葵ちゃん。
リンの首輪の鈴がチリチリと可愛い音を立てる。
リンが退院してそのままうちの子になってから数週間が過ぎた。引っ越すまではうちに来ないと思っていたのだけれど、葵ちゃんとお母さんが話し合った結果、病院から家に戻っても、すぐ引っ越してしまうのであれば、うちに引き取ってもらったほうがいいという結論になったらしい。
猫は環境の変化を嫌うからね……昔の人はよく犬は人につくけど猫は家につくと言ったものだ。それはある意味、正しいのかもしれない。
家に慣れるまで、わたしの部屋で生活してもらっているのだが、やはり警戒心が強いのか、最初のうちは爪とぎを兼ねた段ボールで出来た箱から出てこなかった。毎日ごはんをあげたりトイレを始末するのを、猫なりに理解してくれたのだろう、今は部屋の中では自由に遊んでいる……誰かの足音が聞こえると、さっと隠れてしまうので、慣れるにはまだ時間がかかりそうだけど。
雄斗にも、猫を飼うことになった事情を話しておいたので、リンちゃんを連れた葵ちゃんがうちに来た日、雄斗も一緒だったのだが……。
雄斗はほんのりと頬を染めて、葵ちゃんを見ていたことにちょっとびっくりしてしまった。こっそり一目ぼれなの?と聞いてやったら、違うよ!といきなり大声を出すから、応接間で葵ちゃんにいらぬ注目を浴びてしまって、なおさら赤くなってしまっていた。
確かに葵ちゃんは可愛い。色白で黒目がちの瞳に笑うとえくぼが出来る。背もわたしより小さいし、小柄なほうだろうと思う。
「真莉亜ちゃん、引っ越すまでの間、リンに会いに来てもいいかな?」
「もちろんよ、出来るだけ、会いに来てあげてね」
「ありがとう、本当に真莉亜ちゃんには感謝してるの、ね?お母さん」
「ええ、本当にありがとう、小百合さんにも久しぶりにお会いしたのに、猫を貰って欲しいだなんて厚かましいお願いをしてしまって、申し訳なかったわ」
「いいえ、猫ちゃんのお蔭でこうして久しぶりに真由美さんに会えたのですもの、猫ちゃんが繋いでくれたご縁ね」
お母さまと葵ちゃんのお母さんは、鳳仙の初等部で仲良しだったそうだ。葵ちゃんのお母さんは、女子中のほうに行ってしまったので、それ以来会っていなかったらしい。
お二人は積もる話があったのか、子供同士で遊んでらっしゃいと言われてしまったので、わたしと雄斗、葵ちゃんはわたしの部屋でリンちゃんと一緒に遊んだり、お喋りを楽しんだんだけど……その時も雄斗は葵ちゃんを上目遣いにチラチラと見ていたから、本当に一目惚れしちゃったのかぁ、雄斗は案外惚れっぽいなぁなんて、その時は呑気に思っていた。
それからしばらくして、葵ちゃんは引っ越して行った。
リンと本当のお別れの日、葵ちゃんはリンをぎゅっと抱きしめて、涙を零していたけれど、また会いに来るね、と言って去って行った。
連絡先を書いていってくれたので、たまにリンの写真を入れた手紙を書くねとわたしは約束した。
うちの子になったリンは、今さっきまで楽しそうに猫パンチしていたくせに、猫じゃらしで遊ぶのに飽きたのか、寝床用に置いてある鍋型のクッションに行ってしまった。
明日も学校があるし、早く寝なくちゃなぁと電気を消してベッドに入る。
すると、ポスっと音がして、リンがベッドに飛び上がってきた。なんだ?と思っていると、掛け布団を掻いて寝床を作っているらしい。やがてお気に入りの形になったのか、そこで丸まってしまった。
まだ少し脚を引きずるけど、だいぶ良くなってきたみたいで、この調子でいけば大丈夫だろう、わたしはリンと一緒に眠りについた。
ーーーその夜、夢を見た。
リンを抱いて泣いている葵ちゃんを雄斗が慰めている。あれ……それは雄斗じゃなくて……。
ピピピ………。
目覚ましを止めると、わたしは今さっきまで見ていた夢を反芻して、青ざめた。
あれは、『花宵』雄斗のルート、回想スチルだ……。
ということは。
ここがベッドでよかったと心から思う、学苑だったらぶっ倒れていたかもしれない。
ヒロインは、葵ちゃんだったのか……。
ああ、だから雄斗は葵ちゃんに惹かれたのか……可愛いだけじゃなく、これはこの世界の道理。やはりゲームシナリオからは逃げられないということ……?
でも、どうしよう、雄斗と葵ちゃんの本来の思い出である、出会いのきっかけをわたしが潰してしまった!
これって影響あるよね、絶対、あるよね?!
わたしは一人焦っていたけれど、もう取り返しがつかない。雄斗の代わりにわたしが出会ってしまっている。なんで、どうしてこうなった?!
ちょ、落ち着けわたし。ちょっと、冷静になろう、どう、どう……。
ふとリンを見ると、ちゃっかり自分の寝床で丸まっていた。わたし、そんなに寝相悪かった?なんて声をかけて……。
そうだ、リンはゲームだったら死んじゃってたんだ……。雄斗と一緒にお墓を作ってあげてた葵ちゃんを思い出した。でも、葵ちゃんのお母さん、生きてるよね、両親、事故で死んじゃったんじゃなかったっけ??
あれ、やっぱりなんか変だ。おかしい、どうしてだろう?
わたしがベッドに座ったまま、悶々と考えていると、ばあやが朝食の準備が整いましたとドア越しに教えてくれた。
「わかったわ」声をかけて急いで階段を下りて行く。
ああ、まずい、リンのごはんもしなくちゃいけないのに!
わたしは大慌てで制服に着替えて、さっさと朝食を終えると、リンのお世話をしてから部屋を出た。
車に乗ってもずっと考えていて、雄斗に話しかけられても上の空だったせいで、雄斗がむくれてしまったけれど、仕方ない、姉さんはちょっと脳内会議中で忙しいんだ、今日のところは許してほしい。
さすがに授業中に脳内会議をしている場合ではなかったので、先生の話をしっかり聞いて板書もした。六年生の成績で中等部のクラス分けが決まるかも、なんて噂が流れている以上、成績を落とすわけにはいかないからだ。
前世でもっとちゃんと勉強しておけばよかったとつくづく思うが、仕方ない。いずれチートは使えなくなるものだ、悪魔猫みたいなもんだね。
そして昼休み、一人で考えたかったので、雅ちゃん、文乃ちゃんと美園ちゃんには、理事長に出す資料作りがあるから食堂で一緒にお昼を食べられないと伝えた。
食堂でサンドイッチを作ってもらい、庭園のベンチに座って、それらしくレポート用紙を出して偽装してから、物思いに耽っていた。
まず、葵ちゃんのお母さんは生きている。それに、リンも。リンはともかく、葵ちゃんのお父さんはどうしたんだろう、離婚したということは、事故で両親が亡くなるというのが成立しないではないか。
それに、雄斗が学苑の帰り道、一人で歩いて帰宅することはありえない。あの日はどうだったっけ…。
あの日は、わたしのほうが早く帰る日だったから、誠一郎が迎えに来ていた。雄斗は健司の車で帰る予定で……。
……健司は、わたしが華恵さまの代わりに誘拐されたことでうちにやってきた。本来、華恵さまは亡くなっているわけで、そうなると健司もいなかったわけで……。
あーあーあー……ダメだ、こんがらがる。
手元のレポート用紙に整理したほうがいい、サンドイッチを一つ摘まんでから、わたしは書き込み始めた。
下手にそのまま書いて、誰かに見られたら物凄く困るので、わたしだけがわかるニックネームで書き込む。
華恵さまを起点としても、辻褄が合わないことがいくつかあるけど、わからないこともあるので、割愛して書いていく。
雄斗と葵ちゃんは学苑では二つ違いだ。二人の接点はあまりないように見えるけど、子供の頃の思い出を共有しているから、学苑での出会いの時点で他の攻略対象よりは近しい関係だったことが、ルートに入ると明かされる。それまでは、この二人って前から知り合いなのかな?ぐらいのイメージしかなかったはず。
そして、その大事な思い出を潰したのが、このわたしである。まさか葵ちゃんがヒロインだと思わないじゃないか。それにリンの命を救えたんだから、雄斗には悪いが、そこは我慢してもらいたい。わたしを介してだけど、葵ちゃんと思い出も出来たことだろう、思い出の重要度はかなり下がったと思うけど……。
それともう一つ。
わたしの立ち位置が全然違う。わたしはヒロインの天敵のはずだけれど、傍観者を決め込んでいるので、攻略対象にも、ヒロインにも、当たらず障らずが一番だと思っている。
雄斗は仕方ないとしても、貴彬や綾小路とも、出来ればあまり接点は持ちたくない……にも拘わらず、多大に接点を持ってしまってはいるけど。
ああ、それなのに。
わたしはすでに、葵ちゃんと友達である、しかも葵ちゃんの大切にしていた飼い猫のリンをもらい受けているのだ。この影響が今後に出ないはずはない。
わたしはどうしたらいいんだ、全くわからん!
思わず天を仰ぐと、なぜか、思い切り目が合った。
「ひっ!」驚いて思わず立ち上がってしまった、ゴツっと鈍い音がして頭に何かが当たった。
あ、ヤバい、頭突きしてもうた……。
「ごめんなさい!大丈夫ですか?!」
しゃがみ込んでいる人物に声を掛けると、うずくまっていた子はのそりと立ち上がる。
「酷いなぁ……顎が痛いよ」
「あ、綾小路さま、ごめんなさい!わたくし、驚いてしまって」
「大丈夫だよ、大道寺さんが石頭だっていうのはわかった」
「………お話し出来るのなら、大丈夫そうですわね」
そもそも、背後から近付くほうが悪いだろ、わたしが嫌味を込めてそう言うと、綾小路は軽く肩を竦めた。
「食堂で聞いたら、お祖父さまに出す資料を作っているって聞いたから、お礼がてら来てみたんだけど。何を書いてるの?それ、お祖父さまに出すつもりじゃないよね?」
「こっ……これはっ……」
わたしの手からレポート用紙がすり抜ける。
「えー……なになに?……怒り狼にエロ狐……美にゃんこに、純情わんこ、これ、一体なに?」
「こ、声に出さないでくださいよ!何考えてんですか!」
「大道寺さんがエロ狐って……なんか、意外。というか、これ、資料じゃないじゃん」
誰かぁ、セクハラ野郎がここにいますよぉ~あ、これってパワハラか?それにしても「じゃん」って何よ、綾小路パイセンらしくないじゃないっすか。
「い、い、今、作ろうと思ってたところです!それは、わたくしのメモ書きのようなものというか、なんというか……」
「ふぅ~ん……メモ書きねぇ?ところで、さ。このエロ狐って誰のこと?」
「え?……だ、誰でもいいじゃありませんか!とにかく、返してくださいよ!」
「へえ?やっぱり誰かのことなんだ?」
こ、こいつ……やっぱり侮れない奴だ!語るに落ちてしまったではないか!
わたしが答えに窮していると、益々増長した綾小路は教えなきゃ返さないと言い出した。
しばらく、返せ、返さないのやり取りを繰り返した後、いい加減腹が立ったわたしは、綾小路に言い放った。
「もう返してくださらなくて結構です!」
わたしはぷんすか怒って、ベンチに置きっぱなしだったサンドイッチを怒りのまま頬張ると、飲み物で一気に流し込んだ。そしてそのまま立ち上がると、呆気に取られている綾小路を置いて、さっさと教室へ戻ろうと、庭園の中をドスドスと歩く。
すると、我に返ったらしい綾小路が慌てて追いかけてきた。
「大道寺さぁーん、待ってよ!」
誰が待つか、ドアホ!わたしは呼びかけを無視して、振り返らず歩いていると、追いついた綾小路がレポート用紙を差し出した。
「ごめんね、そんなに怒ると思わなかったよ」
わたしは差し出されたそれを引ったくるように受け取ると、綾小路をひたと見据えた。
「綾小路さまは案外、お歳よりも子供っぽいことをなさるんですね。わたくし、がっかり致しました」
全く、あんたは幼稚園生か!くだらん嫌がらせをしおってからに!
わたしは今、今後のことを色々考えねばならんのだ、君とじゃれ合ってる暇などないわ!
わたしは心の中で悪態を吐きまくっていたけれど、ふと綾小路の様子がおかしいことに気付いた。
綾小路の顔色が紙のように白くなっている。
あれ、不味いこと言ったかな……。いや、わたしは悪くない、断じて悪くないぞ。一生懸命、自分に言い聞かせていたけれど、く、苦しい……なんで自分に言い訳せにゃならんのだ、アホらしい、と憤りつつも。
さすがに気になったので、そっと呼びかけてみる。
「あの、綾小路さま?」
「……僕は」
「僕は……ちゃんと頑張ってるのに!どうして、曉ばっかり……」
……は?
話の脈絡が掴めんのだが……。
わたしがポカンとしていると、綾小路はハッと息を呑んで、ごめん、今のは忘れてと小声で言ってそそくさと去ってしまった。
なんだ、なんだ?わたし、なんかヤバいこと言ったっけ?
あ。
……綾小路のおかげで、大事な事を思い出した。
攻略対象のそれぞれにNGワードというか、それを言ったら即ゲームオーバーという、血も涙もない選択肢があって……よい子のみんなは真似しないでね、選択肢の前にセーブは必須だよ!的仕様だったのである……ある意味リアルでよかった、わたしの真莉亜としての人生もゲームオーバーになるとこだった。
ーー綾小路は可哀そうというか、ちょっと繊細過ぎる人だったんだよねぇ。
綾小路は母親の期待を一身に背負っていて、本人もその期待に応えられるように頑張っていた。そこへ、年の離れた弟が生まれる。
それからというもの、自分と弟を比べては、自己嫌悪に陥るようになる。確か、六つか七つか、それくらい年下だったかな、そんな子と比べたって意味ないだろうにと思うかもしれない。実際、わたしもそう思うけど、周りがとやかく言っても本人がそう思ってるんだから、仕方ないことだろう。
綾小路は感受性が鋭いので、人の感情の機微に敏感である。それゆえ、女子生徒にも人気があるのだ、察するのがうまいからね。
そして悪癖とも言えると思うが、相手を試そうとするのだ、先ほどのように。相手がどれくらい自分に近しいか、どこまでなら許してくれるか……それがたまに出る皮肉にも現れている。
その綾小路のNGワードが『がっかり』『失望』なのだ。
そんな繊細ゆえに複雑な性格の綾小路に、ヒロインである葵ちゃんは言うのだ。
『きっとなんとかなるわ』と。
そういえば、治療費のことでわたしが自己嫌悪に陥ってた時も、そう言って励ましてくれたっけ。
葵ちゃんの魔法の言葉は、攻略対象じゃなくても効き目があるんだねえ……なんの根拠がなかったとしても、希望が持てそうな気持ちにさせてくれる言葉だと思う。
ただ、場面によってはこの言葉が原因で最悪の展開になることもあるので、使いどころが要注意な言葉だったような記憶がある。状況によっては逆ギレされかねないだろう、実際、ゲームで逆ギレされて死にました、もちろんゲームオーバーですよ。
貴彬もめんどくさい男だけれど、華恵さまが生きていてくれているお蔭で、ただの妹大好き俺様野郎なだけだから、まだマシだ。
綾小路はもっとめんどくさい。
ま、まあ葵ちゃんが現れたし、なんとかなるさ、きっと。わたしには何も降りかからないだろうと楽観的に考え、教室へと向かって歩いて行った。




