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本の迷路で

作者: 吾妻巧

 静寂が息をするように、この場所はとても静かだ。

 勿論、それが嘘なのだと、ぼくは知っている。

 ぺたり、と。かつり、と。撫ぜるようにフローリングを蹴る音。

 ぱらり、と。ぱたり、と。肌に触れるように優しくページをめくる音。

 不規則でありながら、重なり合ってリズミカルに流れるそれらの音は、まるで時計の針が歩く音のようで、『静寂』を奏でている。

 ここは図書館。

 幾千、幾万もの書籍が眠る迷路。

 その中を、ぼくは彷徨っていた。

「次は何を読もう」

 同じように本を探す人、立ち止まり本を開く人。それらを無視するように、ぼくは本棚に目を向けたまま、徘徊をする。

 見るのは背表紙だ。背表紙にはその本の濃縮された情報が詰まっている。デザインされたタイトルロゴはその中に込められた物語を如実に示しているし、薄く色褪せてしまったそのもの自体は長い年月を過ごしてきたことを連想させる。それらを眺めて歩くことが、読書の第一歩なのだ。

「ウィンドウショッピングみたいなもんだね」

 なんて呟き、立ち止まった。

 正面にはよく見覚えのある棚。何度も何度も訪れた、好きなジャンルが納められた区画だ。

 ここにしよう。理由もなく、直感的にそう決断する。

 そうと決まれば、とぼくは本棚の上から下まで、ゆっくりを目を這わせる。見覚えがあるだけあって、読んだことのあるタイトルが数多く並んでいる。仕方が無いことだ。この図書館は本の入れ替えが決して頻繁に行われると云う訳ではないのだ。

 それでも、読んだことのないものが無いわけではない。長くこの場所に居ても、全ての本に目を通せるほど長い時間は過ぎていない。

 背後を何人かが通り抜けるぐらい時間が過ぎて、ようやくぼくは読みたい本に目星を付けた。下から三段目、その隅にあった他より少しだけ背の小さい本。余り誰も手に取っていないのか、その頭には埃が帽子を作っている。背表紙に打たれている、すっきりとした明朝体のタイトルはそんな状況の中でも凛として見えた。だから、目を引いてしまった。

「さて、と」

 ぼくは後ろの本棚に背を預けるようにして一歩下がり、腰を下ろした。正面に見据えるのは、お目当ての本。

 後は待つだけだ。

「誰がぼくにその本を読ませてくれるのかな」

 その声は、きっと誰にも聞こえていない。ぼくの姿が誰にも見えないように、ぼくの手がお目当ての本に触れられないように。そもそも、ぼくがここに――幽霊として居るだなんて、知らないように。

 時間は静かに過ぎていった。

 夜が来て、朝が来た。春が来て、冬が来た。

 多くの人がぼくの前を横切ってた。時には立ち止まった。それでも、小さな本を誰も手には取らなかった。

「ゆっくり待とう」

 誰に言い聞かせるでもなく、ぼくは呟く。

 そんな時だった。ぼくの目の前で、女の子が立ち止った。

 髪の長い女の子だ、とぼくは見たままを思う。何せ、僕からしてみれば、彼女の後ろ姿しか見えなかったのだ。しいて他にも挙げるとすれば、彼女の長い髪は、その先っぽをシュシュのような髪留めでちょこんと、まるで筆のように小さく留めていたことぐらいだ。

「――ん」

 彼女は喉の奥を鳴らしながら、しゃがみ込んだ。右手は本棚に並ぶ、背表紙の群れに向いている。その左手はスカートの裾をひざの内側へ抑え込んでいた。

 ぼくは興味を引かれて、腰を上げて彼女の横側に移動した。彼女の横顔が目に入ってくる。

 彼女は真剣な様子で、本棚を睨んでいるようだった。その心情は容易に推し量ることができる。次に何を読もう。そう考えているものだ。何せ、ここ――図書館に訪れる人の多くはそんな顔をしており、何より自分もそんな表情をしていると自覚があったからだ。

 本を物色する彼女を、ぼくはじぃと見つめる。

 彼女は分かり易いほどに文学少女然としていた。細い身体。色素の薄い真っ白な肌。お洒落を思わせない縁の大きな眼鏡。

 思わずぼくは小さく笑ってしまう。時代錯誤だ。こんな子が今の時代に居るだなんて。

「……その本が良いよ」

 だから、ぼくは本を探す彼女に向かって、囁くように言っていた。

 当然のことながら、その言葉は彼女に届いていない。駄目で元々、もとい、面白半分どころか面白全部。

 ――のはずだった。

「ん」

 彼女はまた小さく喉を鳴らして、手を伸ばした。

 下から三段目。埃の帽子をかぶった、他より小さな本に。

 かさ、と音を立てて本は引き抜かれた。積もっていた埃が周囲に舞う。

「けほ、けほっ」

 彼女は咳き込みながら、立ち上がった。その手には小さな本がしっかりと握られている。息を整えると、彼女はスカートのポケットからハンカチを取り出して、本を一拭きした。そして、

「――ん」

 と、満足そうに頷いて、本を抱きかかえた。

 彼女はぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、読書スペースへ向かって行った。ぼくもその背中を追う。

 取って置いた席に腰を下ろすと、彼女はすぐに本を読み始めた。

 ぱらり、ぱらり、とゆっくりとした優しい手つきでページが捲られていく。彼女の読む速度は決して早いとは言えなかった。寧ろ、遅いと形容するのが正しいぐらいだ。ぼくが二ページ読み終わるまでに、彼女の目は一ページ目の途中に向いていた。それに加えて、何ページか進んだと思えば、話の筋を確かめるべく前のページに戻り、またゆっくりと読み進める、というのを繰り返していた。

 そんな彼女の読書ペースのせいで、閉館のチャイムが鳴るころになっても、本は一向に読み進んでいなかった。

「ん」

 チャイムが鳴る中、彼女は満足そうに本を抱えて立ち上がると、元あった場所に本を戻しに行った。

「借りないの?」

 背中に疑問を投げかける。当たり前だが、返事は無い。

 彼女は満足そうな表情を浮かべたまま、図書館を後にした。

 次の日、彼女は同じようにやってきた。

 そして、同じように席に着くと、一進一退――いや、三歩進んで二歩戻る、読書速度で本を読み始めた。

「……ま、時間はあるんだし、たまにはこういうのもいいね」

 後付けのように呟いた言葉ではあったが、過ごして見れば実際その通りで、悪いものではなかった。

 彼女の小さく噛み砕くように丁寧な読書は、一緒に読む側としても心地よく、物語がすうと沁み渡っていくように感じられた。すぐに、ぼくは彼女と本を読む時間が待ち遠しくなっていた。

 彼女との時間は、長く続いたように感じた。

 一冊の本を読むだけ。それだけなのに――

 何冊もの本を読んでいるかのように、彼女は一つの物語で泣いて、笑って、怒って、哀しんで――ぼくも同じように感じさせられた。

「……もうすぐ、読み終わるね」

 決して長くない物語だ。一つの季節が終わるころになって、本は残り十数ページとなっていた。彼女の読書ペースがいくら緩やかであったとしても、あと一日あれば読み終わる量だ。

 同じように、チャイムが鳴った。彼女は本を棚に戻した。

 ――次の日、彼女は現れなかった。


 静かに時間だけが過ぎた。

 残されたあの本は、まだ誰も触れていなかった。まるで、彼女が続きを読むのを待っているかのように。まるで、ぼくのように。

 ふと、ぼくは窓の外を見る。

 晴れ晴れとした青の中に、桃色が待っていた。

 ああ、もう春だ。

 季節の移り変わりを感じさせられる。

 彼女はどこに行ったのだろう。あの本を読み終わることは、もうないのだろうか。

「――」

 途中で終わってしまうことは、これまでに何度もあった。そもそも、貸し出しができる以上、この場所で最後まで読んでいく人は決して多くない。

 それなのに――

「なんだか、とても残念だ」

 そう、感じてしまう。

 その時だった。

 がらり、と扉が開いた。

 入って来たのは――あの、女の子だ。

 額に少しだけ汗を浮かばせて、肩で息をしながら彼女は本棚の迷路を進んでいく。そして、あの本を抜き取った。

 ぼくは何も言わず、その背後を付いて歩く。彼女はいつものように、いつもの場所に座って本を開いた。最後の十数ページ。物語のクライマックス。

 ぱらり、ぱらり。ページをめくる音が、数分おきに刻まれる。

 待ち望んでいた、心地の良い時間。優しい、物語を奏でる時間。

 三十分ほどかけて、彼女は最後のページを捲り終えた。そして、ぱたり、と本を閉じる。

「……ん」

 満足そうに、彼女は喉を鳴らす。細められた目は、先程まで浸かっていた物語を、また思い返しているようだった。

「あ、ここにいたんだ」

 扉が開き、声が投げられる。当たり前だが、ぼくに向けられたものではない。

「写真撮った後、すぐにいなくなったんだから。みんな探してたよ」

 ああ、なるほど。

 ぼくはようやくそこで理解をした。

 新しく入ってきた女の子。彼女の肩に乗った、小さな桜の花びら。そして、手に握られた筒。

「……本読んでたの?」

 問いかけに、ぼくのすぐ隣の彼女は小さく頷く。

「――どうしても、読んでおきたかったの」

「そっか。しばらく学校、来れてなかったもんね」

 照れ臭そうに、彼女は笑った。

「読み終わった?」

「ん」

「そっか」

「……」

「行く?」

「……ん」

 名残惜しそうに、彼女は立ち上がる。そして、ゆっくりとした足取りで、彼女は抱えていた本を元の場所へ、戻した。

 ぱた、ぱた。

 スリッパの音を追うように、ぼくは二人の後を追う。

「……ん」

 出口に立って、彼女はくるりと振り返った。ぼくの視線が、彼女の視線と交わる。

「――」

「……あ、」

 ぺこり、と彼女は頭を下げた。

「ありがとうございました」

 釣られるようにして、その後ろの女の子も頭を下げていた。

「――卒業、おめでとう」

 楽しかったよ。

 そう、ぼくは――聞こえないはずの――声をかけた。

 顔を上げた彼女は、涙目で笑っていた。


 季節が過ぎた。

 この場所――図書館の静寂は相変わらずだ。

 ぺたり、と。かつり、と。撫ぜるようにフローリングを蹴る音。

 ぱらり、と。ぱたり、と。肌に触れるように優しくページをめくる音。

「……さて、次は何を読もうかな」

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