14:雰囲気
汚れたドレスを着替え、元の部屋に戻った。
部屋に入ると異様に重苦しく、何とも言えない空気が漂っている。
ハユラとハインツは、お菓子がふんだんに盛られたお皿が置いてあるテーブルの前に座っていた。
ハインツは紅茶を飲み、ハユラはお菓子をつついている。二人、居心地が悪いのか、そわそわしていて、表情は凍りついていた。楽しく会話をしているように見えない。
美衣歌が戻ってくると、あからさまにハユラがほっとする。
「遅くなりました。スティラーアさまがお戻りになりました」
イアに促されテーブルへ行く。
途中、客人を挟んで反対側のテーブルに座っているフィリアルに気づいた。
フィリアルは優雅に紅茶を楽しんでいる。
美衣歌から、フィリアルの表情は伺えない。整えられた髪の一房がフィリアルの頬にかかり、顔が絶妙に隠されていた。
カップに注がれた紅茶が少なくなると、小さく陶器が当たる音を出して、カップが置かれた。
フィリアルの動作一つに、敏感に反応してしまう。
音を立てずに椅子からすっと立ち上がる。頬に落ちた髪をかきあげた。
前に座っている二人が、フィリアルの表情を見て、体に電気が走ったかのように凍りついた。
ハユラが手持無沙汰で目の前にある焼き菓子を手にしたが、力の抜けた手から離れてテーブルの上に落ちる。
二人の表情に、今度は美衣歌に緊張が走った。
背筋がこれ以上伸びないぐらいに伸び、手のひらに冷や汗をかく。
「スティラーア」
背筋を何かが這い上がるようなおぞましい声に、フィリアル以外の全員が震え上がる。
(ひぃぃ)
美衣歌もその一人で、心の中で叫び声をあげた。
「は、はい」
職人二人の恐ろしい何かを見たような表情に、無意識に体が震えだした。
蛇ににらまれたカエルのごとくフィリアルから目が離れない。
フィリアルが、とうとう美衣歌を振り向く。瞬間、部屋を飛び出したい衝動に駆られた。
フィリアルの眇められた目、妖艶に微笑む唇。笑っているが、笑っていない。見た者を委縮させる威圧感。美衣歌に逃げられないと悟らせるには十分だった。
手に持った扇がバチンと閉じられる。
さほど大きくない音に、両肩がはね上がり、瞼を強く閉じた。
「遅かったわね」
声の近さに、目をゆっくり片方ずつ開く。フィリアルは美衣歌のすぐ目の前に立っていた。
圧倒的な威圧感に美衣歌の足が、反射的に後ろへ下がる。恐怖から少しでも離れようと。
遠ざかっていることに気づきながらも、恐怖の微笑みを崩さずフィリアルは微動だにせず、そこに立っている。
何かを言葉にしたところで、すべて言い訳になってしまう。
この心臓をつかまれているような恐怖から逃げるには、何か言わないと。
何か言おうにも、言葉が出てこない。何も思いつかない。
覚悟を決めて口を開いた。
謝る言葉のほかに頭に思い浮かぶ言葉がない。
「フィリアルさま」
すいませんと出した声は、美衣歌に別の声が重なって、かき消されてしまった。
「なにかしら?」
美衣歌の後ろで控えていたイアが、美衣歌の代わりに頭を下げていた。
「湯殿で予想外の事態が起きてしまい、遅くなりました。申し訳ありません」
美衣歌のドレスが緑色から変わっていることに、フィリアルは初めて気がつく。ドレスに合わせ靴の色も変わっていた。
「どのような?」
「湯殿で、アルフォンさまとお会いしました」
そこで一度言葉が切れる。どう伝えるべきか逡巡したあと。
「お二人で楽しくお話しされていました」
「まぁ、そうでしたの」
頬を染めた仕草に、楽しそうにフィリアルの声が弾んだ。
「あの、ち、違います」
勘違いをしている。美衣歌は即座に否定した。
楽しい会話をした覚えがない。
「アルフォン」
フィリアルの示すほうへ振り向くと、不機嫌な表情で壁際に立っているアルフォンの姿があった。
執務へ戻ったとばかり思っていた彼が、なぜここに。
アルフォンの従者は無表情で扉の近くに立っていた。
睨まれているような鋭い視線に、いたたまれなくなる。
「そこの侍女が言うような色っぽい話はしてません」
きっぱり否定され、フィリアルの表情が陰る。
今回こそ、式まで留める娘が現れ、アルフォンもまんざらでもなく気に入ってると思ったが違ったのだろうか。
「そう。……ハインツ。例のものの出来栄えが見たいわ」
ハインツは自信作だと告げ、依頼主であるフィリアルへ付け毛の出来を見せた。
栗色に染められたそれは、とても作られたものとは思えない出来の良さで、フィリアルは満足そうに素敵だと絶賛した。
美衣歌の前にハインツが歩いてくる。その手には綺麗な栗色に染められた長い付け毛が大事に乗せられていた。
ハユラに染められた同じ色をした付け毛は、毛先が緩くカールしている。
見た目は人の毛にしか見えない。毛の一本一本が触ってみたくなるような、艶がある。
一房手にすると、手からこぼれ落ちた毛はさらりとなめらかに滑り落ちていった。美衣歌の地毛よりも指通りが良さそうだ。
「腰までの長さでお作りしていますが、長さを確認するために一度つけさせて下さい」
美衣歌を椅子に座らせ、耳の下で揺れる髪をハユラが櫛を使って丁寧にまとめる。左側の髪をかきあげた時、耳の後ろについている赤いなにかの痕を見つけた。染めている間に傷つけていたのなら、一大事だ。フィリアルの姪っ子様に無意識ながら擦り傷を負わせていたのかもしれない。
この丸い痕は本当に擦り傷なのだろうか。じっと凝視してから、擦り傷ではない、別のモノと気づきハユラは顔を赤く染めた。
「す、すいません!」
慌てふためいて、すくいあげまとめた髪を離してしまい、ハユラの目からそれは隠された。
「なにかありましたの?」
「あの、なんでも」
ないと言い切る前に、ハユラの行動を不思議に感じたフィリアルが美衣歌の髪を乱暴にかきあげ、左耳の後ろについた真新しい痕に頬を緩ませた。
色っぽい話はしていない、だ。していなければこんなに近づくことはできない。
「こんなところは見つからないと思いましたの?」
アルフォンが何のことだと首を傾げた。身に覚えがない。
フィリアルはじれったそうにアルフォンを呼んだ。
同時に美衣歌は耳の後ろに何があるのか気になった。見えない場所にフィリアルが喜ぶ何かがある。
男性が近づく気配に、自然と身体が強張る。男の人と関わることが極端に少ない美衣歌は、異性が近くにいるだけで、緊張してしまう。
フィリアルの指す場所をアルフォンが屈みこむ。
「な、なんだこれは!?」
息を飲む音が耳に聞こえて、心臓が跳ね上がる。
驚愕の声に次いで、美衣歌の肩が強く掴まれ、丸椅子に座った身体が時計回りにまわる。体の体制が崩れ、椅子から落ちそうになるのを支えられた。
アルフォンの正面にむくと、真剣な眼差しとぶつかった。
「――っ」
指が肩に食い込み、痛みで顔が歪む。手を払いのけようと両手をアルフォンの間に入れ、相手の胸を押したけれど、びくともしない。
「お前、これどうしたんだ」
何のことか分からず、きょとんとする。理解していない美衣歌に掴みかかるようにして、アルフォンは迫った。
「耳の後ろの肌についている赤い痕のことだ」
そこまで言われても何のことか理解できない。耳の後ろをケガした覚えがない。ケガをしたのならその場所がひりひりと痛くなるはずで。痛くならない痕といったら――。
(!?)
ようやく理解して、驚いて両耳を手で隠した。
そんな恋人同士がするような行為をされた覚えがまったくない。
「誰にやられた」
ここ最近のことを思い出す。寝ている間に机の角でぶつけたかもしれない。とにかく覚えていないのだ。変なところを見られた恥ずかしさに、顔が火照った。
「ね、寝てる時に何処かにぶつけたのかも……です」
「ぶつけたにしてもこんな……」
そこでアルフォンは今の状況に気づいて周りを見回した。フィリアルがにやけた顔で二人のやりとりを見守っている。
舌打ちすると、肩から両手を離し顔を背けた。背けた顔は赤くなっているように見えた。
「ハユラ、これをつけて差し上げなさい」
手の止まっていたハユラをハインツが指摘する。早く仕事を終わらせろと、暗にせっついている。
髪を急いでまとめ上げ、ハインツの上出来過ぎる偽の毛を慎重に持ち上げ、美衣歌の後ろに装着し、まとめあげた髪を下した。櫛でとき、なじむように整える。
つけられると後ろに付け毛の分、後ろに重みがきた。つけている場所は触らなくてもわかる妙な違和感がある。
頭の重心が後ろに持っていかれそうになるのを堪えた。
椅子から立ち上がり、フィリアルに正面から視認する。
髪を手ですくい、色を、手触りを確かめる。触って違和感が少しでもあってはならない。
「上出来ね。長さ、色、手触りとどれもとてもすばらしいわ」
両手を叩いて絶賛した。
コーラルに手鏡を手渡され、覗き込む。
自分とは思えない、別人の美衣歌が映っていた。
栗色の長い髪をした、少し大人びて見える黒い瞳の少女。毛色のせいかもしれないが、別人に見えた。
長さが見たくて鏡を斜め上にして、見上げる。長い髪の自分が不思議そうな顔でそこには映っている。髪の長さは、よくわからなかった。横から映してみても、同じだった。
髪色、長さで雰囲気、外見年齢が違ってみえる。
「スティラーアさま。とてもお似合いですよ」
手鏡で物珍しげにあちこちを映していた美衣歌の手鏡を、強引に奪いながらコーラルは褒めた。
もう少し雰囲気の変わった自分自身を見たかったのに、鏡をとられてしまった。
肩を落として、フィリアルとは違う視線を感じた。
振り向くと、アルフォンが美衣歌を凝視していた。
「あの」
微動だにしない彼に、不安になって、声をかける。
アルフォンは目の前で見上げている美衣歌にバツが悪そうに、顔をそむけた。
見たくなくなるほど、似合っていないということなのだろうか。
黒い瞳に、栗色の髪。茶色い瞳だったら、栗色に合っていたかもしれない。
瞳の色まで変えることはできない。カラーコンタクトなら変えられる。けれど、目の中に何かを入れるには抵抗感と恐怖心があってできそうにない。
怖いのは初めだけと聞く。薄っぺらい異物が目の中に入り続けているのかと思うと、違和感が気になり、すぐに外してしまうだろう。
その違和感すらも、慣れてしまうらしい。
落ち込む美衣歌を気遣ってか、従者がアルフォンの背中を押した。アルフォンが従者を睨む。従者は素知らぬ顔で、待機の姿勢に戻った。
美衣歌にすっと、大きな手が差し伸べられる。
驚いて、アルフォンを見上げ、出された手に手を重ねていいのか、迷いあぐねていると強引に右手を取られる。アルフォンが屈み、美衣歌の右手の指に唇を軽くあてた。
慣れない行為に、胸が高鳴った。
「似合ってる」
取られた手はすぐに離された。
美衣歌は腕が固まってしまったかのように、手を取られたまま降ろせなかった。
「あり、がとうございます」
褒められたのだと、気づけず礼を言うのが遅れてしまった。褒められた喜びに、頬が緩みそうになるのを、顔を伏せて必死に隠したのだった。




