第8話「噂の請求元は恋人未満?」
翌週の火曜日。
経理部に出社した桜井美咲は、
朝からなんとなく周囲の視線を感じていた。
コピー機の前で同僚がヒソヒソ話をしている。
「ねぇ、聞いた?営業の一ノ瀬さんと、経理の桜井さん……」
「え、やっぱり?あのふたり、最近残業のタイミング同じだよね」
――まさか。
心臓が跳ねた。
(ば、バレてる……?)
すぐに仕事に集中しようとするけれど、
手が少し震えて電卓のボタンを押し間違える。
「……8×9は、73じゃない」
「桜井、朝からミス多いな」
課長の声にびくっとして、慌てて姿勢を正した。
「す、すみません!」
だが、その直後――
隣の席の加奈が小声で囁く。
「ねぇ、朝から“噂”が社内チャットに流れてるよ」
「えぇ!?噂って何の!?」
「“経理部の桜井と営業部の一ノ瀬、残業常連ペア説”だって」
「な、なんですかその勝手な報告書みたいなタイトル!」
加奈はにやにや笑って、
「まあ、美咲が最近“笑顔が黒字”だから、そりゃバレるよ」
「もう……!その表現やめてください!」
昼休み。
静かな給湯室で美咲がカフェラテを淹れていると、
背後から低い声がした。
「……噂、見た?」
「ひゃっ!?い、一ノ瀬さん……!」
振り向くと、湊がコーヒー片手に立っていた。
スーツの袖をまくり、少し笑っている。
「見たよ。あれ、“社内ニュース”のトレンド入りしてるらしい」
「ちょっと待ってください!?ニュース扱い!?」
「いや、だって『経費では落ちない残業カップル』ってタイトルだった」
「……誰がそんな見出し考えたんですか!」
「面白かったからスクショした」
「削除してください!!」
湊は笑いながら、紙コップを机に置いた。
「まあ、俺は別にバレてもいいけど」
「えっ?」
「だって、俺が“噂の請求元”でしょ?」
「……っ!!!」
「桜井、顔真っ赤」
「違います、コーヒーの湯気です!」
午後。
仕事に集中しようとしても、
ふと視線の先に湊が見えるたびに動揺してしまう。
書類を受け取りに営業部へ行くと、
すれ違った同僚たちがどこか微笑ましそうな目を向けてきた。
「一ノ瀬さん、例の“経理さん”来ましたよ~」
「やめてください!“例の”って言い方!」
書類を渡し終えた帰り際、
湊がそっと耳打ちした。
「今日の夜、残業しない?」
「えっ……もうそれ、余計に怪しいですから!」
「じゃあ、“経費削減会議”って名目にしとく」
「いや、それも怪しい!」
「大丈夫、内容は“恋の合理化”だから」
「一ノ瀬さん、もう黙ってください!!」
言葉では拒んでも、
心の奥では笑ってしまう自分がいた。
その日の夕方。
経理部に一本のメールが届く。
差出人:人事部
件名:【面談のお知らせ】
桜井美咲様
社内での勤務状況について、
明日11時より面談を行います。
(※個別ヒアリングとなります)
「……え、うそ。」
加奈が覗き込み、
「え、もしかして“例の噂”が原因じゃない?」
「や、やめてください……そんな……!」
頭の中で、最悪のシナリオがぐるぐる回る。
(まさか、湊とのこと……本当に問題に……?)
心臓の鼓動が早くなる。
そのとき、チャットの通知が鳴った。
差出人:一ノ瀬湊
“大丈夫。もし呼ばれたら俺も行く。
経理は守るのが営業の仕事だから。”
画面を見つめながら、
涙が出そうになるほど嬉しかった。
夜。
帰り際、エレベーターの前で再び湊と会う。
「……ほんとに、巻き込んじゃってごめんなさい。」
「気にすんな。むしろ、俺はやっと堂々と“噂の相手”になれた。」
「そ、そんなの困ります!」
「困る?俺は嬉しいけど。」
「……もう。」
湊が少しだけ笑って、
エレベーターのボタンを押した。
「桜井」
「はい」
「噂ってのは、火のないところには立たないんだよ」
「え?」
「つまり、少しは“本当の気持ち”が漏れたんじゃない?」
その一言に、美咲は何も返せなかった。
ただ静かに、湊の隣でエレベーターに乗り込んだ。
その沈黙が、どんな言葉よりも甘くて、苦しかった。




