前編
_Question..
俺の自室からの眺めは、お世辞にもいいモノとは言えなかった。
「……、……」
とある都市の一角にて。
交通の便利と手ごろな家賃のみに焦点を当てた結果、俺が手に入れた城は、想像しうる限りの、その他の要素全てを生贄にしたといっても過言ではなかろう、建付けも隣人もエアコンの調子も窓から差す日照も最悪な、ぼろアパートであった。
平日であれば、仕事柄、家にいる時間というのが俺にはほとんどない。しかしそれでも、休日についてはそうもいかないのが俺のライフルーティーンだ。
社会の荒波にもまれ、用事を済ませたティッシュのようになって床についた俺が、翌日の朝、窓のすぐ足元にある人通りの喧騒や一晩越しで吹き溜まった熱気に乱暴な調子で揺り起こされるというのが、ここに越してきて以来の常であった。
さてと、それ以来、わかったことがある。
睡眠時間とは、身体と心の膝突き合わせた相談で、ある程度は決められるものであるということである。
いつかのこと。とある夏の、週末の夜更けのことであったと記憶している。
――これは寝られない、と。ふいに俺は気付いた。
気付いて、寝具から身体を起こし、最後にいつ開けたかもわからない安い紹興酒と製氷機製の氷をガラスコップに注いだ。
「……………………、」
窓を開けて、熱気に倦んだ外気を取り込む。
ヒートアイランド現象などと、敢えて英語で呼ぶ必要があるのかさえ怪しい非常にシンプルな名前の公害を、俺は頬に感じて。
次いで、向こうにある扇風機を点けて、その顔をこちらに向けて。……それから、いやいやをし始めたあの野郎の首を座らせて、改めて一息。
折れたりなどはしまいかと耳を立てながら、慎重に窓の縁に腰掛ける。
からり、とグラスが音を立てる。
街の湿気も、まだぬるい紹興酒も、なんだかやたらと濃密で、俺は身体が夜の気配に溶けだしていくような錯覚を覚えた。
熱で、俺の輪郭がぼやけて曖昧となり、首筋を滑る汗が、唯一の、肌を伝う触角刺激となる。
そして、
それからしばらくそうしていて。
狭く硬い窓べりに腰掛けてしばらく、俺は自身の尻の痛みを忘れていることに気付いた。
それから、あんなに中途半端だった眠気が、身体の芯までじっとりと浸透していることに気付き、シャツが吸った汗への嫌気が霧消していることに気付く。
そしてふと、視界の向こうに視線を投げかけて、
或いは、この威圧的に立ちふさがった建造物の向こうでは、……今日のような日和であるからして。
月が佳く見えているのだろうなあと気付いて、
――そして気付いたら、朝になっていた。
それ以来、俺は睡眠に質を求めるべく、休日の夜は酒とともにするのを常としていた。なにせ目覚めの良さが段違いなのである。それはあの夏の夜よりここまで、――つまり秋の暮れまで続いている習慣だった。
しかしながら、いい加減、窓を開けて寝られる季節でもなかろうか。
真夜中の足元、吹いた風に冬のにおいを感じて、俺は殊更にグラスを煽る。
気付けば、当たり前のようにロックで飲んでいた安酒も、いつの間にかストレートのダブルに衣替えをしていた。
「……、……」
左右上下の隣人への殺意も、目下街路を賑わす喧噪への破壊衝動も、和らいだものとは言えないけれど。
しかし、それでも。慣れも含めて。
余裕が出てきたんじゃなかろうかと独りごちる。
「……、……」
思えば今日も、実に良き日和である。眼前に構える建造物(どうやら小学校であるらしい)の向こうには、恐らく、冴えた満月が覗いていることだろう、などと切りよく思考を締めて、俺はふわりと、瞼を下ろした。
『月・窓・消えた小学校
――ミステリージャンル(仮題)』
目が覚めると、小学校が消えていた。
「 」
ご丁寧に定礎まで抜かれていた。
「…………………………うわあ(引き)」
秋の暮れの、とある土曜日。
午前二時過ぎのことである。
窓を開けっぱなしにしてしまったようで、妙に身体が熱っぽく感じる。
ただ、もうしばらくは開けたままにして、頬とは対照的に冷たく、からりとした秋の風を居間に取り込みながら。
とりあえず、俺はコーヒーを一杯。
さて、
「……うわあ」
やっぱ消えてる。イリュージョンじゃん(他人事)
なにかの間違いだろう。と窓の向こうに視線を行かせたまま、
俺は何の気なしに午後のニュースをつける。
そこで俺は、――国民の代弁者たる全国ネット番組のコメンテーターの、真に迫るともいうべきものを見た。
『何かの間違いだと思うんですよね』
すげえ気が合う。
さてとどうやら、どこのチャンネルでもこの話題で持ちきりであるようだった。思えば、この時間帯にニュースという時点でも違和感を覚えるべきだったのだろう。
毒にも薬にもならないバラエティーを見たかったはずが、サーブされるのはいつまでたっても、毒にしたものだか薬にしたものだかも定まらないようなこの珍事に対する最新情報ばかりであった。
「……、……」
他方、窓の外。
俺は足下に人だかりを見つける。それは内訳で言えば、野次馬が二割と「本職の野次馬」が七割、残りの一割がおまわりさんであろうか。そこには、報道関係者であふれかえった、熱気堪えがたい景色が広がっていた。
「…………………………………………、」
冗談のようなニュースを肴に、この暇を飲み下すか。或いはあの裡に身を投げ出してでも、お天道様の下での自由を掴みにかかるか。
――なにせ今日は休日である。休日に不可欠なのは視覚情報の潤沢ではなく、慣れ親しんだお布団であるからして。結論としてはどう考えたって、俺の選ぶべきは前者であった。
「……、……。」
昨日使ったままのグラスに、外気と同程度まで冷えた紹興酒を注ぐ。
じょぼじょぼと、
乱雑に注いで、跳ねた雫が膝を濡らす。
俺は昨日と同じように窓べりに腰掛け、昨日とは真逆の方向、つまりは部屋の奥に鎮座するテレビとのにらめっこに挑むべく、まずは起き抜けの一杯を盛大に煽った。
――まず始めに取り上げられたのは、件の某小学校についてのバックグラウンドであった。
校風がこうで気風がこう、実質的な運営評価はこうで、周辺住民からの印象はどうであったか。眺めていてふと、インタビューを受ける人物の顔に心当たりがあると思ったら、そういえば彼は、このアパートの家主であった。
『何度か苦情を受けていたんですよ、うちの住人からですけれどね』
大家は言う。
『上下左右の住民がうるさいとかならまだ分かるんですけれどね、小学校のガキども……お子さんたちに注意してほしいと。いやあ、市役所に行ってもらいたいものでしたがねえ』
全くその通り、家主に言ってなんになるというのか。こうも客観視させられると、まったくもって自省を禁じ得ない。
あと「上下左右の住民がうるさいって申し立てについてはまだ分かる」とか言うなら、あとは行動起こすのみじゃなかろうか。マジ〇ね。
『あまりいい印象をお持ちではない?』
『そうですねえ、こういう立地ですから。あちら様にも気遣いをお願いしたいものです』
というコメントを以て中継が終わる。番組でそれが議題に上がると、論調はやがて、悪意ある人物のいたずらである、などと、次第に犯罪性の示唆へと傾き始めた。
『昨今、この手のクレームは多いでしょう? 隣人トラブルの、一つの、突拍子のない発露の形ってこともあるんじゃない?』
……そんな個人規模の話じゃ無さげじゃなかろうか。などと思うと、ちょうどキャスターが似たような問いを彼に返した。
返す言葉は、コメンテーター曰く、
『集団規模の可能性だって、十分にあります。っていうか個人じゃあ無理でしょう。××小学校への報復じゃなくて、例えばこの社会への意趣返しである可能性とかね』
……その手の思想犯って言うのも、一昔前にはよく見られましたよ、と彼は言う。
その頃の時代背景は今のそれに酷似していて、曰く、時代の過渡期にそのような突拍子もない人物はよく表れるのだと。
それから、戦後の社会と今のグローバル化の共通点をあげつらい始めた彼から強引に言葉を引き取り、キャスターは話題を更新した。
曰く、監視カメラ等記録情報について、整理していこうという話であるようだった。
そこで番組は、キャスターの断りを挟んでCMに移行した。
「……、……」
妙に興味をそがれて、俺は、ふとタバコが吸いたくなった。
幾つかの、手を付けたままにしてあったものを手さぐりに。その内で俺は、包装の赤い色に視線を奪われる。
高いタバコである。……酒気の勢いで買っていたのだろうか、などと投げやりに考えつつも遠慮はせず、そのまま惰性じみた所作でそれを咥えた。
フィルターに吸い付いて、火種を移す。ふわりと吸い込むと、紹興酒で潤った喉に、懐かしい茶の香りがある煙が蔓延して、
吐いた紫煙は、窓の外へ。
喧騒の頭上を揺蕩って消える。
「……、……。」
妙に五感が鈍感だった。それと対照的に、思考は冴え冴えとしたままで、或いは今日の風のように自由な軌跡を描く。
まず思ったのは、これをしでかした何某氏の動機について。
個人規模じゃないことは、この光景を見れば明らかであった。
何かしらのドッキリということもないだろう。なにせあそこに立っていたのはお上手製の公的施設であるからして、その解体に許可が出る状況というものが俺には浮かばない。
ゆえに。
何かしらの、明白な権力とは独立した思想者団体の、たった一晩の類まれなる所業。或いは、冗談八割で言えば超常現象だろうか。俺にその手の専門知識があるわけでもなく、そんな俺にできることといえば、「動機から逆算しての犯人当て」までであった。
いや案外、この手の思考ゲームというものも、酒の肴になるモノだ。
A・翌日、隣人が全員引っ越し大家某氏が亡くなり住居向かいの路に通り魔が出て、その日の月は暦外れの満月であった。