プロローグ:その声を聞く者
窓の外で風が騒いでいた。
神代探偵事務所の所長、神代慎は、事務所の奥にあるソファの背にもたれながら、その音をただ、耳の奥で受け止めていた。
冬の横浜。曇天の午後。
事務所の事務員である森下澪が、静かに加湿器の水を替えている。
その音も、湯気の立つ気配も、神代には馴染み深い背景音だった。
「――神代さん。来月、また大学の方から依頼が来るかもしれません」
「ああ。もうその時期か」
神代は目を伏せ、手元にある書類の束に視線を落とした。
亡くなった学生、彼の笑っていた写真。まだ若い、その目の中には、何か言いかけたような影が残っていた。
「神代さんは、いつから“声を聞く”ようになったんですか?」
澪が言った。
神代はほんの一瞬、書類から視線を外した。
そして窓の外――白くけぶる雲の切れ間に、遠い過去を探るように目を向けた。
「声は、ずっとあった。ただ、気づかなかっただけだ」
「気づいたのは、探偵になってから?」
「いや。……そのずっと前。聞こえていたのに、拾えなかったことがある」
それは、かつて自分が“警察官”だった頃の記憶。
真実よりも処理を優先された現場。
制度の中で聞こえなくなっていく「小さな声」。
だからこそ、彼は組織を離れ、“聞く者”であることを選んだのだ。
「……探偵は、過去と向き合う仕事だ」
「過去?」
「まだ答えの出ていない問いに、もう一度耳を傾ける。
それが、誰かの“親友の死”であっても、だ」
澪が、書類の一枚を取り出した。
横浜中華街の廃ビル内で発生した、ある学生の“偽装死”。
まるで自殺のように見えたその事件は、死者の“人格”が塗り替えられていた。
「この事件が、“神代探偵事務所の記録”としては、最初なんですね」
神代は小さく頷く。
「ああ――事件録として、ここから記していく。だが……」
一拍おいて、彼は視線を澪に向ける。
「俺が“声を拾う”ことを選んだのは、もっと前のことだ」
神代はゆっくりと椅子から立ち上がる。
机の上に、一冊の黒いノートを置いた。
『事件録』――その表紙には、墨色の筆記体でそう記されていた。
「これは、“声の記録”だ」
「声の……?」
「語られなかった真実、無視された痛み、見逃された疑念。
そのすべてが、静かに並べられていく」
神代は、ノートの一頁を開く。
インクの匂いが、微かに澪の鼻先をかすめた。
その最初の見出しには、こう書かれていた。
『File.01 すり替えられた親友』
――そして、物語が始まる。