やっぱり大人は頼りになりますの!
王立エクラタン学院に入学する1年前、わたくしとシルヴィ兄様の婚約が決まりました。
ただ、そこに至る道のりはたいそう長うございましたの。最初の婚約交渉はわたくしが5歳、シルヴィ兄様が7歳の時。
「フランシーヌと結婚させてください!」
シルヴィ兄様の眼は真剣でした。とても7歳の子供とは思えません。更にシルヴィ兄様を後押しするかのようにイジドール従伯父様……国王陛下まで付き添っておられましたの! 本当に本気でわたくしに求婚してくださっていましたの。
そして、お父様と3人のお兄様たちも本気でした。
「まだ早い!」
「フランシーヌはまだ5歳だぞ!」
「殿下のお気持ちは理解しております。しかし、妹をお渡しするつもりはございません」
「兄上たち、少し落ち着いてください。殿下のお話は、まだ終わっていませんよ」
最後の発言をしたユルリッシュお兄様も、結論としては反対でしたの。対するシルヴィ兄様は、決して諦めません。
「フランシーヌを大切にする。必ず幸せにする。どうか、私に機会をください」
その隣では、国王陛下が頷いておられました。
「うむ。シルヴェストルの言うとおりだ。フランシーヌ嬢を大切にするという気持ちは、私も保証しよう」
「陛下。保証のお言葉だけでは、娘はお渡し出来ません」
「クリストフ、君は私の息子を何だと思っているのだ」
「娘を連れていく可能性のある人物です」
「私は王太子ではないぞ。今は第二王子だ」
「将来の可能性も含めて申し上げております」
お父様、容赦がありませんの。
こうして、第1回の婚約交渉は決裂しました。
それから、シルヴィ兄様は毎月一度、婚約の申し込みをなさいました。年に12回。10年間で、120回。まさに仁義なき戦いですわ。
しかも、同じ方法を繰り返すだけではありません。最初は誠実な説得。次は、お父様とお兄様たちに贈り物を用意して懐柔。その次は、わたくしの好きなものを調べ尽くしたうえで、心を込めた贈り物。更には、王族としての責任や将来の政治的な利点を説明する交渉までございました。
そして、時には。
「私が王位を継ぐことになれば、フランシーヌを王后に迎えることも出来る。そうすれば、彼女が望むことを、より多く叶えられるはずだ」
「殿下。妹を王后にするおつもりですか」
「勿論、その可能性も考えている」
「では、猶更お渡し出来ません」
お父様の反撃によって、交渉はまたしても失敗。
シルヴィ兄様が少々強気に出れば、お兄様たちが更に強気で押し返します。贈り物を用意すれば、ベロワイエ公爵家から贈り物のお返しが届きます。政治的な利点を説明すれば、ユルリッシュお兄様が利点を一つずつ検証し、別の問題を10個ほど指摘します。説得の材料を増やすほど、反対する側の材料も増えていくのです。
そのたびに、国王陛下は息子を励まされました。
「よくやった、シルヴェストル。次は別の角度から説得してみなさい」
「父上。今回は、かなり手応えがあったのですが」
「うむ。クリストフが扉を閉めるまでは、私もそう思った」
国王陛下、息子様を諦めさせる気はまったくございません。お父様とお兄様たちも、シルヴィ兄様が王族として優秀であることはよくご存じでした。わたくしへの愛情が深いことも、疑っておりません。それでも、可愛い娘を、可愛い妹を手放したくなかったのです。わたくしとしても、皆様がそこまで心配してくださることは、とても嬉しゅうございました。
ですが、10年も続けば、流石に結論を出したくなります。
そこで、ある日のこと。いつものように婚約の話し合いが始まったとき、わたくしは皆様の前で、はっきりと申し上げました。
「フラン、シルヴィ兄様のお嫁さんになりたいですの」
その場が、しん、と静まり返りました。お父様も、お兄様たちも、まるで時が止まったかのように固まっておられます。
シルヴィ兄様だけが、ぱっと顔を輝かせました。
「フランシーヌ……!」
「だって、シルヴィ兄様なら、月に20回は里帰りさせてくれると思いますの」
沈黙。お父様が、ゆっくりと目を閉じました。マティアスお兄様は口を開いたまま固まり、ラザールお兄様は額に手を当て、ユルリッシュお兄様は何かを計算するような顔で天井を見上げました。
月に20回。王子妃が、月に20回も実家へ帰る。それはもはや、里帰りというより通勤ではございませんこと?
「勿論。あなたが帰りたいなら、私はいつでも送り届けるよ」
シルヴィ兄様は、迷うことなく即答なさいました。
「公務の都合で私が同行できない日でも、信頼できる護衛をつけよう。あなたが家族に会いたいと思う気持ちを、私が妨げる理由はないからね」
「シルヴェストル殿下」
お父様の声が、掠れておりました。
「本当に、月に20回でもよろしいのですか」
「勿論です」
「……そうですか」
お父様は、深々と息を吐きました。お兄様たちも、とうとう反論できなくなりました。
こうして、10年間にわたる愛娘争奪戦は、シルヴィ兄様の勝利で幕を閉じたのです。但し、勝利したシルヴィ兄様が最初にしたことは、わたくしを連れて帰ることではありませんでした。
「クリストフ公爵。これからも、フランシーヌがいつでも帰ってこられるよう、どうかよろしくお願いいたします」
「……殿下。娘を大切にしてくださるのであれば、私も殿下を大切にいたします」
お父様は、まだ少し悔しそうでしたけれど。その言葉を聞いて、わたくしは心から安心しましたの。
だって、わたくしはシルヴィ兄様のお嫁さんになっても、お父様とお母様、お兄様たちの家族であることに変わりはございませんもの!
婚約が成立したのは、わたくしが15歳になる少し前。
その後も、婚約者同士としての交流は順調に続き、いよいよ学院への入学を迎えたのでした。
王立エクラタン学院は、王都にある貴族子女のための教育機関です。
王立エクラタン学院への入学を目前に控え、わたくし、フランシーヌ・オーレリア・ド・ルヴェリエは15歳になりましたの。
そして現在、わたくしには婚約者がおります。第二王子、シルヴェストル・エティエンヌ・ド・バシェ殿下。わたくしの大好きな、シルヴィ兄様ですわ!
……ここに至るまで、実に長い道のりがございました。
シルヴィ兄様が初めて婚約を申し込んだのは、わたくしが5歳、シルヴィ兄様が7歳のとき。勿論、当時のわたくしに婚約の意味がどれほど解っていたかといえば、少々怪しいところです。けれど、シルヴィ兄様は本気でした。
王族や高位貴族の子女だけでなく、優秀な成績を収めた者も入学できるため、将来の王国を担う人材が集まります。
わたくしは1年生。シルヴィ兄様は3年生ですわ。
わたくしのクラスには、侍女のミラベルと護衛のルネもおります。マノン・ボルド嬢も学院に入学しましたが、別のクラスになりました。
入学初日、学院の門をくぐったわたくしは、周囲の視線を感じました。
けれど、好奇の目というより、微笑ましいものを見る目に近いようです。それもそのはず。わたくしとシルヴィ兄様の婚約は、貴族社会ではすでに知られたお話です。
ベロワイエ公爵家がわたくしをどれほど溺愛しているか。シルヴィ兄様がわたくしをどれほど大切にしているか。どちらも、今さら説明するまでもございません。
「フランシーヌ、教室までは私が送ろうか?」
「まあ、シルヴィ兄様。3年生の教室とは方向が違いますわ」
「少し遠回りをするくらい、どうということはないよ」
「でも、シルヴィ兄様の授業に遅れてしまいますの」
「……それは困るね」
残念そうなお顔をなさるシルヴィ兄様に、わたくしは微笑みました。
「お昼休みにお会い出来ますわ」
「本当かい?」
「はい。お約束いたしますの」
「では、私もお昼まで頑張ろう」
シルヴィ兄様は嬉しそうに頷き、漸く3年生の教室へ向かわれました。その背中を見送っていると、近くにいた生徒たちが小さく笑いました。
「殿下は本当にフランシーヌ嬢がお好きなのね」
「婚約まで10年もかかったそうよ。公爵様とお兄様たちが、なかなかお許しにならなかったとか」
「それでも諦めなかったのだから、殿下もすごいわね」
聞こえておりますわよ。けれど、悪意のある声ではありませんでしたので、わたくしは気にしませんでした。寧ろ、シルヴィ兄様が褒められているようで嬉しゅうございます。
わたくしはミラベルとルネとともに教室へ向かいました。
これから始まる学院生活。お勉強も大切ですけれど、お友達と過ごす時間も楽しみですわ。
そして何より、シルヴィ兄様と同じ学院に通えるのです。これで、わざわざ王宮まで会いに行かなくても、学院でお会い出来ます。なんて便利なのでしょう!
その頃、別の教室では、マノン・ボルドが自信に満ちた笑みを浮かべていた。
彼女には、前世の記憶があった。そして、この世界が、自分の知っている恋愛小説『王都の恋』の世界だと知っていた。
原作のヒロインは、マノン・ボルド。彼女は第二王子シルヴェストルと出会い、数々の困難を乗り越え、やがて真実の愛を手に入れる。
それが、彼女の知っている物語だ。だからこそ、マノンは疑っていなかった。これから、自分とシルヴェストルの恋が始まるのだと。
公爵令嬢フランシーヌが彼の婚約者になっていることも、彼女にとっては物語の筋書きにある障害の一つにすぎない。原作の展開を知っている自分なら、いずれ彼の心を掴める。そう信じていたのだ。学院生活が始まれば、きっと物語どおりの出会いが訪れる。マノンは、そう期待していた。
但し、彼女はまだ気づいていなかった。この10年間、原作で起こるはずだった出来事のいくつかが、すでに起こらないよう対策されていたことに。そして、彼女が恋をするつもりの第二王子には、すでに大切な婚約者がいるということに。
マノンは、原作の最初のイベントを再現しようと考えた。原作では、ヒロインが第二王子シルヴェストルと出会い、親しく言葉を交わす場面がある。その出会いをきっかけに、二人は少しずつ距離を縮めていくのだ。ならば、自分も同じようにすればいい。
原作を知っているのだから、失敗するはずがない。そう考えたマノンは、シルヴェストルの姿を見つけると、迷わず近づいた。
「シルヴェストル様!」
親しげに呼びかける声。しかし、シルヴェストルのすぐ側には護衛隊長のラザールが控えており、更に侍従も同行していた。王族が学院内を移動する際、護衛や侍従が付き従うのは当然だ。ましてや第二王子に用事がある者を取り次ぐのは、侍従の職務でもあった。
「殿下へのご用件は、まず私にお伝えください」
侍従は礼儀正しくマノンに告げた。ところが、マノンは不満そうに眉を寄せる。
「え? あたし、シルヴェストル様とお話ししたいんだけど!」
「承知しております。ご用件をお伺いいたします」
「だから、本人に話したいって言ってるでしょ!」
マノンは、まるで侍従が自分を邪魔するために立ちはだかっているかのように言った。しかし、侍従は動じない。
「殿下へのお取り次ぎは、所定の手順に従っております」
「もう、面倒くさい人ね!」
その言葉に、ラザールの視線が僅かに険しくなった。王族に対する礼儀を欠いているだけでなく、職務を果たしている侍従にまで無礼な態度を取る。少なくとも、ラザールには好ましい人物とは思えなかった。
一方のシルヴェストルは、マノンのやり取りにほとんど関心を向けていなかった。彼の視線は、少し離れた場所にいる婚約者を見つけた瞬間、そちらへ移っていた。
「ああ、フランシーヌ!」
シルヴェストルは表情を明るくし、マノンの前を通り過ぎた。
「フランシーヌ。あなた、もう授業は終わったのかい?」
「はい、シルヴィ兄様。これからミラベルたちとお茶をいただくところですの」
「それなら、私もご一緒していいかな?」
「勿論ですわ!」
シルヴェストルは、優しく微笑みながらフランシーヌの手を取った。その表情は、先ほどまでマノンが呼びかけていた第二王子と同じ人物とは思えないほど柔らかなものだった。
勿論、同じ人物だ。ただ、彼にとって婚約者と、それ以外の人間とでは、関心の度合いがまるで違うのだった。
「では、行こうか。今日はあなたの好きなお菓子があると聞いたよ」
「まあ! 楽しみですわ!」
二人は楽しそうに歩き始めた。
ラザールも、いつものようにその後に続いた。侍従はマノンに一礼すると、主君たちを追いかけた。
残されたマノンは、暫くその場に立ち尽くしていた。……あれ? おかしい。今のは、原作の出会いの場面になるはずではなかったのだろうか。
自分が声をかけた。第二王子もそこにいた。それなのに、どうして婚約者のもとへ行ってしまうの?
マノンは、遠ざかっていく二人を見つめた。
「……まあ、いいわ」
やがて彼女は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「まだ始まったばかりだもの。これから、きっと原作どおりになるわ」
そうして、マノンは気持ちを切り替えた。彼女はまだ、自分の言動が周囲にどのように受け止められているのか、理解していなかったのだ。
マノンは、原作の次の展開を待った。
『王都の恋』では、王国を揺るがす災害や疫病が、シルヴェストルとヒロインの仲を深める重要なきっかけとなっていた。災害が起きれば、シルヴェストルは民を救うために奔走する。ヒロインも彼を助け、苦難をともに乗り越えることで、二人の絆は深まっていくのだ。
だからマノンは、災害が起きるのを待った。けれど。何も起きない。
正確にいえば、雨は降るし、川の水位が上がることもある。雨が少ない年もあれば、作物の収穫が思わしくない地域もある。人々が病にかかることだって、当然ある。但し、原作で描かれたような大規模な被害には至らなかった。
水害に備え、各地の堤防は補強されていた。旱魃に備えて貯水施設が整備され、水の乏しい地域への供給計画も進められていた。食料は備蓄され、凶作に備えた輸送計画も用意されていた。疫病についても、衛生対策が見直され、患者を隔離するための施設が整えられていた。
いずれも、予言書に記された情報をもとに、大人たちが時間をかけて進めてきた対策だ。
災害そのものを消すことはできない。しかし、備えがあれば被害を減らすことはできる。その結果、原作のように王都を揺るがす大事件は起こらず、シルヴェストルがマノンと一緒に対策へ奔走する機会もなかった。
そもそも、シルヴェストルには第二王子としての公務がある。王族として必要な仕事をこなし、将来に向けた勉強も怠らず、そのうえで婚約者との時間を確保する。彼にとって、それは当然のことだった。
そして、時間ができればフランシーヌに会いに行く。
「フランシーヌ、今日は何をして過ごす予定なんだい?」
「ミラベルとお買い物のお話をしておりましたの」
「それなら、私もご一緒していいかな?」
「シルヴィ兄様もですの?」
「勿論。あなたの好きなものを、私も知っておきたいからね」
そんな調子だ。
マノンが待ち望む劇的な出会いも、二人で力を合わせて困難を乗り越える場面も、いつまでたっても訪れない。それどころか、シルヴェストルは忙しい合間を縫って、婚約者との約束をきちんと守っていた。
マノンは焦り始めた。
「おかしいわ。こんなの、原作と違うじゃない!」
彼女は原作の筋書きを何度も思い返す。
災害が起きない。疫病も大きな騒ぎにならない。シルヴェストルは自分に関心を示さず、婚約者ばかりを大切にしている。
どうして、こんなことになっているのだろう。
マノンは考えた。
けれど、考えた末にたどり着いた結論は、自分自身の行動を見直すことではなかった。
誰かが邪魔をしている。原作の展開を変えてしまった誰かがいる。そう考えるほうが、彼女にとって都合がよかったのだ。
そして、彼女の目には、いつもシルヴェストルの隣にいるフランシーヌの姿が映っていた。
公爵令嬢で、第二王子の婚約者。自分が手に入れるはずの幸福を、先に手にしている少女。
マノンの不満は、少しずつ彼女へ向かっていった。




