第12話「異動通知、二人の決算日」
人事面談から一週間後。
オフィスには、いつもと変わらぬ朝が訪れていた。
だが、桜井美咲の胸の中は落ち着かなかった。
人事からの“注意処分”以降、
湊は少しだけ距離を置くようになっていた。
いつものようにコーヒーを渡してくれない。
ふざけたメモも机に置かれない。
それはきっと、彼なりの気遣いなのだと分かっていた。
けれど、静かすぎるオフィスは息苦しかった。
昼休み。
経理室の窓際で書類を整理していると、
営業部の福原が声をかけてきた。
「桜井さん、知ってます? 一ノ瀬さん、異動らしいですよ」
「……え」
手の中のファイルが滑り落ちた。
「本社から、来月から名古屋支店勤務ですって」
「な、名古屋……?」
「優秀だし、昇進コースみたいですよ。あの人、やっぱすごいなぁ」
福原が去ったあとも、美咲はその場に立ち尽くしていた。
(異動……どうして何も言ってくれないの)
指先が震える。
まるで胸の中の帳簿に、いきなり“退職金”の欄が追加されたような気がした。
夕方。
残業を終えて帰ろうとしたとき、
エレベーターの前で湊と鉢合わせた。
「……こんばんは」
「お疲れ」
一瞬、沈黙。
空気が少し冷たい。
「聞きました。異動のこと」
「……ああ」
「どうして言ってくれなかったんですか」
「言おうと思ってた。でも、まだ確定じゃなかったから」
「確定してから言うつもりだったんですか」
「たぶん、そうしたほうが君が困らないと思った」
美咲は首を振った。
「困らないわけないです」
「桜井……」
「仕事のことなら、我慢できると思ってた。
でも、あなたがいなくなるのは……無理です」
湊が静かに息を吸い込む。
「俺だって、行きたくないよ」
「じゃあ……」
「でも断れない。これ以上、君に影響を与えるわけにはいかないから」
「私、そんなの望んでません」
「分かってる。だけど俺は営業だ。数字も結果も、全部見られてる」
「私は……あなたの数字なんか見たくない」
その言葉に、湊が少し笑った。
「経理がそんなこと言うなんて、珍しいな」
「もう、経理じゃなくてもいいです」
「じゃあ、何になる」
「あなたの味方」
一瞬、彼の目が揺れた。
そして静かに呟く。
「……その言葉、ずるいな」
「言わせたのはあなたです」
エレベーターが到着する音が響いた。
二人は何も言わずに乗り込み、下の階へ向かう。
途中で湊が口を開いた。
「名古屋に行っても、俺の経費担当は君だから」
「……は?」
「つまり、好きってこと」
「もう、そんな理屈通らないですよ」
「営業って、理屈より勢いだろ」
扉が開く直前、
美咲は小さく笑った。
「……赤字覚悟ですね」
「もちろん。だけどこの恋は、最終的に黒字にする」
扉が閉まる瞬間、
ふたりの視線が静かに絡み合った。
まだ“終わり”の帳簿は締められていない。




