない。今日知り合ったばかりとはいえ小さな女の子をひとりで返すのは冷たすぎる。
「危ないし、ね?」
なんとか頷かせようとするのだが僕よりも空子ちゃんの方が上手だった。道路とは反対方向にあるバスターミナルの方に視線を向けて提案する。
「ではタクシーで帰りましょう。それよりも、一政さんのそばにいたほうがいいですよ」
「あ、うーん…」
確かに、項垂れている親友を放っておくのも躊躇われる。答えに一瞬迷っているとその隙に、空子ちゃんが歩き出した。
「それではさようなら」
もう追うことはできない。僕はため息を吐いて出て行く空子ちゃんの白い後姿を見送って、席に戻るために踵を返した。
一政は泣いてはいないだろうけれど、今夜は記憶が飛ぶくらい付き合ってあげようかな、と少々おせっかいなことを考えた。