慈愛の大樹3
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――これは、聖母と謳われたとある女性の物語。
昔、ある国に一人の女の子が生を受けました。
家は特に貧しい訳でもなく、女の子はすくすくと両親の愛を受けて成長します。
女の子はいつも笑顔を絶やさず、他人の心をしっかりと考えて理解できる心優しい子。
相手に非が無いのであれば何でもないよと笑顔で許す。
彼女の周りの子たちは、そんな女の子が大好きでした。
大人たちもそんな彼女を微笑ましく、そして好ましく思っていました。
しかし、中学に上がるころその環境は一変します。
ある人物の心無い一言が彼女の印象を変えてしまったのです。
何をされても笑ってばかりで気持ち悪い。
そんな事はありません、相手に非があるならばしっかりと伝えていました。
勿論それを知っていて、そんな事を思っていない人もいました。
言った人物もただ虫の居所が悪かっただけ、その時はそこまで酷い事になるとは思っていなかったのかもしれません。
ですが、投げ込まれてしまった石は小さな波紋を造り、それはいつしか巨大なうねりとなって彼女を飲み込んでしまったのです。
何をしても怒らない。
そのように事実はねじ曲がり、彼女はいじめを受けてしまいます。
ただ、彼女には夢がありました。
いつか哀しみを背負う子供たちを笑顔にする施設を作ってあげたい。
そこで自らが世話をしたい。
見る人が見ればそれは傲慢かもしれません。
でも、彼女は純然たる慈愛の心でソレを為したいと、そう願っていました。
それからはひたすらに耐える毎日でした。
勉強についていけない人。
成績を維持しなくてはというプレッシャーを抱えた人。
様々なストレスを抱えた人たちはこぞって彼女をいじめました。
夢の為に、あきらめない。
その姿勢も鼻についたのかもしれません。
いじめは徐々にエスカレートします。
初めは少し意地悪される可愛いモノでした。
中学を卒業するころには精神的なモノへと変貌します。
それは肉体的なモノよりも苦痛でした。
高校に上がるとき、彼女は地元ではなく別の場所に入学します。
これで逃れられる。
そう思ったのもつかの間、成績の良かった者で陰険ないじめを行っていた人物が居たのです。
初めはその人物だけだったのでまだ我慢できました。
人数が居ないぶん中学時代よりも耐えることが容易だったのです。
ですが、それはやはり次第に拡大していきます。
彼女は再び集団でのターゲットになりました。
中学時代の比ではなくなってしまったのです。
担任は分かっていて見ぬ振りを貫き、精神的な苦痛に加えて肉体的な苦痛も与えられる毎日。
一度だけ反抗したときは生意気だとさらにエスカレートしました。
笑っていればそのうち反応が無い事に飽きてすぐやめる。
それを理解した彼女の笑顔はかつての輝きを失い、まるで仮面のようになります。
心配してくれていた両親も笑顔の仮面を張り付けて何もないという彼女に恐怖を感じ、干渉することをやめてしまいます。
負担を掛けたくない優しさが仇となり、彼女はどんどんと孤立していきました。
そして、全てを亡くした日……。
彼女は学校の屋上から身を投げ出します。
色々な偶然が重なり、運よく一命をとりとめたものの、彼女は意識を取り戻すことはありませんでした。
両親は後悔しました。
これほどまで彼女を追い詰めたのは自分たちだとお互いを責めます。
そして、ついには離婚してしまいました。
父親は病院には顔を出さず、ただ入院費は全て負担してくれました。
母親は病院から片時も離れず、病院に泊る日々。
彼女が身投げをしてから数日が過ぎ、数か月が過ぎ、半年が経とうというとき奇跡が起きました。
彼女が目を覚ましたのです。
泣きじゃくる母に彼女は一言ごめんなさいと告げました。
父親にも連絡を取り、お見舞いに来てくれた彼は以前の面影はなく、痩せこけて別人のようになっていましたが、涙を流して謝罪する父に彼女はやはりごめんなさいと告げます。
再び家族が戻ってきました。
以前のように家族全員とはいかないまでも、父は偶に顔を出し、数日泊まっては帰るというサイクルで会うことが出来ます。
少しだけ歪になってしまいましたが、それでも仲は小さかった頃のように暖かいもの。
さらに変化は続いて行きます。
日常生活を送れるようになった彼女は学校に復帰すると言い出しました。
全てを伝えた両親は引き留めます。
ですが彼女の決意は固かった。
自らが立ち向かう事でいじめに苦しむ人が少しでも希望を見出すのならと彼女は自身の手で終止符を打ちに行きました。
それからの展開はすさまじい早さで進んでいきます。
黙認していた担任は居なくなり、最も悪質だった主犯格から取り巻きまでが一網打尽となったのです。
それはニュースにも取り上げられ、彼女の望み通り似たような問題に苦しむ人たちの希望となったのです。
もう彼女の心は決して折れませんでした。
何故なら彼女の心には優しくも雄々しい大樹があったからです。
数年後、彼女はかつての夢を叶えます。
多くの孤児たちを育てる施設を作り、そこに住み始めました。
初めは何もかもが大変で、必死で覚えた言葉もいざとなると上手く伝えられずにいたこともしばしば。
それでもめげる事無く、彼女はいつしか聖母と呼ばれるようになります。
そんな生きざまに惚れた人物が彼女の夫となることもありましたが、子宝には恵まれることはありませんでした。
何故なら度重なるいじめによって彼女の身体が子を宿す事が出来なかったからです。
それでも彼女の夫となった男性は命を落とすまで彼女を支え続けました。
波乱に満ちた人生を歩んだ彼女。
そんな彼女も寿命には勝てません。
現在周りには彼女を慕う多くの子供たちと、彼女によって救われ、卒業していった子たちが一堂に会します。
涙を流しながらも笑顔に満ちた子供たちに見送られ、彼女は満足そうな顔でその生涯に幕を閉じました。
それから幾星霜、ある閑静な場所に小さな教会が建っています。
その中には笑顔が良く似合う女性の像が祀られていました。
――慈愛の女神像
親を失くした子を憂い、哀しみが広がらないように無償の愛を授けてくれる女神。
子供たちの守り手として無病息災の加護を与えてくれるとされるその女性の像は辺鄙な土地にあるにも関わらず様々な信者が訪れ、祈りを捧げます。
その優しい微笑みはかつて子供たちの側に寄り添って支え続けた聖母の面影がありました。
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ココはとある場所にある箱庭。
今はもう誰も訪れる事のないこの場所に生える一本の巨大な樹木「世界樹」。
その根本にある切り株に腰かけで本を読み続ける一人の紳士がいた。
その顔は朧気で、目の位置だけ穴を開けたようなシンプルなもの。
燕尾服に身を包み、一つ一つの文字をかみしめるようにページをめくる姿は優雅の一言。
誰にも邪魔されることのないその場所で、彼は今日も本を読み続ける。
あくる日、いつものように軽く帽子を持ち上げて両目を「へ」の字にしニコニコと世界樹に挨拶をしてから切り株に腰かけ、本を開く。
ペラペラとページをまくる音が響く箱庭。
不意に影が差した。
一体なんだろうと紳士は顔を上げて振り返り、影の主を確認する。
そこには慈愛に満ちた笑顔の16歳の少女の姿があった。
「こんにちは、紳士さん」