魔術演舞 【Ⅱ】
――まだ、心臓は動いている。
そう理解するまでに、わずかな遅延があった。
胸の奥が、痛みなのか、痺れなのか、それとも両方が混ざり合ったものなのか、即座には判別できない。
鼓動は確かにそこにあるのに、まるで他人の身体のものを遠くから聞いているようだった。
――ライフは、まだ1。
数値としては、かろうじて維持されている。
言い換えれば、状況は何一つ変わっていない。
次に何かが起きれば、それで終わりだ。
短い沈黙が、円形闘技場を満たした。
風が吹き抜ける音だけが、不自然なほど大きく耳に残る。
歓声はない。悲鳴もない。
勝利も敗北も、まだ確定していない――
ただ、切り落とされた現実の断面だけが、そこに無防備に晒されていた。
――一撃は、確かに通った。
だが、それだけだ。
「……痛み、だと?」
ソウマが、低く呟く。
吹き飛ばされた左腕の断面を見下ろし、まるで自分の身体で起きた出来事を、今になって理解しようとするかのようだった。
やがて、その視線が、ゆっくりとスコアボードへ移る。
「俺のライフが……9……?」
困惑。
怒りではない。焦燥でもない。
“理解できない”という種類の感情だけが、その声に滲んでいた。
僕は、浅く息を吐く。
「一撃で殺すつもりで、急所を狙ったんだ。
……まさか、あれを避けられるとは思ってなかったよ」
「くく……」
ソウマが、低く喉を鳴らす。
まるで、痛みではなく不意を突かれた驚きに反応しているかのように。
吹き飛ばされた左腕から、鮮血が滴り落ちる。
だが、ここは幻影魔術――魔術演舞。
痛みも、傷も、破壊も、そして心をかき乱す感覚すら、すべては“現実に起こりうるイメージ”を映し出すに過ぎない。
証拠は目の前にある。
欠損した左腕に、淡い光が集まり、時を巻き戻すかのように再生していく。
血管が繋がり、皮膚が織り重なり、関節が滑らかに戻る。
まるで自然の法則が逆に動いたかのような光景――しかし、それもまた魔術の幻想だ。
ソウマは拳を握る。
動きは確かに重いが、力の波動はまだ健在だ。
「一体、どんな手品を使った?
幻惑か? 代替か?」
僕は視線を落ちず、わずかに口角を上げる。
「幻でも、身代わりでもない。
――ただ、避けただけさ」
その答えに、ソウマの眉がわずかに跳ね上がる。
瞳に、理解の閃きと軽い動揺が走った。
「……何……?」
僕は息を整える。
鼓動を意識して胸に手を置き、冷静を装いつつ心臓の高鳴りを抑える。
呼吸を整え、思考を巡らせ、次の行動の策を練る――まさに生死の境の数秒。
「君は、僕たちを“格下”と――揺るぎない事実として認識している。
だから、“聖紋級魔術”を避けられるはずがないと」
口調は静かに、言葉を慎重に選ぶようにゆっくりと紡ぐ。
間合いを保ちつつ、意識はソウマの動きに集中する。
「【五翼の聖剣】は、剣が振るい落とされるまでにわずかなラグがある。
その間隔さえも精密に制御可能だ。
だが、“格下”を相手に徹底するとは、僕は思えなかった」
現実の重力や光景に落とし込むように、言葉を選びながら説明する。
「だから、タイミングを合わせて避けた――
それだけさ」
沈黙の中に、僕の言葉は鋭い刃となって落ちた。
観客の気配も、歓声も、すべての音も、一瞬止まったかのようだ。
残ったのは、二人だけの静寂と、迫り来る緊張の波。
張り詰めた空気を破るように、カレンが小さく呟く。
「イズヒト様……かっこいい……」
「うるさい」
言葉は即座に吐き捨てた。
「カレン、包み隠さず答えろ」
「下着の色ですか?」
「黙れ」
――この脳内ピンク女め。
時間が惜しいというのに。
「お前は現状、どこまでの階級の魔術を扱える?
僕の力を奪ったんだ、同じ力があると考えていいか?」
カレンは淡々と答える。
その声には、感情の揺れは微塵もない。
「いいえ。全盛期、敢えてカイス様とお呼びするなら、カイス様のオリジナル魔術――“禁秘級”は一つとして扱えません」
事実だけが積み上げられる。
だが、それだけで十分、恐怖と畏敬を感じさせる。
「ですが、高等魔術以上の、“聖紋級”、“霊級”、“星刻級”までは問題ないかと」
喉がわずかに鳴る。
作戦材料を得ると同時に、この化物女の戦闘力を、さりげなく確認するつもりでいた。
しかし、ここまでとは――突如、敵が二人になったかのような錯覚を覚える。
いや、今すぐソウマと共闘して、この魔王を討伐した方が、世界のためになるのではないか――と、思わず本気で考えてしまう自分がいた。
それとも、降参して、黙ってカレンを引き渡すか……?
――いや、このカレンの力をソウマが制御できるはずがない。
もしそうなれば、ソウマはあっという間に殺され、カレンは呪い人形のように、確実に僕の元へと舞い戻るだろう。
その時、『救済聖書』の情報――僕の唯一の希望も、闇の中に葬られてしまう。
選択肢は――ない。
断崖の縁に立つような感覚。
逃げ場のない判断を前に、僕の心臓はわずかに震えながらも、確かな意志を刻む。
「カレン、出し惜しみは無用だ。
“星刻級”魔術で薙ぎ払え」
その言葉が空気を震わせた瞬間――
「【穿光】」
光の弾丸が、忽然と僕たちを襲う。
路地裏で身をもって受けたあの魔術だ。
触れただけで、肉体に穴を穿ち、ライフは0になる。
死の気配。風を裂く音。すべてが、肌を刺すように近付く。
思考が、一瞬停止する。
本能が告げる――躱せない、と。
しかし、次の瞬間、僅かな呼吸の間に覚悟を決めた刹那――
「すぅ……」
肺に空気を取り込む、僅かな音。
カレンがくるりと一回転する。
チェックの学園スカートが花のようにひらりと舞い、光を切る。
「とりゃあ!」
迫りくる光の弾丸は、僕の身体に触れる寸前で、彼女の蹴撃によって弾き飛ばされた。
衝撃の残滓が、閃光となって視界を灼き、甲高い反響が耳膜を震わせ、皮膚の表面を電流のように撫でていく。
――僕の身体に穴を穿った魔術を、ただの蹴りで、だ。
常識という言葉が、音もなく崩れ落ちる。
やはりカレンの身体は冷たい金属製で、血の代わりにオイルが流れているのだろう。
そう考えた方が、まだ納得がいく。
「イズヒト様、お怪我はありませんか?」
「助かった。
……カレンも、バッテリーの残量には気をつけてくれ」
「なんの話です?」
――まずい。
脳内設定が、うっかり口から零れ落ちた。
慌てて言葉を差し込む。
「集中が切れてないかって話だ」
「はい!
イズヒト様の汗が流れ落ちる瞬間から、唇を噛む仕草、筋肉が軋む音さえも、すべて見逃しておりません!」
「どこに集中してんだ!
この変態が!」
即座に言い返すが、声には切迫が滲む。
彼女にとっては、今この瞬間でさえ、命懸けの戦闘ではなく――
下手をすれば、デートの延長線なのだろう。
殺戮兵器らしい思考回路が、もはや羨ましい。
「……!」
言葉を交わす暇は、もうない。
視界の先、空間が歪み、光が膨張する。
無数の光の弾丸魔法が、まるで群れを成した捕食者のように、眼前へと迫っていた。
「カレン!」
「はい!」
指示をしなくても、その意図を読み取ったかのように、カレンは僕を躊躇なく背負った。
足下は青白く揺らぎ、魔力が流れたことが分かる。
身体強化で鍛えられたその一歩。
地面に亀裂を生むと同時に、瞬足で穿光の弾幕を駆け抜けていく。
耳元を甲高い音が掠めていく。
その中で、僕はカレンの耳元へと近付いて告げた。
「カレン、遊びは終わりだ“星刻級”魔術を使え」
「お言葉ですが、イズヒト様――」
僅かの間に、躊躇いが滲む。
「それが“勝利”を前提としたご指示であれば、不可能です」
「何?」
「膨大な魔力で、イズヒト様ごと、殺してしまいます」
――あ。
間抜けな声が漏れ出た。
背中越しに伝わるカレンの体温は、相変わらず人間のそれより僅かに低い。
けれど今は、その冷たさがやけに現実味を帯びていた。
「……確認するが」
光弾が背後で地面を穿つ。
爆ぜる音と振動が、言葉の隙間に割り込む。
「“抑えても”か?」
「はい」
即答だった。
計算も、躊躇もない。事実を述べる声だ。
「星刻級魔術は、私の出力を前提とした最終工程です。
発動にあたる最低限の魔力量は決められています」
なるほど。
要するに――
ソウマを“キルフィニッシュ”できる。
ただし、それより早く、僕は死ぬ。
ライフが1だから。
その結論が、奇妙なほど静かに胸へ落ちてきた。
「って駄目じゃん!
ソウマにだけ当てる方法は?」
「ありません」
「爆心をずらすのは?」
「半径誤差、最大で三メートル。
イズヒト様は、その範囲内です」
淡々と告げられる“死亡宣告”ほど、余裕を削るものはない。
そのとき――
光の弾幕が、わずかに止んだ。
「はは……」
正面で、ソウマが笑っている。
何かを察した顔だった。
「なるほど。
“切り札”があるが、使えない――そういう顔だ」
鋭い。
いや、これだけの力を持った男なら当然か。
「迷っている間に、選択肢は減るぞ。――イズヒト」
次の魔術が、詠唱なしで編まれていくのが分かる。
圧が、空気そのものを押し潰していた。
――さて。
ここで死ぬか。
それとも。
僕は、背負われたまま、カレンの肩に額を預けた。
「……カレン」
「はい、イズヒト様」
「“殺す方法”じゃない。
“僕を生かす方法”を考えろ」
一拍。
「命令ではない。
――生き残り、勝つ方法だ」
彼女の足が、ほんの僅かに止まった。
その沈黙こそが、
この戦場で初めて訪れた“希望”だった。
手は、ある。
僕の“とっておき”を
僕の“今の”魔力量で発現させるだけ――
僕は、死霊術師。
命を呼び、命を縛り、命を終わらせる者。
生かすも殺すも、
すべてはこの手のひら一つで決まる。
――それが、僕の真理だ。
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