第19話「東京出張と“夜の残業申請”」
一ノ瀬湊の“長期東京出張ウィーク”が始まった月曜日。
朝の本社オフィスは、珍しく活気に満ちていた。
「今日来るよね 一ノ瀬さん」
「桜井さん ついに来るよ相手が」
「いやもう結婚じゃない?」
そんな噂話がフロアの隅々まで飛び交っている。
(なんで出張がこんな大事件みたいになってるの……)
美咲は心の中で悲鳴を上げながら、
いつもより静かにパソコンを開いた。
夕方。
営業会議が長引いているらしく、まだ湊は顔を見せない。
少し物足りなさを抱えたまま仕事をしていると、
スマホが震えた。
差出人は、もちろん湊。
件名:【残業申請】
本文:
今夜 残業してほしい
理由は 会いたいから
「……会いたいからは理由にならない……」
つい口に出してしまい、
隣の席の加奈がすかさず反応する。
「え 今 会いたいって聞こえたんだけど」
「聞こえてません」
「聞こえたよ 完璧に聞こえたよ」
「聞こえてませんったら」
頬が熱くなるのをごまかしながら、
美咲はコートを手に立ち上がった。
(残業……会いたいって……そんなの断れるわけない)
廊下に出ると、
休憩スペースの自販機の前に湊が立っていた。
ネクタイを少し緩め、スーツ姿が夜の光に馴染んでいる。
「桜井」
「お疲れさまです」
「残業してくれる?」
「……理由を聞いてもいいですか」
「さっきメールした」
「メールだけじゃ足りません」
そう言うと、湊は一歩近づき、
まっすぐ美咲を見た。
「会いたかった」
こんなにまっすぐ言われたら 心臓が追いつかない。
言葉を失う美咲に、湊はさらに笑って言う。
「じゃあ正式に提出する
“残業申請理由:桜井に会うため”」
「却下です」
「なんで」
「理由が甘すぎます」
「じゃあどうしたら通るの」
「……二人で考えましょう」
「それ残業になるよね」
「はい」
二人で笑った、その空気だけで夜が少し明るくなった。
夜の会議室。
窓の外に広がる東京の景色は、光の粒でいっぱいだった。
机の上には、湊が買ってきたコーヒーと小さなチーズケーキ。
「名古屋でさ 気づいたんだ」
「何にですか」
「仕事より桜井のほうが気になってる」
「そ そんなことを会議室でする話じゃ……」
「いいじゃん 残業中だし」
「残業の意味が違います」
湊はコーヒーを両手で包みながら、
少しだけ表情を柔らかくした。
「遠距離って 想像よりキツかった
だから今日 会えて嬉しい」
胸の奥がぎゅっとなる。
でも不思議と苦しくはない。
「……私も 会えて嬉しいです」
その一言で、湊が目に見えて喜んだ。
コーヒーを飲み終えると、
湊は鞄から一枚の紙を取り出した。
「これ 見てほしい」
差し出された紙を見ると――
【特別業務依頼書(非公式)】
業務名:東京連携プロジェクト
期間:1週間
備考:個人的に会いたい人が東京にいるため
「これ 絶対業務書類じゃないですよね」
「業務の本音だよ」
「非公式って書いてあります」
「恋のほうは公式にしたいんだけど」
「公文書にしないでください」
「じゃあ個人的に提出する」
湊がそう言って、机の上に手を置いた。
その手に、美咲の指がそっと触れた。
触れた瞬間、胸が熱く跳ねる。
「ねえ桜井」
「はい」
「出張中 毎日会ってくれる?」
「ま 毎日……?」
「遠距離の未払い分 まだいっぱい残ってるから
回収させて」
「……そんなの
回収されに行くに決まってます」
湊は、静かに笑った。
その笑顔が、夜の光より温かかった。




