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3.



 すべてを終わらせようと決めたきっかけは、今日。


 千花は朝から友人と出かけていた。

 大学を卒業し、就職してから何年か経てば、周囲は結婚する者がちらほら現れる。二十代も半ばの千花の友人は昨年結婚、その時既にお腹に子どもができていたらしく、無事出産を果たしたとの報告を受けた。

 元会社の同僚ということもあって、それまで会社内には共通の友人と三人で遊ぶことがよくあった。

 そういった理由から、贈る出産祝いを二人で選ぶための買い物である。

 社会人になってから、人付き合いの大切さを思い知る機会は何度もあった。会社ではネットワークの意味も含め、それらの重要性が身に沁み、透だけではなく友人との関係も維持するようになっていた。

 予定では、朝から出かけ、贈り物を選んだ後は食事や買い物を楽しむ、となっている。ゆえに、帰りは夜になると千花は透に前もって伝えていた。

 ところが、急遽友人に電話が入る。それは緊急を報せるものだったようだ。

「ごめんね」と眉尻を下げる友人に、千花は怒った素振りを見せる。しかしそこに怒気はなく、責めるつもりではなく茶化すつもりだと、ありありと表れていた。

「埋め合わせ、楽しみにしてる」とおどけていえば、友人は苦笑して「了解」と残し、駆けていった。

 延期になった、午後からの予定。彼女は会社の友人だから、きっと埋め合わせは残業のない会社帰りになるだろう。

 そうして、一息吐き、千花は寄り道せずにマンションへ帰ることにした。


 ――この時、寄り道をしていたら、状況は変わっていただろうか、と今の千花は思わずにはいられない。


 今の千花には、大切なものがたくさんあるはずだった。恋人、友人、家族、仕事――帰る家。

 両親は共働きで忙しく、兄弟のいない千花は一人、家で過ごすことが多かった。友人は、できてもすぐに離れていった。だから大学まではなぜか友人も家族も比重が軽かった。

 しかし、社会人になって千花の世界が広がると共に、それらの比重も重たくなっていた。

 優先順位はやはり恋人と帰る家が上位にありはするが、昔の千花と比べれば大きな前進である。


 ――だが、崩壊はあまりにもあっけなく。

 千花の築いた世界は、まだ脆かった。安定があってこそ維持されていた。これから強固にしていくはずだった。

 そのことを、後になって彼女は気づく。



 電車にしばし揺られ、駅に着くと帰路を辿る。

 途中、毎年春になると透と花見をする公園の前を通った。桜の木は公園の少し奥に植えてあるため、わざわざそちらへ顔を向けなければ視界に入ってはこない。

 一目見たい、という誘惑に駆られながら、千花は我慢した。二人で眺める機会までとっておこう、と思ったから。

 公園を通り過ぎ、歩道橋も過ぎる。通学路になっているそこは、通学する小学生のために歩道橋が設置されていた。けれど、休日の今日は小学生の姿は見つけられない。近頃は公園でも休日遊ぶ子どもはあまり見かけなくなっていた。

 パソコンやゲームといった娯楽が豊富となった現代。それらがまだあまり普及していなかった頃を思い出し、時代の変化に溜息を零した。

 やがてマンションに到着し、エレベーターで階を昇り、数歩歩いて部屋の扉の前に立つ。

 透からは出かけると聞いていない。でも、もしかしたらいないかもしれない。

 そう思って、鞄から一応鍵を取り出しておこうと漁っていると。

 目の前の扉が開く。

(あ、いたんだ)

 思わず顔を上げ、千花は彼の名を呼ぶ。

「透く――……」


 ――この時の自分がいかに滑稽だったか。

 思い出せば、千花は嗤わずにはいられない。


 鞄に手を入れたまま、茫然と佇む千花。

 目の前には、自分とは正反対の肉感的な身体と色香を放つ女性。

 彼女も千花の存在に、驚くように目を丸くしていた。しかし、彼女はすぐなにかを悟るように、玄関から一歩出て扉を閉めた。

 千花に並んだ女性は、たおやかに長い髪を耳にかける。拍子に、以前透から香ったものとは違う、女物の香水のにおいがした。

「……あの」

 千花より背の高い女性を見上げる。顔は強張り、笑みなどつくれなかった。

 対する女性は値踏みするように千花を見下ろす。

「――あなたが、透の彼女さん? 彼、眠ってるわよ」

 なぜか蛇に睨まれた蛙のように、動くことができない。恋人である自分が、なぜ立ち竦んでいるのか。

 茫然となりながらも、彼女の言葉の意味は理解できた。つまり、言外に透と寝たと言っているのだ。

 女性は固まる千花を気にせず続けた。どこか、悲壮感を漂わせて。

「……お願い、透と別れてあげて。彼、あなたと交際してから、何度も浮気しているでしょう? 今はその相手がわたしというだけで、それ以前にも他の女の子と浮気していた。彼はわたしといる時、どこか辛そうなの。……心当たりは、ない?」

 それは、千花が浮気の原因をつくっていると言っているも同意。

「……別れたら、透くんが幸せになれると?」

 声が、震えた。純粋な問いと、かすかな憎しみのこもった声。

 けれど女性は怯まず反論した。

「わたしは、本気なの。本気で彼を愛しているから、彼のためにできることはなんでもしたい。憂うことがあるなら晴らしたい。彼がわたしを望んでくれたから、わたしは彼と付き合っている。本命じゃなくてもいい。彼が一時でも心休める時間になるなら」

 それは、本音だろうか。千花にはわからない。本気の恋だというのなら、なぜ本命でなくてもいいと思えるのだろうか。どうしても、千花には理解できなかった。

 でも、と思う。

 透も知らないだろうが、千花にとって、最後の砦が存在した。何度浮気されても、耐えていられた心の支え。

 それは、透が必ず千花のもとに帰ってくる場所、と信じた二人の家。

 だが、今、その砦は崩壊してしまった。

 ――そこに、透はこの女性を入れた、という真実。

 突きつけられた気がした。透が千花のもとに帰ってくる保証など、どこにもないという現実を。

 正直、女性の言葉など千花にとって半ばどうでもよかった。透が彼女を部屋にあげた、という事実一つで、千花の心はいとも容易く崩壊をはじめたのだ。

 ただ、確認したかった。千花が身を引けば、透が幸せになれるのかと。千花が身を引かなければ、透は不幸なままなのかと。幸も不幸も、千花次第ということを。

 ――自分は、そこまで透にとって心を占める存在だろうか。ないがしろにしながら、浮気を繰り返すというのに。

 この時、脳裏に過ぎったのは、なんだっただろうか。

 憎しみも悲しみも愛情も嘲りも、渦巻いているはずなのに、感じない。痛いもの、辛いもの、苦しいもののはずなのに、なぜか心に刺さることも揺さぶることもない。それはまるで、世界から遮断されてしまったかのように。

「……そう」とだけ言い残し、千花は踵を返した。

 女性は部屋に戻るだろうか。それならそれで、かまわない。



 公園に、行こうと思った。帰り道、通りかかったあの公園。

 正しくは、そのすぐ傍の歩道橋だけれども。

(私は、貴方にとって、どんな存在?)

 ぼんやりと歩きながら問う。

(どうだとしても、記憶の片隅にはおいてほしいなぁ)

 一歩一歩、確実に歩道橋に近づく一歩を進める。

 不思議と、千花の目に涙はない。心の痛覚を失った代償が、涙だったのだろうか。

 時刻は黄昏時。夕日によって、影が後ろに大きくのびる。

 昼間よりも、風が冷たくなってきた。顔にかかる髪を掻きあげながら、祈るように睫毛を伏せる。

(私を、忘れないで)

 ――そうするには、どうしたら、いいだろう。

 彼に、自分の存在を永久に残していてほしい。それだけを望んだ。

 どうせ捨てられるのなら……透が帰ってくるのを、待つ場所がないのなら、どうか憶えていてほしい。そう思うのは、我侭だろうか。

 ――彼を傷つけることで、それが可能だというならば。

 だから、透の目の前で死のうと思った。二人の部屋は女の気配が残るから、もっと別の場所。思い至ったのは、毎春二人で行った、公園。桜がきれいな季節になったから、艶やかに咲く桜を背景に。今年最後の思い出に。

 ――驚いてくれるだろうか。

 ――悲しんでくれるだろうか。

 ――苦しめばいい。傷つけばいい。

 それが、千花の願い。

 その時、心残りはなかった。大切なものをたくさん得たはずだったのに――交わした友人との約束も、大切に思ってくれる人々でさえ、彼女の脳裏に思い浮かびもしなかった。

 歩道橋が見えてくると、千花は鞄から携帯電話を取り出す。そうして、履歴から透のものを呼び出した。




***   ***   ***




 たゆたうような心地の中、千花は目を覚ます。

 長い間眠っていたかのように、身体はずっしりと重たい。

 ぼやける視界には、レースのような天蓋の紗で遮られた天井。少しずつはっきりとしてくる視野は、紗を通して見える天井が、いかに意匠の凝らされた芸術であるかを認識させた。

 さらに意識を研ぎ澄ませれば、自分がふかふかとした柔らかい寝台の上にいることに気づく。

(病院じゃ……ない?)

 病院のベッドはもっと硬いだろう。では、どこだというのか。

 状況を把握しようと、顔を横に向ける。そこには、日本人離れした端整な顔をくしゃりと歪めた透がいた。泣く寸前。そんな雰囲気の彼が。

 透は容赦なく千花を抱きしめる。寝台の上でまだ彼女は横たわっていたため、まるで透が覆いかぶさるかのような体勢になった。

 彼はひたすらに千花の名を呼び、首筋に顔を埋める。透の熱と吐息を直に感じた。

 それまで頭の中は、靄がかかっていたかのようだったのに、次第に晴れていく。

 透がいるということは、どうやら、生きているらしい、と千花は察する。

(……失敗、しちゃった)

 千花は思い、溜息を吐くように目を閉じた。


 透が落ち着きを取り戻すまで、しばらく時間を要した。

 やっと千花から離れた透は、寝台前に置かれた椅子に姿勢を正して座り直す。

 すると、時機を見計らったように、白い長衣を着た老人が寝台の傍に立った。

 彼は、白い髭と優しく垂れ下がった目尻、けれど威厳を感じさせる雰囲気を持つ。顔立ちは西洋圏のものと近いだろうか。どこか透の顔立ちと重なる面立ち。典型的な日本人顔の千花だけが、その場に浮いていることだろう。

 老人の格好は教皇を思い起こさせた。衣はよく見れば絹のように滑らかで、裾や詰襟には細かな刺繍が施され、価値のあるものだとわかる。

 彼は千花の目線と合うよう、床に膝をつけた。

「大丈夫でございますか? チカ様」

「はい」と答えたが、声が掠れた。

 その間も、透はずっと千花の手を両手で包みこむように握っている。

 透の姿に老人は苦笑し、「話が長くなりますが、後日の方がよろしいでしょうか?」と首を傾げた。

 体調面を考えれば、別の日の方がいいだろう。

 しかし、今この現状を彼は説明してくれるかもしれない。そう思うと、千花は多少無理してでも話を聞きたい。おそらく途中で辛くなれば、中断してもらうこともできる。

「お願い、します」

 言うと、老人は目を細めて語り始めた。


 老人の語りは奇想天外の一言に尽きる。だが、誰もが思いつかないようなことかといえばそうではなく、むしろファンタジーの物語のようであった。

 老人は、透を異世界から召喚したと言う。つまり、千花と透のいた世界から召還したと。

 界を渡るよう呼ばれたのは、透だった。

 彼は、透が遠い過去に世界を渡った異世界人の子孫だというのだ。その異世界人は、老人の国の初代王の血縁者であったらしい。現在の王は五代目というから、まだそんなに古くはない昔。

 では、なぜ今更透を呼んだか。

 それは、王家の血が絶える瀬戸際ゆえ、王家の血族を増やす目論見からそうなったそうだ。

 現在の王は女。できるならば、透と女王を結婚させたい思惑があると言う。それが無理だとしても、透の子と女王の子を結婚させたい、と老人は語った。

「この国は魔法に守られており、王家の血が、国を守っております。魔法が蔓延っているため、力は国を維持するには不可欠。特に、王家が王家となるに至ったのは、その血の魔力が強かったためなのでございます」

 老人は苦渋に満ちた顔で一息吐いてから、また話を再開させる。

「……建国以前は、隣国の植民地でございました。それが、初代王らのおかげで、ようやっと残虐な搾取から救われたのです」

 もし力を失えば、あっというまにもとの木阿弥。老人の表情はそう物語る。

 千花はそれに関して、なにも答えなかった。

 どうでもよかったのだ。だから、彼女にとって一番の関心事を口にする。

「……私、どうして助かったんですか?」

 自殺、したはずだった。透の目の前で。

 歩道橋から飛び降りたはずだった。その記憶も、ある。

 なのにどうして、こうして治療室に入ることなく生きているのか。

 途端、透の、千花を握る手の力が強まった。

「千花……っ」

 涙で詰まったような透の声。どうやら悲しんでいるようだ。

 だが、千花が視線を向けたのは老人。

 視線を受けた彼は、穏やかに答える。

「わたくし共が召喚したのは、トオル様お一人でした。しかしながら、召喚時、彼は貴女様を抱きしめておられた。申し訳ないながら、貴女様を巻き添えにしてしまった。……いえ、トオル様も、我らの巻き添えといえるでしょう」

 罪悪感を呑み込むように目を強く瞑った後、老人は千花を真摯に見つめる。慈しむような優しさをもって。

「召喚の儀には、誓約があります。法と共に、破ることは禁忌を犯すことと同義の。召喚の儀は、神への生贄と要領は同じ。なにかを差し出し、なにかを受け取る。逆になにかを奪えば、なにかを叶えねばならない」

「人魚姫の魔女と同じ、ですね」

 千花は独り言。

 老人とは異なり、召喚の儀は神よりも魔女との契約に近いと感じた。人間の足と引き換えに、声を渡した人魚姫。

 可哀想な人魚姫、多くの者はそう思うかもしれない。

 だが、千花は思う。それを願い、了承したのは人魚姫自身。

 今の千花には、彼女に同情する気などさらさらなかった。

「じゃあ、私と透くんはなにかを奪われたんですか? そしてなにを得るのですか?」

 淡々と訊けば、老人は深呼吸して、溜息と共に囁く。

「わたくし共は、貴女方から世界を奪いました。誓約の内容は、神殿にある書に記入し、成立します。よって、過去の誓約を反故することはできません。……つまり――再び貴女方をもとの世界に戻すことは……」

 罪悪感を示すように、言葉尻が消えていく。

 千花と透が元の世界に戻ることを望めば、老人らの願いが反故されたことになる、という意味だろう。召喚についての歴史がどうあったのかわからないが、もしかしたら過去に、そういったいたちごっこがあり、願いの条件がついたのかもしれない。

 透は目を眇めた他方、千花はそれにも「そうですか」と温度のない声で答えた。

 どうせ、千花は元の世界に戻るつもりなどなかったのだ。彼女は透の記憶に残るためだけに、死を望んだ。それは突き詰めれば、友人も家族も、大切なものすべてを捨てたということ。今更、大切な人たちにあわせる顔などない。皆がどう思うかはわからないけれど。

 老人は少し驚いた様子を見せたものの、続けた。

「トオル様を召喚した時、血まみれの貴女様を抱きしめておられました。そして、世界を奪った我らに、トオル様は願った。チカ様の命を助けてほしい、と」

 老人の皺だらけの手が、千花の頭をそっとなでる。そのあたたかさが、胸に痛い。

「愛されておられますね」

 やわらかい声音。耳に心地いい、老人の慰めるような言葉。

 千花の心に、喜びよりも切なさが過ぎる。泣きたくなるくらい、胸が痛い。心が疼く。

 苦しみといった負の感情を向けられることには、痛覚を失っていたが、どうやら優しさといったあたたかさに、逆に心が痛むようだ。

「わたくしは、国に仕える召喚師でございます。貴女様の願いも、叶えねばなりません」

 穏やかに、頼もしく笑んだ老人。

 それまで静かだった透は、千花の手を放し、老人の撫でていた部分を同じように撫で始める。その仕草が、まるで老人の手の感覚を消すようだった。

「私の、願い……」

 ぽつりと呟き、千花は顔を正面に戻す。


 ――透の傍に、いたかった。

 ――彼に、忘れられたくなかった。

 それが、千花が死の際に思ったこと。




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