第2話「呼び鈴は午後九時に鳴った」
雨が降り始めたのは、午後八時を回った頃だった。
横浜中華街。石畳に打ちつける雨の音が、軒先の赤い提灯の灯りをかすませる。通りの喧騒もどこか遠のき、まるで世界から切り離されたかのような静けさが辺りを包んでいた。
神代探偵事務所の三階――
古びた木製の階段を登ったその先で、澪はぬるくなった紅茶に口をつけた。雨音が窓を叩くなか、机の上では書類が静かに山を作っている。
「……神代さん、今日も遅いですねぇ……」
ぽつりと、ひとりごとのように呟く。
澪の隣では、橘颯がノートパソコンを開き、真剣な顔で何かを読んでいる。彼のスーツのネクタイは緩められ、左手には読みかけの法律書が挟まれていた。
「さっきから文学サイトを見てませんか?」
「ん? ちょっと調べ物ですよ。
密室の定義、実際に警察はどう分類してるか、なかなか明文化されてないんですよね」
「また事件待ちの顔になってますよ……」
「いや、ただの癖ですよ。静かな夜が、いちばん危ない」
そのときだった。
──チン……。
電子音のように控えめで、それでいて異様に冷たい呼び鈴が、事務所の沈黙を破った。
澪と橘が顔を見合わせたのは、ほぼ同時だった。
この時間に訪ねてくる客は、通常いない。
定時を過ぎた神代探偵事務所には、広告も出していない。それでも、何かを知っている者だけがここを訪れる。
橘が立ち上がり、扉を開けた。
雨の中に立っていたのは、黒い傘をさした男だった。
五十代前半。濃紺のスーツにネクタイ、きっちり整えられた髪。だが、顔色は悪く、神経質そうな表情が浮かんでいる。
「……神代慎氏は、いらっしゃいますか?」
低い声。だが、どこか怯えを孕んでいた。
「あなたは……?」
「私の名は中原圭一。品川で画廊を経営しています。……これは、ただの相談ではありません。
……命に関わることなのです」
橘が何かを言おうとしたそのとき――。
「澪、来客か。温かい紅茶を。橘、客間の明かりをつけてくれ」
静かに扉が開き、濡れたままのコートを翻して、神代慎が現れた。
まるで、呼び鈴と同時に現れたような登場。
コートの肩には、雨がまだ滴っている。
「……お戻りになってたんですね、神代さん」
「戻るべきときは分かる。それだけさ」
神代の声は、相変わらずの冷静さに包まれていた。
だが、その目だけは、中原という依頼人の全てを測っていた。観察ではない。解剖に近い、視線。
神代はソファに腰を下ろし、中原を促す。
「話を聞こう」
中原は一瞬ためらい、そして重い声を落とした。
「……被害者の名は早瀬丈晴。私の旧友であり、精神科医です。
三日前、彼が自宅で密室の中、死んでいるのが見つかりました」
「死因は?」
「一酸化炭素中毒。暖炉には火がありました。
警察はうつ症状による自殺と判断しています。だが、私は違うと感じる……。あれは、他殺です」
橘の眉が、ぴくりと動いた。
神代は言葉を挟まず、紅茶をひとくち飲んでから答える。
「理由は?」
「……彼には、死ぬ理由がない。それだけではありません。
自殺にしては、あまりに整いすぎていたんです。窓も、鍵も、何もかもが“理想的な密室”すぎる。
あの男は……生きることに、あまりに執着していたのに」
神代は目を閉じた。そして、短く言った。
「──行こう、橘。準備だ」
「現場ですか?」
「ああ。密室というのは、閉ざされた空間ではなく、意図して閉ざされたと見せる空間だ。
ならば、作った人間がいる。……そいつを見つけるのが、我々の仕事だ」
橘が静かに頷いたその背中に、
澪がそっと声をかけた。
「……気をつけてください。今日は、雨が……匂います」
神代はその言葉に、一瞬だけ足を止めた。
そして、まるで空に向かって話しかけるように、呟いた。
「……雨が降る夜は、密室に向いている。
人の匂いが、隠れるからな」
扉が閉じる音とともに、事務所は再び静寂に沈んだ。
だがその静けさは、もう日常ではなかった。




