第9話「元カノ、襲来。赤字警報発令!」
翌日。
経理部の朝は妙に静かだった
美咲は、昨日届いた「人事面談」のメールが気になって
いつもより早く出社していた
デスクに座っても、心ここにあらず
電卓を叩いても数字が頭に入ってこない
「桜井」
課長の声にハッとする
「は、はいっ」
「お前、今日11時から人事行けよ」
「……やっぱり、はい」
(やっぱり“噂”のことだよね)
ため息をついてPCの画面を閉じたその時、
営業部から見覚えのある笑い声が聞こえた
「久しぶり湊、まさかここで会うとは」
「……え、女の人の声?」
顔を上げると、廊下を挟んだ向こうに
湊と、長い髪の女性が立っていた
スーツ姿、落ち着いた笑み、
どこか懐かしげに湊を見上げるその目――
「……誰?」
小さく呟くと、加奈がすかさず耳打ちしてきた
「噂の元カノだよ」
「えっ!?」
「昔、同じ営業部だったらしい。東京本社に異動してたけど戻ってきたって」
心臓が跳ねた
(そんな急に戻ってくるなんて……)
湊は淡々と挨拶をしている
けれど、相手の女性――その口元がどこか寂しげに笑った
午前11時。
人事部での面談
「桜井さん、最近の勤務状況について少しお話を」
担当者の声は柔らかかったけれど、
核心に近づくにつれ、空気が冷たくなっていく
「営業部の一ノ瀬さんとの関わりについて、
同僚から“親しい様子をよく見る”という報告がありまして」
美咲は言葉を選びながら答えた
「仕事上の付き合いです。経費の確認や報告などで、
一緒に残業することはありますが、それ以上の関係は……」
――本当は、それ以上の関係に近づいてる
でも、今は言えない
「わかりました。特に問題がなければ大丈夫です」
その一言に少しだけ安心した
けれど、心のどこかで小さな不安が残った
昼休み。
デスクに戻ると、湊が近づいてきた
「面談、どうだった」
「大丈夫……たぶん」
「たぶん?」
「“営業部との関係が親しい”って言われた」
「親しい、か」
湊が小さく笑う
「悪くない言葉だな」
「笑い事じゃないですよ」
「じゃあ真面目に聞く。昨日のメール、見た?」
「“俺も行く”ってやつですか?」
「うん。あれ、本気だったから」
美咲は言葉を詰まらせた
彼の瞳が、いつもより真剣で、
からかいの色がなかった
その瞬間、後ろから女性の声
「湊、午後の会議、こっちでいい?」
――元カノの声だった
湊は短く返す
「うん、あとで行く」
女性はにこりと微笑み、美咲を一瞥して去っていった
それだけで、胸の奥がざわつく
「さっきの人、元同僚?」
「うん、昔同じチームだった」
「……だけ?」
「だけだよ」
その“だけ”が、どうしても信じきれなかった
心がモヤモヤして、
笑うはずの口元が少し引きつる
その日の夜。
残業中のオフィスは静かだった
時計の針が9時を過ぎたころ、
美咲の机の上に、湊からのメモが置かれていた
“今日は帰る。無理すんな。
今度ちゃんと話す。
信じてほしい。”
「……信じたいよ」
小さく呟いて、メモをそっと胸元にしまう
窓の外の夜景が滲んで見えた
まるで、心の中の数字が全部曖昧になっていくみたいだった
恋の帳簿に、初めて赤いマーカーが引かれた夜




