第5話「ただいまの一言、経費ゼロのぬくもり」
月曜日の朝。
経理部の桜井美咲は、いつになく浮き足立っていた。
――湊が出張から戻る日だ。
(別に、楽しみにしてるわけじゃない。ただ、報告書の提出が今日だから。)
そう自分に言い聞かせながらも、
何度も髪を直してしまうあたり、もう説得力はゼロだった。
机の上の時計が9時を指した頃、
営業部フロアからざわめきが聞こえてきた。
「一ノ瀬さん、おかえりなさい!」
「さすが、出張でもスーツのシワ一つないね」
美咲は無意識に背筋を伸ばした。
視界の端に、湊の姿が見える。
軽く笑って、部下たちにお土産を配っている。
目が合った。
その瞬間、胸の奥で何かが“ふわり”と弾けた。
湊は目で合図するように、
ポケットからひょいと小さな袋を出して机に置いた。
「経理部・桜井さんへ」――そう書かれた付箋付き。
袋の中には、
ハート型のクッキーと小さなメモ。
『出張経費に入らないお土産。
味の保証はないけど、気持ちは原価ゼロ。
——ただいま。』
「……っ!」
思わず頬がゆるむ。
あの人、いちいち言葉がズルすぎる。
加奈がすぐに気づき、こっそり覗き込む。
「え~なにそれ~!もう完全に“恋の勘定”じゃん!」
「しっ、静かにして!」
「お菓子にハートマークって……経理的にアウトだよ?」
「経理的にも、乙女的にもアウトです!」
二人で笑っていると、背後から静かな声。
「……何がアウトなんだ?」
振り向くと、まさかの本人。
「い、一ノ瀬さん!?い、いまのはその……」
「お土産の件か? あれ、気持ちだけで計上ゼロだから安心しろ」
「安心できません!」
「じゃあ次は、“安心できないやつ”にする」
「えっ」
「夕飯。今日、空いてる?」
美咲の心臓が跳ねた。
加奈が「はい、空いてます!」と余計な返事をしそうになり、慌てて口を塞ぐ。
その夜。
約束の時間に指定されたのは、会社近くの小さなイタリアン。
普段は接待でしか来ないような落ち着いた店だった。
「こんなところ、よく予約取れましたね」
「出張先で“次の打ち合わせ場所”って名目で取った」
「それ、完全に私とのデート計上じゃないですか!」
「そう。だから“仕事の延長線”だよ」
「……その線、どこまで延びるんですか?」
「今夜、君が帰るまで。」
その言葉に、喉が詰まる。
店内の柔らかな照明と、グラスに反射するワインの赤が、
いつもより湊を大人っぽく見せていた。
「出張中さ、毎晩書類見ながら思ったんだ」
「はい?」
「経理の桜井って、本当にすごいなって。
俺、仕事の数字は強いけど、人の気持ちの“帳尻”はうまく合わせられない」
「そんなこと……」
「でも、君と話してると、不思議と合うんだよな。
経費も、気持ちも。」
美咲は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、私が“恋の監査役”ですね」
「厳しい監査だな。でも、サインしてくれる?」
「何にですか?」
「これ。」
湊が差し出したのは、手帳の隅に貼られた小さな付箋。
『桜井美咲さんを正式に好きになる契約書(仮)』
署名欄:__________
「……バカじゃないですか」
「経理的に言えば、正式な書面が欲しい」
「そんなの、心で処理してください」
二人の笑い声が静かな店内に溶けていく。
帰り道。
夜風が少し冷たくて、
湊がさりげなく自分のコートを肩にかけてくれた。
「桜井」
「はい」
「“ただいま”って言ったら、今度は“おかえり”って返して」
「え?」
「今日のこの時間を、“帰る場所”にしたいから」
一瞬、言葉を失う。
けれど、自然に口が動いた。
「……おかえりなさい、一ノ瀬さん。」
夜の街に、二人の笑い声が小さく響いた。
恋の帳簿には書けない“ぬくもり”が、
確かにそこにあった。




