雄斗と華恵。
道場で竹刀を無心に振っていた。
早朝の、清廉な空気が道場の中を満たしていて、自然と背筋が伸びていく。
雄斗が学苑を休みがちになってしばらくしてから、わたしは朝稽古をするようになった。
いきなり雄斗を誘うのはいかにもな気がしたので、わたしが稽古を始めることで、そのうち雄斗もやりたいと言い出すことを期待してのことだった。
真面目な性格の雄斗は、剣道にも真剣に取り組んでいることを知っていたから。
朝稽古を終えてシャワーを浴び、朝食を摂る。白いご飯とお味噌汁、香の物に焼き物。ザ・日本人の朝食である。お父さまは朝が早いので、わたしが朝食の席に着く頃には、いつも食べ終わっていらっしゃる。
「お父さま、おはようございます」
「おはよう 今朝も振ってきたのか?」
「はい、秋にはまた武道大会もありますし、稽古しておかないと」
「頑張ってるんだな」
お父さまは嬉しそうだ。
我が父上は今37歳、前世のわたしとほぼ変わらないくらいの年代だが、お腹も出ていないし、髪の毛も去り始めてはおらず、目鼻立ちの整った精悍な顔をしている。
お母さまとは学苑の先輩、後輩の間柄で、大学部で親しくなったそうだ。
「雄斗は稽古していないのか?」
新聞をガサガサとたたみながら、さりげなくお父さまが聞いてきた。
お母さまから聞いていらっしゃるのだろう、お父さまも雄斗のことを心配はしているが、今はまだ静観するつもりのようだ。
「そうですね、そのうち誘ってみようと思います」
お父さまはひとつ頷くと「雄斗は打たれ弱いな いずれ鍛え直す」と言って席を立って食堂を出て行った。
お父さまの宣言を聞いたわたしは、これは早くなんとかしないと雄斗が大変だと青くなった。
そんなわたしの心中も知らずに、雄斗が食堂に入ってきた。
「姉さま、おはようございます」
「おはよう雄斗」
ばあやが雄斗の分を運んでくると、朝食を食べ始める雄斗。
少し痩せたような気がするし、以前はあった明るさが感じられない。
じっと観察していたら、怪訝な顔をされてしまったが、それだけだ。以前の雄斗なら、何がしかのリアクションがあったのに。
思ったよりも重症なんだなー……それでも前よりは幾分かマシだ、なぜなら、学苑を休むことがだいぶ減ってきたからだ。
もう少ししたら、華恵さまがいらっしゃるだろう。
雄斗は毎朝、華恵さまと一緒に登校しているのだ、華恵さまは宣言通り、雄斗を通学させるためにお迎えに来てくださっている。
最初のうちは嫌がっていた雄斗だが、華恵さまが辛抱強く毎日いらっしゃるものだから、根負けしたのだろう、今では大人しく一緒に通っている。たまにお腹が痛いだの、頭が痛いだの言って休むこともあるけれど。
「ご馳走様 雄斗、姉さまは先に行くね」
「うん」
「ああ、そうだ 武道大会があるから、朝、稽古をしてるんだけど、よかったら雄斗も稽古しない?」
「うーん……僕はいいや」
「そう……じゃあ気が向いたらいらっしゃい」
「うん」
早く雄斗が元気になってくれないと、姉さまの色んな楽しみが……ああ、違う、そうじゃなくて。
お父さまが本気を出す前に、なんとか立ち直ってくれないかなぁと思いながら、出かける支度をしていた。
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「雄斗、おはよう」
「おはよう」
「相変わらずね、まぁいいわ 行きましょ」
華恵は毎朝、僕を迎えに来る。
僕は姉さまと一緒に通学してたけど、ある事が原因で、学苑を休みがちだった。
そんな僕を、幼馴染だからという、よくわからない理由で、毎朝迎えに来る。
最初、僕は面倒くさくて、行かないと言ってたけど、華恵があまりにもしつこいから、こうして学苑に行くだけは行ってる。
どうせ、保健室に行くことになるのに。
僕は入学早々、隣の席にいた瀬川 杏奈ちゃんという子と仲良くなった。杏奈ちゃんはとてもおしとやかで、か細い声で僕だけに聞こえるように話す、おとなしそうな女の子だった。
女の子といえば、いつも元気な姉さま、身体は弱いくせに気の強い華恵しか知らなかった僕にとって、とても新鮮だった。
わからないことがあると、可愛く首を傾げて僕に質問してくる瀬川さんが、僕は気になって仕方なくなった。僕が教えてあげると、すごく嬉しそうに笑うんだ。その顔がを見たくて、僕は瀬川さんに聞かれてもなんでも答えられるように、一生懸命勉強した。
そのうち、勉強のことだけじゃなくて、姉さまや、姉さまと同級生の貴彬さまや綾小路さまのことも聞かれるようになった。
僕は知っていることは全部教えてあげたと思う。教えてあげると、またあの笑顔を見せてくれる。
困ったことがあった時も、僕が何度か助けてあげると、ちょっと眉を下げてごめんなさい、でもありがとうと言ってくれるんだ。
なんて素敵な子なんだろう。
気が付けば、瀬川さんの『雄斗くん、お願い』が呪文のように、その言葉を聞くだけでなんでもしてあげたくなってしまっていた。宿題の手伝いもそうだし、掃除当番の代わりもそうだし、数え上げたらキリがない。
ある日、同じクラスの光正から呼び出された。光正は幼稚園から一緒の友達だったけど、瀬川さんを巡って喧嘩になってしまった。
光正は、瀬川さんには気を付けたほうがいい、他にも『お願い』でなんでもしてやってる奴がいる、あの女はとんでもない……。
瀬川さんの悪口なんか聞きたくない、僕は光正に絶交を言い渡した。
でも、僕は馬鹿だった。
クラスの他の奴らに、嗤われていることも知らず、瀬川さんは僕のことなんて、なんとも思っていなかった。
ある日、自分の気持ちを一人で抱えきれなくなった僕は、瀬川さんに告白してしまった。別に付き合うとか、そういうのじゃない、そういうのはもっと年上の人がやることだと思っていたから、僕の気持ちを知ってほしいと、そう思っただけなのに。
いつものように、笑顔でありがとうと言ってくれると思ったのに。
瀬川さんは可愛く首を傾げて『勘違いさせちゃったんだ、ごめんね』と言ったのだ。
僕は一瞬何を言われたのか、わからなかった。
勘違いってなんだ?僕は勘違いしてたの?何を?
『わたしが雄斗くんを好きだと、勘違いしたんでしょう?でも違うから』
そう言って笑った瀬川さんの顔を、僕は忘れない。勝ち誇ったような、見下したような、あの顔。
『僕が好きな瀬川さん』はどこにもいなかった。
僕は馬鹿だった。クラスの奴らに嗤われるのなんか、どうでもいい。でも、光正に絶交を言い渡したのは、確かに僕だ。光正はいい友達だった、僕の間違いを正してくれる、大事な友達だった。
僕は光正の忠告を無視した上に絶交までしたんだ、許してくれる訳がない。
だから、僕は、教室に行くのが怖いんだ。
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相変わらず、覇気のない雄斗と一緒に登校する。
車の中では会話らしい会話もない。
真莉亜さまにあれだけ言い切ったのに、雄斗をどうやったら立ち直らせることが出来るのかしら……。
雄斗は登校すると、一時間目の途中で保健室に行ってしまうそうで、その後は放課後、迎えの車が来るまでずっとそこにいると聞いたのは、つい最近だった。
「どういうことなの?光正」
「どうも、こうも……あいつ、逃げてるだけだと思う」
「ああ、もうっ!!雄斗は本当に馬鹿ね!」
「華恵、声が大きいよ……」
わたくしの情報源は雄斗と同じクラスの光正。光正も雄斗も同じ幼稚園の、幼馴染。
その光正と、わたくしは今、裏庭で情報交換をしているところ。
「光正、どうしたらいいのかしら?」
「華恵が真莉亜さまと難しい約束するから、いけないんじゃないの?」
言ってることが正論すぎて、反論出来ないじゃありませんの!
「とにかく、僕は絶交って言われてるから、何も出来ないよ」
そう言うと、光正は背を向けてさっさと行ってしまった。
「ちょっと、光正!」
わたくしを無視して行ったわね、後で覚えてらっしゃい、光正。
わたくしは光正の背中を睨みつけてやる。
真莉亜さまにはああ言ったものの、雄斗は思った以上に傷付いているみたいで、このままではまた学苑を休んで、最悪は辞めてしまうかもしれない。
どうしよう、どうしたらいいのかしら……。
どうにも困ってしまったわたくしは、お兄さまに相談することにした。
家で夕食を終え、お兄さまのお勉強がひと段落つく頃を見計らって、お兄さまのお部屋のドアをノックする。
コンコン…
「お兄さま、今よろしいでしょうか?」
「華恵、どうした?」
お兄さま自ら、扉を開けてくださった。
「お兄さま、わたくし、ご相談があるのですが、少しよろしいですか?」
「いいよ、ちょうど休憩しようと思っていたところだから」
学苑では、無表情で怖いと言われているらしいけれど、家でのお兄さまはいつも優しい。
「相談というのは?」
お兄さまが、メイドの一人を呼んでお茶を用意してくださった。
「どこからお話したらいいのかしら…」
自分でも、こんがらがってしまって、うまく話せる自信がないわ。
「華恵、ゆっくりでいいから、ね?」
「ありがとう、お兄さま」
わたくしは、出来るだけ、要点をまとめてお兄さまにお話したわ。わかりづらいところはお兄さまが聞いてくださったお陰で、うまく話せた気がするもの。
「そうか…」
「お兄さま、わたくし、どうすれば雄斗を元の元気な雄斗に出来るのかしら?」
「そうだな、恐らく、それは誰にも出来ないと思う」
「そんな…それでは、雄斗は…」
わたくしがこれまでしてきた事はなんだったのかしら……。
「最後まで聞いてくれないか?華恵」
「あ、ごめんなさい」
お兄さまが仰るには、光正が鍵らしいわ。光正との絶交宣言が事態を悪くしてるって。
では、光正と元通りになればいいのねと言ったら、そう簡単なことではないよと言われてしまったわ。
本当にどうしたらいいの?
「華恵の気持ちはよくわかった 明日にでも俺から大道寺と話をしよう」
「真莉亜さまと?」
「いや あいつには避けられているからな」
お兄さまが苦い笑みを浮かべてらっしゃる。
「真莉亜さまと、何かありまして?」
「華恵は知らなくていい 時期がくればわかるよ」
なんだか謎めいた言葉ね、わたくしにはよくわからないわ。
お兄さまがお話してくださるのはありがたいけれど、わたくしも同席させていただこう。
だって、わたくしにはその権利があると思うの、雄斗の為に頑張ってきたのですもの、ね、お兄さま?
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翌朝。
華恵がいつも通り、迎えに来た。
華恵と一緒に車に乗ろうとして、僕はギョッとしてしまう。華恵のお兄さまである、貴彬さまが乗っていらしたからだ。
「お、おはようございます」
「ああ、雄斗だったか、放課後、話があるから屋上に来るように」
「え?」
「以上だ 車を出してくれ」
「畏まりました」
有無を言わさない迫力で、強制的に屋上へ呼び出されてしまった。
学苑に行ったら、迎えの車が来るまで帰れない。僕は仕方なく、放課後、屋上へ向かった。
屋上の扉を押すと、貴彬さまと華恵が立っていた。
「もう少し待ってくれ」
まだ誰か来るのかと、少し身構えていたら、姉さまに連れられて、光正がやってきた。
僕が反射的に逃げようとすると、貴彬さまが僕の腕を掴んでいた。
「逃げるのか?お前は一生、そうやって逃げ続けるのか?」
貴彬さまに腕を掴まれたまま凄まれて、僕は動けなくなってしまう。
「俺たちは出て行くから、二人でよく話し合え いいな」
貴彬さまと華恵、姉さまは僕と光正を残して、屋上の扉へ向かった。姉さまが心配そうな顔をして振り返っていたけれど、華恵に促されて出て行ってしまった。
僕は光正と、絶交以来、初めて目を合わせた。
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「本城さまにまで、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
わたしは深々と頭を下げた。
「いや、華恵から相談を受けただけだ それに俺は何もしていない」
そう言うと、華恵さまを優しい瞳で見下ろしていた。
華恵さまは、心配そうに扉に耳をくっつけている……絶対聞こえないと思うけど。
ここだけの話、先ほどの貴彬はちょっとゲームの貴彬を思い出してクラっとしてしまった。ちょっとだけね、ちょっとだけ。
「何もしていないということはないでしょう こうして屋上を使えるようにしてくださったわけですし」
わたしが思わず反論すると「譲とたまたま友人というだけだ 気にするな」と言われてしまった。
綾小路が理事長に掛け合って、屋上の扉の鍵を貸してもらったらしい。理事長には、ひび割れた友情を修復するために屋上を貸してほしいと言ったそうだ……なんだか大事になってしまったな、間違いではないけど。
「それより、こうして話すのもずいぶんと久しぶりな気がするな」
「そうですね」
「俺は避けられているようだからな」
「そんなことは……」「ないとは言わせない」
否定の言葉を言わせてくれず、目に鋭い光を宿している。こういう貴彬には要注意だ。なぜなら、めっちゃ弱いからだ、わたしが。思わずクラクラぁ~とよろめいてしまいそうになるから、危険極まりない。
「お兄さま?」
可愛い救世主現るだ、ふぅー……助かった……。
「どうした?」
「二人だけにしてどうなさるおつもりですの?」
華恵さまには、今のやり取りは全く耳に入っていなかったらしい、華恵さまは案外、天然なのかもしれない。
「話し合えと言ったじゃないか 人間には言葉があるんだ、黙っていてはわかり合えるものも、わかり合えないだろう?」
「なんだか、わたくしには難しいお話みたい…」
「華恵にもそのうちわかるよ」
兄妹の微笑ましいやり取りを見ながら、雄斗がなんとか立ち直ってほしいと祈るような気持ちで、二人が出て来るのを待っていた。
長くなってしまったので、次回に続きますm(._.)m




