真莉亜7歳の秋。
楽しい夏休みはあっという間に終わってしまった。
宿題であくせくしていたわたしと遊べなかった雄斗がぶんむくれで、宥めるのに三日かかった。
「ゆうくぅーん どこかなぁ~?」
姉の威厳も何もあったもんじゃない、猫撫で声でご機嫌伺いをし、かくれんぼをしながら、隠れ場所は分かっているのに分からないふりをし…。
来年こそ、宿題を溜めるのはやめよう、火事場の馬鹿力を試すのは精神衛生上よろしくないし、雄斗に嫌われたくない…豆腐のような意思の女なので、全く自信はないが。
さて、新学期を迎えてしばらくすると、我が校伝統の武道大会というのがあった。武道大会は理事長主催で行われ、柔剣道と長刀が種目のスポーツ大会のようなもので、個人と団体で優勝が争われる。
参加出来るのは三年生からなので、今回は見学希望者として参加していたのだが、校風のせいなのか、みな強い、強い。見学しながら、手に汗握る場面というのが何度かあった。
我が家では、雄斗はともかく、わたしがお父さまに剣道のご指導をいただくことを、お母さまは相当強く反対されていらしたのだが、あの一件があってからというもの、やれやれ、もっとやれ!である。人間というのは、真に勝手な生き物である。
今まではお父さまの都合もあって、土、日で何も予定がない日のみ稽古だったけれど、もう少し稽古を増やさないとダメだと思った。6年生の試合はかなり迫力があって、女子の中にも強い方がいらっしゃった。
女子生徒の大半は長刀での参加なので、正直なところ、あまり期待していなかったのだけれど、今のこのペースの稽古では、参加しても一回戦も勝てないんじゃないかと思うほど、強い方ばかりだった。
武道大会の一月後には運動会、文化発表会と、秋は行事が目白押しで、勉強もそこそこに忙しい毎日だった。
毎日と言えば、ストーカーと化した貴彬に頭を悩ませていたわたしは、思い切って綾小路に相談することにした。綾小路は隣のクラスで武清とクラスメイトなので、武清に頼んで放課後に図書館で待ち合わせた。初等部にある図書室でもいいのだけれど、単純にわたしが図書館に寄りたかったというのもある。
鳳仙は大学部と同じ敷地にあるので、時計台を持つレンガ造りの図書館は大学部の学生が多いのだが、わたしはここが好きで、放課後に運転手を待たせて寄ることもあった。
中に入ると、古い本の匂いが鼻をくすぐる。中央は吹き抜けになっており、左右に背の高い書架が並んでいる。階段を上って二階に上がると、専門性の高い本が壁沿いの書架にたくさん収められている。木造の手すりは丸みを帯びた飴色で、その手すりから吹き抜けになっている一階を眺めると、床に描かれた美しい幾何学模様を見渡すことが出来る。
初等部の生徒がここに出入りすることはあまりないので、受付に座っている司書さんに、最初の頃はまじまじと見られたものだが、本を借り出しているうちに、あまり気にされなくなった。
鳳仙がいくら私立といえども、一年生の教科書はほとんどがひらがなで、さすがに漢字が恋しくなったせいもあって、たまに小説を借りて読んでいた。
わたしは、中央吹き抜けにある席で、本を読みながら綾小路が来るのを待っていた。
わたしの隣の席の椅子が引かれて、綾小路がゆっくりと座った。
図書館なので私語厳禁なのだが、こっそりと話す分にはそう咎められない。あまり聞かれたくない話だし、何より綾小路と二人で会っていることを知られたくないというのもある。ゆずさまの会のメンバーに見られでもしたら、きっと吊るし上げられるに決まっているからだ。
わたしはペコリと頭を下げて、椅子を引いて立ち上がると、こちらに来てほしいと合図した。
一番奥の書架の先にも閲覧出来る席があって、そこは司書さんからも遠いし、書架の陰に隠れてこっそり話すにはうってつけの場所なのだ。
声のトーンを落として綾小路にまずはお詫びする。
「お呼び立てして、申し訳ありません」
「高柳から大道寺さんが話があるって聞いて驚いたよ 君たちってどんな関係?」
「高柳はうちの親戚なんですよ 綾小路さまと同じクラスなので伝言をお願いしただけです」
「そうだったんだ 知らなかったよ ところで、わざわざこんなところまで呼び出して、話って何かな?」
顔だけ見ればニコニコしてるけど、しっかり嫌味を込めているところが、綾小路らしいね。
攻略対象としての綾小路は、女慣れしていて皮肉屋だった。ヒロインが抱く第一印象は、紳士で優しそう。
いつも女生徒に囲まれているけれど、あまり楽しそうではない綾小路。
そんな綾小路とヒロインは図書館でのイベントを通して、少しずつ心を近づけていく…って、あり?この図書館によく似てる…高等部にもあるんかな?
「おーい」目の前で手をヒラヒラと振られてしまった。やべぇ、うっかり回想モードだった、テヘペロ。
回想してたのはともかく、どう切り出そうかと迷っていると、笑みを深めて一言。
「貴彬に困っているんでしょ?どうしたらストーカーみたいな行為をやめさせられるか 違うかな?」
「気付いてたなら、そう仰っていただけませんか……綾小路さまも人が悪いですね……」
わたしは恨めし気に綾小路を見た。そんなわたしの視線を物ともせず、綾小路は笑顔のままだ。
「貴彬は頑固だからね 自分がこうと思ったら、周りの意見なんて聞かないし、僕でもどうしようも出来ないなぁ」
わたしはがっくりと肩を落とす。
「そのうち飽きるだろうから、大丈夫だよ と言っても頑固だけどね」
キラキラした笑顔で自信満々に言わないでくれるかな?!こっちは登校拒否になりかけたんだぞ!
わたしが心底落ち込んだ顔をしていたせいか、綾小路は気の毒そうに付け足す。
「華恵ちゃんを庇ったっていうのとも違うけど、華恵ちゃんの代わりに君が酷い目に合ったのを貴彬なりに悪いと思ってるんだよ、たぶん」
「本城さまのせいじゃないですと、わたくしは何度もお話ししてるんですが……」
「ん~……僕は貴彬じゃないから、あいつの気持ちはよくわからないけど、あいつなりに、君に感謝してるっていうのを態度で示してるんじゃないのかなぁ」
「なるほど、感謝ですか……」相手が迷惑がっている時点で、すでに『感謝の行い』としては破綻してると思うがどうだろう?わたしは間違っていないと思うんだ。
「そう、だから、あいつが飽きるまで付き合ってやってよ と言っても、あいつもそろそろ忙しくなるから、近いうちにストーカー出来なくなると思う だから安心していいよ」
「そうなんですね わかりました、もう少し我慢します……」
「話はそれだけ?」
「あ、今日はお時間を頂いてしまって、すみませんでした」
「僕も大道寺さんと話してみたかったから たまにはこうして二人っきりで話すのもいいね また今度ね」
……は?
わたしが無言で固まっていると、綾小路はすっと立ち上がり、ニコっと笑って、そのまま去って行った。
……なんじゃ、ありゃ?
ゾワーっと背筋が寒くなってさぶイボ出来た。女子生徒に、あんな感じで接してるのかと思うと、将来の綾小路が容易に想像出来てしまって怖くなる。「二人っきり」に物凄く含みを持たせるあたり、さすが、としか言いようがない。
末恐ろしいとはこのことだ……。
わたしは未だ引かないさぶイボに両腕をさすりながら、立ち上がった。
図書館を出ると、もうすっかり日が陰っていて、運転手を待たせていたので、足早に車寄せまで歩く。
さすがに今日はいないだろうと踏んでいたのだが。
「遅い」
いや、待っててくれと頼んだ覚えはないんだけども。
「どこに行っていた? 探したんだぞ!」
え、ここ、わたしが謝るところ?
「何か、あったかと……」
そう言うと、俯いて黙り込んでしまった、貴彬。
ああ、そうか。この人はあの出来事の恐怖から、まだ逃れられないだけなんだ。王者の風格だなんだといっても、まだ7歳だ、そりゃそうだ。
「申し訳ありません」
貴彬の気持ちがわかって、ちょっとすっきりしたわたしは、心からの笑顔を向けた。
「本城さま お待たせしてごめんなさい 帰りましょう?」
「あ……ああ」
こうして、その日も本城家の車で家まで送ってもらったのだった。