冷たき生に、死の花束を――
この生が終われば、いずれまた別の肉体が与えられる――
そう信じていた。
命とは、どこか他人行儀な客人のようなものだと。
だからこそ、死とはいつ訪れるのかと、ふいに考える。
寿命か、病か、あるいは争いか。
生を授かったその瞬間から、人はすでに終わりへと歩き始めている。
それでも人は、世界に残る足跡を深く刻もうとする。
終点に辿り着いたとき、振り返った軌跡が、せめて花束のように輝いていてほしいと願いながら。
――ただ、僕は例外だった。
宮殿の屋上。
月明かりに身を浸し、目を閉じる。
光を断っても、風は頬を撫で、砂は流れ、湖の波紋は肌で感じ取れた。
それらはひとつの調べのように、静かに世界を奏でている。
視界を暗闇で満たしても、当然死は訪れない。
肉体が滅びても、魂の終わりを知ることはなかった。
千年前の記憶さえ、昨日の出来事のように思い出せる。
今生が終われば、また次の肉体が与えられる――
そんな確信が、命を遠ざけていた。
だが、もし。
外の世界へと向ける心そのものが、閉ざされてしまったならどうだろう。
音も、匂いも、生き物たちの営みにも関心を失い、
亡者のようにただ彷徨うだけの存在になったとき。
その瞬間こそが、真の死なのではないか。
僕は――
たぶん、ずっと前から死んでいた。
暗がりの中で、ただ一人の女の名を呟きながら、
幾年月もの時を、意味もなく垂れ流してきた。
哀れな王は今、
千年ぶりに、勝利に飢えている。
止まっていた心臓が、
ようやく時を刻み始めた――
そんな感覚が、確かにあった。
円形闘技場に、三つの異なる魔術詠唱が同時に流れ込む。
空間が微かに歪み、三者の魔力が互いの居場所を奪い合うように、張りつめた波動を発していた。
この期に及んで、詠唱を短縮して不意を突こうなどという考えは、致命的な悪手に等しい。
求められるのは、魔術の力を限界まで引き出す、完全無欠の詠唱。
一文字、一符号の誤差が、勝敗の行方を決するのだ。
カレンは、体から迸る風圧で長い髪を靡かせながら、静かに告げる。
「イズヒト様、こちらは準備が整いました」
僕も、最低限の詠唱は済ませた。
残りは、折を見て、必要な瞬間に。
「カレン、僕はお前を信じる――」
「私が妻であるということをですね!
あーいしてますうう!」
この魔術、こいつに叩き付けるべきか。
競技内であっても、一度死を経験すれば、この減らず口が少しは落ち着くかもしれない。
いや、それよりも。
「その話は保留だ。
この作戦を成し遂げられたなら、考え直してやってもいい」
「ご心配には及びません。
イズヒト様を夜這いするが如く、脳内シミュレーションは完璧です」
上手くいきそうだと思う自分が、少し怖い。
そんな言葉ひとつで信頼度が跳ね上がるのだから――
僕も、大概壊れているのだろう。
まさか、カレンの変態性が、信用の材料になり得るとは。
冷めた視線を向けると、彼女の口許がふっと綻んだ。
「今のイズヒト様、とても素敵ですよ。」
「戯れの時間は終わりだ。
頼むぞ」
「はい。最後に立つのは、イズヒト様です」
……くだらないやり取りの末に、最も信頼のおける言葉を残したか。
そうだ。
王は、最後まで生き残れば、それで良い。
かつての僕は、臣下に幾度もそう告げてきた。
民のために命を投げるのは、愚かなことだと。
この価値観の違いこそが、ソウマとの闘いに決着をつける、最も明確な一手となる。
鮮烈な白光に包まれたソウマは、にやりと口角を裂いた。
「互いに準備が整ったようだな……。
イズヒト、お前が何を企んでいるかは分かる」
僕の足下に浮かぶ、冴え冴えとした魔術紋を指差す。
「その特有の魔術紋。
即死魔術だろう?
多くの呪術を見てきたが、その力を完璧に発現させた者は、俺の知る限りいない」
「さすがの王位だ。
魔術知識も大したものだね」
「無論だ。
王の称号は、無欠の者にこそ相応しい」
ソウマは喉を低く鳴らす。
「お前のように、虚勢のためだけに魔術紋をちらつかせる連中は、ごまんと見てきた。
その魔術は、神話の中にしか生きられぬ、現代のガラクタだ」
即死魔術――戦争も終結した現世においては、役割を終え、風化した存在に等しい。
魔力消費は凄まじく、制御を誤れば、使用者自身をも葬り去る呪いそのもの。
現代では、喧嘩の際に見せる威嚇動作とほぼ変わらぬ力しか持たないだろう。
実際、詠唱の多くを済ませただけで、僕の腕は焼け爛れ始めている。
力を失った今の僕が、死の魔術性質を完全に纏えば、間違いなくあの世行きだ。
だから――と、ソウマは視線をカレンに刺しながら続ける。
「お前は、この闘いで注意を引きつけ、最初から女で決めに行くつもりだろう!」
――動いた。
地面が裂けるように消え、空間を押し潰しながら、カレンへと迫る。
「――……」
一瞬の視線の交錯。
決着の合図だ。
カレンも、迷いなく真正面から迎え打つ。
両者の眼光が、流星のごとく空に筋を描く。
――カレンを排除すれば、残されるのは虚勢だけの男。
実質の勝利は、すでに確定――ソウマはそう確信している。
だからこそ、躊躇も容赦もなく、全力を注ぐ。
紡がれるのは、上位魔術“聖紋級”すら凌駕する“星刻級”。
「――羽ばたきに神の光を宿し、
果てなき天に舞い上がれ、
夜明けの翼刃――
【天翼の聖剣】!」
刹那、空間は柔らかな羽根で満たされる。
音は消え、耳鳴りだけが、静かに近づいてくる。
神秘と浄化を体現した光景に、思わず息を忘れていたことに気付く。
慌てて吸い込んだ呼吸の、その隙間を縫うように。
光の熱線は一本の剣となり、カレンへと振り下ろされた。
受け止めるでもない。
相殺を狙うでもない。
カレンが成したことは、ただ一つ。
死の直前に、魔術名を差し込んだだけだった。
「【束の間の祝福】――」
穏やかな声音が、光に溶け込む。
次の瞬間、ソウマの魔術の閃光が、爆ぜた。
魔術演舞のヴェールさえも、熱に溶けるように揺らぐ。
甲高い破裂音が鳴り、鼓膜が裂けそうになる。
これが競技外であれば、どれほどの惨状を招いていたか。
幻影魔術の外にいる見物の生徒たちですら、幾人かは意識を失っている。
暴力的に降りた光のカーテンが、少しずつ晴れていく。
――そこに、カレンの影はなかった。
僕が召喚者なのだから、分かる。
ルール上、カレンは死んだ。
今頃は、魔術演舞から弾き出され、
敗者が送られる控え室へと転移させられているはずだ。
彼女の役割は、ここで終わりだ。
消え入る直前の、あの微笑み。
それだけが、鬱陶しいほど鮮明に、脳裏へ焼き付いて離れない。
振り払うように、頭を振る。
そして、拳を握った。
ソウマは、勝利を確信した笑みを浮かべる。
「……はは。
これで一人になったな、“王様”」
「哀れむ必要はないさ。
一人には、慣れている」
「そうか。でも安心しろ。
すぐにお前も、あの女の元へ送ってやる。
俺の前で何も為せなかった、無力な民のところへな」
「……」
自分でも、はっきりと分かった。
これは――怒りだ。
理由は、恐ろしいほど明確だった。
誤魔化す余地もない。
カレンを侮辱されたことへの、純粋な怒り。
感情が、静かに沈殿し、声音へと落とされる。
「王は、最後に立っていればいい。
ソウマ――なぜだか、分かるかい?」
「ああ?
民の屍の上に立つ王に、その資格はない」
「君は、強いんだね」
その一言に、ソウマの眉が吊り上がる。
失うものが何もない選択肢があるなら、
迷わずそれを選ぶべきだ。
力を誇示し、力なき者を従わせる。
それもまた、王の在り方の一つだろう。
だが――力だけでは、国は育たない。
力に縋る社会の行き着く先は、抑圧だ。
やがて民は、必ず望む。
新たな王の誕生を。
「君の考えも、一つの正解だ。
民を守る王は、確かに必要だ」
間を置き、ゆっくりと続ける。
「だが、僕はこう思う。
民が――守りたいと願う王であろう、と」
「臆病者らしい台詞だな」
「その通りだ」
魔力が、脳天からつま先までを駆け抜ける。
熱を帯び、血と同化し、全身に満ちていく。
カレンの託した願いが、
今、確かに胸へ届いた。
「王とは、道を示す存在だ。
決して、失われてはならない」
言葉を、噛みしめるように。
「たとえ犠牲を伴おうとも。
目を伏せることも、逃げることも許されない。
慕う者の願いを踏みにじるなど――王ではない」
視線を上げる。
「ソウマ。
今から君に、それを証明してやろう」
「証明だと?
影に身を潜めていたお前に、何が――……」
言葉が、途中で凍りついた。
嘲笑の形のまま、表情だけが固着する。
「……気付いたかい?」
静かに告げる。
「カレンが遺した、最後の魔術だ。
【束の間の祝福】――
命を対価に、
被術者は、一分間、生と死の概念から切り離される」
「一分……だと?」
驚愕が、理解へ。
理解は、すぐに嗤いへと変わった。
「――お笑いだな。
一分如きで、何ができる」
その反応は、想定通りだった。
「君は、僕を慕う者を侮辱した」
一拍。
「――一分も、生きられると思うなよ?」
理解できない、という顔をしたままのソウマをよそに、
僕は、胸の奥に溜め込んでいた魔術を解放する。
今の僕が死の魔術性質を纏っても生きていられるのは、
カレンの護りがあるからだ。
だから、使用が許される。
――僕の“切り札”。
千年前、王であった頃。
そして、死霊術師として蘇った今なお、
容易に明かさなかった、終止符のための言葉。
「――謳え、生ける者よ。
偲ぶ涙は、侮辱に等しい――」
「……ッ!」
足下の魔術紋が、冴え冴えと燃え上がる。
恐怖を理解した瞬間、ソウマは最速で判断した。
光の弾丸。
躊躇のない、確殺の一撃。
それは、確かに――
僕の心臓を射抜いた。
だが。
詠唱は、止まらない。
現実から乖離した光景に、
ソウマは反射的にスコアボードへ視線を投げた。
そこには、ただ一つのライフポイント。
淡い光を宿したまま、
欠けることも、揺らぐこともない。
当然だ。
一分という時間制限の間、
頭を吹き飛ばされようと、
肉体を灰にされようと――
僕は、カレンの魔術によって、
死という概念そのものから切り離されている。
何をしても、無駄だ。
これは、延命ではない。
慈悲でもない。
――処刑までの、猶予だ。
「クソォ……!」
弾光が、幾度も放たれる。
胸を穿ち、腹を抉り、喉を裂く。
穴が空くたび、幻影魔術が遅々として肉を縫い直す。
生きているのに、死ねない。
死んでいるのに、終われない。
歪みきったその顔に――
最後の一節を、静かに置こう。
その目に映すことを、光栄に思え。
僕のオリジナルにして頂点。
――“禁秘級”魔術。
「――冷たき生に、死の花束を。
根源一葬、外法の手――
【餓者髑髏】」
空気が、死んだ。
温度が消え、音が剥がれ落ちる。
慎み謳う、子どもの声。
どこか懐かしく、どこまでも不吉な旋律。
背骨を這い上がる、原初の恐怖。
ソウマは――
僕の背後に“立つもの”を、ただ見ていた。
「……なんだ……この……魔術は……」
「君自身が言っただろう」
淡々と告げる。
「神話世界の、ガラクタだよ」
ソウマの瞳に映るそれは、
もはや魔術という枠を踏み越えていた。
全身が巨大な骸骨。
角と外骨格を纏い、
柴色の魔力が燃え盛るように、僕とそれを包み込む。
――死神の霊体。
本来の力がカレンに奪われていなければ、
視界に映した瞬間、即死だった。
だが今の僕は、全盛期には到底及ばない。
……なるほど。
「やはり、直接触れる必要があるか」
独白のように呟く。
想定外ではない。
カレンに“星刻級”を要求した時点で、
必要最低限の出力は分かっていた。
動揺はない。
――この状況も、計算の内だ。
ソウマは額に汗を滲ませ、声を絞り出す。
「……触れる必要がある、だと……?」
「ああ。
この魔術は完全再現じゃない」
一歩、前へ。
「だから――
君に触れれば、それでキルフィニッシュだ」
沈黙が落ちる。
世界が息を潜め、
互いの思考に浮かぶものは、ただ一つ。
残り時間。
もう、三十秒もない。
命を奪うための三十秒。
死から逃れるための三十秒。
「さて、ソウマ――」
息を整え、告げる。
「鬼ごっこは、好きか?」
「クソがあ!」
最速の一歩。
地を蹴った瞬間、世界が引き延ばされる。
心臓を射抜く軌道で腕を伸ばすが――
ソウマは迷いなく、両手で僕の手首を掴み、
躊躇なく、へし折った。
死はない。
ライフも削られない。
それでも、確かな痛みだけが、骨を震わせて響いた。
荒く息を吐き、僕は記憶をなぞる。
「あの時とは、逆だな。
僕と君が、初めて出会った時と」
「……なに」
あの日、彼が僕に向けた言葉を、今度は僕が繰り返す。
「もう一発は、どうする?」
拘束されていない、もう片方の腕を――
ゆっくりと、振り上げる。
怒りを滲ませ、血を吐くようにソウマは叫んだ。
「俺は、王の称号を持つ男だ……!
俺が、てめえ如きに負けるわけがねえだろう!
【風の刃!】」
瞬間。
無詠唱で叩き付けられた魔術が、
空気を一筋の刃へと変え、僕の左腕を宙へと跳ね飛ばす。
――これで、勝利条件の全てが揃った。
僕は死霊術師。
生かすも、殺すも、
その境界は、この手のひら一つにある。
だが、競技の王を討ち取るには、暴力だけでは足りない。
視界からも、計算からも外れた、想定外の一手が必要だ。
血しぶきの雨の中、
ゆっくりと、顔を上げる。
「ソウマ……
君の考えを、一つ正そう」
「……何だ」
「王とは『称号』じゃない」
喉の奥から、叫ぶ。
「――『象徴』だああああ!」
跳ね上げられた腕が、重力に従って落ちる。
その手のひらが、ソウマの肩に触れた。
【餓者髑髏】の死神が脈を打つ。
魔術は繋がる。
触れた瞬間、心臓へ。
時間差で、幻影魔術が腕を繋ぎ直す。
僕は、躊躇なく、再生した左手を――
ソウマの心臓を握り潰した。
呼吸ひとつ分、
音が、消える。
次の瞬間、
ソウマは膝を折り、地へと崩れ落ちた。
スコアボードの星が砕け、光の残滓を散らす。
数字は、7から――0へ。
“キルフィニッシュ”。
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