第1話「電卓とコーヒーと恋の予算」
経理部の桜井美咲(28)は、今日もパソコンの前でため息をついていた。
経理室には、カタカタというキーボードの音と、どこからか聞こえるコピー機の動作音。
――一見穏やかな昼下がり。
だが、美咲のデスクの上には、すでに5枚の問題児・経費精算書が積み上がっている。
「……また一ノ瀬さんだ。」
営業部のエース、一ノ瀬湊(32)。
社内では“クールな貴公子”とか“無敗の営業マン”とか呼ばれているが、美咲にとってはただの経理の敵だ。
『お客様との打ち合わせ(スタバ/カフェラテ3杯)』
『お客様との懇親会(焼肉/3人前)』
『お客様との信頼構築(映画館)』
「……お客様、存在してないでしょ絶対これ。」
思わず口に出してしまった瞬間、隣の席の同僚・加奈が笑いをこらえながら言った。
「ねぇ美咲、それ“信頼構築”って、もはやデートじゃん。」
「デートを経費にするなぁぁぁ!!」
つい声が大きくなって、経理課長に「桜井、静かに」と注意される。
でも、美咲はもう止まらなかった。
昼休み、コーヒーを買いに行こうと給湯室へ向かったその時――。
「お疲れ。さっきの“信頼構築”の件、何か問題でも?」
その声を聞いて、思わず足が止まる。
振り返ると、湊が壁にもたれかかって、スマホを見ながら笑っていた。
「……問題しかないですよ!」
「経理って怖いな。あれ、俺的にはちゃんとした仕事なんだけど」
「焼肉と映画が仕事ですか!」
「営業は信頼が命だから」
「恋愛みたいに言わないでください!」
「……恋愛、ね。」
ほんの一瞬だけ、湊の目が美咲を見た。
その目が、冗談なのか本気なのか分からなくて――美咲の心臓がドクンと跳ねた。
午後。経理室に戻ると、メールの通知音が鳴った。
差出人:営業部 一ノ瀬湊
件名:【経費修正】
『次回は“経理部との打ち合わせ(コーヒー1杯)”で申請します。
経理の許可が出たら行きたいです。
※経費ではなく、プライベート希望』
「……なにこれ、どっちの意味?」
顔が一気に熱くなる。
加奈が横からのぞき込み、にやりと笑った。
「美咲、それ絶対“デート申請書”だよ」
「やめてよっ、そういう冗談じゃないから!」
「え、でも“プライベート希望”って書いてあるよ?」
「……!!!」
画面を閉じようとして、手が震えた。
なのに、心のどこかが少しだけ嬉しくて――自分でも笑ってしまう。
その日の終業後。
帰り支度をしていると、湊がエレベーター前で待っていた。
「桜井、ちょうどよかった」
「な、なんですか」
「経費、直しておいた。あと……コーヒー行く?」
「えっ、ほんとに!?」
「もちろん自腹。予算オーバーでも後悔しないやつ」
美咲は、うまく返事ができなかった。
でも、彼のさりげない笑顔に、思わず頷いてしまう。
夜のカフェ。
コーヒーの香りと、ガラス越しの街灯。
テーブルの上では、電卓ではなく、二人のカップが並んでいた。
「経理の桜井さんは、数字に強いのに……恋の計算は苦手そう」
「うっ……放っておいてください」
「俺も営業だけど、駆け引きは下手なんだ。だから――正直に行く。」
真っ直ぐな言葉に、胸がぎゅっとなる。
照れ隠しにストローを噛むと、湊がふっと笑った。
「今月の俺の予算、全部この時間に使ってもいい。」
「……そんなの、経費じゃ落ちませんよ?」
「じゃあ、俺の心で落ちるからいい。」
その帰り道、美咲はふとスマホを見た。
湊からの新しいメールが届いている。
件名:【経費報告】
内容:本日の支出:コーヒー2杯。成果:笑顔1つ。
「……ずるいなぁ。」
顔を真っ赤にしながら、美咲は小さく笑った。
“恋の予算”はオーバーしても、心は黒字かもしれない。




