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第20話「心の黒字、初めてのキス」

東京ウィーク二日目の夜。

残業申請は正式に通っていないはずなのに、

なぜか二人は会社近くの夜カフェに並んで座っていた。


店内は落ち着いた照明で、

仕事帰りの人たちが静かに過ごしている。

テーブルの上には、コーヒー二杯と小さなケーキ。


「今日も残業ですか」


「経理判断では グレーです」


「グレーならセーフだよね」


「その理屈は通りません」


「でも一緒にいる」


「……それは 事実です」


会話は相変わらず軽い。

けれど、互いに視線を合わせるたび、

胸の奥で小さな音が鳴る。


コーヒーを一口飲んだ湊が、

少しだけ真面目な顔になった。


「桜井」


「はい」


「名古屋に戻ったら また離れる」


「……分かってます」


「それでも 今は近くにいられる」


「はい」


「だから 今日 ちゃんと残業したい」


「残業って そういう意味ですか」


「そういう意味」


美咲は一瞬言葉に詰まった。

指先がカップの縁をなぞる。


「……業務内容を確認してからでないと」


「確認どうぞ」


湊は少しだけ身を乗り出した。

距離が、ぐっと縮まる。


「内容は 桜井の手を取ること」


「……不正支出です」


「私費で払う」


「私費でもダメです」


「じゃあ 無償提供」


「……ますますダメです」


そう言いながらも、

美咲は逃げなかった。


店を出ると、夜風が心地よかった。

歩道に並ぶ街灯が、二人の影を長く伸ばす。


「少し歩きませんか」


「帰り道 遠回りになるけど」


「遠回りのほうが 好きです」


「経理として それはどうなの」


「今日は 特別です」


並んで歩く距離が、

自然と近くなる。

肩が触れそうで触れない。


信号の前で足を止めたとき、

湊がふと立ち止まった。


「桜井」


「はい」


「名古屋に戻る前に」


「……はい」


「一つだけ 未処理の案件がある」


美咲の心臓が跳ねた。


「未処理」


「うん。ずっと温存してた」


「それは 経理的に問題です」


「今 処理していい」


「……内容次第です」


湊は一歩近づいた。

街灯の光が、彼の表情を柔らかく照らす。


「好きだよ」


こんなにまっすぐ言われたら 心臓が追いつかない。


逃げ場はない。

でも、逃げたいとも思わなかった。


「……私も」


それだけで、十分だった。


次の瞬間。

湊の手が、そっと美咲の頬に触れた。

確かめるように、ゆっくりと。


「いい」


「……はい」


短い距離。

ほんの一瞬の迷い。


そして、

静かに唇が重なった。


軽くて、優しくて、

驚くほどあっさりしているのに、

胸の奥が一気に熱くなる。


離れたあと、二人とも何も言えなかった。

ただ、同じタイミングで小さく息を吐く。


「……今の」


「はい」


「初キス」


「……はい」


「処理完了」


「完了です」


思わず、二人で笑ってしまった。


再び歩き出す。

さっきより、少しだけ距離が近い。


「ねえ桜井」


「はい」


「今日の決算どうだった」


「ええと」


美咲は少し考えてから答えた。


「心の黒字 確定です」


「よかった」


「ただし」


「ただし」


「これからも 定期的に確認が必要です」


「毎日でもいい」


「それは さすがに忙しいです」


「じゃあ 毎日メール」


「……それなら 許可します」


夜空の下、

二人の影がぴったり並ぶ。


恋はまだ始まったばかり。

でも、この日の帳簿には、

確かに大きな“黒字”が記されていた。

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