「そりゃ森から突き出るはずだ」
ルシィ・ブランシェットは思い出した。
自分がどれほど奇怪な存在かを、何をしようとしていたかを、どこに行こうとしていたかを、ついでに靴下の右側が裏返しであることを。
だが『思い出した』といってもそれは知識として得たと言った方が正しく、過去の事柄にあった感情までは湧いてこない。例えるならば、物語の概要を箇条書きで読んでいるようなものだ。
そのせいか「あぁそうか、そうだった」と呟く口調はひどく弛緩しているが、それでも記憶が蘇ったのはルシィにとっては有難い事であった。鬱蒼とした森の中でどちらに進めば良いのかが分かったし、そもそもどうしてこんな森の中にいるのかが分かった。あとどうして自分の周囲で狼が数匹死んでいるのかも理解できた。
これだけ分かれば充分だ。
そう考え、ルシィが小指の第一関節分にも満たないサイズの本を閉じた。極小を通り過ぎて肉眼では書き記された文字が読めそうもないほどの本だ。銀の鎖で首から下げているそれを、同じように首から下げているルーペと一緒に服の中に戻す。
そうして早速歩き出すのは、あらかたを思い出せば立ち止まっている理由も無いからと、狼の血と死臭で他の獣が来るかもしれないからだ。一日に二度も失うのは御免である。
それに記憶の限りでは自分はとある学院を目指しており、そして出席しようとしていた入学式は随分と前に始まっているはずだ。
間に合わないと焦って近道でもしたのだろうか?
そう過去の自分に問うも勿論だが回答などなく、ルシィはせめてと早歩きで森の中を進んだ。
ルシィの髪は濃い紫色である。日の光によって鮮やかにも暗くもなる不思議な色味をしており、瞳もまた同じ色だ。
綺麗ではあるが森の中を進むには目立ってしまい、どんなに木々が生い茂っていようと溶け込むことが出来ず浮いてしまう。そのうえルシィは人間なので、これは更なる悪目立ちである。
鬱蒼とした暗い森に紫色の髪の人間ときたら、どんな動物だって気が付き警戒するというもの。
つまり何が言いたいのかといえば……またしても獣と遭遇してしまったのだ。
それも今回はクマ。巨大な黒毛のクマ。それが道の先に構え、グルグルと唸りをあげて牙を剥いてこっちを見ている。その瞳はターゲットロックオンと言いたげで、ルシィが参ったと瞳を見つめ返した。
目を逸らせばクマは一気に距離を詰めて襲ってくるだろう。いや、見つめ続けていてもどうにもならないだろうけれど。
かといって走って逃げようにもクマのスピードでは一瞬で追いつかれてしまう。クマとはその巨体に似合わぬ俊敏な生き物なのだ。
つまりこれは危機的状態、絶体絶命といっても過言ではない。
「なんだってこんな道を行こうとしたんだろう……」
そう過去の自分の迂闊さをぼやく。何分か何十分か何時間かはたまた何日前かすら定かではなく、そのうえどういった理由があったかも断片的な記憶では思い出せないが、それにしたってこの道は誰が考えても分かる程の悪路である。
真っ当な思考回路ならば金を積まれたって足を踏み入れないほど陰鬱としており、周囲に漂う空気が有難いくらいに分かりやすく危険性を訴えている。
だというのにどうして……と悔やむも、どれだけ悔やんだところで何も変わらないのも事実だ。文句を言ったところで今もなお牙を剥き威嚇の姿勢を見せるクマが「そっかー、なら仕方ない! 通って通って☆」と気前よく道を譲ってくれるわけでもない。
だからこそどうしたものか……とルシィが眉を顰めていると、
「照明弾だ、目を瞑れ!」
と声が聞こえて来た。
その瞬間、ルシィが声のする方へと咄嗟に視線を向け……。
カッ! と弾けるように周囲を包んだ光に「目が!」と両目を押さえて悲鳴をあげた。
視界が真っ白。
目を開けても瞑っても真っ白。
だが聴覚は健在で、慌ただしげに数人が駆け寄ってくる足音がする。それを束ねようとしているのか指示を出す声と、次いでクマが逃げ去っていく音……
それと……自分に近付く誰かの気配。
「おい、大丈夫か?」
「どこのどなたか存じませんし今この状況では見えもしませんが、助かりました。ありがとうございます」
「目をやったか……すまない、一刻を争うかと思って咄嗟に放ってしまった」
「お気になさらず」
そのうち治りますから、とルシィが笑って返す。
いまだ視界は白く瞬いているが、それでも痛みはなく自分の体を確認しても失明した気配ない。自己診断は『放っておいて問題なし』だ、しばらくすれば治ると分かる。
あのままクマの餌かもしくはクマを撃退して一からやり直しかと考えれば、しばらく視界が不自由なくらい気にするようなことではない。
だからこそルシィは目の前にいるであろう男と思われる人物に対して礼を告げた。
「大事が無いなら良かった。だが、どうしてこんな森の中に?」
「それが私もさっぱりです。もっと良い道があったでしょうにねぇ」
「……さっぱりって、連れてこられたのか?」
「多分違うと思います」
「迷ったのか?」
「多分そうです」
さっぱりだとルシィが肩を竦めて見せれば、相手が溜息をついたのが白んだ世界で分かった。
どんな見目をしているかは未だ見えず分からないが、それでもさぞや呆れた表情をしていることだろう。そんなことを考えつつルシィが居心地の悪さからひとまずこの場を去ろうとし……。
「どこに行くんだ」
と、グイと腕を掴まれた。
「どこと言われても、照明弾の効果がまだ残ってるんでどっちに進んでいるのかすら分かりません」
「ならどうして行こうとするんだ。急いでいるのか?」
「急いでいると言えば急いでいますね。入学式は多分もう始まってますから」
「入学式って、リズテアナ魔法学院か?」
「そう、そこです」
覚えのある単語を聞いて、ルシィが反応する。
リズテアナ魔法学院、そこに行こうとしていたのだ。確か森に囲まれた場所にあり、そこを目指して歩いていた……のだと思う。その途中で狼に襲われたのだろう。
「学院の場所を知っているなら教えてほしいんですが、森から頭が見えてる建物で合ってますか?」
そうルシィが見えない視界ながらに空を仰ぐ。
視界が真っ白になる前、生い茂る木々の隙間から建物の屋根が見えていたのだ。だが生憎とリズテアナ魔法学院の外観はルシィの記憶になく、鞄に入っていた入学証明書と森の中の学校に丸を付けた地図、それらから推測してあの屋根がそうだろうと踏んで歩いてきた。
「貴方は生徒ですか? それとも教師ですか? 予想外に偉い方だった場合のために前もって無礼を謝っておきますね、ごめんなさい」
「……生徒だ。君より一つ上」
「先輩でしたか。ならこの程度の対応で充分ですね」
「丁寧に失礼だな。しかし新入生ってことは例の生徒か。一つ教えてやろう」
道を教えてくれるのか、そうルシィが目の前を見上げる。――といっても未だ視界は真っ白だが、彼の気配と声から察して頭一つ二つ高いと考えたのだ――
「ルシィ……確か、ルシィ・ブランシェットだったか」
「はい、そのはずです」
「そのはず、とは?」
「はい、そうです」
「説明が面倒だと思って言い直したな」
「まさかそんな。ところで、何を教えてくれるんですか?」
誤魔化すようにルシィが問えば、目の前にいるであろう先輩が呆れたように溜息をつき……、
「入学式は昨日だ」
と教えてくれた。
それに対するルシィの返事は「あらまぁ」と簡素なもので、これに対してもまた盛大な溜息を聞いた。
「クラウディオ……どこかで聞いたことがある名前ですね」
「覚えておけよ。俺の名前を知らないなんて、俺以外の奴に知られたら不審者扱いからの不敬罪コースだからな」
「良かったー、クラウディオさんの名前知らないことを知られたのがクラウディオさんで良かったー。あっぶなーい!」
「今からでも不敬罪コース行っとくか」
「ごめんなさい。ところでクラウディオさんは森で何をしていたんですか?」
じょじょに治りつつある目を擦りながらルシィが尋ねる。
先程まで真っ白だった視界も今は薄ぼんやりながらも人や物の輪郭を映し出し、今目の前にある濃紺の布の上質さも教えてくれる。とはいえ全回復とは言い難く、馬を走らせることで流れるように去っているであろう景色は殆ど見えない。
見えるのは自分を後ろに乗せて馬を走らせるクラウディオの背中と、抱き付くようにしがみつく自分の腕だけだ。
「今日は学院が休みだから、友人達と狩りに出ていたんだ。勝負をしようと二手に分かれた矢先に君を見つけて……しまった、このままだと俺の負けだな」
「なんでしたら、獲物の一部として換算してくれても構いませんよ」
そうルシィが答えれば、クラウディオが溜息をついたのが腕越しで分かった。
それも本日一番深い溜息であり、これにはルシィもやばいと己の発言を省みる。あまり呆れさせると馬から降ろされる可能性もあるし、ここは彼から質問が無い限り黙ってしがみついているのが良策だろう。
そう自分に言い聞かせるもすぐさま「わぉ」と間の抜けた声を漏らしたのは、生い茂っていた森を抜けた瞬間、眼前に見上げるほどの古城が現れたからだ。