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夏ホラー第九弾『スポーツジムのヒトコワ』

作者: カトラス

 「うぐっ」


 会社の定期健康診断で、まさかの腹囲九十センチオーバー!

 しかも、見栄で思いっきり腹を凹ませた上での数字である。


「……嘘だろ」


 最近ズボンがやけにキツいなと思っていた矢先のメタボ判定。

 禁煙してから口寂しさを紛らわすため、無意識に何かをパクパク食べ続けていた。

 思い返すと、冷蔵庫に常備してあるペットボトルの水もやけに減りが早かった気がする。あれは単に喉が乾いていたから……なのだろうか。


 後悔しても後の祭りだ。

 とにかく、この飛び出した腹をなんとかしなければ。


 私は一大発起して、仕事帰りに寄れる駅チカのスポーツジムに入会した。受付の人にオススメされたイブニング会員コースを選び、マシンの使い方を一通りレクチャーされ、いざダイエット開始だ。


 最初こそ億劫だったが、いざ始めてみると意外と楽しい。特にトレッドミルで速歩きしながら、人間観察をするのがちょっとした趣味になった。

 ある夜、ふと気づいた。ここの給水機の水、妙に冷たくて旨いのだ。コンビニで買うミネラルウォーターより、口当たりがまろやかで……妙に、甘い。


 ジム通いは半年ほど続き、腹回りの脂肪はすっかり落ちた。達成感に包まれていたある日のこと。


 給水機の前で水を飲んでいると、見慣れた顔が話しかけてきた。

 佐藤という男性会員だ。年齢は私と同じアラフォー。細身なのに毎日来ていて、頭はツルツル、腕や脚にはムダ毛がわさわさ。どちらかというと男性ホルモンが悪い方向に作用したタイプだ。


「たまらんですな」


 と、佐藤さんは小声で呟き、ストレッチ中の女性を顎で指す。

 確かに、その女性は鏡張りのエリアでセクシーなポーズを取っているが……。


「ヤバいっすよ。見てるのバレますって」

「そうだね、失礼失礼。……ところで君、あの水飲んでる?」


 話題の急転直下に戸惑う。

「え、水? あぁ、給水機のやつですか?」

「そう。それ、変な味しない? ……甘いっていうか、ねっとりしてるっていうか」


 私は笑ってごまかしたが、喉の奥に残る妙な後味を、急に思い出した。あれは、ただのミネラルウォーターじゃない――そんな感覚が、背筋を冷たくする。


 その夜、自宅でシャワーを浴びていると、鏡に映る自分の体が妙に水を弾かないことに気づいた。

 肌に薄い膜のようなものが張りつき、水滴が滑らず、じっとりまとわりついてくる。


「……うぐっ」


 思わず声をあげ、首筋を伝う水を拭おうとした瞬間――

 水滴が、まるで意思を持ったように逆流し、鼻と口へと入り込んできた。


 翌日もジムに行くと、佐藤さんは給水機の前で仁王立ちしていた。

「君、昨日の夜……変な感じしなかった?」

 私の顔を見るなり、妙に探るような目をしてくる。


「変な感じって?」

「ほら、水を飲んだあと。肌がぬるっとしたとか、鼻から水が出そうになったとか」

「……あった」

 私が素直に頷くと、佐藤さんは「やっぱりか」と鼻息を荒くした。


 佐藤さんは、給水機を指差しながら言う。

「この水ね、普通の水じゃない。俺、気になって昨日、業務用の給水タンクを覗いたんだよ」

「覗いた? どうやって?」

「そっと、フタを開けて」

「それ不法侵入とかにならない?」

「まあまあ、人類の健康のためだ」


 そして、声を潜める。

「中、うっすら緑色だった」

「は?」

「ほら、池とかで見かけるプランクトンみたいな……」

「うわ、それアウトじゃないですか」


 佐藤さんは興奮気味に続けた。

「でも、よく考えたらこの水を飲むようになってから、俺も疲れ知らずだし、夜も……元気なんだよ」

「夜もって、言わなくていい」


 冗談半分で笑ったが、確かに私も半年で腹回りの脂肪がなくなった。

ジム通いのおかげ、と思っていたが……もしやこの水の作用じゃないか?


 その日の帰り、試しにボトルに少し持ち帰った。

家で味わうと、やっぱり妙に甘く、冷蔵庫で冷やすと喉の奥にまで染み込む感覚がする。

そして、寝る前に風呂に入ったとき、またあの現象が起きた。


 肌に水がまとわりつくどころか、湯船の水面が私の胸までせり上がってきた。

「ちょっ、待て待て待て!」

 慌てて立ち上がると、水面は何事もなかったように揺れている。


 ……気のせいだ、疲れてるんだ。

 そう言い聞かせて寝ようとしたとき、枕元から「ぴちゃん」という水滴の音が聞こえた。


 振り向くと、ペットボトルに入れておいた“あの水”が、勝手に揺れていた。

しかも……ボトルの中で、小さな口のような泡が、にやりと笑ったように見えた。


 あの夜から三日後、私は意を決してジムの裏口に回った。

 目的はもちろん、あの給水機の水の正体を突き止めるためだ。


 裏口の鉄扉には「関係者以外立入禁止」の札。

 しかし、タイミングよくスタッフがゴミ出しに出てきた瞬間、私はすれ違いざまに「こんばんは」と軽く会釈して中へ滑り込んだ。


 そこは薄暗い倉庫のようなスペースで、奥に巨大な銀色のタンクが二つ並んでいた。

 ひとつは「清掃用」、もうひとつには「給水機直結」と書かれたラベル。

 近づくと……ほんのり、川のような、いや、生臭いような匂いが鼻を刺す。


 恐る恐るフタを開けた。


 中は、やはり緑がかった水。

 ゆらゆら漂う細い繊維のようなものが、私の気配を察知したかのようにスッと沈んでいく。

 ……いや、あれは髪の毛に似ていた。


「おや、興味がおありですか?」

 突然、背後から声がして振り向くと、そこにはジムの店長――いつも笑顔の中年男性が立っていた。


「これ、なんの水なんですか?」

「地下水ですよ。うちの建物の地下、古井戸があるんです。成分分析ではカルシウム豊富でね、疲労回復に効くんですよ」

「へぇ……でも、なんか色が……」

「ミネラルです。ミネラル」


 店長はにこやかに言ったが、タンクの中を見下ろすその瞳の奥に、妙な光があった。


 帰り際、入口で佐藤さんに出くわした。

「おぉ、君も来てたか。あの水、飲みすぎないようにな」

「……なんでです?」

 佐藤さんは笑った。

「俺の前の知り合い、あの水を毎日2リットル飲んでたんだが、ある日いきなり来なくなってさ。そしたら――」


 言いかけて、彼は口をつぐんだ。

 私が促そうとした瞬間、ふと気づいた。

 佐藤さんの腕……水滴で濡れていた。ジムに来たばかりなのに、シャワーを浴びたように。

 しかも、その水滴は垂れず、皮膚の上でじっと形を保っている。


「……佐藤さん、それ」

「あぁ、これ? 便利なんだよ。乾かないし、喉も渇かない。ずっと一緒にいてくれる」


 そう言って、佐藤さんは腕を撫でた。

 ぬるり、と水が指に絡みつき、小さな気泡が“笑った”。


 私の背中を冷たい汗が伝う。

 佐藤さんの目も、笑っていた――水面のように、ゆらゆらと。


 それから数日後――佐藤さんの姿は、ジムからすっかり消えた。

 毎日のように給水機の前やストレッチエリアで見かけていたのに、急にだ。


 ある晩、ランニングマシンで汗を流していると、休憩スペースのソファで二人の主婦がひそひそ話をしているのが目に入った。

 一人は、佐藤さんがよくストレッチをのぞき見していたあの女性だ。

 私は足を止め、飲み物を取るふりをしながら、そっと近づいた。


「……ねえ、この前さ、買い物帰りに貯水池の前を通ったのよ」

「うんうん」

「なんかね、視線を感じて……パッと見たら」

 主婦は、そこで小さく息を呑んだ。

「……あのハゲが全裸で泳いでたのよ」


 私は思わず手にしたボトルを握りしめた。

「え、誰のこと?」と相手の主婦が聞くと、

「あの……佐藤って名前じゃなかったかしら。ほら、細くて……ちょっと、ね」

 二人は目を合わせて苦笑いする。


 私はその笑い声を背中で聞きながら、心臓がどくりと跳ねるのを感じた。

 全裸で貯水池を泳ぐ――信じられない光景だ。

 だが……なぜか、私の胸の奥に奇妙な共感が芽生えた。


 最近、無性に水の中に入りたくなる。

 プールでも、風呂でも、川でも、どこでもいい。

 水の中で息を止め、全身を沈めたまま、いつまでも漂っていたい――そんな衝動が、日に日に強くなっている。


 ――あぁ、そうか。

 きっとあの水は、佐藤さんだけじゃなく、私の中にも……。


 喉が渇く。

 給水機の冷たい水が、たまらなく恋しい。


 私は気づけば、ロッカールームへ向かっていた。

 着替えを捨て、タオルを持たず――ジムを出て、夜の街を貯水池の方へと歩き出していた……。

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