慈愛の大樹2
荒野に種を植えてから数日が経った。
今日もまた朝から紳士は如雨露を手に持って幼女と荒野へ向かう。
数日の間に新芽だった木はすくすくと育ち、今では幼女の背丈ほどへと成長していた。
幼女は嬉しそうにクルクルと木の周りを回っては飛び跳ね、全身で喜びを表している。
紳士は幼女の為に本の一部を一冊の絵本へと変える。
食い入るように見ている光景は微笑ましい。
その後の日々は宝石のように美しく、光に満ちていた。
朝、荒野の木へ水をやり、昼には世界樹に昇ったりして運動し、寝る前は絵本を読む。
そこには確かに幸せがあった。
けれど、木が成長していくたびに幼女は一抹の不安を抱く。
いつかこの紳士とお別れするのだろう。
漠然とだが、それでいて確信をもって感じる感覚。
それはきっとこの荒野の箱庭が緑で溢れた時に来るだろうと。
果たしてその日は訪れる。
視界に広がる一面の緑。
中心には世界樹ほどではないが立派な大木。
屈みこんで泣き出してしまったのは悲しいのか、それとも嬉しいのか。
いつものように優しく頭をなでる紳士。
涙をぬぐって幼女は立ち上がる。
一歩扉の中へと足を踏み入れる。
いつものようについて来てくれた紳士は今、隣にいない。
振り返って扉の向こうに佇む紳士と目を合わせて一度だけ頷くと、紳士もまた一度だけ頷いた。
もう迷いはない。
荒野だった箱庭の中心にそびえる大木に手を触れる。
その姿は既に幼女ではなく、16歳の少女だった。
最後にもう一度振り返ると出会った時のようにニコニコと目を「へ」の字にした紳士。
ポロポロと涙がこぼれるが、精一杯の笑顔で少女は手を振り、応える。
ゆっくりと扉が閉まり、そこにあった事すらもわからないほど跡形もなくその形を消す。
少女は天を仰ぎ、抜けるような青空を眺めてそっと目を閉じた。
次に目を開けた時、そこは見慣れぬ天井だった。
全身に痛みが走る。
辛うじて動かせた頭をそっと横に向けるとそこには憔悴し、眠っている女性の姿がある。
動かせる範囲で周囲を調べるとどうやらソコは病院のようだ。
少女は全て思い出した。
規則正しく命の音を告げる心電図は力強く、少女の身体が生命で溢れている事を示している。
不意に女性が目を覚まし、少女の姿を確認する。
少女と目が合った。
女性はまるで信じられないモノを見るような目で少女を見た後、いっぱいの涙を目元に溜めてフラフラと近づいてくる。
負担を掛けないようにそっと手を握ると女性は少女に声をかけた。
意識が戻ったのかと。
少女はゆっくり首是する。
声を出そうとしたが掠れるようで上手く発声することが出来なかったからだ。
それを見た女性は堰を切ったように泣き出す。
少女は申し訳ない気持ちがいっぱいで、なんとかして気持ちを伝えようと声を振り絞った。
ごめんなさい。
たった一言、それだけを伝えるのにもかなりの労力だった。
けれど、すこし痛いくらい手を握って泣く女性……母の心に届けるには充分だった。
それから数年後、かつて少女だった女性は必死に勉強してお金を稼ぎ、現在内乱の相次ぐとある国に住んでいた。
生来、朗らかで慈愛に満ちていた彼女は幼少の頃より親を亡くして困窮する自分と同じくらいの年齢の子供たちを見て心を痛めていた。
いつか大人になったら、そんな子たちを保護したい。
そう強く願っていた。
ある理由によって一度は折れてしまったその願いも、今は叶えることが出来た。
彼女の胸の内にしっかりと根を張って枝葉を伸ばす二度目の大木は歪むことなく真っすぐに伸びていたからだ。
すこし不安になることもあるけれど、彼女はそんな時目を閉じて思い出す。
小さい自分を優しく包み込むようなある人物の存在を。
どこの誰だかまったく覚えていない。
でも何故か「居た」と確信できる。
古いアルバムを探しても存在すらしない。
母に聞いても存在すらしない。
けれど、彼女の心の中にしっかりと存在する謎の人。
今もしっかりと残り続ける優しく頭を撫でられた記憶が彼女に前へ進む勇気をくれる。
大丈夫だよ。
そう言ってくれている気がするのだ。
その後内乱は収まり、彼女は床に臥せている。
周りにはたくさんの子供たち。
成長して彼女の孤児院を卒業した子の中には彼女の後を継ぐ者もいる。
何も心配はない。
自分はやり切った。
幼い子たちもいるが、それは次の世代に任せよう。
彼女に育てられた子たちは皆一様に涙を流しながら笑っている。
それは彼女が悲しいお見送りはやめてねと言ったから。
もっと一緒に居たい。
その気持ちは痛いほどわかる。
これから先様々な出会いと別れを経験する事だろう。
だからこそ、強く生きて欲しい。
だからこそ、笑顔で送り出して欲しい。
沢山の泣いた笑顔に見守られながら、彼女はその生涯に幕を閉じた。
その顔は満足そうな微笑みを携えていたという。