中編
その日の帰り道。
時刻は九時を少し回った頃。品の良い老スーツを着こなした首領は馴染みの居酒屋に顔を出していた。
「どうも」
「おっ、佐藤さん。いらっしゃい!」
暖簾を潜ると直ぐに威勢のいい声が飛んでくる。
「最近ご無沙汰だったね」
「仕事が色々と忙しくてね」
「あぁそうだったのかい! ま、久しぶりなんだ。ゆっくりしていっとくれよ」
快活に笑う店主はそう言いながらも料理を作る手を休めない。
店は今日も流行っていた。カウンター席しかなく、十人も入ればほぼ満席と言う狭い店内には、いい感じにできあがった酔客が陽気に笑っている。
壁に用意されているハンガーにコートを掛け、ついでにハンガーがかかっている出っ張り部分に山高帽を引っ掛ける。改めて首領がカウンター席に座ると、直ぐに女将がつきだしを運んできた。
「お久しぶりです。」
「夏江さん、お久しぶりです。今日のは煮物かい? 美味しそうだね。特に大根がいい感じだ」
「流石ですね。味見した大将も今日の大根は会心の出来だって言ってましたよ」
「ほぅ、それは楽しみだ。じゃあ早速いただこうかな」
「はいどうぞ」
取りあえず一口。
出汁が滲み込みながらも素材自身の味と心地よい歯ごたえを残したままの大根は、なるほど。さすが店主が自信を持つだけはある。
「美味い」
余計な感想は一切湧かない。ただ、その一言が自然に滑り出た。
「ありがとうございます。大将~、佐藤さんが美味しいって言ってくれましたよ」
よしっ、とガッツポーズを決める店主。その顔はとても嬉しそうだ。
「お酒はどうします?」
「じゃあ、いつものやつで」
「はい、わかりました」
首領お気に入りの銘柄の日本酒を燗にするため、女将もカウンターの内側に入っていった。
それからしばらくの間は時折店主や女将、そして他の常連客達と言葉を交わして首領は過ごした。
一時間たち、二時間たち。
時間帯が遅くなって来るにつれて徐々に客の姿が減り始めた。一人、また一人と、満足気な顔をした客がまた来るよと言いながら、払いを済ませて店を出る。
三時間がたった頃には客は首領だけになっていた。
もうすぐ看板だ。
夏江が暖簾を外し店中に仕舞い、片づけが始まる。
「取りあえず片付けちゃいますけど、気にしないで下さいね。ゆっくりしてもらって大丈夫ですので」
食器を洗い、テーブルを拭く。掃除の音が店内に静かに響く中、そんな二人の動作を見るともなしに眺めながらチビチビと猪口を傾けていた首領が口を開いた。
「信一さん」
「何ですか?」
ちょうど洗い物を終えた居酒屋『桂』の店主、桂信一は首領に顔を向けながら、内心でついに来たかと頷いた。信一は、今日の首領に何処と無く違和感を覚えていた。具体的にどこと指摘することはできない。話す姿もいつも通りだし、食の進みが遅かったわけでもない。
でも、今日の首領の様子がいつもと違うと言うことだけは確信していた、これまでの人生で磨き上げてきた勘のなせる業だった。
「この店を持って何年になるんだったかな?」
「今年でちょうど五年目になりますね。それもこれも佐藤さんのお陰ですよ」
「いやいや、私はきっかけを与えたぐらいさ。認められたのは君自身の腕がよかったからだよ。こちらとしては近所に良い店ができる歓迎できることだったからね」
互いに昔を思い出し遠い目をしていた。
「あの時。ヒーローをやめて、念願だった店を始めようと思った時。具体的に何をすればそれを実現できるのかがわからなくて途方に暮れていると」
そこで当時のことを思い出した桂は可笑しくなって小さく笑った。
「まさか、それまで命のやり取りをしていた相手に助けられるなんて、思いもしませんでしたよ」
「敵は敵でも信一さんは尊敬できる相手だったからね。オーラ・ブレードと言えば技に優れ、知に優れ、弱きを助け強きを挫く本物のヒーローだった。それが引退するって言うんだ。あれは私なりの餞別だったんだよ。結婚祝いも兼ねてのね」
光速戦士オーラ・ブレード。それがダーク・フロンティアと長きに渡って戦い続けた最大の好敵手の名であり、信一が変身した時の名でもあった。
そのヒーローが自分の指令基地に勤めていた女性と結婚して、引退を決心したと知った時の驚きは今も覚えている。
「土地を格安で譲ってもらった上に、店を建てる業者まで紹介してくれただけでも助かったのに、さらに書類手続きの時には弁護士の方まで寄越してくれて。もう佐藤さんには頭が上がりませんよ」
「この人、それまで戦うことばっかりでそういうのは全然知らなかったものですから。あの時は、本当にありがとうございました」
夏江が改めて頭を下げた。
それに対して口を尖らせるのは信一だ。
「なんだよぅ。それはお前だって一緒だっただろ。人ばっかり駄目だったみたいに言いやがって」
「あら? そうだったかしら」
「お前なぁ」
惚ける妻に呆れたような視線を向ける。
相変わらず夫婦仲は良好なようだ。
「いま、幸せかい?」
ふと、首領が尋ねた。
「はい、とても。信じられないぐらいに」
「わたしも。毎日が楽しいです」
「そうか……」
柔らかい笑みを浮かべ、ただ真っ直ぐに頷いた信一達が眩しくて、まともに見ることができなかった。
だから視線を手元の猪口に落とした。
「ヒーローをやっている時も充実はしていましたけど、やっぱりいつ何時死ぬかもしれないって日々は不安でした。それが今や自分の店を持つ一国一城の主。店は繁盛しているし、子供は元気に育っている。まったく平和なもんですよ。あの頃にはこんな生活を送るなんて想像もしませんでした」
しみじみとした口調で信一は言う。
「俺は仲間内でも早いうちに引退しましたが、後悔はしていません。ヒーローじゃない、ただの桂信一として暮らしていると思います。人間は平穏に過ごすのが一番だって」
それは、何気ない質問だったのだろう。
「佐藤さんはいつまで続けるんですか?」
それに答えることは、できなかった。