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2.



(――死んでも、いいと、思った。彼に忘れられてしまうくらいなら)



 千花が透と初めて逢ったのは、中学生の頃。

 幼い頃から人見知りが激しく、人付き合いが苦手な千花にとって、同じ小学校出身の友人と同じクラスになれないことは致命的といえた。

 もともと、社交的ではない千花は友人が多くない。出身小学校も小規模で、生徒数も他小学校と比べて少ない。

 そう考えれば、友人と同じクラスになれないことは、確率的におかしな話ではなかった。

 透は、千花とは違う校区の小学校出身であった。

 同じクラスになった千花は、振り分けられた教室に一歩足を踏み入れた時、今まで自分が通っていた小学校の学級とは違う空気に息を呑む。友達はできるだろうか、クラスに馴染めるだろうか、そんな不安が胸の内に圧し掛かる。

 その教室で、一際人目を惹く存在があった。まだ幼さ残る透だ。通った鼻筋は形よく、切れ長の目元に程よい厚さの唇、それらの配置は見事なもの。どこか繊細で、かといって女性のように華奢というわけでもない、西洋の絵画にいるような中性的な美貌は異国の香りすら感じさせた。もしかしたら、彼の日本人にしては茶よりの髪色がそう見せているのかもしれない。

 彼は千花とは真逆の存在だった。

 教室内には、まばらにグループがあったが、その中でも大きなグループの中心に透がいる。おそらく、クラスの中心になるだろうグループ。それくらい、初登校の千花でもわかる。

 透のいるグループは、盛り上げが得意なお調子者から端整な顔立ちの少年と、個性も様々に粒揃い。誰もが垢抜けて、輝いて見えた。

 そしてその中心にいる透も、いわずもがな。グループ内での彼の役回りは、当初まだわからなかったけれど、人気俳優のように整った、異国の血を感じさせる容姿の彼に多くの者が惹きつけられていることは見て取れる。

 千花は、遠い存在だと思った。ぼんやりと眺める対象物。確かに格好いいが、千花にとっては違う世界の住人のように映り、”親しくなりたい”というよりむしろ”ただ単に偶然同じクラスになった、身目麗しい同級生”という認識で自己完結した。


 月日が流れると、千花にも友人と呼べる存在ができ、彼女にとっては透よりもよほど大切な人となる。

 お洒落で透のいるグループとの関わりが多い女子グループ、優等生の集まる生真面目な女子グループ、共通の趣味を持つ者が集まった女子グループと多種あれど、千花は内気で大人数の前では大人しめな女子グループに所属していた。

 ゆえに、あの日・・・まで透と接する機会はほぼなかったといえる。




 千花が透を同級生ではなく異性と認識したのは、桜の花びらが散り、緑に色づく季節。

 ようやくクラスに馴染んできた頃、機を見計らうように、委員会の委員を決めねばならなかった。

 男女一人ずつ配置される委員会決めに、クラス内は色めきたつ。思春期に突入した年頃の彼彼女らからすれば、相方になる異性が誰になるかは大切なことなのだ。盛り上がらないはずがない。

 そんな中、クラスの雰囲気に溶け込めず、輪から外れるように千花は席で大人しくしていた。友人らへと視線をやるも、彼女らにも気になる男子がいるのか、どこかそわそわして落ち着きがない。

 世界に取り残されたような気がした。家族と学校の生徒や教師しか知らない千花の世界は、まだ狭かったのだ。

 黒板に白字で書かれる委員会名。自分が所属したい委員会の枠に、自身の名を書き込まねばならない。

(どうしよう……。人気があるのは避けた方がいいかな)

 友人が少ないのだから、誰かと被って揉め事になるような事態は避けたい。そうしてしばらく眺めていると、あらかた人気のある委員会は埋まっていった。

(広報と保健は人気あるなぁ)

 それでも、まだ空欄はいくつもある。反対に、数人被っている枠も。

 どうやら、透のいるグループの誰かが男子の枠に入っている委員会は人気が高いようだ。

 千花がちらりと透のグループを窺い見る。

 透は「余りそうな委員会にするよ」と待機していた。それに倣い、透と同じ委員会に入りたい女子も様子を窺っている。

 千花はさっさと決めて、自分のことは終わらせようと決めた。ゆえに、無難そうな図書委員を選び、席を立つ。受付当番のある委員会ということもあり、人気もないだろう。

 黒板に名前を記入する。まだ、相方の欄は空白。

(できれば、人当たりのいい男の子か、無関心な男の子でありますように)

 やんわり接してくれるか無視してくれるという、自分の心が傷つかない相手と望む、千花の小心で我侭な願い。

 ……けれど、事態は思わぬ方向に動いていった。

 透が席から離れると同時に、一部女子の視線は一気に彼へと向く。どの委員会を選ぶのか、という妙な緊張が教室内に走った。

 既に記入を終えている千花は、周囲を含めた透の様子をなんともなしに傍観する。

 黒板の前で、透のグループの男子が二人揉めていた。その二人へと透は近寄り、なにか話している。二人は同じ欄に名前を書いた男子だから、おそらく、透が間に入ってどちらかに譲るよう言っているのかもしれない。

(どうせ一年だけじゃない)

 そう思い、千花は興味も失せたように視線を逸らした――その時。聞こえてしまった。

「はぁ? 図書委員? 嫌だし。当番あるしさぁ。大体、一緒に当番やる女子が……な」

 ズキン、と鈍い痛みが心を突き刺す。

 別に、無理に好かれたいわけではない。それでも、嫌わないでほしい。

 嫌われたくないから人に関わらない。嫌われるくらいなら、視界にいれてもらえない方がよほどいい。ないものとして扱われるのは辛いけれど、千花にとっては嘲笑されるよりもよかった。

 知らず、俯く。

 そして――次いで聞こえてきた声に、千花の心は救われた。

「じゃあ、俺、図書委員にしよう」

 かつかつと、黒板にチョークが滑る音。千花が顔を上げれば、名を書き終えた透と目が合う。彼は、形の良い目を細めて笑んだ。

「よろしくな」

 そのたった一瞬。瞬く間に、千花は恋に落ちた。


 図書委員に透が立候補したことにより、控えていた女子らは他の委員会に散っていく。まだ幼く、好意に敏感な年頃であるために、あくまで透と同じ委員会になるのは偶然を装いたかったのだろう。そうでなければ、噂になる。それも、悪意を秘めた一方的な片思いに変換されて。

 そうして案外すんなりと決まり、透と千花は晴れて図書委員になった。



 委員会の時間中は机に向かって職務をし、当番も共にしていたこともあって、二人はすぐに打ち解けた。

 千花は透と時間を共有するようになって気づいたことがある。彼の魅力は容姿だけではないこと。話し上手で、とても頼りになった。彼の周りに人が集まるのは、そういった魅力を持っているからだろうと、透への認識が変わる。

 不思議と、千花にとって透と過ごす時間は心地いい。春の、やさしい陽気の下で過ごすような、いつまでもそうしてたゆたっていたい心地。

 透にとってもそうだったのか、二人で過ごすことが格段に増えていた。

 異性の友人、という存在が初めての千花に戸惑いはあったが、恋する相手だから緊張すら楽しく、嬉しかった。

 反面、透と友人になってから、同性の友人といる時間は減った。休日に遊ぶことはあるものの、なぜか大きな隔たりがうまれていたことに、千花も気づいてはいた。だが、その状況を解決しようとは、当時の彼女は思い至らなかった。

 中学時代、三年間透と共に在る事は多かったが、交際しているという事実はない。しかし、そういった噂は出回った。

 それでも、透が千花を守るように傍にいたためか、運よく女子生徒から呼び出されることも、表立った嫌がらせもなかった。

 ただ、友人含めた同級生たちと千花の心が離れてしまったことは確かな事実である。



 その後、高校、大学と、千花と透は学部は違いながらも同じ学校に進学した。

 どこでも千花にとって自分を救ってくれる存在は、透ただ一人。千花の世界に彼女を認め、求めてくれるのは透だけというように、彼女のすべてになりつつあった。まるで、幼子の世界の神が親であるかのように、千花の世界の中心も、気がつけば透になっていたのだ。

 ゆえに、高校に入ってからの千花は、無理に友達をつくろうとはしなくなっていた。

 離れてしまうのなら、いらない。喪失感を味わうならば、はじめからいなければいい。――透がいてくれるのだから。

 恋は、依存と愛執の色に染まっていく過程にあった。




***   ***   ***




 そんな二人の関係が変わったのは、社会人になってから。

 さすがに就職先は二人ばらばらで、千花は家近くの会社へ、透は家から遠い場所にある大手企業に就職した。

 生活のすれ違いが増え、会うことも儘ならない日々。電話やメールでのやりとりは絶えずあるものの、千花にはそれだけでは物足りなかった。

 少しでも接点がほしい。二人で過ごす時間がほしい。

 そうなって初めて、千花は気づく。透が自分以外の誰かと寄りそう可能性。それまでは一緒にいる時間が多くあり、一番透と親しい異性は自分だと傲慢にも自負していた。けれど、二人の時間が減った今、透の一番近くにいるのは自分ではないのかもしれない。身体的には、既にそうなっているのだ。

 ――誰かに奪われるのが怖かった。透は千花の恋人でもないのに、そう思ってしまった。

 そして、千花は自分の気持ちを本気の恋と自覚した。


 それからの行動は早かった。

 おそらく透は、いくら振った相手とはいえ友人としての絆まで断ち切ることはないだろう。交流の仕方はこれまでと変わるかもしれないが、覚悟の上で気持ちを伝えたかった。

 勝算があったかといえば、わからない。それでも、大学時代まで一番傍にいることを許してくれた。そのことを想えば可能性はわずかにでもあるかもしれない。でも、彼はもてる人だから、周囲に千花よりも美人で洗練された女はたくさんいるだろう。ともすれば、可能性がないかもしれない。

 ひとえに、有利も不利もわかっていながら告白を決めたのは、片思いのままいつか来るだろう胸の痛みに苦しむのなら、いっそ断ち切ってしまいたかったから。どちらにせよ、千花にとって前進となる一歩なのだ。もしかしたら、長い一方通行の恋に疲れていたのかもしれない。

 ――ゆえに、彼が交際を了承してくれた時は、天にも昇る想いだった。



 透はいつも千花を守ってくれた。千花はいつも甘えてしまった。

 だから、強くなろうと思った。

 デートを重ねて、幾夜も共に過ごして。半年後には、二人の職場の中間地点をとって、マンションを借り、同棲を始めた。

 透に支えられて、千花の心は少しずつ安定していった。自信を持っていった。もたれかかるように頼りきってはいけないと、たくさんの大切なものをつくる決意をしたのもこの頃。そうして、会社でできた友人と遊ぶことも増え、友情は深まっていく。

 千花の中学から大学までは、透一色。いたはずの友人との縁は、簡単に切れた。しかし、少しだけ強くなった千花は、以前の自分がいかに視野が狭かったのかを自覚し、自嘲してしまう。

 透は千花の世界で神にも等しい存在だった。

 そうではいけない。彼一人に頼りきるのではなく、自分にも彼を包容できる心が必要だ。心身、彼が寄り添っても支えられるよう、自立しなければならない。やっと巣立つように自立できたと、身のほど知らずにも思っていた。



 さらに一年が経過する。

 変哲もない夜になるはずだった。

 ところが、千花は仕事から帰った透のネクタイを緩めた拍子に、首筋に憶えのないキスマークを見つけた。

 それが、平穏な日々が、一変したきっかけ。

 同棲生活も既に馴染み、普通の日常となっていた。恋人でありながら、心は夫婦のように結ばれていると千花は信じていた。――しかし、不変など、どこにもないのだと千花は身を以て知る。

 そういえば、と脳裏に過ぎる疑念。

 遅くなった会社からの帰宅時間。明け方に帰ることもあった。時には、女物の香水を身に纏っていることも。気になって彼に尋ねたこともある。「香水つけてる?」と。透は苦笑して「会社でつけてる女の子が多いから、においが移るんじゃないか?」と口にしていた。

 これだけのヒントがあったのに、どうして気がつかなかっただろう、と自分の愚鈍さに嫌気が差す。だがそれは……心から彼を信頼し、安心し切っていたから。

 耳鳴りのように、ドクン、ドクンといやに心臓が鼓動を打つ。動揺で震える手。

 それでも行動はいつも通りに、するりとネクタイを襟から抜き取る。

 ――裏切られた。

 心は絶望の色に染まったのに、彼の世話を焼く自分。上着を受け取り、ハンガーにかける。まるでご主人様に仕える使用人のよう。

 ――なんて滑稽なんだろう。

 何事もなかったように着替え始める透は、千花の異変に気づいたのか、「どうした?」と首を捻る。とても無邪気に。

 ――悔しくて悲しくて痛くてたまらない。

 いっそ嗤ってしまいたい。愚かな自分を。

 見なければよかった。知らなければよかった。気づかなければよかった。

 そうしたら、こんなに荒れ狂うような気持ちに襲われることはなかったのに。

 ――でも、気づいてしまった。


 その日の内に、千花は透を問い詰める。

 別れるつもりはなかったが、なぜか真実を知りたかった。知っても苦しみは同じだというに。いっそ知らない方が幸せかもしれないのに。

 すべて察していながら、千花は浮気をしているか、問うたのだ。覚悟ができていたのか、今の千花にもわからない。ただ、無性に知りたかった。

 彼はあまりにもあっさりと白状した。様々な負の感情が心で入り乱れ、歪む千花の顔を見ながら、あまりにもあっさりと。そして、謝ったのだ。――どこか、嬉しそうに。

 この仕打ちを受けて、どうして千花に”別れる”という選択肢がなかったのだろうか。自立しようとしていた彼女の世界の神は、まだ透という結論が出たというのか。

(……おかしい)

 千花は独りになると、ふふ、と自分を嘲笑う。

(透くんみたいな男が友達と付き合ってたら、絶対反対するのに……)

 それでも、別れられない。



 ――そして、その後も彼の浮気は度々続いた。



 ――いつからだっただろうか。

 透が自分のもとに戻ってきてくれればいいと、思うようになったのは。

 彼は必ず、二人の家に帰ってきてくれると、信じていられたのは。

 思えば、この時既に、千花の心の痛覚は麻痺し、壊れかけていたのだろう。





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