間違えた召喚
眼前に現れた素っ裸の少女は、
可愛らしく両腕をばたつかせながら言った。
「誰って、私ですよ! あなたのアーイシャです!
お嫁さんの顔まで忘れちゃったんですか?」
僕は軋む身体を誤魔化すように息を整え、どうにか仰向けのまま上体を起こした。
魔力のほとんどを使い果たしてしまったのだろう。
今の僕は、生まれたての子鹿のように、情けないほどか弱く、
小刻みに全身を震わせている。
泣きたくなるほど惨めだった。
視界も定まらない。
もしかすると、ただ目の焦点が合っていないだけで、
本当は見覚えのある顔なのかもしれない。
そう思って、瞼を擦り、改めて少女をまじまじと見つめた。
――さて、何度でも言おうか。
「いや、だから誰だよお!?」
「酷い! あれだけ愛し合ったのに、カイス様のひとでなし!
短小! 包茎! 早漏野郎!」
「どうして罵倒が一貫して僕の下半身に集中するんだ。
ていうか、お前こそ誰の旦那と勘違いしてる!
僕の財布より軽い尻で夜を跨いでたら、そりゃ相手の顔も判別つかなくなるだろ!」
「あー、今とんでもないこと言いましたね!?
然るべきところに訴え出て、社会的に終わらせてあげますから。
私の旦那様は、生涯カイス様だけだったのに……!」
「旦那様って、そういうプレイの呼び名か?
高額なオムライスに“おいしくなる魔法”でもかけてくれるのか。
もういい加減にしてくれ。押しかけデリバリーメイドめ。
……これでも見てみろ」
震える腕をどうにか伸ばし、床に散らばったガラス片を拾い上げる。
元は姿見だったはずだが、今では見る影もない。
魔術の余波で部屋は荒れ果て、壁も床も、
どこか現実感を失った廃墟のようだった。
――これだけのことを、さっきの僕はやったのだ。
ガラス片に映る自分の顔は、思った以上にやつれている。
目の下の影も、乾いた唇も、誤魔化しようがない。
それを、今度は全裸で自称“嫁”を名乗る変態少女へと、無言で突きつけた。
変態少女は、まるで浮気の決定的証拠でも突きつけられたかのように、
目を見開き、唇をかすかに震わせた。
次の瞬間、僕の手から乱暴にガラス片を奪い取る。
「おい、そんな持ち方——危ないぞ」
忠告など耳に入らないらしい。
彼女は全裸のまま、身体のあちこちを映し、角度を変え、光に透かすようにして確認する。
握り締めた拍子に、手のひらが切れたのだろう。
指先から赤い雫が落ち、床に小さな染みを作る。
それでも彼女は、痛みすら忘れたように、ただ呆然と呟いた。
「……そっか。
そういう、ことか」
ひとりで結論に辿り着いたように、彼女は小さく息を吐いた。
「勝手に腑に落ちるな」
低く、刃のように言葉を放つ。
「お前は誰だ。場合によっては、僕はお前をあの世に還す。
死霊術は、最愛の人のために振るうものだ。――お前は、その人じゃない」
彼女は一瞬も怯まず、まっすぐに名を告げた。
「私は、アーイシャ・ラフティマ・レジット。
あなたのお嫁さんですよ?」
「……ふざけるなああ!」
喉が裂けるほどの声が、焼け焦げた部屋に反響した。
左手を振り上げ、怒りを形に変える。皮膚の下から、幾何学が滲み出すように魔術紋が浮かび、踏み潰した柑橘のような橙色で脈動を始めた。
紋様は広がり、円環を結び、やがて陣となる。
空気が悲鳴を上げ、温度が跳ね上がる。
息をするたび、喉が灼ける。
僕は、焦熱の言葉を吐いた。
「――灰燼帰さすは、魔人の戯れ。
在るべき者、飲みて奔流せよ。
庭園葬……!」
解き放つ、その瞬間だった。
彼女が、僕の手首を掴んだ。
重心を奪われ、視界が反転し、背が床に落ちる。
——言葉が途切れる。
彼女は、まるでそれが最初から決まっていた手順であるかのように、
ためらいなく身を寄せ、自身の唇で僕の唇を塞いだ。
「……!」
詠唱は砕け、魔法陣は音もなく失速する。
残ったのは、焦げた空気と、胸の奥でなお燃え続ける問いだけだった。
あまりに唐突で、思考が追いつかない。
頭の中が、白く塗り潰される。
何を考えている——。
抗議の言葉すら見つからぬまま、彼女はさらに踏み込み、境界を失った感触が意識を乱す。
節操がない。
軽薄だ。
これは愛ではない。売女のそれだ、と僕は必死に断じようとした。
だが、その断罪と同時に。
組み上げられていた魔法陣が、行き場を失った熱を抱えたまま、
空気に滲み、輪郭を崩し、居心地の悪さを訴えるようにほどけていく。
最後には、名残の火花すら残さず、溶けるように消え失せた。
……お見苦しいものを、見せてしまい申し訳ない。
場違いな思考が、脳裏をよぎる。
部屋にはまだ、肌を刺すような余熱が漂っている。
ほんの数瞬前まで、僕はこの――死んでいるはずの、正体不明の女を、確かに殺そうとしていたというのに。
今はもう、その意思さえ輪郭を失っていた。
耳に届くのは、決して子どもたちに聞かせてはならない、湿った水音だけ。
時間は、意味を失ったまま、わずかに流れた。
やがて彼女が唇を離す。
互いの間に、名残惜しそうに細い糸が引かれ、それもすぐに切れた。
彼女はその頬に手を当て、陶然とした表情で息を吐く。
まるで――
すべてが、予定調和だったかのように。
「……いやん」
今さらそんな殊勝な声色を作られても、もう遅い。
僕の認識は、すでに一段階目で固定されている。――素っ裸の変態、である。
「お前、何てことをしてくれたんだ。このイカレクソビッチが!」
嘆きにも似た怒声を上げると、彼女はなおも僕の上に跨ったまま、平然と言葉を継いだ。
「【庭園葬送】……カイス様の最高火力魔法ですね」
その名を、彼女は懐かしむように、正確な抑揚で口にした。
「昔、お城に近づいてきた数百人の盗賊を、一度に焼き払ったことがありました。
あのとき、カイス様は笑顔で――『今宵は冷える。薪が自らやって来てくれて助かるな』って」
背筋を、冷たいものが走る。
「……お前、どうしてそれを」
「でも駄目ですよ?
ここで使ったら、辺り一面、焼け野原です」
彼女は肩をすくめ、冗談めかして続けた。
「あ、でも。
一度くらい、身をもって受けてみるのも――アリだったかも、ですけど」
本当に、何者だ、この女は。
アーイシャとの記憶を、正確すぎるほどになぞってくる。
だが外見は違う。声も、仕草も、性格も。
彼女は、もっと静かで、控えめで、笑うときも目を伏せていた――はずだ。
前世で同じ城にいた眷属か。
召喚の歪みで、外形だけが変質したアーイシャか。
それとも――アーイシャの魔力を媒介に、記憶だけを宿してしまった、完全な他人か。
どれであっても、看過できない。
ここで、はっきりさせなければならない。
多少、強引になろうとも。
大丈夫だ。
僕は、強い。
――そう、自分に言い聞かせながら、震える指先に、再び力を集め始めた。
「もう一度だけ聞いてやる」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。
怒りも、焦りも、すでに沈殿している。ただ事実を選別するための温度だけが残っていた。
「チャンスは三度も与えない。
お前は誰だ。
アーイシャか。眷属か。それとも――」
「何度も言ってるじゃないですか」
彼女は肩をすくめ、困ったように笑う。
「私は、あなたのお嫁さんです」
「証明できるか?」
喉の奥で、乾いた音が鳴った。
「僕はな、花園に棲む草食動物よりも臆病で、警戒心が強い」
「どうしてそんな情けないことを、胸を張って言えるんですか」
「僕が誰よりも強いからだ」
その言葉は、虚勢ではない。
疑う力こそが、生き延びてきた理由だった。
「……じゃあ」
彼女は、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。
「証明できなければ、どうなさるんですか?」
「お前を、あの世に送り還す」
淡々と告げる。
「死霊術は、また最初から研究すればいい。
失敗には、もう慣れている」
「送り還す……」
その復唱は、やけに静かだった。
「三つ数えるまでに答えろ」
僕は魔力を、確実に、指先へと集める。
「それでなければ、次は即死魔術だ。
お前は誰だ」
大きく息を吸う。
肺が軋むほどに。
数える。
「三……」
躊躇はない。
「二……」
情は切り捨てた。
「一……!」
――殺す。
もう、決めた。
「死ね――」
「殺せませんよ」
言葉が、空中で凍りついた。
沈黙が降りる。
重く、薄く、逃げ場のない静けさだった。
――今、こいつは何と言った?
いや——
気に留める必要はない。意味を考えるだけ時間の無駄だ。
僕には目的がある。アーイシャを召喚する。それだけの人生だった。
再び、左手を掲げる。
次は焼かない。
一瞬だ。
死霊術師。
命を呼び、命を縛り、命を終わらせる者。
生かすも殺すも、すべてはこの手のひら一つで決まる――それが、僕の真理だった。
左手の甲に、魔術紋が浮かび上がる。
即死魔術特有の、冴え冴えとした柴色。
冷たく、情のない光が広がり、魔法陣を形作る。
その瞬間だった。
パチン――。
指を弾く、あまりにも軽い音。
「……は?」
「残念ですけど」
彼女は微笑んだ。
勝者の笑みでも、嘲りでもない。
ただ、結果を知っている者の表情で。
「おしまいです」
次の瞬間、僕の魔法陣は――
崩れた。
破壊された、というより、
最初から成立していなかったかのように。
鏡に石を投げた時のように。
いや、それよりもずっと容易く。
指先一つ、鳴らしただけで。
――理解が、遅れて追いつく。
「お前……何をした」
声が、思ったより掠れていた。
「あり得ないだろう?
僕の作った魔術だぞ」
「わあ」
少女は楽しそうに目を細める。
「カイス様が動揺してる。
すごく貴重です。可愛い」
「戯言を言うな!」
怒鳴り返したつもりだったが、喉が震えた。
「僕がお前を召喚した。
僕が主だ。召喚者と被召喚者の力関係を忘れるな!」
「……本当に、忘れてるのはどっちでしょう」
少女は首を傾げる。
「カイス様。
私を蘇らせた時、あなたは何を差し出しました?」
「は……?」
「持ちうる魔力。命。その、すべてです」
淡々とした声だった。
事実を読み上げるだけの、感情のない口調。
「今のカイス様に残っている魔力は、死霊術を使う前の……せいぜい一割。
いえ、それも甘く見積もって、ですけど」
背筋を、冷たいものが這い上がる。
僕は確かに、投げ打った。
アーイシャと再会するためなら、全てを差し出す覚悟だった。
そして――術は、成功した。
誰を呼び出したのかは分からない。
だが、対価は正しく支払われている。
少女が指先で、ゆっくりと僕の鼻筋をなぞる。
ひやりとした感触。
そして、軽く唇で弾いた。
「カイス様が失った九割の力は、今……私の中にあります」
囁くような声。
「たぶん、一秒もかかりません。
今のあなたを殺すくらいなら」
言葉と同時に、胸が強く脈打った。
「あなたの心臓は今、私の手の中にあるんですよ?」
――理解した。
僕は、召喚に成功したのではない。
譲渡したのだ。
力を。
命を。
そして、立場を。
ああ。
僕はきっと、
この世に存在させてはいけないものを、
自分の手で生み落としてしまったのだろう。
この時、初めて――
僕は、他人を恐れた。
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