違法ではないが一部不適切な小説
『かけうどん一杯100円』
それがうちの近所にある美味いうどんの店の値段だ。
経営しているのは老夫婦で、もうずっとこの価格のままで変わらない。壁に貼られている手書きの価格表は、元々は白い厚紙だったのだろうが、今は薄茶色になっている。
胡麻と天かす、七味、生姜はかけ放題になっていて、金欠の学生達が毎日駆け込んでくる。かくいう俺も大学生の頃からこの店に助けられてきたくちだ。
この店はかけうどんだけ頼まれるとほとんど利益はないだろう。うどん一杯の原価は15円くらいだとは聞くが、それにしても立地条件が良すぎる。おそらく借り店舗ではなく自分達の土地なのだろうが、それでも店主夫婦の優しさがこの値段を維持しているのだと思う。
社会人になってそれが良く分かった俺は若い頃に助けられた恩返しをするつもりで、今では必ず何かしらトッピングをつけて注文するようにしている。
――さて、今日はたぬきうどんにでもするかな?
たぬきうどんと聞くと関東の人は天かすがたっぷりと乗っかったうどんをイメージすると思うが、この辺でたぬきうどんと言えば、切ったお揚げや葱を出汁のきいたタレに絡めたものがうどんにかかっているものを指す。生姜の効いたとろみのあるタレが麺に絡み、これがなかなかに美味いのだ。
俺がたぬきうどんと野菜の天ぷらを頼むと、店主の婆ちゃんが「いつもおおきに」と返してくれた。
行きつけの店に顔を覚えられているというのはなかなかに嬉しい。
――今日は生姜をふたつまみ追加で入れようか。
この店のたぬきうどんの生姜の量は、そのままだと子供にも食べやすいくらいの量に調節されている。大人は好みによって少し追加する者が多い。
そして俺が気分よく無料トッピング置き場に向かうと、そこには俺のいい気分をぶち壊す先客達がいた。
「先生、胡麻は体に良いんですよ」
「そうか、そうか」
先生と呼ばれた身なりの良い男が部下風の男の言葉に頷きながら、これでもかというくらいに胡麻をかけている。
本当にこれでもかというくらい、山盛りにだ。
この店は胡麻も美味い。擦りたてにこだわる店主が一日に何回も乳鉢で擦って、その乳鉢ごと小出しに補充している。無料のトッピングにそこまでするかと思うと頭が下がるのだが、先生とやらはそんな胡麻を何十グラムもかけうどんに乗せていた。
無性に腹が立った。
一杯100円のかけうどんにそんなに胡麻を乗せられたら赤字だろう。出汁の味だってわからなくなる。こいつらはブランドもののスーツに身を固めておいて、そんな事もわからないのか。
違法ではないが一部不適切というやつだが、違法でなければ何をしても良いとでも言うつもりか?
周りの見慣れた常連たちも嫌そうにその二人組を睨んでいるが、気づかないのか面の皮が厚いのか、先生とやらは部下のかけうどんにも胡麻を乗せ始めた。
頭に血が上り始めた俺の目に飛び込んできたのは、攻撃的な赤色の物体だった。
一瞬躊躇して、店主の老夫婦を見た。老夫婦は知らんぷりして働いている。
この二人に迷惑をかける事になる。店に出入り禁止にされるかもしれない。
それでもやはり、我慢ならない。
後で謝って、そして弁償しよう。
「そんなに健康に気を遣うなら、これもたっぷりかけるといい」
俺は七味の蓋を開け、そして穴の開いた中蓋もとり、先生のかけうどんの上で逆さまにしてやった。
そこからはもう大惨事だった。
部下が俺を怒鳴りつけ、先生とやらはヒステリックに嫌味を言い続け、俺は彼らにかけうどん一杯を弁償した。
本当に情けなかったのは、店主夫婦にまでそいつらに謝らせてしまった事だ。ちょっと考えてみればそうなる事はわかるはずだったのに、本当に自分の愚かさに嫌気がさした。
そして先生とやらは俺が弁償したかけうどんに、またこれでもかと胡麻をかけた。
涙が出た。
――弁償しよう。七味代と、それに迷惑料に胡麻代も……
そう思った俺は婆ちゃんの所へ行き、そして財布から五千円を取り出して「本当にごめん」と頭を下げて謝りながら差し出した。
婆ちゃんはそれを受け取らず、俺に海老天を差し出した。
意味が分からず、俺は頭を上げる。
婆ちゃんと目と目が合った。婆ちゃんは笑っていた。
俺の五千円は受け取って貰えないのだという事だけはすぐにわかった。
「ほんま、おおきにな」
婆ちゃんが嬉しそうに俺に言う。
俺は五千円を懐にしまい、そして泣きながら海老天を受け取った。
ふと見ると、先生と部下が俺と婆ちゃんのやり取りを目を丸くして見つめていた。
俺はそれを睨みつけそうになったが、目の前の婆ちゃんが笑ったまま会釈したので、目を合わせないようにして席に戻った。
席に戻る途中、名前もしらない常連が俺の背中や肩をぽんぽんと叩いてくる。
そして俺が睨むまでもなく、常連たちが先生と部下を鬼の形相で睨みつけていた。
流石の二人組もうどんも喉を通らないらしく、半分も食わずに店を出て行った。
その後も俺はそのうどん屋に通っているが、あの二人を見かけた事はない。
※この物語はフィクションです。実在する地名、人名、元都知事は一切関係ありません。