29:ニコジェンヌ、再び
ダヴテ公爵が会場へ戻ると、夫人をつれてダンスホールへ誘った。
夫人がいなくなれば、その場にいた公爵夫人のお知り合いの方々は、散り散りになり、美衣歌は会場の隅に立っていた。
ダヴテ公爵と会場を出て行ったアルフォンは出て行ったきり戻ってこない。
壁の花となったアルフォン皇子の婚約者に、声をかけてくる嫡男や、紳士な男性はなぜか一人もいない。
突如現れた第三皇妃候補の姪に、興味もないのだろう。それとも相手をするに値する人と思われていないかもしれない。
ホールでは奏でる音楽に合わせて男女が踊る。
その中に、ケイルスと見知らぬ若い女性が、踊っていた。
頬を染め嬉しさに緩んだ可愛らしい表情をした女性に対して、ケイルスはどこか、冷めた目となんの感情もない無表情で相手をしていた。
時折、令嬢と目があうと取り繕ったように笑顔を見せる。その顔にやられたのか、令嬢はぱっと顔を少しばかり俯かせた。程なくしてまた、顔を上げると、微笑む皇子に、緊張をしながら微笑み返す。なんとも可愛らしい光景である。
しかし、楽しそうな令嬢と違い、義務的に楽しみもなく踊っている皇子。
その場の空気だけが、華やかな会場の中でもやけに異質だった。
シャンパンを片手に、軽やかな音楽とダンスを嗜む貴族たちをなにくれとなく眺める。
今日のために新調したドレスの綺麗さに劣らないアクセサリーの煌びやかさに目が眩む。
首元に、結い上げられた髪、耳元の宝石が大きなシャンデリアの光を弾いて光り輝いている。
美衣歌の首元には何もない。ドレスの襟が首元まであって、ネックレスができない。その代わりに何本ものヘッドチェーンに付いている小さな宝石たちがシャンデリアの光を弾いていた。
シャンパンをもらったものの、アルコールが含まれていて飲めない。歩く道すがらに勧められ、もらってしまった手前、すぐに戻すわけにもいかない。手元でグラスを回しているうちにぬるくなってしまった。
美衣歌の年齢は、この世界だと、アルコールも飲めてしまうらしい。飲んだことないアルコール含有飲料を口にして、どんな醜態を晒してしまうのか怖い。
美衣歌の母は、アルコールを飲むと一口程度の量で酔ってしまい寝てしまう。
美衣歌もそうならないとも限らず、恐ろしくて飲めない。
飲まない飲み物を持っていても、グラスで弄ぶだけだった。グラスを回収する給仕を探していると。
「あら、スティラーアさま。お兄様に愛想でも尽かされましたの?」
声に振り返ると、ニコジェンヌが立っていた。二十代後半の青年を伴わせ、微笑む。
榛色の髪を緩くウェーブにし、上半分の髪を結い上げている。
薄い紫色のドレスは光によっては可愛らしいピンク色にもみえて、ニコジェンヌにとてもよくあっていた。スカートの裾へ行く程濃くなっていくグラデーションになっている。裾から見える襞は蒼色をしていた。
「ぇと、その」
強気な目は狙った獲物を見つけた虎のよう。
王家特有の紺碧色の瞳は綺麗なのだが、心の中の醜い部分が現れ出ていた。
「お待ちしているの」
誰を、とも言わずもがな、待っている人は一人しかいない。
ニコジェンヌは会場内を瞬時に見渡して、ここに兄がいないと気づく。
「そう……」
お茶会と違った妖艷な美姫は、青年から離れた。
「少し、あちらで待っていてくださらない?」
片目を閉じて微笑めば、美しさに目が眩んだ青年は快諾して離れていく。
婚約者がいないニコジェンヌの本日のパートナーは彼なのだろう。
小声で話しても聞こえない距離で待機する。しかし、皇女と離れる時間も惜しいのか、少しずつこちらへ距離を詰めてくる。
「お待ちになっていて」
美衣歌の腕を掴み、振り向く。
「は、はい!」
柔和な微笑みに、ぴしっと揃えた足を停めた。青年は、素直に待ちますと言わんばかりに、中央でダンスを踊る光景に目を向けた。
それでも皇女との時間は一分たりとも惜しいのか、ちらちらと視線が向けられる。
余程ニコジェンヌに想い馳せているのか、その身分に魅力を感じているのか。前者であるならニコジェンヌにとっては、相手の爵位にもよるが、最良の降嫁先となるに違いない。
一歩も動かないところをもう一度目視するニコジェンヌが、見ていない隙に、青年の立ち位置がそろりと、小刻みに近づいてくる。
ここまではいいかなという打算をしながらの距離の詰め方に、ニコジェンヌは、頬を引き攣らせ、額に手を起き、頭が痛いとばかりに首を小さく振った。
「……相手を間違えたわ」
本音をほろりとこぼしたニコジェンヌの、取り繕っていない素直な独り言に少し笑ってしまいそうになった。
声は出ていないけど、身体がぴくりと動いてしまう。
心の中だけで笑うのは案外難しい。
何か聞こえたかしらと、腕を強く掴まれ、慌てて取り繕った。けれど、相手が子犬系の青年で、美衣歌が知らない場で、もうすでになにかあったのだ。
お茶会の時と違い、困惑する姿がとても可愛いらしい。
どういった経緯で、彼になったのかとても気になる。教えてもらえないとわかっていても、気になる。
青年はまるで待てを覚えた大型犬のように立って待っている。
青年の気を紛らさせるかのようなタイミングで、青年の元へ、数人の青年が囲んだ。
揶揄いの雰囲気は漂いつつも、ひどく騒ぐでもなく、静かに会話を楽しんでいる。時折、小突くことはあっても、声はあまり聞こえず、奏でられる音色にかき消されている。
男子高校生だと、こうはいかない。
歳の近い男性同士の淑やかな会話は見たことがなかった。思わずこっそりと盗み見てしまうほどに。
男性は青年貴族とその場を離れていく。しばらく女性たちの話の邪魔はしてこないだろう。
「お口に合いませんでしたかしら?」
青年に気を取られている場合じゃなかった。
一口も飲まれていない高価なアルコール入りシャンパンのグラスはシワシワとした炭酸は飛んでしまい、時間がある程度経っていることを、周囲にみせつけている。
そんなこと知らない美衣歌は、ぽかんと口を開けた後、はっとして、グラスをくるりと回した。
グラスの中身は一滴も減っていない。ニコジェンヌが眉を顰めた。
「いえ、とても美味しくいただきました」
受け取っておいといて、飲んでいないと言えるはずがない。
きっと美味しいのだろう。
ダヴテ公爵夫人の友人女性が、さっき美味しいと称賛していた。
「……」
ニコジェンヌの眇めた目は、美衣歌とグラスを見比べて、何を感じ取ったのか、シャンパングラスを美衣歌からあっさりと引き取り、そばを通り過ぎる給仕へ返す。
ゆったりとした雰囲気のある楽曲が奏でられ始めると、幾人かダンスホールへ向かって行く。
ぽっかりと空いた二人の周囲に、これ幸いと、ニコジェンヌは美衣歌をさらに壁際へと追いやって行く。
今度はなに。
ニコジェンヌと美衣歌は年が近い。
性格は全く違っていて、強気で、勝ち気。堂々とした自信に溢れるニコジェンヌに美衣歌はすでにおよび腰になっていた。
(早く、早く戻ってきてくださいぃ!!)
公爵は妻とダンスを嗜んでいるのに、アルフォンは会場へ戻らない。
上背があるニコジェンヌは背を屈めて、美衣歌の耳に顔を寄せた。
「ねえ、ほんとうに、ケイルス兄さまのお相手になりませんの?」
聞いてくることは婚約パーティのときから変わっていなかった。
美衣歌――スティラーアをケイルスの嫁にすると、まだ諦めていなかった。
「……」
美衣歌はケイルスをそういう相手としてみていない。
警戒するべき相手の一人である。
「なんですの?」
何度、聞かれても、相手は変えない。
この婚約は国が認めたもので、余程の理由がない限り白紙にならない。
皇女なら知り得て当然のこと。
それとも、婚約をまだ交わしていないから、知らない、なんてことあっていいはずがない。
皇子、皇女の婚約は、国を守護する女神ウィスチャの前で誓いを立てる。これがこの国の王族の婚約方法。執り行ったのち、相手を変えることは不可能なのだ。
薬指に嵌められた動かない婚約指輪が、その証となる。
この指輪が外れるということは、ウィスチャに認められていない婚約とされる。名が刻まれた指輪は奪われ、婚約者じゃなくなると城から出て行くことになる。
ニコジェンヌは美衣歌の指に嵌められた婚約の証と、その上に重ねられたもう一つの指輪。
指輪が、彼女の相手が誰になるのか周囲に知らしめている。
「どうして、ケイルスさまなんですか?」
「言いましたよね? アル兄さまは魔法が使えませんの。魔法に長けた貴女が、婚約をするには適していませんわ」
聞いた。聞いたけれど。
魔法に長けているから、相手は魔法を扱う相手でなければならないと、誰が決めたの。
美衣歌の答えは変わっていない。
パーティのときから、ずっと。
「わたしは、そう思いません」
ニコジェンヌとの意見の違いは埋まりそうになかった。
「そう。残念だわ」
案外あっさりと彼女は引き下がった、かに見えた。指輪が嵌められた手を、美衣歌が油断した隙に強く掴まれる。
「アル兄さまの指輪、見せてくださらない?」
掴まれた手の指輪に伸びる手に、アルフォンの忠告が頭をよぎった。
――ニコには気をつけろ。あいつは指輪を抜いてくる。
抜けることのない指輪を外そうとする人がいるなんて思いもしない。
アルフォンの忠告は正しかった。
「やだ、離して!」
ぎゅっと握りしめ、指輪を咄嗟に守った。
指輪は二連で、根本にある指輪は本来動かない。
抜けるとしたら、もう一つの方だけでも、ニコジェンヌのぎらつく目は両方を狙っているようにみえた。
とられたら、バレる。
「なにをなさっているのかしら?」
腕を相手の手から抜く練習を実は少ししていた。相手の手ごと腕を捻った。それでも外れない。
そこで美衣歌は気がついてしまった。
ニコジェンヌの方こそ、魔法で痛みを取り除いていたと。
先手をとられた。
ニコジェンヌを痛めつけようとして、失敗したこっちの腕が軋む。
「ふふ、こちらの勝ちね、スティラーアさま?」
勝ち誇ったニコジェンヌの顔は、良い例えのできない不安を植え付けられる。
魔法は使ってはならない。
城内の一切の魔法は認められていない。
(どうしよう……どうしたら!)
ぎゅうぎゅうと締め付けられる手首と、捻ったままの腕の骨がきしむ。
痛い。
痛みに耐えられず叫びたくなる声は喉の奥に張り付いて出てこない。
代わりに、涙が溢れる。
どうしようもない力量の差だった。
痛みに耐え、会場内を再び探す。
いない。まだ、戻ってこない。
浮かぶ姿に、助けを求める。
指輪……とられたくなんかない!
「…………ぃ、やっ!」
渾身の微々たる力でも、空いた手で指輪を死守せんとばかりに抵抗する。髪が乱れてしまっても構わない。大切なものを取られることに比べたら気にならない。
周囲が二人の令嬢の見苦しい光景に眉を顰めた頃。
嵌めている指輪が、突如カッと蒼く光った。
間近で直接光を見てしまったニコジェンヌが咄嗟に両手で目を庇う。
美衣歌の足元に魔法陣がパッと出現し、そこへ吸い込まれるように美衣歌は会場から姿を消した。




