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線上の戦場

作者: ゆまち春

 武蔵野線といえば、よく止まる。

 雪が降れば動かないし、強風というだけでうんざりするくらい遅延する。

 目を回すほどの乗降者数を誇る日本の電車がまともに機能しなくなる理由は、災害だけではない。人がドアに挟まったり、踏み切りの中でスマホを見ている人が立ち止まっていたり、酔っ払いが赤子に突っかかったり。たくさんありすぎて例を挙げきるだけで夜が明ける。

 今日は、窓が割れたらしい。

 武蔵野線を走るどこかの電車の、どこかの窓が割れた。と、ホーム上部から流れるアナウンスが言っていた。

 窓が割れたとなれば確認作業が必要だろう、七時台の電車というのは学生も社会人も等しく乗り込むのだから。割れたガラスを放置すれば怪我に繋がりついでに炎上する。

 連鎖的に、確認のために武蔵野線上のすべての電車は停車する。

 電車に乗れないということは、乗客がはけないということだ。どこに送り届けられることもない未乗の乗客が、改札を通り、ホームに降り、個々で時間を潰す。

「いたっ」

「ああ、すまないね」

「いえ……」

 つま先をピンポイントで踏まれた。しかしそれもしょうがないと思ってしまう。顔をあげれば鼻先数センチに背広の背中がある。空を見上げようにも、人の数が多すぎてホームからはまばらにしか見えない。

 雑踏。それに加えて、雑踏。朝の通勤や通学のためにやってきた人たちが、ホームに積み重なっていく。コンクリートのホームの下に冬眠中の熊が住んでいたら、一人残らず殺すまで眠らない悪魔へと変貌している。

 そんな雑踏。カタコトカタコトうるさい。イヤホンから流れる音楽を強くする。

 ポケットから手を出す。ホームに設置してある電光掲示板には、遅延の赤い文字。遅れの分数が書いていないといことは、復旧の見込みはそれだけ遅くなるということだろう。

 通学カバンを持ち直して溜め息をついていると、人の波が動き出した。

 どうやら、遅延していた電車が徐々に動きだしたらしい。

 人並みに押されながら、出てくるその数倍の人数を電車はくわえ込む。無理矢理に、くわえ込まされる。

 咥えるという言葉の淫靡さたるや。朝から疲れている男には媚薬の如しだ。

 電車は言った。「もう、入りません。私じゃなくて次の電車に……」

「お前じゃなくちゃダメなんだよ!」どこかの背広姿の男が、そう怒鳴りながら吐きそうなほど膨らんだ電車の頬のなかに自分を突っ込ませる。

「うっ」どこかのおっさんのうめき声が聞こえた。脳内変換。電車娘の悲鳴だ。

「あなたで、最後ですから……」

 そう涙ながらにくわえ込んだ背広姿の次に、ジャージ姿の学生が俺もと俺もと押し寄せる。

 電車娘はきっと白眼を向きながら、それでも限界まで人を迎え入れる。

「ぜんぶ、は、はいった……?」

 笛の音。口が閉められる。電車娘は走り出す。

 ……こんなくだらないことを考えてみたが、やっぱり気は紛れなかった。

 電車の中には乗車率がオーバーヒート気味な数値をたたき出している。足の踏み場がない。前後左右からのプレッシャー。昼飯の入った鞄は空気を吐き出されてぺったんこだ。俺も内臓が潰れてぺったんこになりそうだ。

 両手の指では数え切れない数の人間が、一つの車両に詰め込まれた。当然の如く単位は十だ。

 揺られる電車。肘から先しか動かない。肩を動かそうものなら、たちまち俺が占領できている猫の額ほどのスペースも奪われてしまうだろう。

 初めての経験だ。俺の尻が誰かの膝に座っている。まさか生きている間に、人に腰掛けるという経験をすることになるとは夢にも思わなかった。

 体勢は違うが、気分は奴隷を侍らす王様だ。まあ、膝を曲げた人に腰掛けているから、俺も膝を曲げていて、俺の膝にも誰かが体重を乗せているから王とは程遠いけど。

『――――』

 イヤホン越しに、アナウンスのようなものが聞こえた気がした。

 途端、重力が横を向いた。

 力の向く方向に押し流されるように、体が斜めになり、乗客は体勢を崩しかけた。

 よろめく程度なら自分の意志でどうにかできただろうけど、全方向から圧力をかけられていた俺はなすがままだった。

 形状記憶のように元の形に戻る乗客の層。何が起きたのか、落ち着いてからようやく把握できた。

 電車が急停止したのだ。

 慣性の法則で、乗客だけが進もうとして力を受けたのだ。

 何故、緊急停止をしたのか。アナウンスが何事か喋っているのだが、直前に上げたボリュームが災いして、何一つ聞き取れない。身動きは取れず、ポケットの音楽プレイヤーに触れることすらできない。

 電車の中は熱気がこもっている。人が狭い場所に詰め込まれていることや、最近の陽気が春爛漫を通り越して灼熱の夏を帯びているのが原因だ。

 どうにかこうにかして、パーカーのファスナーを開きたかった。開いたところで焼け石に水なことはわかっていても、身動きが取れず、かつ外に出ることもできない状況というのは精神を圧迫する。

 先程の揺れで腰掛連鎖は緩和されたおかげ、左腕の先だけは動かせた。しかし、それを首に持ってくることはどう頑張ってもできなかった。

 そんな試行錯誤に十分ぐらい使っていたが、電車が動き出す気配はない。ホームから離れていない場所で停車したらしく、ボウリングのピンのような人混みが見える。次の停車駅であれが待ち受けていると思うと絶望的だ。

 どうにかして、もっと居心地のいい空間を得たい。できることなら、人一人分の陽だまりを確保したいカルマ!

 決意する。こんな牢獄のような場所でも、俺は自分の居場所を確保してみせると。

 今は戦国時代だ。ここは合戦場だ。

 なら俺は何をすればいいか。

 まずは敵情視察だ。

 確認で周りの人を押す。びくともしない、まるで岩だ。圧力の計算。プレッシャーランキング一位は、自分よりも外側にいる人間。ドアに近いほどぎゅうぎゅう詰めということだ。

 俺の背後にいた軍勢が、背中を押してきた。

 助太刀を期待したが、押された力が違うと告げてくる。これは、山火事で相手の領分を奪い取ろうとする行為。

 エセ助太刀に加勢するかのように、俺の頭に肘が当たる。誰かが手すりを掴むフリをして、俺に戦争の狼煙をあげさせようとしていた。

 軍勢を見る。

 車内を大きな島国で分けたとき、中央は屈強だ。ボディービルサークルの大学生が席巻している。ひょろな新卒や柔な学生では相手にもならない。

 おっさんと、座席前に逃げようとして失敗した奥様方。同じような手前が、鏡面にした反対側のドア近くでも繰り広げられている。

 これは戦争だ。

 狭い資源を奪い合って、心地よさを手に入れる戦だ。

 手薄なのは、真ん中と反対側のドアの間だ。

 どうしたらあそこを食い破れるか。それは、どのように電車に乗り込んできたかを考えれば一目瞭然となる。

 現状は、たぎるマグマを押さえつけるような地表に似ている。何層にも重なった乗客は、時間をかけたおかげで整っている。

 レイヤーという構造が、整っている。それは、縦の隙間は食い潰したようだが、横から押してしまえば、余力がある空間に彼らを押し込むことができるということだ。

 ただでさえ真空パックの米粒のような圧迫感で貧窮している彼らを、更に追い立てる。これは極悪非道だ。地獄に墜ちる行為だ。

 だがやろう。

 すぐさまに伝令を飛ばす。

 俺がいるのはドアの近く。今から追い立てられる羊が如く弱者は筋肉を挟んだ同じような場所。俺が直線に押しても、筋肉に阻まれるし、縦構造だからびくともしない。

 恩恵を受けたいのなら、動かなければいけない。だから散らばっている地主に命令を飛ばす。

 やり方は簡単だ。横の人間を押せばいい。すれば、俺の左側の人間は窮屈だと感じ、なのにわざわざ押す俺の愚かな行動の本意を考える。意図に気付いた人間は、伝令を飛ばす。穏便主義者に阻まれなければ策は燎原の火よりも速く広まる。

 そしてこの策は、俺が動くことで始まる。

 俺が動かなければ、戦場はいつまでたっても拮抗していることだろう。だからこそ、背後の人間は俺に指揮官の立場を任せたのだ。

 未だに、膝が俺の腿を打ちつけている。

 この作戦が始まったとき、狼に追い立てられる哀れな羊たちは、危機となれば一方向ではなく拡散して逃げるだろう。レイヤーは縮小するのではなく拡散するのだ。子を護る母が獅子の如く、命がけの羊は中央に居座る筋肉を追い払うルシフェルとなる。

 そうなったとき、中央に座していた筋肉はどこへいくか。他の余力がありそうな場所だろう。だが、そんなものはここにはない。

 ないとわかれば、今度は筋肉が王のように中央に君臨することになる。牙城を作り上げるのだ。そうなってしまえば、もうお釈迦までさえ手は出せない。狼と羊は文字通りのサンドイッチになる。そして狼の遺族は、俺の背後を取る夜叉どもに命じて、俺の首を取りに更なる肘をぶつけてくるだろう。

『――――』

 筋肉がお城を建てようとさせないために、余力がありそうな場所に妥協で移動させなければいけない。そのために、俺の周辺は余力がありそうだと思わせなければ行けない。

 一時だけ、動かせればいいのだ。

 まとめた消しカスみたいな団子になる一歩手前の満員電車。余力なんてどこにもないに決まっている。それでも、少しだけ空間を開ける、そのたった一つの方法とは。

『――――』

 俺は蛇のように上半身をしならせ、数多の岩に阻まれていた右手を無理矢理に取り出した。

 樹海から這い上がってきた右手を、そのまま天に突き立てる。触れたプラスチックの手すりを掴むと、誰かの手とかち合いそうになったのが見え――

 ――電車が、動いた。

 揺れる。乱れる。国境が生クリームのように掻き立てられて、また固定される。

 掴んでいた手すりを蜘蛛の糸のように握り締めていた俺は、音沙汰なく動き出した電車の惨状を嘆いた。

 なんてこった。

 新たな境界線を見渡す。崩落が起きた。

 そのせいで、羊が消えていた。最早、弱者は羊とさえ呼べない。ラムだ。ラム肉だ。加工され、かき混ぜられた鍋の一部だ。

 人の熱でへばりついたブラインドのせいで、窓の外を見ることはできないが、きっとにっちもさっちもいかなくなった現状のような曇天模様だろう。

 天国への意図を直前に掴んでいたおかげで俺は倒れずに済んだが、まだ安全ではない。なんせ、電車は走り続けるのだから。

 残すは四駅。右脚が浮き、肩紐がうどんのように肩からつるりと抜けた今、耐えられるだなんて甘い上方予想は立てられない。

 俺は、諦めて、右手の行方をくらました。

 蜘蛛の糸を手放す。途端に、切れることのない手すりが誰か――まだ生存できると自惚れている者の手中に落ちた。

 降参だ。

 俺は体の力を抜き、身をなすがままに樹海に放り投げた。嗤ってしまうことに、俺の体は微動だにしなかった。そこで気付いた。そもそもこの箱の中で、俺のような浅知恵で若輩者が指揮を取れるわけがなかったのだ。

 アイアンメイデン。

 針の尖った棺型の拷問危惧を思い浮かべながら、俺は電車の中でたゆたんだ。


あとがきその1

 タイトルつけなくちゃいけないんでとりあえず二秒で打ち込んだ。検索したら百個くらいありそうなタイトルで悲しくなる。だがやろう


あとがきその2

 先週の(2016/04/27から見た先週)木曜日(21日)に、三十分くらいぎゅうぎゅう詰めの電車の中にいました。携帯を取り出すこともできなければ、直前に音楽を一曲でループさせる設定にさせたことも相まって、退屈してました。満員電車で立ちながら寝られるほどの豪快さは持ち合わせていないため、こんなことを考えるしか暇を潰せませんでした。


あとがきその3

 この物語で伝えたいことは、今後、どっかのキャラクターが電車の窓を割るようなことがあれば、どこかの誰かがこんな被害を受けているという無用な棘を残すことにあります。はた迷惑極まりないですね。だがやろう。

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