第2話「残業デートと社内メールの罠」
その週の金曜日。
経理部の桜井美咲は、またもや机に山積みの伝票と格闘していた。
月末が近づくと、社内はまるで戦場だ。
どこからともなく「ハンコどこ!?」「締め切りって今日!?」という悲鳴が飛び交う。
「桜井、今月の経費まだ締められないの?」
課長の低い声が飛ぶ。
「は、はいっ!もう少しです!」
焦りながらも、心の中では別のことを考えていた。
――湊さん、今日も忙しいのかな。
あの日のカフェ以来、仕事の合間に軽い雑談をするようになった。
ただの社内トークのはずなのに、なぜか毎回、ほんの少しだけドキッとする。
湊が近くにいると、空気が変わる。
静かで、でもぬくもりがある。
……ずるい人だ。
午後7時。
オフィスの照明が少しずつ減り、残業組だけが残る時間。
「桜井、まだ帰らないの?」
営業部の入口から聞こえた声に、顔を上げた。
やっぱり――湊だ。
「はい、あと少しで数字が合うんです」
「経理って、恋愛も数字で管理してそう」
「そんなの、単価も単位も出ませんよ」
「俺の気持ち、見積もり出してみる?」
「出せませんっ!」
即答する美咲に、湊は声を出さずに笑った。
その後、二人は一緒にエレベーターに乗った。
「この時間、残業終わりに何か食べたくなるよな」
「分かります……私、残業後はカロリー計算よりも幸せ優先です」
「じゃあ、経理が幸せになる分は、会社の経費で落ちるってことで」
「落ちませんってば!」
「でも、俺は落ちたけど」
「……え?」
「“幸せ優先の桜井”に」
一瞬、時が止まった。
エレベーターの中で、モーターの音だけが響いていた。
目を逸らせばいいのに、逸らせなかった。
「……湊さん、そういうの、ズルいです」
「知ってる」
軽い調子なのに、なぜか心に残る。
扉が開いた瞬間、逃げるようにエントランスへ出た。
顔が熱い。まるで残業で火照ってるみたいに。
翌朝。
出社してパソコンを開くと、メールの通知が来ていた。
差出人:営業部 一ノ瀬湊
件名:【昨夜の件について】
昨日の帰り、途中まで送ればよかった。
あのあと、ちゃんと家まで帰れた?
……あと、桜井の笑った顔、すごくよかった。
今度また、仕事抜きで会いたい。
美咲は息を飲んだ。
でもその直後――
「ちょっと!桜井さん!!」
隣の加奈が叫んだ。
「どうしたの?」
「これ……全社宛のメールに、湊さんから“好きだ”って書かれてる!!!」
「えっ!?!?」
慌てて画面を確認する。
確かに、全社員宛のメール一覧に、湊の名前がある。
件名:【テスト送信】
本文:
“好きだ”
――誤送信です。すみません。
オフィス中がざわついていた。
「誰に送るつもりだったんだ?」「まさか社外!?」
「いや、“誤送信”って書いてるけど……これ、もしかして……」
みんなの視線が、自然と経理部の美咲へ向く。
「ち、違います!私じゃありません!!!」
思わず立ち上がる美咲。
顔が真っ赤だ。まるでストーブ。
そのとき、オフィスの入口に湊が現れた。
スーツの襟を直しながら、少し苦笑している。
「騒がせて悪い。ミスだ。社内テストしてただけだから」
そう言っても、誰も信じていない。
美咲は頭を抱えた。
――なんで、こういうときだけ目立つの、私。
昼休み。
人気の少ない会議室に呼び出された。
「……湊さん、あのメール、本当に“誤送信”なんですか?」
「半分はね」
「はんぶん?」
「“好きだ”の送り先は……俺が間違えてない方」
「……」
「もう、誤送信とは言わないよ」
美咲は言葉を失った。
心臓の音が、自分の耳にも聞こえるほどだった。
「そんな……社内で、こんな……」
「リスクは承知。経費でも落とせない、大事な投資だから」
彼の真剣な目に、冗談の色はない。
――たぶん、これはもう恋なんだ。
「……私、数字のことしか分からないけど」
「うん」
「あなたといる時間だけ、どう計算しても“赤字”にならないんです」
湊がふっと笑った。
「なら、そのまま黒字続行で頼む」
会議室の外では、電話のベルと、誰かの笑い声。
それでも、二人の間だけは不思議な静けさがあった。
その日の夜。
美咲のデスクに、一枚の付箋が貼られていた。
『残業デート、明細なしでどう? —湊』
思わず笑ってしまう。
“経費で落ちない恋”の続きは、まだ始まったばかり。




