自殺の天才
―――閉戸唯花は天才である。
彼女のことを、学園にいる誰もがそう思っていた。
成績順位不動の一位。
彼女が入学して以来、一位の座は常に彼女のもの。誰にも奪われたことは無く、誰も奪おうとしない。
二位以下を引き離す、「全教科満点」という驚嘆すべき事実。
唯一人だけ、合計点が「千点」と桁一つ違う異常さ。
―――コンピュータのように、ミス一つ無く答えを弾き出す。
あいつは、私達とは別種の存在、別種の生き物なんだ。
……誰もがそう思っていた。
その才能のせいか。それとも病的なまでに白い肌と、艶やかな黒髪のコントラストのせいか。彼女は常に、他者を寄せ付けない雰囲気を放つ。そのため彼女に友人はおらず、いつも独りだった。……また事実として、彼女の能力では例え孤独であっても、困ることはなかった。
彼女は外見も中身も、超人に相応しいと言える。
箱庭のような、閉ざされた学園の住人でありながら、ただ「いる」というだけで、閉ざされた空間にあっさりと風穴を穿つ、規格外の存在。
―――そんな彼女がある日、校舎の屋上から飛び降りて自殺した。
遺書は無く。
……誰も、最後まで彼女を理解できなかった。
どこまでも真っ白な世界で、唯花は目を覚ました。
「…………ここは……?」
天国だろうか? 唯花はまずそう思ったが、すぐ否定した。
古今東西、あらゆる宗教で「自殺」は禁忌とされている。善行も徳もロクに積んだ覚えはない。天国直行はまずありえないだろう。
何より、自分の外見はどうだろうか。
服装は、自殺する直前に着ていた学園指定のセーラー服と黒のタイツ。飛び降りる前に脱いだからか、靴は履いていない。
……そして、その全てが血飛沫を浴びたように血で汚れている。
死んだ瞬間の状態なのだろう。唯花はそう納得した。
ただ幸い触った限り、割れたはずの頭蓋骨は無事だ。四肢も動く。正確には、死んだ当時の「服装」ということだろうか。
……これから自分は、いったいどうなるんだろう?
死ぬ前は深く考えていなかったが、いざ死んで「現実」を見ると不安を感じる。
唯花は不安が膨れ上がっていくのを感じながら、周囲を見渡した。
「…………」
どこまでもどこまでも。ただ真っ白い世界。
何もない。どこまで先にも、何もない。
スカートを這い、零れた血がどこにも落ちずに消え失せる。
―――自分も、いつかこんな風に「異物」として消えてしまうのだろうか。
「―――っ!」
唯花は底知れぬ恐怖を感じた。同時に、ソレを求めて死んだのではないか? と自問自答した。
……確かにそう。全てをなげうって消え入りたくて自殺した。
……だけど。ここでもそうなるのだろうか。
現世で「異物」扱いに耐え切れず、孤独に耐え切れず自殺した。それが私だ。
その上、死後の世界でも「異物」として処理されるのだろうか……?
ああ……。
これが「罰」なのか?
「…………そんな風に思うなら、最初から死ななきゃいいのに。相変わらず、キミって馬鹿だね」
どこからともなく、若い男性の声が聞こえてきた。
「…………誰?」
辺りを見渡すが、誰も見当たらない。けたけたと笑い声だけが響く。
「こっちだよ」
耳を頼りに、ようやく男の位置を把握する。彼は、唯花の真上に浮かんでいた。
蛇を思わせる滑らかな動きで、男は優雅に身体を滑らせ唯花の正面に移った。
奇妙な外見の男だった。
年は唯花と同じくらい。浴衣を着ているのに頭には烏帽子を被っており、首には勾玉のペンダントを幾つもぶら下げ、浴衣の裾からは青のデニムが少し見えた。
全体的にちぐはぐだが、男には不思議と似合っていた。
「……変な服装だね」
唯花が言うと、男は肩をすくめた。
「ウチは偶像崇拝じゃなくて自然崇拝だからね。……特に最近は古代になったり中世になったり、意表を突いて今風の洋服だったり。描かれる姿が安定しないからさ」
「……よく分からないけど、日本の神ってこと?」
「イエス」
軽いノリで、男は拳を上げ親指を上に突き出した。
「…………」
「そう冷たい目で見るな。オレの気持ち次第でお前の待遇が変わるのだぞ? 媚びへつらい敬いたまえ」
「……仮にも神を名乗りながら、人間らしいことを言う」
「日ノ本の神は人間らしい感性がウリだ」
軽口を返し、男は唯花を見た。
何気ない視線。
だけど、唯花は蛇に睨まれた蛙のような気分になった。
「……分かっていないと思うけど、これでキミの自殺は百万回を超えることになる。既にキミは百万回生きて、百万回自殺しているんだ」
「…………嘘だ。そんなの」
咄嗟に、唯花は否定する。
男は「ははぁん」、と言って頭の後ろに両手をやり、「そう言うと思った」という顔をした。
「……まぁ正確な数は覚えちゃいないが、膨大だということだけは確かさ。……キミはいつも自殺して死ぬ。そして、選ぶのはいつも『飛び降り自殺』だ」
くくく、と男は蛇のような笑みを浮かべた。
「飛び降り自殺はいい。死んで咲く醜く惨たらしい華は、見た者にトラウマを植えつける。自宅や山奥で練炭自殺や首吊り自殺を選択するより、大勢の人に恐れを抱かせる。電車への飛び降り自殺と違って、遺族にかかるお金の心配もない。『またか』と誰かに舌打ちされることもない。何より死ぬ前に、一瞬だけど鳥のような気持ちになれる」
「……そんな」
自殺者を何だと思っているのだろう?
「キミは間違いなく、自殺の天才だよ」
皮肉なのか本気なのか。人ではないからか、唯花には男がどうしてそんなことを言っているのか分からないし、分かりたくもなかった。
「アナタ……神なんでしょ? どうして皆が自殺したのか分からないの? 皆を救おうと思わないの?」
「神も暇じゃない。ゴッドオブウォーズのやり込みで忙しい」
「……マジメに答えなさい」
男はまた肩をすくめた。
「もう神代は終わった。神の世じゃなく人の世だろうに、深入りする気はない。……だが何もしていないわけじゃない」
そう言って、男は唯花の胸を指した。
「キミは特別。あまりに自殺するキミは、人がなぜ自殺するのか探るのにちょうどいい実験体だ」
「……実験体?」
不穏な言葉に、唯花は眉を顰めた。
「そう。実験体。キミは何度も何度も生き返らせたのに、何故かいつも自殺する。本当、不思議だ」
「ワタシが……」
自殺した。何度も、何度も。
……本当にそうなのだろうか? この男の虚言ではないだろうか?
全く記憶にはない。だが当然ながら、唯花はその言葉を否定できるものを持ち合わせていない。
「ねぇ、今回は何で自殺したの?」
男は尋ねた。
一歩、二歩とリズミカルに唯花に近寄り、唯花の顔を両手で掴んでその瞳を覗き込んだ。
静かで、感情の見えない瞳。―――実験体を見るのに相応しい目。
唯花は、ミミズクのような瞳だと思った。
視線も逸らすことが許されず、唯花は男に抗えない。
「……何で、言わなくちゃいけないの?」
「さっきキミが言ったとおりさ。神なのに人を救わないのか? ―――今こうして、その答えを探っている」
何故か、男から目を逸らせない。
閻魔大王に罪を暴かれ裁かれるというのは、こんな感じなのかと唯花は思った。
「―――寂しいから。独りは、寂しいから」
勝手に、唯花の口から言葉が零れる。……それは生前、誰にも言えずじまいだった言葉だ。
「……寂しい? あれだけ賞賛されて、人に囲まれてまだ寂しいって言うのかい?」
男は追及を緩めない。
「だって、だってだって! ……それって、対等じゃない。賞賛なんて、いらない。―――っ、わたしは、ただ一緒に遊びたいだけ」
唯花の瞳から、静かに涙が零れる。
……一緒に映画を見に行ったり、カラオケに行ったり、カフェでお茶を楽しめる友達。
……クリスマスが寂しくない恋人。
そういうものが、唯花はずっと欲しかった。
「……天は二物を与えない。それに、一つ与えられたなら、その代償を受け取らないといけないこともある」
男は唯花の顔から手を離してそう言った。
「才能を持つなら、剥き出しのままじゃ対等には付き合えない。キミは装束を装う術を知らなかったし、努力もしなかった。……そういうことか」
男は淡々とそう言って納得した。
「……簡単に言ってくれる。アンタに何が分かる?」
「分からない。神に天才の苦労を分かれと? 鬼才って言葉はあっても、神才って言葉はないんだよ」
「神童ならあるじゃん」
「……キミは童って年かい?」
やれやれ、と男はまた肩をすくめた。
「そのオーバーリアクション、何? 日本人はそういうことあんまりしない」
「突っかかるねぇ」
男は余裕そうにけたけたと笑った。
「……確かに、俺には天才の苦悩が分からない。でも、キミもかつてはそうだった筈だよ?」
そう言って、男はパチン、と指を鳴らした。
すると、唯花と男の横で、テレビスクリーンのように映像が流れ始めた。
そこに写っていたのは、唯花とそう年の変わらない高校生だった。
流れているのは、その高校生の日常風景。
唯花と年は同じだ。しかし、その日常は唯花と決定的に違っていた。
―――その高校生は、どこまでも凡庸だった。
成績は悪くもないが、取り分け良くもない。
外見もありきたりだ。
カリスマ性がない変わりに、人を遠ざけるような空気もない。
……それは、唯花が欲してやまない特徴だった。
本人からすればなんでもない行動かもしれないが、クラスメイトと仲良く談笑する様子は、唯花には心の底から羨ましかった。
だが、次第にその心は絶望に染まっていった。
それは唯花からすれば理解できない、真逆の悩み。
凡人であるが故に。自分はいくらでも代えがきく存在であると、自覚してしまったのだ。
いくら努力しようと、代わりが無限にいる以上意味は無い。
自分という人間は生きているだけ無駄。無価値な存在だ。
――――そう考えて、その高校生は校舎から飛び降りて死んだ。
「…………」
高校生が死んだことで音も無く映像は消え、元通り真っ白になった。
「コイツ、前世のキミなんだ」
男は淡々とその言葉を口にした。
「…………」
「前世のキミが天才を羨んだから、今度は才能溢れた人間にしてあげたんだよ」
「…………」
唯花は何も言わない。何も、言えなかった。
「でも結局、飛び降りちゃった」
男はつまらないものを見るような目で、唯花を見た。
唯花が怯えて、視線を逸らす。しゃがんで、身体を丸めて縮こまる。
「―――なんだ。キミって何にでも絶望して、いつだって死ねるんだね」
その言葉は、深く深く唯花の胸を抉った。
「……………………だって」
「ああ? なんだって?」
「だって、…………希望を抱けないもの。いつまで苦痛が、孤独が続くのか……そう思うと、耐え切れない」
顔も上げずに、唯花はそう言った。
その言葉で、初めて男は悲しそうな顔になった。
「……それは俺には分からない。俺の時間は有限じゃない。『何かがいつまでも続く』苦痛が理解できない。永遠は、俺にとって当たり前だから」
でも、と男は付け加えた。
「才能があっても無くても、キミは絶望する。才能さえ無ければ、というのは間違いだね」
その言葉を、唯花は不承不承受け入れた。
「…………そうね。そうみたい」
身体を丸めたままの唯花が、ふわっ、と男の目線まで浮かび上がる。男の手が、唯花の頭を撫でた。
唯花は何の反応も示さず、されるがままにしている。
「…………後悔しているのかい?」
男の言葉に、唯花は悩んだ末に「そうね」と答えた。
「まだ答えを出すには早すぎたかも」
くくく、と男は笑った。
「そうだね。―――キミにはまだできることがあった。逃げる先も、方法もあった」
撫でるのを止めて、唯花の頭にキスをする。
それから、パチンと指を鳴らした。
真っ白だった世界が急速に暗くなっていく。唯花の意識は、次第に朧気になっていった。
「大丈夫。―――本当は、キミはまだ死んでいない。これは予知夢のようなもの。明日、キミは思いつめて自殺するハズなんだ。……さて、どうなることやら」
「―――待って」
唯花が思わず止めようとした。……理由は、本人でも分からなかった。生きたくなくて止めて欲しかったのか。それとも、男に何か言いたいことでもあったのか。
「じゃあね。もう、飛ぶなよ」
そして全てが黒く染まり、消えた。
閉戸唯花は天才で、完璧超人だ。
だから、彼女は教室で寝たことが無い。
品行方正な彼女は、授業を無視して寝たことが無かったのだ。
―――だからその日、彼女は自分が教室で寝ていたことを知り、ひどく驚いた。
教室はガランとしている。皆の机の上に制服が脱ぎ散らかされていることから、今は体育の授業中なのだろう。
時計と時間割をチェックし、朧気な記憶から寝た時間を推測する。……どうやら自分は、少なくとも三十分は寝ていたようだ。唯花は自分に呆れた。
「……変な夢を見ていた気がするわ」
でも、不思議と最後は幸せだった気がする。どういうわけか、いつも感じている孤独感が薄れていた。
誰も見ていないことをいいことに、唯花は大きく欠伸をして涙を拭った。
―――フフフ。
小さく、誰かの笑い声が聞こえた。
「!?」
赤面しつつ、慌てて口元を隠し教室を見渡すと、クラスメイトの女子生徒が一人、唯花同様、教室に残っていた。
「いやー、閉戸さんの気を抜いた姿なんて、貴重なものが見れたよー」
のほほんとした様子で、クラスメイトはそう言った。
……何と答えればいいか分からない。唯花は、こんな風に親しげな様子で話しかけられた経験を、持ち合わせていなかった。
「もー、そんなに固くならないのっ! わたし達は授業をボイコットした寝ぼすけ同士なんだから、仲良くしましょ?」
そう言ってクラスメイトは唯花に近寄ると、にこっと笑った。
「は、春先は……眠くなっちゃうから」
自分でも分からないが、唯花は咄嗟になぜか、眠っていた言い訳を主張していた。
ば、馬鹿だと思われたんじゃないかしら? 唯花は内心そう危惧したが―――。
―――それを聞いて、クラスメイトはアハハと笑っていた。
「あたしと同じだ! 春の眠気に負ける者同志、あたし達いい友達になれそうだね、唯花ちゃん!」
友達。……それは、ずっとずっと昔から欲しかったものだ。
「あ……」
口をパクパクさせた後、唯花は、まだ彼女の名前を呼んでいないことに気付いた。
「うん、よろしく夕奈ちゃん」
唯花はそう答え、久々に心の底から笑った。
「よし! じゃあマジメな唯花ちゃんに、授業の楽しいボイコット方法を教えてあげよう!」
夕奈は笑いながら、唯花の手を取って走り出した。
胸を高鳴らせ、唯花は夕奈の背を追う。
いつの間にか、孤独感は完全に霧散していた。
―――結局、翌日彼女は飛ばなかった。