「本で読んだのかもしれないですね」
リズテアナ魔法学院の食事はさすがと言えるレベルのもので、時折は食べ終えたクラウディオやオルテンシアがシェフを呼び出して褒めるほどであった。――それがどれだけシェフにとって光栄で誉れ高いことか知ってはいるのだが、どうしてもルシィは「お忙しいところ呼んですみません」と謝ってしまい、コンラドは「話してる間、俺が皿洗いを」と名乗り出てしまう。環境の違いというやつだ――
王族が通う学院なのだから当然と言えば当然、一生徒と言えど国内の頂点に君臨する人物にそこいらのレベルの食事を食べらせられるわけがない。ゆえに教育施設といえど最高水準の食材と一級のシェフを用意し常に満足のいく料理を提供できるようになっていた。
……なのだが。
「なんか、こう……」
とは、食堂で買ったパンを食べるルシィ。
上質のパンはきめ細かくモチモチしており、挟まれた野菜は学院の食堂の品とは思えないほどに瑞々しく、メインの肉は肉厚ながら柔らかくてしっかりとした味付けがされている。どの具材も最高のものを最高の状態に仕上げており、品の良い味わいと舌触り、鼻に抜ける香りと後味は美食家すらも両手離しで褒め称えるだろう。
聞けば学院の食堂に勤務するシェフやパティシエは国外問わずファンが着いているような人物らしく、入学できないならばせめて一口でも味わってみたいと渇望する者も多いという。リズテアナ魔法学院の食堂に数年でも勤めていたという実績があれば将来職に焙れることはなく、一度応募が掛かれば国内どころか国外からも山のように募ってくるとか。
そのあまりの規模に、聞いていたルシィが唖然とする。そんなところに自分がいると未だに実感がわかないのだ。
思わず手元のパンを凝視してしまう。食堂で売られている品のなかでも一番シンプルなものだが、これだけでも市場ではゼロが二つ付け足されるような額になるという。
そんなものを……と思いつつ、それでもルシィは何かひっかかると言いたげに眉間に皺を寄せた。再びパンに口をつければなんとも言えぬ深い味わいが口内に広がり、濃厚でコクがあるがけしてしつこくはない味わいと共に肉がホロホロと崩れる。それを包むパン、野菜、全てが計算し尽されたうえで最高級の味を演出している。
百人に食べさせれば百人が美味しいというだろう。八十人くらいは言葉を失うかもしれない。先程の話も納得の一品だ。……だけど何かが違う。
先日まではどれを食べても感動すら覚えていたのに、いったいどうして今日になってあと一歩足りないと感じてしまうのか。
リズテアナ魔法学院のパンに対してこの言いぐさなのだから美食家達に助走をつけて殴られそうなものだが、それでも一度覚えてしまった物足りなさは拭えない。
「シェフに飽きたのかもな。王宮から何人か連れてくるか?」
「クラウディオ様、こんな平民に王宮のシェフなんていけません! 土でも食べていればいいのよ、それか私のトマトを食べなさい!」
まったく!と言いたげにオルテンシアがルシィを叱る。――もっとも、オルテンシアの発言は大人が子供を窘めるような声色ではあるが、手元ではせっせと自分のサンドイッチからトマトを抜いているので説得力は皆無である――
もちろんルシィもパンに不満があるわけではなく、王宮のシェフなんてとんでもないと首を横に振って答えた。
不味いわけではない、美味しいと感じている、だからこそ理由が分からないのだ。何が足りないのかを言い表すことさえ出来ず、どうしていいか分からずそれでも味気なさを感じてサンドイッチを二つ残してランチボックスの蓋を閉じた。
クラウディオが心配そうに顔を覗き込んでくる。トマトを突っ返されたオルテンシアが恨めしそうに睨みつけてくる。そんな光景をコンラドだけが冷静に眺め、考えを巡らせるように沈黙をたもち……ふむと小さく呟いた。
「今日は魔力の循環を学びます」
とは教壇に立った教師の言葉。
彼女の手のひらには小さな箱がのせられており、それを見せつけるように顔の高さに掲げながらのこの発言に生徒誰もが疑問符を頭上に浮かべた。
「身体の内から魔力が湧く感覚、そして使う時の流れを学んでもらいます。この魔法具は魔力の流れをよりはっきりと伝えてくれるんです」
そう教師が説明すれば生徒達が魔法具に視線を向ける。
曰く、魔力が体内を巡る流れを知ることにより効率的に魔法を使えるようになるらしい。魔力の消費を抑えることも出来るらしく、これにはルシィも興味深いと教師の手元に視線をやった。
見たところ普通の箱だ。不思議な模様が彫り込まれてはいるが魔法具というほどの仰々しさはない。
「では一人ずつ使ってみましょう。そうね……魔法で花の飾りを作ってもらおうかしら」
綺麗なのを作ってね、とまるで子供相手のように教師が告げれば、その明るさに誰もが楽しげに沸き立った。入学して初の魔法を使った授業なのだ。このために入学したとさえ言えるのだから、これに沸かないわけがない。
もっとも、ルシィだけは慌てて手元の用紙に朝淹れたコーヒーの分量を書きだしていた。ミルクに入れた砂糖の量、コーヒーに入れた砂糖の量、日々砂糖を多めにしているのにそれでも今朝も苦いと文句を言われたので明日は今朝以上に砂糖の量を増やしておかねばならない。
「えぇっと、あと何かあるかな……。花の飾りならたいしたことなさそうだけど、誰かさんうるさいからなぁ」
「さっきからなにブツブツ呟いてるのよ。ほら、貴女の番よ。どうせ平民の魔法じゃ枯れた花一輪出すのが精々だろうけど、呼ばれたからには行ってきなさい」
高飛車に急かしてくるオルテンシアにルシィが肩を竦め、言われたとおりに壇上に向かう。
そうして教師に促されるまま魔法具に手をかざし、ゆっくりと息を吸って瞳を閉じる。横から「綺麗なお花にしてね。出来たらお部屋に持って帰って飾って良いからね」という教師の言葉が絶えず聞こえてくるが、それは聞かないふりをしておく。――「集中してね。集中するほど綺麗な花が出来るのよ」と終始話しかけてくるのはどうかと思えるが、それすらも雑念だと掻き消しておく――
といっても生憎とルシィは花に詳しくなく、名前を知っているのは片手の数ぐらいだ。綺麗な飾りを作るもなにも、まずイメージが湧いてこない。
それでも反応しはじめたのか脳が委縮するように揺れ、まるで大きな手で包み込まれて緩やかに力を入れられているような不快感が伝い始めた。
花……花の飾り……。
そう自分の中で何度か繰り返すも、やはり何も思い描けない。
だがその代わりに脳裏に浮かぶのは……一人の女性。美しい黒髪を一つに結び、優しげに微笑んでいる。形の良い唇が動き「ルシィ」と名前を呼んでくる。
彼女は……ええっと……そうだ『花屋のエレンナ』さんだ。
そうルシィが彼女の名前を……ノートに書いてあった彼女の名前を思い出した。幾つか前に居た場所だ、そこで世話になった花屋の夫婦。妹のように可愛がってくれて、別れる際に小まめに手紙を書くようにと何度も念を押された。
彼女の作る飾りは綺麗で、細かくて……。
そうルシィが揺らぐ脳で思い出すが、それとほぼ同時に脳が不快感を訴えだす。
脳の内側から萎んでいるような、まるで脳みそにストローをぶっ刺して吸われているような、そんな嫌悪感とさえ言える感覚にルシィが眉間に皺を寄せ……、
「まぁ綺麗!」
と聞こえてきた声に、パンと音をたてるかのように違和感が消えて瞳を開けた。
教師が自分の手元に視線を落としている。その瞳には興奮の色さえ宿しており、周囲からも感嘆の声が聞こえてくる。目を開けるやこんな注目をされてはルシィも混乱するというもので、いったい何だと原因を探る様に自分の手元を見て目を丸くさせた。
花飾りだ。白と水色の花を転々と飾り細かな花や緑で囲む、それを円状に形作ったその飾りは可愛らしく美しく、ルシィがそっと手にとった。
どこかで見たことがある……。
「ルシィ、大変素晴らしい作品ね。それはなんという飾りなのかしら」
軽く拍手をしながら話しかけてくる教師に、ルシィが彼女と手元の飾りを交互に見やった。
なんという名前だったか。そもそもこれは……。
「これは……リース……そう、リースです。壁や扉に掛けて飾る物……だったはず」
「リース? どこかよその国の飾りかしら。あら、花も生花じゃなくて加工されてるのね」
「はい、確か……特殊な液体に浸して……とか、そんな感じでした」
的を射ない発言をするルシィに、それでも教師は目の前の作品に夢中である。
魔力の低い生徒ならば花を一輪出すだけで精一杯、よくて花束、花束にリボンが巻かれていれば褒められるような状況なのだ。そんな中でルシィはこの国にない見事な飾りを作り出した。
「ルシィ、魔力の流れは感じたかしら?」
「……流れ?」
「体の奥から湧いて、体中を巡って腕から流れていく……。その魔力がこのリースを生み出したのよ」
「体の奥、ですか」
「最初から感覚を掴むのは難しいわね。何回も繰り返していくうちにきっと覚えられるわ」
そう背中を押され、ルシィが生返事で応えつつ壇上を降りて自分の席へと向かった。
チラチラと向けられる視線はリースが気になるけれどルシィに喋りかけるのが嫌ということなのだろう。とりわけ美しいものが好きでプライドの高いお嬢様方の反応は顕著で、ヒソヒソと「リース? 調べておきなさい」「花を浸す薬品、造花とは違うの?」と話し合っている。
ルシィとしては一言「見せて」と言ってくれれば隠すことも渋ることもないのだが、それでも視線を向ければ誰もがフイとそっぽを向いてしまうのだ。
なんて面倒臭い……と、そんなことを考えつつ席へと戻れば、オルテンシアがキラキラした瞳で両手を差し出し「みっ!」と急かしてきた。これはこれでどうなんだろう、と先程高飛車に言われた枯れた花一輪云々の言葉を思い出しつつ、それでも促されるまま彼女にリースを手渡した。
「まぁ見れないこともない程度の飾りよね。ただちょっと珍しくて、可愛くて、花も綺麗で、み゛、み゛ぃー」
「人語の範囲内で褒めてください」
「み゛ぃーい」
「部屋の扉に? 別に構いませんよ」
飾りましょう、とルシィが答えればオルテンシアがパァと表情を明るくさせる。
だが自分達に注がれている――というより未だリースに注がれている――視線に気付くやいつものツンとすました表情に戻ってしまった。
「品のない子供騙しな飾りだけど、扉の目印ぐらいにはなるんじゃないかしら」
「はいはい、そうでございますね」
「平民のくせに生意気な……でも、よくこんな飾りを知ってたわね。どこの国のものなの?」
そうリースを眺めながら尋ねてくるオルテンシアに、ルシィは答えようとし……言葉が出なかった。
「ルシィ?」とオルテンシアが先を促してくる。どうしたのかと窺うような視線に、ルシィはしばらく何かを言おうとし……、
「さぁ」
と首を傾げた。
ルシィ・ブランシェットは思い出せなかったのだ。