ダイアモンドダスト
私立であるせいなのか、クリスチャン学校であるせいか、ただ一般の高校とズレているだけなのか…私が三年間通った学園の卒業式が執り行われたのは、まだ桜の蕾が堅く閉ざされた時期。それどころか、薄いながらも雪すら積もった。
まだるっこしい式が終わった後、私は真っ先に、学園の隅に位置する小さな教会へ向かって走った。粉砂糖を振り掛けられたような校庭を横切り、やはり粉砂糖に屋根を覆われたビスケットづくりのような、小さな建物に飛び込む。
空っぽの長椅子が2列にぴったりと並ぶ、その間の通路を小走りに駆け抜ける。一番奥の壁を見上げれば、手作りにしてはよく出来たステンドグラスが、冬の弱い日差しを透かして控えめに輝いている。顔も知らない、元美術部員達の作品。
長椅子の最前列まで走る。ステンドグラスの真下にはやはり空っぽの教壇、そこにぶつかる前に、速度を落としながら右側へ折れる。突き当たりの扉を一応礼儀として叩くが、返事は待ちきれずにノブを回した。
たちまち、暖かい空気が私を包んだ。
私はいずれ、この暖かい空間から
本当の旅立ちを成さなくてはならない
「友人や先生と、お話しなくて宜しいのですか?」
神父はそう尋ねながらも、長居出来るようにココアをいれる準備を始めている。
「トモダチとは、どうせしばらくはメールなりなんなりで付き合い続くし」
ソファに座ったまま、神父の、ぱりっと整った紺の背中を眺めている。
「それに、学校にもまだ、しばらく来るから」
そうして待っているうちに、そう広くない事務室に、とろけたような甘い香りが立ちこめて−−
いつもの風景。
「なら、こちらにもいつでも寄ってくださいね」
振り向いて微笑む、その目尻の皺もいつもと同じ。
もどかしいくらいに
昨日までの続きを保とうとする空間から
まだ、もうしばらく、抜け出せそうにない
「あーあ、いいなぁ。神父サマは卒業式出なくて良くて」
三年のうちに私専用になった、淡い水色のカップを両手に包み込み、顔に近付ける。外気に冷やされた頬が湯気に温められていく。
「私は、教師としては小学校担当ですから」
彼のカップは白。持ち主によく合う色だ。
「おんなじ学園内にいるんだから、高校も受け持ってくれればよかったのに」
ソファの背に沈むように体を預ける。こう居心地が良くては、長居しても仕方がない。居眠りしたって仕方が無かったのだ。
私にとってはあんたが、誰よりも『せんせい』だったけど
なんて台詞、わざとらしくて吐けやしない
背中と一緒にソファに埋めてしまう
「…こうして見ると、成長したようですね」
向こうから、わざとらしい−−『卒業の日』らしい−−言葉をくれたものだから、少し拍子抜けした。
でも、そんな言葉を素直に受けとめられるくらいには、私のヒネクレはこの三年でほぐれていた。
「ホント?どのへんが?」
だから、ソファに沈んでいた身体をわざわざ起こして、聞いてみたのに、
「自分では分からない方が良いんです、そういう事は」
でないと成長は止まってしまうものです−−なんて、ちょっと厳しいようで、思わず納得してしまう格言が返る。
優雅な仕草でカップを傾ける、その白いカップの中身は、甘い優しげなマスクに似合わず、苦い苦いブラックコーヒーだったりする。
「…はあい、もっと成長しまーす」
教師に対するよりは可愛げのある返事をして、甘い、甘ったるいココアをすする。
いつか、私が苦いコーヒーを飲めるようになったとしても
その時は、やっぱり
手の中にあるのは、このカップでは無いのだろう
「温暖化って言っても、全然あったかくならないね」
小さな絵画のように風景を切り取る小窓を眺める。粉砂糖の降り掛かった校庭、積み木みたいな校舎。
「冬来たりなば、春遠からじと言います」
「はあ」
「よって、温暖化で冬が来るのが遅かったからこそ、春も遅いのではないでしょうか」
「……そういうもんなの?」
今度は納得しにくい。
格言を発する事が多々ある神父だが、同じくらいその発言は理屈っぽいのだ。
「そう言えば、佐久川さんの春はもう来ましたか?」
「どの春?」
「無論、受験の」
「…………………まだ」
可笑しな事に、神父はにこやかに相槌をうつ。私のこの渋い顔が見えていないのだろうか。
そして、それでいいんですよ、と言う。
一昨年の秋のように。
一昨年の秋も私は、親にも教師にも友人にも、そして当然のように神父にも『まだ』を繰り返していた。
『まだ』を言わなくなったのは、去年の初夏。
「まあ、試験日がまだだし」
「それもありますが。ちゃんと、自分で選んだところを受けるんですね」
「うん。受かる率は五分五分…いや、四分六分ってとこだけどね」
むしろ三・七?サラリーマン?とくだらない洒落に、笑ってくれる。
「迷うって、悪くなかったでしょう?」
「うん…まあね」
遅かった冬
今までにないくらい厳しい冬
迷って悩んでもがいて
春も遅くなってるけど………
「ぎゃあああ!!?!」
暖かい空気だけでなく、飛び上がるほど冷たい、溶け始めの雪も私を引き止める。
「おや、日が強くなってきたんですね」
三角屋根の軒先より内側に非難したまま、神父はのんびり冬空を見上げた。
「つ、つめたい…」
「頭を拭いていきなさい。ああ、まだ戻らなくても大丈夫ですか?」
「うん……まだ、いい」
災難にすら甘えて、暖かい部屋に、柔らかいソファに結局居ついてしまう。
まだ、旅立ちは遠い。
でも。
「雪が溶けたなら、春はもうすぐですね」
神父は微笑む。厳しく、限りなく優しく。
どんなに迷っても
どんなに遅くなっても
春は必ずやってくる
確実に春へ向かって歩いていく、自分の足音を聞く
びしゃりと濡れた髪のまま、神父の傍ら、私は校庭を振り返る。
一面の、溶けかけの粉砂糖が、緩い、でも少し強まった日差しを浴びて、ガラスの破片を振りまいたようにきらきら輝いている。
吹き上がらない、ダイアモンドダストのようで。
いつまでも甘い砂糖の上にへばりついてちゃダメなんだな
そうは思いながらも、私は神父の大きな手を引いて、また甘いココアをいれてくれるように急かした。
早めに執り行われた卒業式の日。
舞い上がりそこねたダイアモンドは、私だけではないのだろう。
でも、彼はそれで良い、と言ってくれるから。
急ぐことはない、と笑ってくれるから。
ダイアモンドでなく、桜が舞う空へ、私をゆっくり、ゆっくりと押し上げる。
春風のように。