第11話「人事査定と恋愛監査」
月末の朝。
経理部の空気は、いつも以上に張りつめていた。
決算期が近づいているせいでもあるが、もう一つの理由があった。
「経理の桜井さんと営業の一ノ瀬さん、付き合ってるらしいよ」
「マジで?あの二人、残業のタイミングいつも同じだよな」
そんな声が廊下の隅でひそひそと交わされる。
コピー機の音がやけに遠く感じた。
(落ち着いて、気にしない。仕事に集中しなきゃ)
美咲は電卓を叩いたが、指先が少し震えていた。
昼過ぎ。
課長が無表情のまま近づいてくる。
「桜井。人事から呼び出しだ。午後三時、査定面談室」
「……わかりました」
短く返した声が、自分でも驚くほど硬かった。
机の上の書類が揺れる。
心の奥が冷たくなっていく。
午後三時。
面談室のドアを開けると、人事の担当者がにこやかに迎えた。
しかしその笑みの奥には、探るような光があった。
「桜井さん。勤務態度は申し分ありません。
ただ、営業の一ノ瀬さんと親しくされていると伺っていまして」
「はい」
「社内規定上、恋愛自体は禁止ではありません。
しかし、公私混同や業務上の優遇があれば問題になります」
「優遇なんてしていません。私はただ……」
「ええ、あなたの処理には不備がありません。
ですが一ノ瀬さんの提出書類に、あなた宛の手書きメモが複数確認されています」
美咲の背筋が固まった。
――あの小さなメモまで、監査に引っかかるなんて。
「社内文書はすべて監査対象です。
この件について、事実確認を進める可能性があります」
息が詰まりそうになったその瞬間、ドアがノックされた。
「失礼します。一ノ瀬です」
湊が入ってきた。
静かな足取りで、美咲の隣に立つ。
「俺からも説明させてください」
人事担当者が眉を上げる。
「桜井への私的なメモは、すべて俺の責任です。
彼女の業務には関係ありません。
軽い冗談として書いただけです」
「……一ノ瀬さん」
「ですが、ひとつだけ本当のことを言います」
担当者が静かにうなずく。
湊は少し息を整えて言った。
「俺は、桜井を好いています」
室内が静まり返った。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
人事担当者はため息をつき、目を閉じた。
「正直な方ですね。一ノ瀬さん」
「隠すほうが不誠実ですから」
「では、この件は注意として処理します。
今後は公私のけじめを明確にしてください。以上です」
部屋を出ると、美咲はその場に立ち止まった。
「どうして、あんなことまで言うんですか」
「言わなきゃ、君が責められるだろ」
「でも、そんな……バレたら……」
「もうバレてるよ。だったら正直に守るほうがいい」
「……強いですね」
「経理が強くないと営業は動けないから」
「何それ」
「お互い支え合う関係ってこと」
思わず笑ってしまう。
緊張で張りつめていた心が、少しだけほどけた。
その夜。
経理室のデスクに一枚の紙が置かれていた。
【内部監査報告書・非公式版】
対象:桜井美咲
内容:恋愛監査結果 → 黒字
備考:今後も利益見込みあり
「……ほんとに、もう」
笑いながら、頬を伝う涙を拭った。
オフィスの静けさの中で、
心の帳簿がひっそりと“黒字”へと転じていった。




