38:ルスメイア家 2
以前と同じことが起こるわけでもないのに、思い出してしまった。
当時と変わらない内装が、当時を生々しく鮮烈に思い起こさせる。
(夜でなくてよかったわ)
これで、外が暗かったら、ジェティンはここから一歩動くこともままならなかったろう。
「いかがなさいましたか?」
呼吸が浅く足を止め、喉に手をやり蹲るジェティンを気遣い、後ろから声がかかる。護衛の騎士が直立不動で尋ねてきた。
任務中動揺もみせないところは、さすが国に属する騎士というべきか。訓練された騎士のなせる技というべきか。
ジェティンは何もないと手で制する。そして、大きく息を吐き出した。
いまは、昼下がり。
……あの日じゃない。
大きく深呼吸を何度かして、激しく高鳴る動機を無理やりにでも落ち着かせた。
叔母と今度こそ、背を向けずに向き合おうとウィステラ皇国へ連れられる馬車の道中に決めたのだ。きちんと決着をつけていないままにしてきていたから、今ジェティンはウィステラ皇国の王城にいる。
本当だったら、キルトと笑い合って、今日も変わらない日常を送っていられたのに。
動機が収まると、ジェティンはもう一度、大きく息を吐き出した。
今日はまだ始まりにしか過ぎない。
ドレスに隠し持った杖を滑らかな布の上から握りしめる。
「行きましょう」
ジェティンは歩き始めた。
騎士は、何事もなかったように護衛を再開した。
フィリアルの部屋は、王宮と呼ばれる城の一角にある。が、皇王の自室の近くにない。皇妃候補であるフィリアルの自室は、皇王、皇妃と別の階にある。
濃藍の絨毯が敷き詰められた床。一方の壁に、多くの本。部屋唯一の装飾華美な机には、魔法陣を描くための特殊な紙にインク瓶。
ジェティンがこの城に滞在していた頃と変わらない内装は、あの日から時間が止まったままのような錯覚を感じずにいられない。
――そんなわけないというのに。
フィリアルは謁見ときと同じドレスのままにジェティンを快く迎え入れた。
警戒するジェティンの横をすり抜けて、給仕が温かい紅茶を来客用のテーブルに二つ置いた。
紅茶の間に、軽食と、フルーツ。ケーキスタンドに焼き立てのビスケットと、スコーン、バターサンドが盛られている。
この城を逃げるようにして姿を消したジェティンに対して、歓迎的で。両手を広げて歓迎しています、と言われているような光景に少し怖さを感じた。
謁見が終わり、ジェティンは再び同じことをしないように、どこかに閉じ込められると思っていた。結婚式までに再び逃げられてしまって困ってしまうのは、フィリアル側だと思うから。
あまりのことに動揺を隠せないでいるとソファを勧められた。
「いえ、結構です」
ソファに座る気になれない。相手はこの皇国随一の魔法使いであり、ルスメイア家でも優秀な人。ソファに座った途端に仕掛けられた魔法が発動してもおかしくない。油断ならない。
歓迎的な部屋の主人に対し、立ったままでは失礼になると分かっていて、ジェティンは敢えて立ったままでいいと、強く言った。常識外れだと囁かれても構わない。
「そう、好きになさい」
さも興味もなさそうに、優雅にソファに腰を下ろすと、紅茶を口にした。フルーティな香りがふわりと漂ってきた。
「さて、スティア。なぜ、呼ばれたかお分かりになって?」
「……」
ジェティンがフィリアルに呼ばれた理由など知るよしもない。勤めて冷静に、無言を貫いた。
「なにかおっしゃいなさいな」
バサリと杖と見せないように偽装した扇を広げた。
扇に口元を隠して、お菓子を頬張る。
相変わらず、あの杖を傍若無人に振るっているのだろうか。
扇を見るだけで吐き気がする。
あの日。月の夜の出来事以降、フィリアルの態度はこれまでの師と教え子の関係をころりと変えた。
当時向けられた杖に、放たれた魔法に何度恐怖心を覚えたか。何度、あれを折ってしまいたいと強く願ったことか。
握りしめた両手に力が入る。
昔植え付けられた恐怖心が再び顔を出してしまいそうだった。
まだ、なにも始まってもいないというのに。
フィリアルは優雅に出された菓子を楽しんでいる。
ジェティンはルスメイア家の魔法から逃げ続けた間、ただ怯えて過ごしてたわけではない。
困難なことに幾度も遭遇した。その度にキルトと乗り越えてきた。その経験がジェティンを強くする。
身体の指先までも染み付いた貴族令嬢の礼儀は、簡単になくならない。ずっと伸びた背筋、引いた顎、なににも揺るがない、臆さない表情。重ね合わせた指先、足の爪先にまで、意識が高められていく。
スティラーアは、ルスメイア家を出た日に死んだ。
過去に捨てた名前を、拾うことはしない。したくもなかった。
けれど一市民のジェティンのままでは、叔母に声は全く届かない。一市民の話を一人一人聞いていては、皇妃は務まらない。一人の訴えは、微々たるもので、国を動かすほどの――フィリアルが耳を傾けるにたる力になりもしない。
しかし。
“貴族令嬢スティラーア”であれば。耳を傾けないわけにいかなくなる。大切な姪の訴えを聞かない無情さをこの人は持っていないと信じている。
ジェティンは今一度、スティラーアとなることを選んだ。
未来のために。
「叔母さま」
感情のない冷ややかな声質で、フィリアルを呼んだ。
もう、汗を流して生活のために日々働く『ジェティン』ではない。
ルスメイア家の高貴なる令嬢へと。
一瞬、叔母は菓子に伸ばした手を止めた。ジェティンの所作に一瞥すると、その立ち姿に満足げに「なにかしら?」と先を促す。
菓子から手が引っ込められ、こちらを向いた。
口元を隠した扇は閉じられない。
どこまでも人を苛つきすら覚える。それをおくびにも出さず、作った微笑を顔に貼り付ける。
「わたしはルスメイアを捨てた身です。“スティラーア”と名乗ることも、ルスメイア家に戻ることもありえません。どれだけあなた方がわたくしをこの城へ閉じ込めようとも、わたくしは自分がいるべき場所へ帰ります。けれど、ここを去ることを良しとしないあなた方はわたくしに追っ手をかけ、再び連れ戻すのでしょう? ――あなた方の野望のために……わたくしは、必要ですものね?」
右中指に動かない婚約指輪ある。
ジェティンはこの指輪がとても嫌だ。結婚式まで外せない指輪なんて、牢に繋ぎ止める鎖と枷のようなものだ。
このようなものを容認している皇王の気がしれない。
スティラーアとして、学んだこの国の成り立ち、婚姻。それらの中に、このような相手を縛る魔法の指輪はなかった。書かれていないだけで、昔からあるという言葉に翻弄されることはない。
この指輪を推奨したのはフィリアルだろう。第二の指輪の由来も然り。はっきりと聞いてはいないが、国の歴史書に書かれていない婚約の儀に指輪のことは記されていなかった。
指輪は結婚の儀ではじめて記されていた。それまで、書かれていない婚約の指輪を作ったのは、フィリアルだと、ジェティンは推測していた。知る前にウィステラ皇国を出て行ってしまったことを悔いる。
もっとよく知ってから出ていけばよかったのだが、城を飛び出した日は本当に急で、それどころではなかった。
「……わたくし知っていますのよ? 叔母さまがこの国で何をしようとなさっているのか」
フィリアルは静かにジェティンの言葉に耳を傾ける。が、傾けている素振りを見せているだけ。興味もなさそうに、扇を仰ぐ。
「あら、知っていましたの」
扇からのぞく目は、穏やかだったものから、一瞬にして恐ろしくぎらついたものに変わった。
恐怖に震えそうになる手を、スカートを握りしめ、その手をもう一方の手で覆い隠す。
「ええ」
ここまでは、ジェティンの想定通りだ。
「そのようなこと、許されるとお思いですか?」
「そんなこと、わたくしには関係ありませんわ。当主が望んだことをわたくしは叶えるだけ。こちらとしては説明が省けていいのだけれど」
ばさりと扇が閉じられた。
「叔母さま!」
ジェティンは悲痛に叫んだ。
あくまでも、知らないとしらを切るというならば、こちらにもやり方がある。
ルスメイア家という、貴族に生まれた使命。
その使命は幼い頃から言われ続け、身体に染み付いていて、忘れられそうにない。
ルスメイア家はずうっと昔から、一貫して変わっていないところがある。
理解しがたいことではあるのだが、更なる強い魔法使いを生み出すために。帝国、強いてはこの陸地においてもっとも強く、最強と謳われる魔法使いを育てるために、身内での婚姻以外を許嫁していない。どれだけ血が濃い相手同士であろうとも、強い力を持つ魔法使いが生まれるのであれば、いくら短命でも構わない。
婚姻の相手は魔法の質を見出した時にはじめて決められる。
どちらかが強くどちらかが弱くてもいけない。同等でなければならない。
ジェティンだけは何故か、魔法の質を見出した日に婚約相手は決められなかった。
それは、叔母フィリアルも同様だった。
それだけ魔力が強く、質も高かったのだろう。高すぎて同等の相手がいなかった。
そして、フィリアルは十四の歳に皇王に見初められてすぐ、隣国へと嫁いだ。ルスメイア家で初めて、同家以外の婚姻となった。
ジェティンが思うには、ここから、全てが狂い始めた。
帝国国家も、皇国国家も……ルスメイア家も。
ルスメイアはウィステラ皇国を乗っ取ろうとしている。
それに気がついたのは、皇国に魔法留学をしているときだった。叔母から学ぶことはもうないのかもしれないと、帰れるのかもしれないと感じていたとき。
偶然知ってしまった。
それはもう遥か昔からの計画。
ようやくその第一歩として、フィリアルがこの国に嫁ぐために、皇王を魅了し惹きつけた。
フィリアルがしようとしていることを、皇王は知らない。
帝国にも皇国にも居られなくなり、逃げ出した。ルモリエン小国へと。
名前を変えて、外からなんとか阻止しようとしたが、やはりとても難しかった。ジェティンが姿を消している間は、ただの時間稼ぎにしか過ぎない。
もう家のための犠牲をこれ以上増やしたくはなかった。
この国のために。この国の民のために。ルスメイア家の未来のために。
彼らの野望をジェティンが打ち砕かなくてはならない。
いっそ彼らの懐へ飛び込み、中から総崩しをするしかなかった。
そのために、一人で家と戦う覚悟をジェティンはしていた。だれの手も借りない。ルスメイアがなにをしようとしていても自分の手で、止めてみせる。
それだけの力はつけてきた。
ジェティンが隠し持った杖を素早く取り出し、先端を叔母へと向ける。
捕縛の魔法。
これで、叔母を一時的に動けなくして、杖を奪おうとしたのだが。
本来の使い方ではない魔法は、不意打ちをつこうとしたジェティンの思うように発動してくれない。
それを予想していたフィリアルは、ほくそ笑み、ジェティンを拘束した。
拘束の魔法によって両腕が持ち上がり、絨毯から足が浮く。
指先の力がなくなって、ころりと、杖が滑り落ち絨毯に転がった。
悔しさに歯噛みする。
「スティア。貴女がどこでそのような戯言をつかんだか知りませんが、シェザアリー陛下が、そのようなことをお許しになるとでもお思いですか。仮に陛下が寛大なるお心でお許しになられたとしても、戯言を言わないでくださいませ? わたくしは、あの日……お前が城を去った日に、魔法紙を持ち出したことを問うために呼び出したのですわよ」
フィリアルは冷淡に言った。
そのにある感情は無だった。開いた扇に顔を隠した。
叔母が知られたくない、見せたくないないものがあるときによくする仕草。
叔母は、扇を模した杖を使わずに、ジェティンを拘束した。
あの杖、何処から……。
ジェティンの疑問はすぐに見つかる。
フィリアル後ろから伸びる手が、フィリアルから杖をとっていった。
それをさも当然のように、フィリアルは杖から手を離した。
「下がっていなさい」
深く被ったフードで顔は見えない。
真っ黒な外套が、絨毯を擦りそうなくらいに長く、袖から覗く手は、皺ひとつない。
前がきっちりと合わせられ、外套の中は見えない。
叔母の命に従い、すす、と窓際まで下がる。
なぜ、気がつかなかったのだと、不思議に思う。
フィリアルのことばかりに頭を占めていたからだろうか。それにしても。
(不気味だわ)
気配を全く感じなかった。
それこそが、ジェティンを震え上がらせる。
こんなに目立つところに立っていながら、相手に気付かせない気配の消し方は、魔法でも使っているのかもしれない。
現に、意識して窓際を見ていなければ、もう一人いることを忘れてしまいそうになる。
「スティア、どこにあるの?」
拘束の魔法というのはただ、拘束するだけのものではない。
話したくないことを強制的に話させることもできてしまう。
本当に極悪で、非道な魔法。
使える相手は限られている。捕縛し、牢に捕らえる人にのみ使ってもいい。
ジェティンは牢に捕らえられたわけではない。が、捕縛された人であった。そのため、この魔法は使ってもいい対象者になる。
一度、城からも、屋敷からも逃げ出して捕らえられた人、なのだから。
「……っ」
唇を引き結び、声を出さないようにしても、従わさせられる。
口が開いていく。どんなに強く固く拒絶しても、魔法の絶対的な強制力に抗えない。
「ここにはないです」
淡々とした声が出た。
「スティア、貴女がわたくしのものを持ち出したのよね?」
「はい、叔母さま」
魔法に対抗しても、かけられている間はどうしても負けてしまう。
「そう。ならば、作ってもらいましょうか? 探すよりも早いわ。レシピを忘れたとは言わせませんわよ? 貴女が作り出したものなのですから」
「はい、叔母さま」
「当時ではなくて、そうね。貴女が使っていたものを頂戴」
「はい、叔母さま」
そこで、ようやく解かれた。
絨毯に、膝をつくようにして落ちる。
冷たい汗が全身から噴き出る。
呼吸が荒い。
「では、よろしくね? ジェティン」
上から見下げる目は、傲岸不遜で拒否を許さないものだった。
ジェティンは広げた扇の向こうで勝ち誇った笑みを向けるフィリアルを睨みつける。
やられた。
手首をさする。まだ、力が戻ってこない。杖をすぐには拾えない。
いますぐにでもここを立ち去りたいのに。
「明日から……そうね。地下室を使っていいわよ。許可をとっておきます。場所はヒンツが案内するわ」
「いやよ。作らないわ」
「いいことよ、作らなくても。貴女の代わりに、無知な娘を名の詐称と王家を偽った罪で牢に繋ぐことになるけれど?」
あっけらかんとなんでもないことのように言う。戯れの一貫のように、面白く笑いながら。
ジェティンは歯が欠けそうになるくらい強く噛んだ。
悔しい。
悔しい。
自分自身の甘さが憎い。
無情だったら、少女を簡単に切っていた。
フィリアルが彼女になにをしても、なにも感じないままにいられただろう。ジェティンはそんなことできない。
ジェティンの代わりに、どれだけの批難に耐え、理不尽なことに耐え、叔母の要望に答えてきたのだろう。
謁見の間で、ケイルスが婚約者だと伝えられた時の、なんとも言えない絶望的な顔が忘れられない。
可愛らしいドレスを纏うまだ十代とおもしき少女。
所作は拙いながらも洗礼されていた。努力したのだろう。
ジェティンが巻き込まなければ、あの娘は城にいなかった。ドレスに身を包むことも、フィリアルの魔法に捕まることも。
こんなことになるのだったら――――。
巻き込んでしまったのは、誰か。
ジェティンか、それとも、ジェティンを執拗に探したフィリアルか――。どちらともなのかもしれない。
ジェティンの代わりとされた少女。叔母はやると言ったら、撤回はしない。
牢に捕らえるだけでは済まないのだろう。
これは脅しだった。
ジェティンの代わりに囚われた娘にするにしては惨い。
そこまでしてでも、成就させたいのか。この長きにわたる計画を。
「…………わかり……ました」
ジェティンは悔しさに、両手を握る。力は戻ってきていた。杖を拾い、フィリアルへ再び杖を向ける気力はなかった。
あの少女の自由をフィリアルに握られてしまっている。ジェティンが抵抗をすれば、すぐにでも、少女を牢に入れるのだろう。
そして、ジェティンの自由も奪われた。これでは簡単に動くこともできない。
「ふふ、いい子ね」
フィリアルは嬉しそうに、ジェティンに近寄り、頭を優しく撫でた。幼い子供を褒めるようなその手がとても、気に食わない。




