2:瞳の色
ふわり、と意識が覚醒する感覚に瞼をゆっくりと開いた。
天井の見慣れた幾何学模様――アルフォンの部屋にあるベッドの天井の模様と似ている。
いつベッドに入ったのか、思いだそうとしても覚えていない。
服は着替えていて、ドレスを着ていなかった。
美衣歌が本気で嫌がって頑なに着なくなってから、露出が控えめな夜着に変わった。
その夜着は美衣歌の悪い寝相で、皺になっている。
寒くならないようにかけてあったのであろう上掛けは、お腹の上に申し訳程度にかかっていた。
なんだか、身体がずっしりと重い。身体に漬け物石をいくつも乗せている感覚がする。
(私、確か――)
ニコジェンヌのお茶会へ呼ばれて、友だという一人と、指輪を誉めてもらった。第一皇女セレーナと会い、そこでニコジェンヌから一方的な魔法をうけた。
身体が重く感じるのはその影響かもしれない。
起き上がり、柔らかい絨毯に両足を着けた。
天蓋ベッドのカーテンを開くと、照明が消されていてほの暗い。
サイドテーブルに置かれた燭台の蝋燭がほんのりと照らしている。燭台から火をもらい、手燭を手に室内を見渡せば知らない部屋だった。
美衣歌が普段使っているアルフォンの部屋よりはるかに狭い。
ゆっくり歩を進めながら部屋の中を観察しているとドアの向こうから小さな話し声が聴こえてきた。
「――――」
「そうだとしてもですよ? いくらなんでもやり過ぎです。――さまが魔法の中和方法をご存じたったから事なきを得なかっただけです」
(ファリーさん?)
はっきりとファリー夫人の声がドア越しに聞こえてくる。
話し相手の声は聞き取りにくいが、ファリー夫人が、敬語を使う相手が誰か美衣歌は知っている。
ドアに耳をぴたりとつけた。聴覚に全神経を集中させる。
「ニコが使った魔法の波動を感じとった監視人と、侍女の対処が早かったおかげでな」
ため息混じりにアルフォンが声を押さえながらも荒げた。
ぼそりとした小さい声は、ドアで聞き取りにくい。もっとよく聞こうと、耳を澄ませる。
「仕方がないじゃありませんか。ニコジェンヌさまは、あの方が偽物だと知らないのですから。魔法を使うか試されたのでは?」
「……どうだろうな。まあ、あの場はなんとか収めたと聞いた。あとは……目覚めるのを待つしかないだろう」
「そうですね。ちゃんと見えているか確認しないといけませんから」
美衣歌はそこで、一度ドアから耳を離した。
誰のことを言っているのか、分かってしまった。
「アルフォンさま、少しお耳にいれておきたいことが」
ファリー夫人は声量を、アルフォンが拾える程度まで落とした。もう、ドア越しに何を話しているのか聴こえてこない。
美衣歌は自身の瞳の状況を確認した。周りの風景ははっきりと見えている。手燭の色が炎の色。色の判別はできる。視界は、良好だ。
手燭を凝視していると、目の前のドアが開いた。暗いところに明るい光が入ってきて目が眩む。
「まあ、なんということでしょう」
座り込む美衣歌をファリーは見開いた眼で凝視する。その顔は、聞かれたくない話をいつから聞かれていたか危惧している。
「えっと、おはようございます……?」
「お立ちなさいませ。何か食べたいですか?」
聞かれて、お腹が盛大に音を出す。静かな室内に空腹の音が響く。恥ずかしさのあまりに視線を泳がせた。
「簡単なものを運ばせましょう」
ファリー夫人の手を借りて、立ち上がる。手燭を渡して、隣室のソファに腰掛けた。
ここは、アルフォンの執務室だ。アルフォンの執務室にある仮眠室で美衣歌は寝ていたらしい。そういう部屋があり、使えるのはアルフォンだけと聞いていた。そんな貴重な場所を使ってしまった。
「スティラーアさま、お水ですがどうぞ」
美衣歌の前に水が注がれたワイングラスがそっと置かれる。振り返ると、微笑むクレストファが立っていた。お礼を言って、一口飲む。レモン風味の冷やされた水は乾いた喉を一瞬潤してくれた。ワイングラスを傾けて一気に飲み干す。
「目は見えているようだな」
喉が潤されて満足した美衣歌の顎を掴み、上向かせられる。美衣歌に向けられる眼差しは真剣だ。執務机にいたアルフォンが、水を飲んでいる間にこちらに来ていた。
「あ、のっ」
お互いの額がつきそうになる近さに、美衣歌が動揺する。
先に顎を掴んでいる手をどかそうと奮闘するが、ビクともしない。
「大人しくしてろ」
視線を泳がせて、逃げ道を探す。しかし、アルフォンの空いた手が、ソファの背に置かれている時点で逃げられない。
「アルフォンさま! 何をなされているのですか!?」
果物が乗ったワゴンカートを押したイアを伴って、ファリー夫人が部屋に戻ってきた。
二人が睦み合っているようにしか見えない。ファリー夫人をクレストファが困り顔で扉を開けて、出迎えている。
「気にするな、確かめているだけだ」
さらに顎を上向かせられ、背中が反る。頭と背をソファの背もたれに預けなくては、姿勢が保てない。
コルセットをしていないと、押さえつけるものがない。呼吸は楽にできるはずなのに、浅い呼吸を繰り返した。
「クレストファ殿、殿下をお止めして頂戴!」
忙しなく動く美衣歌の視線と合わせてくる。アルフォンが見ているのは瞳の色。ニコジェンヌの魔法の影響が出てしまっているのか。
深い茶色をしていた瞳。今は――。
アルフォンの表情が険しくなる。顎に添えられた手に力がさらにこもる。
――怖い。
アルフォンの怒りに満ちた形相が、美衣歌の視界いっぱいにひろがる。
「……っゃだ!」
徐々に近づいてくる距離と周囲の視線に、美衣歌が耐えられなくなる。力強くアルフォンの胸を押すと簡単に離れた。
顎を捕らえていた手をクレストファが掴んでいる。
「殿下、そこまでですよ。お姫さまが顔をひきつらせています」
アルフォンが美衣歌を放すと、クレストファも掴んでいた手を放す。
ファリー夫人の後ろで、イアが頬を染めて立っている。慣れている筈のファリー夫人も同様だった。視線を外し、こほりと小さくわざと咳払いをする。
「なんでもないから!」
イアよりも美衣歌の方が恥ずかしさで 顔から火が出そうだ。
美衣歌の前に果物と、軽食が置かれた。
イアはワゴンを置いて、部屋の外へ出てもらった。
「夜も遅いですから、これだけで我慢してください」
出された軽食は綺麗に平らげ、果物は食べやすいものだけを取る。
軽食をとる間、美衣歌の正面をアルフォンが陣取る。手元の書類へ目を通してはいるが、美衣歌が食べ物に気をとられている隙に書類から目を離して盗み見てくる。
その目は睨まれているのか、とても鋭い。
「ファリーさん!」
何か、彼が気に入らないことをしでかしてしまったのだろうか。
原因が思い付かず、居心地が悪くなり、夫人に声をかけた。
「どうされましたか?」
ワゴンの側でファリー夫人はぴしりとした綺麗な立ち姿で立っていた。
美衣歌がファリー夫人へ向くと、視界からアルフォンが見えなくなり、内心安堵した。
「私、お茶会の後のこと、覚えてないんです。どうして、ここに――」
「あとで殿下がお話しされるはずです。そうですよね? 殿下」
「ああ」
ファリー夫人の問いかけに、アルフォンは低い重低音な声でそう答えた。
(怖いから、アルフォンさまに聞きたくないのに)
果物をファリー夫人に下げてもらい、美衣歌の前に温かい紅茶が置かれた。
アルフォンが醸し出す空気は変わらない。
手元の書類に全て目を通し終わり、クレストファへ紙の束を手渡す。クレストファは執務机の確認済と書かれた箱へ書類を入れた。
「ミイカ」
偽りの名じゃない、本当の名前で呼ばれた。
呼ばれることが少なくなった名前が呼ばれただけで、どきりとする。
「お茶会で、ニコジェンヌから魔法を受けたのは覚えている?」
ニコジェンヌが取り出した杖から迸った光を受け、何も見えなくなった。人がいる場所がモヤとなりやがて判別もできなくなる。丸テーブルの上に乗っているお茶菓子に、カップ、花瓶は形をなさない。ただ、海の深海のような青が、美衣歌の視界を占めていた。
何が起きたのか理解できなくて、頭が追いつかない。どうしたら、元の状態に戻ってくれるのかわからなくてパニックを起こして、意識が飛んだ。
「覚えてます」
あの時は、青一色だったのが今はちゃんと見えている。
「お前が受けた魔法は、視界を奪う。一度魔法を受けると、念じた術者が解除しない限り効力は続いていく。ニコジェンヌは……解除する気はないだろうな」
ニコジェンヌお茶会後の様子を思い出して、アルフォンが深い溜息を零した。
「解除は難しいから、頼んで中和をしてもらった。見えてるだろ?」
家具、人、建物。全ての色彩を判別できる。
「はい。あの、ありがとうございます」
あのままなら、美衣歌の目は青の世界しか見えていない。
「お前の目のことだが、ニコジェンヌの魔法を中和した影響で瞳の色が薄くなったようだ」
「……え?」
「深い茶色から、今は――薄い茶色になっている」
アルフォンはとても言いにくそうに、告げた。ファリー夫人に鏡を要求して、美衣歌へ持たせる。
渡された鏡を覗き込み、瞳の色を確かめてみる。鏡を近づけて凝視してしまう。薄くなっている。胡桃色まで落ちている。
元の世界へ戻ったら、瞳の色は戻るのだろうか。髪の色はできないにしても、瞳の色は戻って欲しい。
「薄いですけど、髪が栗色だからちょうどいいですね」
鏡を少し離して全体を見た印象のままを言った。
還った時のことは考えない。アルフォンが還り方を探してくれているのだから、分かるまでは。
「そうですわね。とても素敵です」
ファリー夫人へ鏡を渡すと、夫人から褒められた。少し歪んだ悲しい笑顔に複雑な心境になる。
魔法はかかったまま。中和されただけで、ニコジェンヌが解除しない限り、美衣歌の瞳の色は胡桃色から戻ることはない。
「お茶会の出来事は報告を受けた。妹が、悪かったな」
美衣歌の前に座りながら、美衣歌から視線をはずす。
「いえ。彼女はアルフォンさまに、魔法の優れた方が婚約相手となるのが気に入らないみたいです」
「まあ、そうだろうな」
知っているような、返事に美衣歌は思わず「知っていたんですか?」と聞き返した。すると、肯定された。
なんだ、知っていたのか。
「あいつは、ルスメイア家に魔法学の勉強を兼ねて留学してから、俺への当たりが強くなった」
アルフォンは紅茶を一口含み、乾いた喉を潤す。
美衣歌は紅茶を飲む気にならず、両手をスカートの上で握りしめた。
「同じ頃、ケイルスがルスメイア家へ魔法学を学びに行っていて、ケイルスを尊敬する何かがあったんだろう。あいつはケイルス、ただ一人を心底敬愛している。ニコとしては、魔女として名を広めているスティラーアにはケイルスがいいと思っている。ケイルスは魔法を使う技術がずば抜けて上手い。ニコは、潜在的に魔法を操る力を持っていても、扱えない俺が気に入らないんだ」
本物のスティラーアは、フィリアルから魔法を習得した。その力は魔女として、名を国内外へ知らしめる程に強い。その相手となるにはスティラーアの力を殺さずに、高めてくれる人でなければならない。
ニコジェンヌからすると、アルフォンよりも、ケイルスの方になる。ケイルスなら、圧倒的な技術力でスティラーアを支えることができる。
それなのに、なぜアルフォンを選んだのかわからない。美衣歌をお茶会へ呼び出し、気持ちをぶつけてきた。
それが、最終的に魔法となり、美衣歌を襲った。
「兄妹の確執に巻き込んで悪かったな」
アルフォンは申し訳なさげに、頭を少し下げた。なにも知らない美衣歌が巻き込まれたことに、心を痛めている。
「い、いえ。気にしないで下さい。私は……」
還れる方法が見つかったら還るんだから。
それ以上は言えなかった。還っていく人に、還れたら忘れるような事情を話す人はいない。戻らずに留まるというなら話は別になるが。
「あのとき、なぜ逃げなかった。逃げようとしていたのだろう? 逃げていれば避けられたはずだ。あいつは魔法を使う力があっても、相手へ当てようとする根性はない」
ニコジェンヌが杖を向けた時、確かに危険を察して椅子から立ち上がった。逃げようとした。
けれど、ニコジェンヌが美衣歌へ杖を向け、呪文を唱える姿が、フィリアルにみえてしまい、恐怖に逃げられなくなってしまった。
「足が、すくんで」
それ以上なにも言えず、口を噤んだ。




