第10話「恋の帳尻、合わせませんか?」
金曜日の夜。
経理部の窓の外には、春の雨が静かに降っていた
桜井美咲は、いつもより少しだけ遅くまで残業していた
机の上には、湊から回ってきた経費精算書
だが、その右上の字を見た瞬間、手が止まる
「浜松出張(同伴:高瀬)」
――高瀬。
それは、湊の“元カノ”の名前だった
胸の奥が、じんわりと熱くなる
(また、一緒に出張……?)
指先が震える。電卓のキーを押す音が、妙に大きく響いた
「……これ、処理しなきゃいけないのに」
数字がぼやけて、うまく見えない
その翌日。
土曜出勤の静かな社内
美咲がファイルを整理していると、背後から声がした
「経理さん、来てたんだ」
湊だった
「はい。締め作業が少し残ってて」
「俺も報告書の確認で。……これ」
差し出されたのは、あの“浜松出張”の明細書
「経費、間違ってたら直して」
「同伴者の欄、見ました」
「……ああ」
「“高瀬”って、元カノですよね」
湊は少しだけ目を伏せた
「そう。クライアント側の担当に復帰したんだ。だから一緒に動くしかなくて」
「……そうですか」
声が少し震える
「別に気にしなくていい」
「気にしますよ」
「どうして」
「だって、私……」
言葉が出ない
“恋人”ってわけじゃない
でも、“仕事だけの関係”でもない
湊がゆっくり顔を上げた
「桜井」
「はい」
「帳尻、合ってないな」
「え?」
「心の方の」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる
「……どうして、そうやって言葉選びが上手なんですか」
「本気だから」
静寂。
窓の外の雨音が、まるで二人の呼吸を数えているみたいだった
「高瀬とは、終わってる。もう何年も前に」
「でも、今また一緒に仕事してるじゃないですか」
「そうだな。でも、感じたよ。違うって」
「違う?」
「昔は、“この人となら仕事もうまくいく”と思ってた。
でも今は、“この人がいると、仕事に集中できない”って思った」
美咲は顔を上げた
湊は少し笑っていた
「桜井、俺にとっての“予算の中心”は、もうお前なんだよ」
「……っ」
たまらず立ち上がる
「そんな言葉、ずるい」
「ずるくても、伝えたい」
距離が近づく
手が触れそうなほどの距離
でも、どちらも一歩が出なかった
「……私、怖いんです」
「何が」
「もしこの恋が、仕事を壊したら」
「壊さない。壊れる前に守る」
そのまま、湊の指先が美咲の頬に触れる
「だから、帳尻合わせよう」
「帳尻?」
「俺が好きな分、桜井も少しだけ返して」
「……もう、そんな計算できません」
「じゃあ、心で答えて」
ほんの一瞬、
美咲は湊の瞳を見た
そこに映っていたのは、
数字でも報告書でもなく――
真っ直ぐな想いだった
「……わかりました」
「何が」
「恋の帳尻、ちゃんと合わせます」
「それ、どういう意味」
「経理としての秘密です」
笑いながら、涙が一粒こぼれた
湊はそっとそれを指で拭った
「桜井」
「はい」
「やっぱり俺、お前の経費で落ちたい」
「……意味わかんないです」
「俺も。でも、これが本音」
オフィスの蛍光灯が消え、雨の音だけが残った
ふたりの帳簿には、同じ数字が並び始めていた




