第3話「恋と請求書と、ハートの見積もり」
月曜日の朝。
経理部の桜井美咲は、いつもより5分早く出社していた。
理由は簡単。――湊がすでに出社していると聞いたからだ。
(べ、別に意識してるわけじゃない。
ただ、経費精算書の確認が早めに必要なだけ…!)
そう心の中で言い訳しながら、机にカバンを置く。
デスクの上には、1枚の封筒が置かれていた。
差出人の欄には見覚えのある名前。
『営業部 一ノ瀬湊』
「……まさか、また“経費で落とせない何か”じゃないでしょうね」
恐る恐る開けると、中には手書きの請求書。
しかし、項目名を見て思わず吹き出した。
【請求書】
項目内容金額
コーヒー代桜井さんと過ごした時間分priceless
勇気代告白のメールを誤送信した損害分-1,000,000円(赤字)
今後の希望もう一度デートしてもらえる権利0円(相談可)
備考欄:
「上記内容にご納得いただける場合、経理印の代わりに“笑顔”をお願いします。」
「……何これ、センス良すぎるでしょ……!」
笑いながらも、頬がほんのり赤くなる。
朝から顔を見られたら恥ずかしいなと思っていた矢先――
「おはよう、経理さん」
低い声が背後から聞こえた。
振り向くと、湊がいつものようにコーヒー片手に立っていた。
「それ、ちゃんと読んでくれた?」
「えぇ、一字一句。経理として見逃せない不明瞭な経費がありましたけど」
「どこ?」
「“もう一度デートしてもらえる権利”って項目です」
「それは……要相談って書いてあるだろ?」
「却下です!」
「却下でも請求は出すよ」
「経理泣かせの営業マンめ……!」
口ではツッコミながらも、笑顔を隠しきれない。
湊の目が優しく細まる。
「じゃあ、代わりにこの書類は“社外打ち合わせ”として申請するよ」
「何の打ち合わせですか」
「桜井美咲という、俺にとって一番難しい案件について」
……心臓、もたない。
その日の午後。
二人は同じプロジェクトの“数字調整”で自然と一緒に仕事をすることになった。
経理と営業――一見水と油だが、データを突き合わせていくうちに、息が合ってくる。
「ここ、0.5%の誤差が出てるな」
「私のほうで調整できます。
あと、次回から経費は“合理的な範囲内”でお願いします」
「合理的ってどこまで?」
「飲み物は2杯まで、愛の告白は1回まで」
「じゃあ次は“2杯目の愛”で行こうか」
「……もう黙ってください!」
二人のやり取りに、隣のデスクの加奈がニヤリと笑う。
「ねぇ美咲、そろそろ“社内恋愛届”出しといたほうがよくない?」
「だ、だから違いますってば!!」
けれど――
心の中ではもう否定しきれない何かが芽生えていた。
夕方、社内チャットの通知が鳴る。
差出人:一ノ瀬 湊
内容:
終業後、経理棟の裏のカフェで“案件報告会”どう?
美咲は少し悩んで、返信を打つ。
経理的に、その案件は“予算未確定”です。
数秒後、すぐに返事が返ってきた。
予算は俺が出す。利益は桜井の笑顔。
(……もう、そういうのやめてほしい……!)
心の声とは裏腹に、足はカフェへ向かっていた。
夜のカフェ。
窓際の席に、すでに湊が座っていた。
仕事中とは違う、少しラフなシャツ姿。
いつもより近くに感じる距離。
「……本当に打ち合わせなんですか?」
「もちろん。“今後の進行計画”について」
「進行計画?」
「恋愛の、ね」
「……っ!!」
美咲は言葉を詰まらせ、ストローを噛んだまま固まる。
湊は微笑んで、カップの縁を指でなぞる。
「冗談だよ。……でも、半分は本気。」
沈黙が落ちる。
窓の外では、夜風がカーテンを揺らしていた。
「桜井」
「はい……?」
「俺さ、ずっと仕事優先だった。でも、最近ようやく分かったんだ。
“数字に残らない幸福”って、あるんだなって」
「……それ、赤字じゃないですか?」
「いいんだ。君に使うなら、黒字だ」
美咲は顔を上げられなかった。
でも、胸の奥で何かがふわりと温かくなる。
“恋の見積もり”を出すなら――たぶん、もうとっくにサインしている。
帰り際、カフェを出ると、湊が傘を差し出した。
「小雨、降ってきたな。一本しかないけど」
「大丈夫です、走れば――」
「走らない。風邪引かれたら、俺の経費が増えるから」
「……そんな理由で」
「理由なんて、なんでもいい。俺と一緒に歩く口実になれば」
並んで歩く夜道。
雨音と街灯がぼんやり滲んで、少し映画みたいだった。
その夜、美咲の机の上に残されたメモ。
【見積書】
恋愛契約期間:未定
支払方法:笑顔分割払い
支払先:あなたの心
※但し、延滞・滞納大歓迎。
「……もう、この人ほんとにズルい。」
けれど、笑いながらそのメモをそっと引き出しにしまう美咲。
――恋の帳簿は、静かに黒字に傾きはじめていた。




